第49代光仁天皇田原東陵
春日宮天皇田原西陵と田原東陵は隣接して奈良公園の東・田原地区にあります。天智天皇の第7皇子・施基親王の第6子で白壁王と称し、母は紀橡姫。 初叙が29歳と大変遅かったが744年に聖武天皇の皇女・井上内親王を妃とした頃からにわかに昇進が早くなり、762年に中納言となり、恵美押勝の乱の鎮圧に功績を挙げると称徳天皇の信任を受けて766年に大納言に昇進する。 だが度重なる政変で自らは凡庸を装っていたといわれている。(撮影:クロウ)
藤原永手は女帝(称徳天皇)の死後、次期天皇位とは無縁であった天智系の白壁王を強引に即位させた。 女帝は後継者を指名せずに死んだということになっている。 吉備真備を含む残された廷臣たちは天武の孫で元皇族で参議の文屋大市を、次期天皇として推戴することを決め、勅書を女帝の名で作っていた。 ところが藤原永手らは土壇場に来て「次期天皇は白壁王」という勅書に摩り替えていたという。 裏を掻かれた吉備真備は悔しがったが後の祭りですぐに右大臣を辞した。 称徳天皇が発病した770年、朝廷の軍事権は左大臣藤原永手、右大臣吉備真備により握られていた。 女帝は志望する前の二ヶ月間は女帝と道鏡は連絡が遮断され、白壁王が即位するとすぐに吉備真備は辞職する。 天智系の白壁王が天武系の皇族をさしおいて即位することは通常考えられないことである。 吉備真備は女帝が藤原氏の勢力に対抗するために引き上げた実力派であるが、身分は極めて低い。 その彼に女帝は期待したのであるが、女帝が病気になった頃から、吉備真備は左大臣永手と組んで、道鏡に対抗している。 つまり女帝を裏切った格好になったが、実は永手に一杯くわされたようである。 本来皇位につけない白壁王を即位させることによって、一層藤原氏の権力を強固なものにするためであるが、これは安麻呂が大炊王を即位させたのと同じ手法である。 この手法を考えたのは実は永手ではなく、同じいとこにあたり策略家の藤原百川であると日本書紀はいっている。 つまり天皇を藤原氏の言いなりにしておくことで他を排除し権力を握ることが藤原一族の手法である。 こうして仲麻呂を追いやった吉備真備も永手により辞職させられた。
称徳天皇の死に関する古事 「称徳帝は道鏡の陰をもあかず思されたので、道鏡は山の芋をもって異型なるものを献上した。しかるところこれが折れ込んでしまったのでゆゆしき病気になられた。百済の医者・子手尼が参拝して『わたしの手に油を塗って処置申せば容易に取り出すことが出来ます』といったところ、百川は『妖狐なり』といって小手尼を斬った。 このために帝は病が癒えず崩御された」 とある。 つまり称徳天皇は暗殺されたといえる。 続日本紀によると帝は「大和国佐貫郷高野」に祀られたが、聖武天皇、光明皇后、元明、元正、基王等皆「佐保山」一帯に眠る。 称徳一人だけ違った場所に葬られたのにはわけがありそうである。 暗殺という異常死の場合こういうことになる場合が多い。 高野陵は成務天皇の隣になっているが、実はこれは称徳の陵ではない。 現在称徳の陵とされているのは前方後円墳であるが、当時の陵墓で前方後円墳はありえないのである。 ということは、称徳の陵墓は現在所在不明ということになる。
天智系の白壁王(しかも即位時は62歳)を推した藤原永手は、天武系の光仁天皇の妻・井上内親王とその子・他戸親王を追放し、帰化人・高野新笠との間にうまれた天武系の血がはいっていない山部親王を皇太子にする。