映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
ばらの丘へⅡ
5月13日掲載のⅠに対し「早く続きを読みたい!」という多くの熱心な声が寄せられた、というのは事実に反するが、このままでは中途半端なので、残りを掲載する。冗長な部分を適当に削っただけ、つけ加えはしていない。どうぞ、お楽しみ(というわけには行くまいが)に。
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「おかあさま。」
さよこは、涙を流しました。今まで、お母さんが死んでしまうとは、夢にも思っていませんでした。
それから何日かたち、お友達が、いろいろの贈り物をしました。靴下、帽子、手袋、洋服、靴、小包のふとん。ふとんはお父さんのもありました。お父さんの帽子、ズボン、シャツ、オーバー、マント、それから、百円の束と、十円の束もありました。それで材木を買いました。それから、きれいなお家を作りました。
一年たって、ばら色のほほの女の人がはいって来ました。この人が新しいさよこのお母さんでした。さよこは、うれしくてうれしくてたまりませんでした。その日から1日1日とお家がきれいな楽しいところに変わっていきました。もと、お母さんが生きていらっしゃった頃より、楽になりました。========F
ところが、ある冬の中ごろのことです。お父さんが「はいえん」という病気になって、亡くなってしまいました。お葬式の時は、去年お母さんがほうむられた、ばらの丘へうめることになりました。さよこも、その長い行列の後へ、続いて行きました。 ===========G
ばらが一面に咲いている、ばらの丘へ来たとき、さよこは思いました。
「私もこのお父様のように、死んでいくのじゃないかしら?」
さよこは、まだまだわかい少女で、今死んでしまうはずがありません。でも、としの若いさよこには、まだそんなことは分からなかったのでした。
その日から、小さなさよこにとっては、つらい日がつづきました。あまりつらくて、やりきれないので、女中さんを使いました。 ===========H
ところが、その女中さんは、お掃除をしたり、火をたきつけたり、糸をつむいだり、雑巾がけをしたり、ご飯をたいたり、何から何までしてくれるので、さよこのうちは、またしあわせなところに変わっていきました。
やっと、春になったころ、だいくさんがさよこのおうちに来ました。
「なんのご用ですか?」とお母さんがきくと、だいくさんは、にこにこしながら、「あなたのお家のくらしが、楽でないことが、よく分かりました。きょうは、お手伝いをしようと思って、参りました。」 すると、お母さんは、「まあまあ、お仕事が、なかなかなんでしょう。うちは、この子と、女中がいるから、そう楽でないって時、ないんですよ。」お母さんは、さよこのかみをなでながら、おっしゃいました。大工さんはにこにこしながら、「でもねえ、私に弟が二人いるんですよ。あの子たちにたのんでおいたから、大丈夫ですよ。」といい終わると、せっせと、まき運びをし始めました。
さよこが、声をかけました。「ねえ、おじさん、あたしの名まえ、さよこっていうの。」大工さんはだまって下を見ていましたが、やがて「さよこさん、いいことがあるんだよ」「さよこさんのおうちを作るんだよ」「えっ、ホント、おじ様、いつ、あした?」「きょう出来たら、きょう作るよ」 ======I
さよこは、とんでいって、「ねえ、お母さま、おじさまが、おうちを作ってくださるんですって」やがて、一日のうちに、りっぱなおうちができました。
さよこの一家は、それから、とても幸福な日をおくりました。====== J
それから毎日のように、さよこは、あの丘をじっと見つめるのでした。======K
=おわり=
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【あとがき】
7歳児の見る世の中は、女中と消防夫と大工しかいない。戦争や台風の災禍のあとで、大工さんは当時引っ張りだこだった。経済の仕組みが分からず、生活が苦しいとは、家事が大変だということに解している。また、親への執着より、むしろ孤児に憧れているふしも。世の中すべて、乏しかったが、書くことで想像の世界を楽しむすべを知っていたのは幸せな子供時代だった。やがて小学校という苛酷な現実に直面するのだが・・・・
注
F 「ばら色のほほ」の新しい母などの数行は、伝記「アブラハム・リンカーン」の影響が大きい。思い出すと、翻訳もののこの本は絵も装丁も上等だった。もう一度見たいと、探しているが、発見できない。
G 「ばらの丘」が初登場。言及されなかった母の葬式も、ついでに報告とは、手抜きの感を否めない。
H このあたりは、「小公女」の影響が見て取れる。そういえば冒頭の「大きなお人形」もそうだ。
I 初対面の大人に対する積極的アプローチ。人間をこわがっていない。言質をとるあたりは凄腕だ。
J 「幸福な日」における、大工のおじさんの地位に興味が湧く。
K この唐突な幕切れは、どうやら、突然、書くのにあきたらしい。がもう一度「丘」を取り上げたあたり、最低の格好はつけている。
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「おかあさま。」
さよこは、涙を流しました。今まで、お母さんが死んでしまうとは、夢にも思っていませんでした。
それから何日かたち、お友達が、いろいろの贈り物をしました。靴下、帽子、手袋、洋服、靴、小包のふとん。ふとんはお父さんのもありました。お父さんの帽子、ズボン、シャツ、オーバー、マント、それから、百円の束と、十円の束もありました。それで材木を買いました。それから、きれいなお家を作りました。
一年たって、ばら色のほほの女の人がはいって来ました。この人が新しいさよこのお母さんでした。さよこは、うれしくてうれしくてたまりませんでした。その日から1日1日とお家がきれいな楽しいところに変わっていきました。もと、お母さんが生きていらっしゃった頃より、楽になりました。========F
ところが、ある冬の中ごろのことです。お父さんが「はいえん」という病気になって、亡くなってしまいました。お葬式の時は、去年お母さんがほうむられた、ばらの丘へうめることになりました。さよこも、その長い行列の後へ、続いて行きました。 ===========G
ばらが一面に咲いている、ばらの丘へ来たとき、さよこは思いました。
「私もこのお父様のように、死んでいくのじゃないかしら?」
さよこは、まだまだわかい少女で、今死んでしまうはずがありません。でも、としの若いさよこには、まだそんなことは分からなかったのでした。
その日から、小さなさよこにとっては、つらい日がつづきました。あまりつらくて、やりきれないので、女中さんを使いました。 ===========H
ところが、その女中さんは、お掃除をしたり、火をたきつけたり、糸をつむいだり、雑巾がけをしたり、ご飯をたいたり、何から何までしてくれるので、さよこのうちは、またしあわせなところに変わっていきました。
やっと、春になったころ、だいくさんがさよこのおうちに来ました。
「なんのご用ですか?」とお母さんがきくと、だいくさんは、にこにこしながら、「あなたのお家のくらしが、楽でないことが、よく分かりました。きょうは、お手伝いをしようと思って、参りました。」 すると、お母さんは、「まあまあ、お仕事が、なかなかなんでしょう。うちは、この子と、女中がいるから、そう楽でないって時、ないんですよ。」お母さんは、さよこのかみをなでながら、おっしゃいました。大工さんはにこにこしながら、「でもねえ、私に弟が二人いるんですよ。あの子たちにたのんでおいたから、大丈夫ですよ。」といい終わると、せっせと、まき運びをし始めました。
さよこが、声をかけました。「ねえ、おじさん、あたしの名まえ、さよこっていうの。」大工さんはだまって下を見ていましたが、やがて「さよこさん、いいことがあるんだよ」「さよこさんのおうちを作るんだよ」「えっ、ホント、おじ様、いつ、あした?」「きょう出来たら、きょう作るよ」 ======I
さよこは、とんでいって、「ねえ、お母さま、おじさまが、おうちを作ってくださるんですって」やがて、一日のうちに、りっぱなおうちができました。
さよこの一家は、それから、とても幸福な日をおくりました。====== J
それから毎日のように、さよこは、あの丘をじっと見つめるのでした。======K
=おわり=
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【あとがき】
7歳児の見る世の中は、女中と消防夫と大工しかいない。戦争や台風の災禍のあとで、大工さんは当時引っ張りだこだった。経済の仕組みが分からず、生活が苦しいとは、家事が大変だということに解している。また、親への執着より、むしろ孤児に憧れているふしも。世の中すべて、乏しかったが、書くことで想像の世界を楽しむすべを知っていたのは幸せな子供時代だった。やがて小学校という苛酷な現実に直面するのだが・・・・
注
F 「ばら色のほほ」の新しい母などの数行は、伝記「アブラハム・リンカーン」の影響が大きい。思い出すと、翻訳もののこの本は絵も装丁も上等だった。もう一度見たいと、探しているが、発見できない。
G 「ばらの丘」が初登場。言及されなかった母の葬式も、ついでに報告とは、手抜きの感を否めない。
H このあたりは、「小公女」の影響が見て取れる。そういえば冒頭の「大きなお人形」もそうだ。
I 初対面の大人に対する積極的アプローチ。人間をこわがっていない。言質をとるあたりは凄腕だ。
J 「幸福な日」における、大工のおじさんの地位に興味が湧く。
K この唐突な幕切れは、どうやら、突然、書くのにあきたらしい。がもう一度「丘」を取り上げたあたり、最低の格好はつけている。
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うんうん、悲劇のヒロインに憧れつつも、手中にある幸せはしっかり握って手放したくないという想いと、読むもの聞くものが新鮮で、どんどん知識を吸収しそれを表現できる楽しさが芽吹き始めた子供のパワーを感じますね。
一見冷たい内容の部分があるように見えるけど、表現することを楽しんでるだけで、暗い影のない文章ですね。きっとBiancaさんの子供時代、明るいお嬢さんだったのでしょう。なんて、勝手に想像してまーす!しつれいしましたぁ。
「女児らしさに溢れ」と一年生の通知表にあります。男先生には受けがよく、女先生には良くない小学生でした。この作品の執筆当時は、手広く集めた言葉というおもちゃを使うことに夢中だったのだと思います。ともあれ、読みにくかったでしょうに、前・後篇にお付き合いいただき、まことに有難うございます。
“ばらの丘へ?”2部作読ませていただきました。両親とも亡くなっちゃたんですかぁ(殺しちゃった)??
継母が登場し、彼女と仲良く暮らすのは“シンデレラ”ぽくありませんが、それはBiancaさん流でしょうか?
昔、昔、その昔...私もこういった文章を書いたりしたのを思い出しましたわ。
そうですネ、さっさと両親を殺しちゃったのは、駒尺流の血縁でない、友愛による家族を、幼年時代にすでに求めていたのでしょう。ところで、貴女も書いていらっしゃった?興味あります。
もし見つかったら、是非blogに載せて下さいませね。
なんで母親のこと「お母様」って呼ぶの?
なんで母親に敬語を使うの?
と、不思議に思いながら読んだものです。
Biancaさんは子どもの頃、お母様のこと「おかあさま」と呼ばれておられたのですか?
私も母親が死んで、新しい、綺麗なお母さんが来ることに憧れていました。
Biancaさんが今書かれる映画の感想も、非常に読み応えありますけど、文章を書くことに優れておられるのは小さい頃からなのですね。
>文章を書くことに優れておられるのは小さい頃からなのですね。
お褒め頂いて嬉しいです。尤もこれ以上のものはその後書けてないねという人もありますけど。
「おかあさま」と言うのは本やラジオのことば、まわりで聞いたこともありません。当時はパパママではなく「とうちゃん」「かあちゃん」でした。
私も母親が死んで、新しい、綺麗なお母さんが来ることに憧れていました。
そうですか~。そう聞くと何だか、急に気の毒になってもきますね、母親たちが。
Biancaさんは早熟な文学少女だったのですね。
「昔の文章」はどれも面白く、読みながら幼い頃の愛読書、たとえば「ばら」から連想するのか挿絵や装丁が丁寧だったオルコットの「七人のいとこ」なども思い出します。
それにしても、僅か七歳の作品とは…今では懐かしくさえ思われる正統派の敬語なども使いこなして立派なものです。
最後の二行に、私はドキッとしました。
とても幸せに…しかし両親が葬られた「ばらの丘」を、毎日眺めて暮らすのですね。
幸福の底にある死への眼差しは、意識して書かれたものではないでしょうが…重く受け取ってしまいます。
オルコットの本は「八人のいとこ」かも知れません。濃いグレーの布張りのその本は、もう手元にはありません。
それに「最後の二行」と言う書き方は変でしたが、七歳のBiancaさんの「まとめ」に、私は勝手に意味を見出して感動しているのです。
煌く才能をお持ちのBiancaさん、これからも拝読させてくださいね。ただ圧倒されるばかりでコメントはほとんど出来ないかも知れませんが、宜しくお願いいたします。