二条天皇は後白河と源懿子の間に守仁親王として生まれ、藤原惟方母俊子、時子を乳母とした。守仁親王は祖父である鳥羽上皇から寵愛を受けるが、皇位には叔父の近衛天皇が即位しており、更に同じく美福門院の養子として先に入っていた重仁親王(崇徳上皇の長男)がいたために皇位継承の望みは低く、伯父である覚性法親王のいる仁和寺に預けられたが1155年に近衛天皇が崩御し、重仁親王も鳥羽法皇と崇徳上皇の不仲が原因で即位が絶望的になると、鳥羽法皇はまだ正式に出家を済ませていなかった守仁親王を呼び戻して皇位を継がせるために、まず父である後白河天皇を即位させたと言われている。 1158年、父から譲位されて即位、後白河上皇による院政が行われたが、太政大臣・藤原伊通ら二条近臣は、鳥羽法皇の意向は天皇による親政であったとして、後白河院政に対抗するようになる。 1159年、平清盛が熊野詣のために京都を離れると、親政派と結んだ源氏の源義朝らが挙兵して平治の乱が起こる。 天皇らは信頼に確保されるが、清盛が帰還すると、六波羅邸へ避難、清盛ら平家により乱は鎮圧される。清盛の支持を得て、後白河との二頭政治から、1161年には後白河院政を停止して親政を開始する。この過程で後白河が親政派の藤原経宗、惟方を流刑にし、天皇も対抗して院近臣である平時忠を流刑にしたために、急速に台頭してきた平家を敵に回す事になり政治は混乱した。 二条天皇は病弱だったため、1165年には前年に生まれた実子の順仁・六条天皇に譲位し、7月に押小路東洞院で崩御した。 優れた人物であったが、父・後白河上皇との確執や叔父である近衛天皇の妃であった藤原多子を妃に迎えた(二代后)事から、「不孝」であるという悪評も囁かれた。
永暦元年1160年平清盛はいよいよ正三位に叙せられ公卿となると、平重盛は伊予守左馬頭、基盛は遠江守、宗盛は淡路守、知盛は武蔵守、頼盛は尾張守、教盛は常陸介、経盛は伊賀守となり、改めて平家は朝廷を支える一門となる。この頃の関白は藤原忠通の子・基実、内大臣は基房、清盛は宋との交易を推し進めていくこととなる。また、この年美福門院・得子がご逝去された。時は流れて後白河上皇が政務から退くと、家貞は病に伏せやがてこの世を去り、1167年清盛の義妹滋子が入内する。身分が低かった(上西門院の女房)ため女御にはなれなかったが、その美貌により後白河の寵愛をうけることとなる。こうして後白河院と姻戚関係となったことが清盛および平家一門のさいの目をめまぐるしく変えることとなる。
二条天皇陵は北野天満宮のすぐ西側の住宅地内に位置する