800年遡って義経に仕えた武将 熊谷直実を紹介しましょう。平敦盛を討った直実と!!平家物語』のなかでも、『敦盛の最期』に出てくる人物だ。人を殺す場面ではあるもの、どこか心温まる話である。一の谷の合戦で須磨の沖の平家軍のもとへ逃げる途中の敦盛を呼び止めた。「源氏に背を向け、逃げるとは卑怯なり!」平家の若大将敦盛は直実と馬上で交えることになる。個人戦に勝機を見つけた直実は敦盛の顔を見て、我が子と同じ年の頃と想い、逃がそうとするが、「ためらうに非ず」という敦盛の首をはねる。当時敦盛は17歳であった。お歯黒に薄化粧と、まるで公家の敦盛なのになんと潔いのでしょう。写真手前が熊谷直実、向こうが平敦盛である。(こないだ神戸須磨寺へいって撮ってきました^^)またもや・・・管理人 涙・・・・。
ところでこの人、『平家物語』から、元暦元(1184)年にまだ若い平敦盛を討った所まではわかるがその後どうなったのであろうか。敦盛との関連では、敦盛の首と遺品、それと書状を添えて父の経盛に送り経盛も直実の厚意に謝して返状を送ったり、敦盛のために高野山に熊谷寺を建立したり、と、このあたりは美談ともいえるような話。ところが人の一生は美談のみでは飾れないらしい。その昔、直実は生まれてすぐ父(直貞という)を亡くしている。そこで叔父の久下直光に養われて育っている。しかしこの叔父こそがくせものであったようだ。建久3(1192)年、頼朝が鎌倉に幕府を開いた年のこと、直実は熊谷郷と久下郷の境界について久下直光と争い、頼朝の前で対決(引付方(法廷)に原告と被告が出頭して口頭弁論を行うこと。)を行うことになった。しかし直実は弁明できず、かえって頼朝の不審をかってしまい、結局、裁決は直実に不利なものになる。直実は証拠の調度・文書を簾中に投げ込み、幕府の西侍で髻を切り、出家してしまうのだ。それから15年後の承元2(1207)年、東山山麓で高声念仏して往生したという。銅像の勇ましい姿とは裏腹に慈悲深く、源平合戦の勝者にもかかわらずどう見ても負け組な人生に、一層深みを感じる人である。次は 平敦盛ですね^0^