NHK大河 「しずやしず」
わたくしクロウにとっては、今回まことに感極まる回でした。政治的に優れた北条政子とは対照的に、武芸に秀でた静御前殿そのものの描写は心に残るものがあったと思います。
吉野の山を降り、静御前殿の意をくみいつか夢見る国を求めて、家来とともに逃れさまよう義経・・・。そして、愛する義経を想い覚悟の舞を披露する静御前殿・・・。胸が熱くなりました。
ここで、静御前についてご存知とは思いますがふれてみたいと思います。磯の善次(磯禅師)の娘として(拾われて育てられた)1167年に生まれた静は6歳で父を亡くし、思い出多い故郷に別れを告げ、母と京都に上りました。巧みな舞と美しさで静は指折りの白拍子に成長。寿永元年(1182年)7月、後白河上皇が京の神泉苑で雨乞いの神事を行った時、召されて舞った直後に大雨となり「日本一」のお誉めにあずかりました。また堺の住吉神社の舞会で平家追討に来ていた源義経に見初められて側室に。静18歳、義経27歳でした。
義経は平家滅亡後、兄頼朝と不仲になり、1185年、11月6日静を連れて吉野山に逃げましたが、途中雪の中で別れ別れとなり、身重の静は11月17日捕らわれて1186年3月1日磯禅師とともに鎌倉に送られます。このとき、佐藤忠信が静御前殿を救おうと現れていましたが、これは宮尾登美子流の脚本ですね。
そして、1186年4月8日、鶴岡八幡宮で頼朝をはじめ並みいる武士たちの前であざやかに舞ったのは有名です。
吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき
吉野の山の厳しい寒さ、白雪の中を掻き分けていった義経様が恋しくて・・・・涙がでる想いでございます。
しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今になすよしもがな
あのころですよ、しずかや、しずかや、と何度も呼んでくださいましたね。今が、あの頃のようであれば、どれだけ幸せでしょう・・。
義経を慕って歌ったのが頼朝の怒りにふれ、幽閉されました。また、静は1185年7月29日に男児を生みましたが子は由比ヶ浜に棄てられました。大河では子供を先に産んでおりました。
静御前殿は、後に許され、1186年9月16日に禅尼となった母と懐かしい故郷の磯に帰ります。生家跡に小さな庵をつくり、義経の無事と愛児の冥福を祈りました。そして、1189年文治5年静22歳の春に、義経に会うべく、北陸ルートで奥州に向かったとされています。しかし、京からの長旅の疲れと病で越後の山里 栃尾の地 栃堀(高徳寺)に来て息を引きとったと言われています。時は建久元年(1190)4月28日、静御前23歳でした。 山には雪が残る越後の遅い春のことでした。供として同行した侍女が尼となり静の墓を守ったそうです。その後北条氏(政子)が勢力を増した時に静のことを哀れに思い庵を造り静を供養したそうです。この庵が後の高徳寺だそうです。 再度、白拍子をここに掲載いたします^^