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相国寺の遺構

2018年10月16日 | 鎌倉・室町時代

 1379年細川頼之にかわって斯波義将が管領になり、足利義満は「奉公衆」という近衛軍を作った。この奉公衆とは将軍固有が持つ軍団であり、これにより斯波義将に操られることなく自己の権力を強化したのである。1381年には京室町にあった室町第(花の御所)の落慶供養が行われた。貴族・武士の屋敷にあった名花・名木を移植させ義満の権力を誇示した。左大臣以上の大臣を相国というが、彼が後に京の中央に建てた相国寺は義満の権力の象徴である。

 応仁の乱に於いては東軍・足利義視側の本拠地となっている。義視勢は16万、対する義尚勢は9万と細川勝元が有利であったが、途中で山名宗全は大大名・大内政弘を迎え入れ、形勢は逆転し、義視は伊勢へ逃げて北畠氏を頼った。義視逃亡のあとに優勢となった西軍は一気に東軍を攻めた。これを相国寺合戦という。

 また、相国寺には禁門の変で犠牲となった藩兵ら400名の霊塔・墓や、新古今和歌集の選者のひとりである藤原定家の墓などがある。 

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