毘沙門堂内輪王寺宮墓地 後西天皇・皇子墓
後西天皇1638-1685、諱を良仁(ながひと)という。後水尾天皇の第八皇子。母は、左中将櫛笥隆致の娘で後水尾典侍の逢春門院・藤原隆子。従兄弟に仙台藩主(3代)伊達綱宗がいる。はじめ高松宮初代好仁親王の王女を娶って高松宮第二代を継承して花町宮と号した。 即位の前年には兄である後光明天皇の名代として江戸に下っている。後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく他の兄弟は全て出家の身であったために、識仁親王が成長し即位するまでの繋ぎとして、1654年に即位し、1663年10歳に成長した識仁親王に譲位した。 もっぱら学問に打ち込み、『水日集』などの著作を多数残している。和歌の才能もあり、古典への理解も深かった。治世中には伊勢神宮・大阪城・内裏などの炎上や明暦の大火、地方の地震、水害などが多発したため、当時の人々は天皇の不徳を責めたと言う。もっとも、識仁親王の早期即位を望む後水尾法皇と有力外様大名(仙台藩主)の従兄弟という天皇の血筋を嫌った江戸幕府双方の意向の一致が天皇の早期退位を志向し、それが「天皇不徳説」の根底にあったとの見方もある。後西天皇は泉涌寺にある月輪陵・後月輪陵に眠るが、その第6皇子・公澄親王、公弁法親王、第8皇女喜久宮、第1皇女誠宮 及び中御門天皇第2皇子公遵親王、東山天皇皇曾孫公延親王は毘沙門堂内の輪王寺宮墓地に眠っています。