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幕末54 1958年の翌年佐賀藩の当主・鍋島斉正が火薬製造

2013年04月10日 | 幕末

 大村益次郎1824-1869は、幕末期の長州藩医師・兵学者で、長州征討と戊辰戦争では長州藩兵を指揮し、勝利する。事実上の日本陸軍の創始者である。1842年、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、大坂では緒方洪庵の適塾で学び、塾頭となっている。長州藩ではその風貌から「火吹き達磨」のあだ名を高杉晋作が付けたとも言われ、その高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手し、大村にその指導を要請する。桂小五郎の推挙により大村は上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名する。そして大村は西洋兵術書を翻訳しわかりやすく書き改めたが、そこには無駄がなく的確であったという。1866年、幕府が第二次長州征伐を号令したとき、大村は実戦指揮を担当しその才能は遺憾なく発揮され、幕府側を撃破し勝利した。このときに活躍したのは佐久間象山が提唱した砲学に基づいて佐賀藩により開発されたアームストロング砲である。これはライフル式大砲といい、銃身に螺旋状の溝を作ることにより摩擦抵抗を減らし、銃弾が旋回して発射されることにより飛距離と命中率を高めるライフル銃の原理を大砲に応用したもので、開発に尽力したのは佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)である。 

 鍋島直正は1830年に17歳の若さで佐賀藩の家督を継ぐと、すぐに藩政改革に着手して財政を立て直し、藩の近代化に乗り出した人物である。藩内人間を次々と長崎に送り込み、着実に成果をあげ、1850年には本格的な反射炉を建造した。これにより鉄鋼の生産が可能となり佐賀藩の大砲が日本でもっとも進歩したのはペリー来航の3年前のことである。1858年には海軍所が設けられ翌年には火薬製造に成功すると、1865年には独自の蒸気船を開発したのである。明治維新の直前には世界最新鋭の大砲・アームストロング砲を多数所有し、この火力が会津若松城を開城に追い込んだのである。

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