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幕末120 1868年5月17日 近藤勇没する

2013年10月19日 | 幕末

 久しぶりの幕末でございます。120番目は新撰組。今まで至るところで新撰組を登場させてきましたが局長・近藤勇です。この話にていったん幕末は終了し、明日からは神話の世界を紹介していきたいと思います。九州宮崎一帯の神話街道から想像できるように天照大神の孫・邇邇芸命が天から地上に降り立った(天孫降臨)後に高千穂・西都原・日向・霧島へと勢力を拡大していった神代の物語に迫りたいと思います。

 新撰組といえば土方歳三・沖田総司など有名であるが、局長近藤勇を通して幕府に忠誠(新撰組の旗印・誠) を尽くした理由をさぐってみたい。1834年武蔵国の裕福な百姓・宮川久次郎の三男として生まれた。百姓の子は百姓の時代であるから武士になることは不可能の時代であったが、幸運にも将軍直轄地・天領育ちであったために先に述べた原則がある程度自由であった。つまり武士もどきであっても咎められることはなかった。剣術の必要性を感じていた勇は、天然理心流の近藤周助を師とし、道場の後継者になる。このときに近藤勇に変名している。因みに土方歳三・沖田総司は同門の後輩である。こうして百姓の子である勇が武士よりも剣術に優れたことから本当の武士を目指すこととなるのは自然の流れであった。一方、勇のライバルである薩摩の西郷隆盛や、長州の伊藤博文は武士ではあったが家禄が少なく極めて貧しかった。薩摩藩島津家も長州藩 毛利家も関が原の戦いの敗者であったからである。長州藩・高杉晋作が作った奇兵隊員は徳川のために没落したと思う子孫がほとんどである。討幕派の奇兵隊も、佐幕派の新撰組も目的は同じで、真の武士になることにある。従って、身分を越えるためには剣の達人であることが必要なのである。 

 300年の泰平の時代が続いていたが突然黒船がやってきた。これにより侍の本分である武が問われるようになるものの、多くの武士は長い泰平によりその能力を失っていたから、近藤らの新撰組の出番となったのである。黒船の出現により日本中に攘夷の嵐が巻き起こった。開国論を旗印とした薩摩も長州も、最初は攘夷論であった。だから、開国して通商条約を結んだ幕府を糾弾したのである。攘夷原理主義者は京都において打倒幕府のための尊王攘夷活動を行った。そこで清河八郎は、尊王攘夷派から将軍を守るために腕利きの浪人を集めて京を守ることを提案した。こうして結成された浪士組であったが、清河の狙いは別のところにあり、だまされた幕府は刺客を放って清川を始末した。この間清河に反発して別派を作ったのが近藤勇らのグループであり、時を同じくして京都守護職に任じられた会津藩の松平容保を頼り、両者は合体した。このときに新撰組は誕生する。

 新撰組の敵は尊王攘夷派であるが、彼らの討幕の根拠は勅違反にある。開国に当たって通商条約を結ぶには勅許が必要であるのに幕府も井伊直弼もそれを無視して開国したところにある。その尊王攘夷派の最大の陰謀が池田屋事件であり、彼らは池田屋を中心にして討幕クーデター計画を立てていた。近藤らは首謀者の古高俊太郎を捕らえて、池田屋を襲撃した。世間はその諜報力と機動性を評価し新撰組は一挙に時の人となる。しかし新撰組はあくまで剣術家であり、薩摩・長州の大砲、新式銃には勝てるはずもなく鳥羽伏見の戦いでは破れ、江戸に戻った近藤は官軍に捕らえられて1868年5月17日処刑された。しかし本当の武士になるという本望は遂げたのである。 

京都 新撰組屯所ちかくの壬生寺にある近藤勇の胸像

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