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幕末107 1866年6月幕府が第二次長州征伐を号令

2013年09月29日 | 幕末

 1866年6月幕府が第二次長州征伐を号令したとき、大村益次郎は実戦指揮を担当しその才能は遺憾なく発揮され幕府側を撃破し勝利した。大村益次郎1824-1869は、幕末期の長州藩医師・兵学者で、長州征討と戊辰戦争では長州藩兵を指揮し、勝利する。事実上の日本陸軍の創始者でもある。1842年、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、大坂では緒方洪庵の適塾で学び、塾頭となっている。長州藩ではその風貌から「火吹き達磨」のあだ名を高杉晋作が付けたとも言われ、その高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手し、大村にその指導を要請する。桂小五郎の推挙により大村益次郎は上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名する。そして大村は西洋兵術書を翻訳しわかりやすく書き改めたが、そこには無駄がなく的確であったという。 

 第二次長州征伐のときに活躍したのは佐久間象山が提唱した砲学に基づいて佐賀藩により開発されたアームストロング砲である。これはライフル式大砲といい、銃身に螺旋状の溝を作ることにより摩擦抵抗を減らし、銃弾が旋回して発射されることにより飛距離と命中率を高めるライフル銃の原理を大砲に応用したものである。開発に尽力したのは佐賀藩主・鍋島閑叟であり、以降明治新政府時代になって江藤新平、大隈重信など佐賀藩出身の人物が活躍することとなる。明治元年1868年、明治新政府の朝臣となり、上野戦争の軍議で薩摩の海江田信義の慎重論と対立する。北関東で幕府残党勢力を鎮圧したのち、新政府軍の総司令官として「東北戦争」を戦った。仙台藩らの降伏後、明治2年函館五稜郭で幕府残党勢力の榎本軍も降伏し、戊辰戦争は終結した。当時の兵部卿・仁和寺宮嘉彰親王は名目上の存在であり、大村は事実上日本陸軍の建設を指導することになる。明治2年9月、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ重傷を負い、その後容態が悪化し死去している。

京都三条大橋西詰にある受難の碑

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