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足利義政の妻・富子

2006年08月24日 | 鎌倉・室町時代

足利義政の妻・富子

 足利義政の正妻・日野富子が名家日野家に生まれたのは1440年、嘉吉の乱の前年である。嘉吉の乱というのは、悪政の限りを尽くした六代将軍足利義教が家臣の赤松満祐に暗殺された事件のことである。 その2年後に嫡男・義勝が僅か九歳で七代将軍になるが、間もなく死亡すると、弟の義政が十四歳で将軍となった。 日野富子が16歳の時に義政の正室となったのは叔母・日野重子の働きかけによる。重子は義勝、義政の実母で義教の正室である。 

 富子が義政の正室になった頃、義政には寵妾・今参局がおり、佐子という若い女性をも閨へ送っていた。お今はもともと義政の乳母であるが、いつの間にやら・・・。義政の好色は三代将軍義満から受け継がれている。義満は姉妹とも通じていたらしいし、父・義教は日野康子・宗子姉妹、女官の三条伊子姉妹の4人を閨に招いて乱交を行っていたほどである。 お今は1455年に女児を出産すると同年、日野富子が義政の正室となったが16歳の富子に通うことは少なかった。お今が佐子をはじめ、多くの侍女を義政に送り込んで、富子を排除しようとした為でもある。 富子は4年目の1459年に男子を出産する。重子、勝光が喜んだのは言うまでもないが、男子はあっけなく死亡。そして「今参局呪詛のため若君早世」の噂が広まったが、これはもちろん重子の陰謀である。島流しから死刑へと処罰が変わると、お今は切腹自殺をはかった。

 義政の悪政ぶりは並大抵ではない。室町殿を改装し、花の御所といわれた贅沢三昧の邸を1464年完成させたのおかげで、世の中が飢え苦しみ動乱がはじまった。 つまり、悪政を正すための、徳政一揆(土一揆)が京都を中心に頻発した。 この頃、京都の人口30万人のうち、8万人以上が飢えなどで死んだという。

 政治のことは何もしないわりには、政治に嫌気がさした義政は 弟の天台宗浄土寺の門主義尋に将軍就任を持ちかけている。義尋は俗還を拒んだが義政の説得も強硬で、この説得にあわてたのが日野重子、勝光親子である。義尋が俗環し義視と名を改め義政の養子となって将軍になるのだから、日野家の存続が危ないのである。 義視が次期将軍の準備を終えた頃、富子が妊娠をしたから、重子は驚いた。この頃、側室の宮内卿局が男子を出産すると富子に御所から追い出され、同じ頃、男子を出産した侍女は暇をだされた。要らないところに男子がポコポコ生まれるから世の中うまくいかない・・・。 富子は無事に出産した子は男子であった。

 富子が義尚を産むと乳母と伊勢貞親邸へ移され、義視追い落とし計画が始まった。 当時三管領の斯波家当主義廉と義敏は抗争しており、義廉の横暴に業を煮やした伊勢貞親は義政に働きかけ、義廉を排して義敏を当主とした。これにより義廉は側室の父・山名宗全に援護を求め、両者の兵により京都は騒然となる。このどさくさのとき、義視が山名宗全の後押しで兵を都へいれ、義政追討を狙っているという陰謀を伊勢貞親は企てた。恐らく富子に生まれた嫡男・義尚を将軍にするために、義視を追い落とすために日野重子、勝光も共謀したのだろう。陰謀の情報が漏れて、義視の潔白がわかると、山名宗全は伊勢貞親の追放を義政に迫り、貞親、季瓊真蘂、斯波義敏なども京都から逃げ出した。 こうして山名宗全は京都に大きな権力を打ち立てる。義視が細川勝元を後見としたように、富子はさらに大きな義尚の後見として、山名宗全を選んだ。足利義視を推す細川勝元と義尚を押す山名宗全が真っ向から対することとなった。

 結果、この対立抗争は富子の予想に反して11年もの長い期間にわたって続いた。これが応仁の乱である。義視勢は16万、義尚勢は9万と細川勝元が有利であったが、途中で山名宗全は大大名大内政弘を迎え入れ、形勢は逆転し、義視は伊勢へ逃げて北畠氏を頼った。花の御所のすぐ近くに相国寺があり東軍義視側の本拠地であったが義視逃亡のあとに優勢となった西軍は一気に東軍を攻めた。これを相国寺合戦というらしい。 義政は自分の室町殿へ降りかかる火の粉を眺めて宴会をしていたという・・・。

 応仁の乱勃発6年後に義政の御父・伊勢貞親が死亡し、その数ヵ月後に山名宗全、細川勝元と相次いで死亡している。 動揺する義視をしりめに、義尚が征夷大将軍に任命された。 翌年の1474年にいよいよ富子は義尚の後見人として政治の舞台に登場するのである。そして小河の新邸が完成すると義政は政治を放棄して、移っていく。 その頃、山名宗全の後継者としての政豊が西軍の大将として、細川勝元の後継者の政元が東軍の大将として室町殿で会見し、講和を成立させた。ただ、東軍の赤松政則、畠山政長 西軍の大内政弘、畠山義就などは講和を認めていない。

 世の中落ち着いたようには見えたが、幕府の財政は苦しく、徴税が思うようにいかず、義政の浪費に富子の苦労は並大抵ではなかった。1476年に内大臣であった富子の兄・日野勝光は左大臣となるが病魔に襲われてあっけなく死亡した。義政の義弟という地位を利用して辣腕をふるい、秘計を巡らすところにはいつも多額の金が動いたのは事実で、毒殺されたという説もある。しかし、勝光の死後、和平の機運は高まった。 1477年大内政弘の仲介で義政、義視の和解が成立し、富子から1千貫を受け取った畠山義就は京都から立ち去った。そして義視は大内政弘の斡旋により美濃の土岐成頼(斉藤道三に滅ぼされた土岐頼芸の祖父)のもとに身を寄せ、京都かた立ち退いた。こうして11年に続く応仁の乱は終わることになる。

 地方武者の姿が京都から消えると、疎開していた市民は続々と京都に戻ってくるが、公家の一条兼良もそのひとりである。富子はさっそく一条兼良を招きいれ、帝王学などを学んでいる。この頃から富子の金融、相場としての才能を開花させ、幕府への多大な収入に貢献している。一方、義尚は母・富子の期待を一身に受けて、帝王学を学ぶのであるが、父・義政の血を受け継いでしまったらしく、母の期待を裏切るのである。 将軍となった義尚は、16歳で勝光の娘と結婚している。 この従兄妹同士の結婚が嫌だったのか、母への反抗か、将軍職を退こうと髻をきったところ、執事の伊勢貞宗に諌められている。 それから2年後の1481年、今度はほんとうに髻を切ってしまった。従兄妹同士の結婚をしたが、徳大寺公有という公家の娘を愛人にしていたが、実は父義政の愛人でもあった。 二人の騒動に嫌気がさした三条兼綱という公家の娘は義尚の愛人であったが、尼になっている。

 こうして母・富子への反抗の後、伊勢貞宗の邸へ引き移った。出家の為か、1486年頃から義政は東山に籠もるようになるが、義尚は南近江で活発だった六角高頼(信長と戦った六角義賢の祖父)の横暴を征伐しようと出陣する。副将は細川政元、執事は伊勢貞宗である。が、1488年義尚は陣中で倒れ、翌年25歳で死亡する。将軍を失った富子は次期将軍に宿敵義視の嫡男義材(富子の甥)を推した。しかしこれに反対の立場にあった細川政元は対抗馬として堀越公方政知の子・清晃を立てたが、次期将軍に義材が内定する。

 1490年に義政は55歳でなくなると、将軍義材の父・義視が俄かに幕政を壟断しはじめた。富子の予想通りである。同年暮れ、畠山義就が病死し、翌年義視が53歳で病死する。 これで応仁の乱の役者で残ったのは畠山政長と斯波義敏のみとなる。富子の命により義材は畠山政長を副将として近江の六角高頼征伐に出陣し制圧する。この頃、義材は、富子にとって危険な存在となっており、富子は細川政元と接触し、清晃を将軍に据えて義材を倒そうと考えていた。幕府軍が河内へ遠征しているころ、細川政元が挙兵し、慈照院(後の銀閣寺)の義材の弟・周嘉を殺害し政元の一方的な勝利となり、清晃は新将軍・義遐と名乗る。後の第11代将軍・義澄がこの人である。

 こうして二人の将軍、第十代将軍足利義材と第十一代将軍足利義澄が出現したが、細川政元は河内に滞在する元幕府軍義材は偽者だとして新幕府軍を結成し、討伐に向かわせた。すると参陣の多くが副将、畠山政長から離れ、義材軍はもろくも壊滅する。 畠山政長は善戦するがとうとう本陣に火を放って自害した。 義材は捕虜となって生還したが、細川政元の支持の元軟禁される。 後に義材は足利氏伝来の家宝の鎧・太刀を義澄にゆずり、将軍位を降りると毒殺された。未遂に終わったが、犯人は富子である。 細川政元は彼女の意思表示に屈するように、義材を小豆島へ島流しとした。  

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