建礼門院右京大夫
本名不詳。当時の女性は本名は語らず・・・故に、不詳です。右京は16歳で、高倉天皇の中宮(清盛の娘)建礼門院につかえたことから、この名があります。当時は、紫式部に次ぐ才能を持ち、「むかし式部、いま右京。」と呼ばれるほどでした。
「建礼門院右京大夫集」は、平安から鎌倉へ、貴族社会から武士社会への過渡期のなかで、平家の栄華と滅亡を間近に見届けた女流歌人の日記風歌集です。
紫式部や清少納言、和泉式部などの平安女流歌人のように華やかでも有名でもないが、彼女達よりも人を愛する喜びと悲しみを知っていた女性だといえます。右京大夫は、源平の戦いという時代背景からいつでも愛する人の死の恐怖と悲しみに追いつめられており、『右京大夫集』での歌は痛切なもので、死に直面していたからこそ右京大夫の「生きた」記録は『右京大夫集』によって鮮明である。
『右京大夫集』は、平清盛の孫で右京大夫の恋人である平資盛への愛情と、資盛を壇の浦で失った悲しみを綴った日記的家集(歌集)である。右京大夫は、資盛の正妻ではなかったが、資盛(平清盛の孫)とのときめく恋は、正妻以上の立場を認められているのである。彼女は宮廷女房にすぎず、この恋は身分違いであった。それゆえ、20歳の右京大夫はいつでもこの恋を秘めたるものとし、さまざまに思い悩むこととなります。
散らすなよ 散らさばいかがつらからむ しのぶの山にしのぶ言の葉
(見られないで下さい。見られたらどんなに恥ずかしいことでしょう。忍ぶ上にも人目を忍んだこの手紙を。)
いずくにて いかなることを思ひつつ こよひの月に袖しぼるらん(あの人はどこでどんなことを思いながら今夜のこの月を眺め涙に濡れた袖を絞っていることだろう。)
資盛が壇ノ浦に破れ、悲報を耳にした右京は華やかな社交の場を離れ、大原に身を潜め、資盛との思い出を胸に余生を送ったといいます。
いかにせむ 我がのちの世はさてもなほ むかしの今日を とふ人もがな
(どうしよう、わたしの後世はどうなってもかまわないそれよりやはり昔契ったあの人の命日を弔ってくれる人がいてほしい。)