新・平家物語は約60年前に吉川英治によって書かれた大作である。当ブログはこの新・平家物語を中心として平安時代を楽しむことを目的に数年前立ち上げた。具体的には新・平家物語に登場する人物ゆかりの地を訪れてその詳細を紹介することにあった。5年ぶりに改めて16巻を読み直し、もう一度最初からその内容を復習することで、5年間の進化を見直してみたい。まずは第1話 袈裟御前である。
1107年に即位した鳥羽上皇
・皇后藤原泰子(高陽院)
・寵愛妃・藤原得子(美福門院)
・中宮・藤原璋子(待賢門院)がいた。
・袈裟御前は、鳥羽と藤原璋子(待賢門院)との間にできた統子内親王(上西門院)に 雑仕女として出仕
鳥羽上皇の護衛武士
・『平家物語』の主人公である平清盛
・遠藤盛遠
・同僚には佐藤義清(後の歌聖といわれる西行)
・源渡がいた。
袈裟御前は源渡の新妻
・であり、涼しい目元に凛とした気品のある桔梗の花のように美しい女性であった。
・そして遠藤盛遠は袈裟御前が鳥羽上皇の皇女統子に仕えていた頃から懸想していたのですが、袈裟御前は源渡に嫁いでしまう。
・傍目からも羨ましがられる仲の良い幸せな夫婦で、盛遠はとても諦め切れない気持ちでいた。
言い寄ってくる盛遠に袈裟はきっぱりと断るが、「ならば、そなたの母を殺し、我も腹を切る」と遠藤盛遠は言い出します。
・困り果てた袈裟はついに「わたくしは夫のある身でございます。
・いっそのこと、夫を亡きものに…さすれば、あなた様の御心に沿えましょう程に」と泣きながら言います。
・そこで 「今晩八つの鐘を合図に当屋敷に忍び込み、東より二つ目が夫の寝所にございます。
・先に休ませておきますれば、洗い髪を頼りに夫をお討ちください」 という袈裟の言葉通りに盛遠は実行したのです。
盛遠は斬り落とした首を抱いて屋敷から走り出たのですが、月明かりの中でその首を見て仰天します。
・それは、なんと源渡ではなく、愛しい袈裟の顔だったのです。
・それは、一途に自分を思ってくれる盛遠と愛する夫との板挟みになって煩悩した末の袈裟の悲しい決断でした。
・盛遠は幾日も袈裟の首を抱いて鞍馬の山奥をさまよった果てに出家しました。
・武士を捨て名前も文覚と改名し、各地の霊場を遍歴しては三十二日間の断食や厳冬の那智の滝に何日間も当たるなどの荒行に励んだという。
後に、京都に戻ってきた文覚は荒れ果てた神護寺の再建を果たそうと
・後白河法皇に何度も直訴を繰り返し遠島など申し渡されるが、次第に顔見知りとなっていく。
・そして、ついには院宣まで入手して頼朝の蜂起をを説得するまでになるのです。
・袈裟御前は、盛遠を文覚として生まれ変わらせたヒロインであり、
・もし文覚が居なければ頼朝の蜂起はなくて歴史が大きく変わっていたのかもしれない。
・文覚ゆかりの碑は中国縦貫道沿いの、広島・岡山県境の文覚寺にあります。
・また、袈裟御前ゆかりの碑は京都南インター降りてすぐ北側の恋塚寺にあります。
藤原得子(美福門院)1117-1160
┣体仁親王(ナリヒト)76近衛1139-1155
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┃ 藤原泰子(高陽院)1095-1155藤原忠実1078-1162の娘
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鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠?-?は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚
┃ ┃ 佐藤義清(後の西行1118-1190)も護衛
┃ ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)
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┃ ┣顕仁親王75崇徳1119-1164 源渡
┃ ┃ ┣重仁親王1140-1162
┃ ┃ ┃ 乳母:有子
┃ ┃ 藤原聖子1122~1181
祇園女御 藤原璋子(待賢門院)1101-1145
┣清盛 ┃ (祇園女御,白川に寵愛)
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白川上皇72代1053-1129