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【絵画-10】エドワール・マネは現代に古典を取り入れようとした印象派のボス

2021年02月02日 | 絵画 音楽 映画

【エドワール・マネ1832-1883】

サロンへの出品当時は大批判にさらされたことで知られる作品が「草上の昼食@1863」や「オリンピア@1863」。「草上の昼食」はラファエロの弟子が描いた「パリスの審判」という古典的大作を模して現代風に描かれたが、当時はナポレオン3世による第二次帝政時代(1852-1870)ということもあって、とにかく3000人もの画家がサロンで不合格となった。そこで多くの画家の希望により開かれたのが「落選展」、ところがここでも評判が悪かったという。絵画に写る右側の人物はマネの弟、左側の裸婦はマネのお気に入りのモデル(あだ名は小エビちゃん)である。古典に於いて裸体で描かれるのは天使・女神であるから批判にさらされた。

 ・ティッツァーノ1490-1576の「ウルビーノのヴィーナス」「田園の演奏」をもベースとしているが・・・ 
                ⇒モデルは注文主(ウルビーノ公爵グイドバルド1514-1574)の愛人のよう 
                  妻ジュリアとの寝室を飾るために描かれた 
                  肉体的快楽を得るための絵 
                ⇒ヴィーナスのアトリビュート薔薇を持つが極めて官能的 
                ⇒モデルは恥部を隠すのではなく、恥部を触っている 
                ⇒当時の伊では受け入れられた  
 ・アカデミックでは女性の裸はタブー 
 ・オランピアは娼婦の通称@パリ
 ・絵にある「子猫」は仏語でシャットchatte 俗語で女性の陰部
 ・描き方が稚拙
 ・批判に晒されたマネを擁護したのは
   詩人のエミール・ゾラ1840-1902
     マネの「エミール・ゾラの肖像」@1868に現れている
     ジャポニズムを取り入れた反アカデミズム
   ドガ、   1834-1917
   モネ、   1840-1926
   ルノワール、1841-1919
   バジール、 1841-1870
   ピサロ、  1830-1903
   セザンヌ、 1839-1906
   ナトゥール 1836-1904 バティニョールのアトリエ@1870
   などがカフェ・ゲルボアに集まる ⇒ バティニョール派

草上の昼食@大塚国際美術館

西洋の文化圏では裸婦は神の象徴
ラファエロのパリスの審判の構図と同じ
一般人の裸婦を描いたことで世間は大炎上

 

    【「パリスの審判」という古典的大作】   トロイア王妃が息子パリス(ハデス)を産むときに、国炎上の悪夢を見た。かくして国王トロイアは赤子のパリスを殺害すべくイデ山中に廃棄させる。しかし赤子は拾われて成人する。ちょうどそのころ天上界ではペレウスとテティスの結婚式、招待されずに嫉んだエリスは、「最も美しい者へ」と記された黄金のリンゴを宴席に投げ入れる。さて、ヘラ、アテナ、アフロディーテという3美神で取り合う。美の判定をゼウスに求めたが、ゼウスはその判定を地上のパリスに押し付ける。この判定の前に、3美神はパリスに賄賂を贈るが、パリスが選んだのはアフロディーテ(選んでくれたら世界一の美人を・・という約束)だった。そして約束通りにパリスはスパルタの王妃ヘレーネと愛の営みを行う。起こったのはスパルタ王と二人の女神。スパルタはトロイアに侵攻(トロイア戦争)トロイアは滅亡したことであの悪夢が現実のものとなったというわけである。

スパルタ : ミュケナイ王アガメムノス大将+アテナ+アキレス(戦死) 

トロイア : ヴィーナス+ヘクトル(戦死)

    【10年に及ぶトロイア戦争の終結 スパルタ VS トロイア】    スパルタ側はトロイの木馬(兵を忍ばせている:発案者はオヂュッセウス)を置き去りにして敗走。トロイアはやっと勝利したとばかりに木馬を伴って場内で宴会。トロイアの神官ラオコーンが策謀と見抜くが、アテナが放った二匹の大蛇がラオコーンを殺す。この大理石造・ラオコーン群像が発見@1506されたとき、ミケランジェロは現場に行って感動、パトロンのユリウス2世に購入を勧めた。かくしてラオコーン群像(ヴァチカンにとっては異教の神官像)は現在ヴァチカンにある。発掘されたときには像の腕が欠損していたが、20世紀初頭に発見されている。

夜中トロイア側が泥酔すると、木馬からでてきた兵は城門をあけると、松明で仲間に合図。かくして奇襲されたトロイア側は全滅し。皇子パリスは戦死する。スパルタの王妃ヘレーネはちゃっかり王妃の座に戻る。この後武勲を挙げたオデッセウスの冒険が始まる。

一方勝利したオヂュッセウス率いるスパルタ軍がとある島を通ると、歌声麗しいセイレーンという半魚人の神に襲われる。

 

 

 

ところが次第に若い画家たちの間で評価が高まり、1865年のサロンでは、モネ1840-1926の作品が入選、両者の展示をきっかけに交流が深まったようで、クロード・モネはマネをリスペクトして「草上の昼食」を描いている。やがてルノアール、バジル、シスレーなどがマネのアトリエ@バティニオール地区の居酒屋に集まるようになったという。彼らはバティニオール派と言われて印象派に繋がっていく

1832  仏高級官僚の息子として誕生@国立美術学校ボザールの近く

1848  マネが19歳の頃にシュザンヌ1829-1906はピアノ講師としてマネ家に招かれて、
      
マネの弟ウジェーヌとギュスターヴにレッスン。
      
のちにエドワール・マネの夫人となる:画家(オランダ人)

1852頃 この時からマネとシュザンヌは付き合い始める(1852年頃)
      
ところがじつはシュザンヌはマネの父親オーギュストの愛人であった。

1856  マネはシュザンヌと同棲
      
やがてシュザンヌはレオンという子を産むが、親がマネなのかマネの父親なのかはわからなかったようだ。

1862  マネの父親が死亡する

1863  マネはシュザンヌと入籍 息子レオンは認知しなかった?(戸籍上は弟)

1866  「ロンシャンでの競馬」競馬場は社交の場になっていた@若者 

1867  パリ万博

1868  ベルト・モリゾ1841-1895:画家と知り合い、モデルとする  シュザンヌとは犬猿の仲だったという
      
ベルト・モリゾからは弟子にしてほしいと懇願されるが断っている
      
裕福な家庭 :父は会計検査員 母はフラゴナールの姪の孫
              
姉と共に絵の才能ありと家庭教師
      
印象派のエリート:アンリ・ルアール1833-1912(ドガ同級)、アンリ・ラトゥール1836-1904と知合う
             
 上流階級の家族ぐるみの付き合い
              
カミーユ・コロー1796-1875とも出会う
              
1864以降毎年サロンに入選

 

       上流階級派VS庶民派の仲介役(ピサロも同様)
        
仏文化人の交流を促進
        
モリゾはマネの反対を押し切って第一回印象派展に参加@1874 マネ離れ
            
マネはサロンへの出品・評価を重要視する正当派
        
モリゾは以降印象派にどっぷり漬かっていく
            
マネは印象派展に参加せず セザンヌ批判 
        
子供の可愛いらしさを描く先駆け
        
印象派展以降に絵がブレイク@フッソバラドン画廊 Byテオ@1892
        
ウジェーヌ死亡@1892
        
モリゾ死亡@1895
        
ジュリー・マネの親代わりが詩人ステファヌ・マラルメ1842-1898 ドガ、ルノアールなども面倒を見る
        
詩人ポール・ヴァレリ1871-1945 エミール・ゾラ1840-1902

1868  列車が発達、海水浴が流行

     「ブローニュの海岸」---遠近法無視;ジャポニズム

       ⇒ノルマンディー出身のウジェーヌ・ブーダンの誘いで描いた

1869  ところがエヴァ・ゴンザレス1849-1883(スペイン系富豪)は弟子にする 出産時に死亡

     「皇帝マキシミリアンの処刑」
       
⇒ハプスブルグ家ヨーゼフ1世の弟1832-1867、妻はシャルロッテ1840-1927
        ナポレオン三世はメキシコ王になるのを助けるが、王政崩壊
        ナポレオン三世は助けず・・・マクシミリアンは処刑
        絵を持っていたレオンとスザンヌは検閲を恐れて絵を切断---ドガが収集

1870  エヴァ・ゴンザレスの肖像画をサロンに出品--モリゾショック・・・
        
マネが手を加えたモリゾの絵は入選
        
マネは普仏戦争に参加:ドガも参加

1874  モリゾはマネの弟ウジェーヌと結婚して娘ジュリー(画家)を出産

     「庭のモネ家」---モネ、カミーユ、ジャンを描く
               
印象派的な描き方をするが印象派展には出さない    

1876  「花の中の子供」制作

1877  シュザンヌは26歳年下の画家と浮気
     「ナナ」

1879  ブラン氏の肖像制作

1881  マネ:レジオンドヌール勲章

1883  マネ:梅毒により足切断、その後死亡

1900  ジュリー・マネ1877-1966は、画家エルネスト・ルアール1874-1942と結婚している。

                 (ドガの弟子で、アンリ・ルアール1833-1912の子)

オーギュスト・マネ1797-1862(仏高級官僚)
  ┣エドワール・マネ1832-1883(アトリエ@バティニオール地区)
 ┃ ┃   ルノアール1841-1919、バジル、シスレー1839-1899などが集まる(バティニオール派)
 ┃ ┃   バジル1841-1870、モネ1840-1926、ルノアール、シスレー@ラ・コンダミンヌ通りのアトリエ

 ┃ ┣レオン(オーギュスト・マネの子?)
 ┃シュザンヌ・マネ1829-1906(オーギュスト・マネの愛人、ピアノ講師、画家)
 ┣ギュスターヴ・マネ
 ┗ウジェーヌ・マネ1833-1892
   ┣ジュリー・マネ1877-1966
   ┃ 1900┣3人
   ┃エルネスト・ルアール1874-1942(アンリ・ルアール1833-1912の子:画家)
   ┃

 ┣ベルト・モリゾ1841-1895(エドワール・マネのモデル、恋人、画家)
 ┣エドマ・モリゾ
 ┗イヴ・モリゾ(ドガに好かれていたらしい)
   ┣ジャンヌ・ゴビヤール
  テオドール  1900┣
        ポールヴァレリー1871-1945(マラルメの弟子)

 

 

 

晩年の大作 フォリー・ベルジェールのバー

@コートールド・ギャラリー 1931 ロンドン

場所 : ミュージックホール、大衆劇場

     現在カフェ・コンセール

主役 : シュゾン バーの売り子は娼婦の場合が多い

     高級娼婦・メリーローラン1849-1900が居る(マネとも付き合いあった)

構図 : 不可思議な構図に意見多数---美術史家のマルコム・パークが検証

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