平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

楯築墳丘墓

2008年09月25日 | 陵 古墳 墓 遺跡

吉備・楯築墳丘墓

 この場所は神社の社域といわれており、吉備津彦(吉備一族の祖先とされる伝承の人物)が鬼と戦ったという場所です。そこに巨石を楯のようにして墳墓を取り囲んだ場所があります。 よって楯築遺跡というのです。 ところが、ここを訪れた時にはそのような巨石の楯があるとは知らず、時間の都合もあってパスしてしまい、大変悔いが残っております。 非常に注目を浴びたのは巨石によって墳丘が囲まれていたということで、巨石の文化は日本ではここでしか見られない。 吉備では特殊器台埴輪という被葬者の墓に供えるための埴輪があり王墓山丘陵の遺跡からも多く出土され一般の埴輪の原型といわれています。 その北方には5世紀の超大型前方後円墳・造山古墳という岡山の首長の墓があり、このあたり一帯は吉備の首長の勢力がこの時代から続いていたと考えてよい。

 垂仁天皇の時代、異国の鬼が吉備国に飛来してきた。鬼は百済の王子で名は温羅といい吉備冠者と呼ばれていた。 その鬼は備中国の新山や傍の岩屋山に居城や楯を構え西国から都へ送る貢物をのせた船や婦女子をしばしば略奪した。民は恐れおののいて鬼が棲んでいる城を鬼ノ城と呼んで、都へ行って鬼の行状荒々しいことを天皇に話した。 朝廷は武将を遣わして討たせようとしたが鬼の変幻自在な出没に空しく引き返すのであった。 そこで朝廷は武勇の誉れ高い皇子の吉備津彦を鬼退治に派遣した。 吉備津彦は大軍を率いて吉備の中山に陣をしき、西は片岡山ということろに石楯を気築いて防戦の準備をした。 神社の伝承によるとその片岡山が楯築遺跡の場所ということです。 吉備津彦というのは実在していないといわれる第7代孝霊天皇と妃・倭国香媛との間に生まれた皇子で、その姉が箸墓遺跡の主といわれる倭迹迹日百襲姫命です。 吉備の特殊器台 埴輪は三輪山山麓の箸墓古墳や初期の古墳からも多く出土されていることから吉備と倭の深いつながりが伺えます。 楯築墳丘墓は最古の前方後円墳と考えられている纒向型前方後円墳の原型でもある。

コメント    この記事についてブログを書く
« 仁徳天皇陵全景 | トップ | 審査員 »
最新の画像もっと見る

陵 古墳 墓 遺跡」カテゴリの最新記事