源氏の大将軍義経は、まぎれもなく大役を果たした。強いて言えば帝が壇ノ浦の海中に沈まれたことと、三種の神器のひとつ、剣だけが見つからなかったことだけが、影を落としたかもしれない。義経は待ち焦がれた洛への凱旋の命を鎌倉殿より受け、翌日には多くの囚人とともに、洛を目指していた。それまでの平家の囚人への厚いもてなしは、情を重きとする義経らしい扱いではあるが、それを良しと思わない者もいた。それは梶原景時である。梶原景時は密かに、今までの状況を鎌倉殿へ報告していた。それを知らない義経は、ただただ兄 頼朝からのねぎらいの言葉のみを楽しみにしていたのであるが、何故かその言葉は一言もなく、洛に入ってからは勘当ともいえる便りを受け取るのである。そして、平宗盛・清宗親子を連れて東国への旅路となる。相模の国に到着すると、次の命を乞うべく宿をとったが、このときには熊谷直実、金子十郎、畠山重忠、安田義定などの鎌倉御家人の諸将は陣をとかれて帰国してしまい、残ったのは義経のもとからの郎党のみとなり、 ひところのような綺羅星のごとき数は、そこにはなかった。
金戒光明寺にある鎧掛けの松