後に木戸孝允と改名した桂小五郎1833-1877は、長州閥の巨頭である。尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と称せられる。吉田松陰の弟子の中では珍しく上級武士の出身で、高杉晋作と並んで別格の存在であった。幕府側に逮捕されれば池田屋事件で新撰組の拷問を受けた末に斬り殺された同志の古高俊太郎のようになるのは必至の状況にあって、幕府側から常に命を狙われていた小五郎は、敵を決して斬ろうとはせずに果敢に京都で活動し続け、逃げ通したことで名高い。1846年、長州藩の師範代である新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門後、江戸三大道場の一つ、斎藤弥九郎の練兵館に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て塾頭となっている。同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡邊昇とともに、練兵館の双璧と称えられた。また、同時期には桃井春蔵の士学館の塾頭を務めた武市半平太や千葉定吉・北辰一刀流剣術道場の塾頭を務めた坂本龍馬も免許皆伝を得ている。塾頭時代には大村藩・鳥居藩・内藤藩などの江戸の藩邸に招かれ剣術指導も行っている。1864年、会津藩お預かり新選組が勤皇の志士を襲撃した池田屋事件では、桂小五郎の到着が早すぎた為に本拠地にもどった間に事件が起こり難を逃れたとも、居合わせたが池田屋の屋根を伝い逃れて対馬屋敷へ帰った云われている。その後も、小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、長州および長州派公卿たちの復権のため久坂玄瑞と活動を続けている。
八月十八日の政変、池田屋事件で多くの犠牲を出した長州藩は、桂小五郎や高杉晋作の反対にもかかわらず挙兵上洛し、久坂玄瑞軍が山崎天王山に、来島又兵衛軍が嵯峨天龍寺に、福原越後軍が伏見に陣取り、朝廷に長州藩主父子や長州派公卿たちが無実の罪に問われていることを迫った。怯んだ朝廷は一時、京都守護職を会津藩から長州藩に変える所まで行くが、一橋慶喜からの脅しに孝明天皇および公卿たちは劣勢に陥る。中川宮朝彦親王など佐幕派公卿たち長州軍を挑発して長州軍の退去を通告する。武門の名誉を賭けて長州軍先発隊は蛤御門の変(禁門の変)を敢行した。来島又兵衛率いる嵯峨天龍寺隊は、会津軍を破り禁裏に迫るが薩摩軍に付かれて来島が倒れた後は総崩れとなる。福原越後率いる伏見隊は御所に辿り着けず、に早々と退避する。久坂玄瑞率いる天王山隊は出遅れ、御所に辿り着いたときは戦闘がほぼ終わっており、久坂玄瑞は自刃し、残りは天王山方面へ退避させる。桂小五郎は、因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判するが河田は応じず、小五郎は幾松の助けを借りて但馬出石に潜伏する。
出石にある小五郎居住跡
朝敵となった小五郎が乞食姿に身をやつして二条大橋の下に潜伏したときに世話になったのが京都三本木の美人芸者・幾松である。 そして坂本龍馬の尽力により薩摩藩は次第に倒幕色を強めて長州藩(大久保利通、小松帯刀、西郷隆盛)と手を結ぶこととなる(薩長同盟)。このときに長州藩の代表として薩摩と交渉にあたったのが桂小五郎であった。維新後は総裁局顧問として文明開化を推進し、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、憲法改正や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、副総裁の岩倉具視や明治天皇から厚く信頼された。しかし四民平等を志向する木戸孝允に対して武士階級の存続を望み、明治維新という革命を朝鮮に輸出しようとした西郷隆盛と対立するようになり、1877年の西南戦争へ発展する。西郷隆盛が鹿児島征討の任にあたり熊本城を包囲すると、木戸孝允は救援作戦を展開して成功する。しかしかねてから重病化していた病気が悪化し、明治天皇の見舞いも受けるが、5月26日、朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去ったという。愛妻の幾松改め松子夫人は髪をおろして仏門にはいった9年後になくなっている。