源義経一行が相模の国に到着すると翌には、金洗坂にて平家の虜将を引き渡すことになった。北条時政と工藤行光が迎えにくると、平家の虜将を引き渡され、次には腰越の宿にて控えるようにと、申し渡される。義経は次の言葉を待つが、それ以外には何もない様子であったので、北条時政に、兄 頼朝の御内意を確かめるがやはり御意はなかった。それ以上時政に聞くこともなく、義経一向は由比ヶ浜から腰越を目指し、兄からの次の沙汰をただ幾日か待つのであった。腰越で過ごした幾日かの間に義経は、頼朝とのお目通りを望み、腰越状という有名な懇願の状を大江広元に送っている。もちろん頼朝はその状の中身を読んだに違いないが、義経が望む返事は一切無く、やっと告げられた沙汰は 平家の虜将を洛へ連れ戻すということであった。義経には兄の心中が理解できなず、弁慶・伊勢三郎などの郎党も、賞賛あってしかるべき、このような非情の沙汰は何故に・・・と囃し立てるが、裏目にでることも恐れ、ただ兄 頼朝をひたすら信じたいと願い、郎党をなだめている。ともかく 義経は平家の虜将を伴って頼朝の命に従った。いよいよ近江であるが、ここで虜の打ち首を義経は命じられていた。太刀取りは、鎌倉から付いてきていた橘ノ右馬冗公長である。公長は元々平家の者で、かつては権中納言知盛の侍であったが、平家に限りをつけて東国に走り、鎌倉に仕えていたのである。宗盛の斬首に続いて、息子・清宗も同夜討たれた。父39歳、息子17歳であった。
鎌倉にある 源頼朝 と 大江広元 の墓