先月19日に東京駅近郊で研究会主催の勉強会がありました。テキストは早坂泰次郎先生の『看護における人間学』(医学書院1970年)でした。このテキストは看護学を学ぶ学生向けのもので出版年を見ると先生が40代のころに執筆されたともの思われます。私が先生に出会ったとき先生は60代だったので、今回初めてこのテキストを読むと、スピード感のある論理展開と切れ味に先生の「若さ」を感じることができました。
勉強会ではこのテキストの「2. 対象の理解―――人間の科学の方法について」の章を読みました。文章には私が先生のもとで学んだころ、先生が人間科学へのアプローチの最も重要な哲学的方法論として頻繁に講義で喋られたり論文に書かれたりされた「現象学」という単語がまったく出てこない代わりに、経験知―科学的知識、自然科学―人間科学、認識知(エピステメ)―技術知(テクネー)、純粋科学―応用科学、科学的発想―技術的発想、宗教的態度―科学的態度、愛(信頼)と孤独などを対比しながら、人間関係の「関係」の本質を吟味し、「人間現象への真の科学的なアプローチとは、何かのために人間を知ろうとすることではなく、人間の生そのものに、それ自体として意味を見出していこうとする努力である。」と人間科学に対する先生の態度を明確にします。そして、「人間関係における関係の把握にもまた、既成の理論や概念にとらわれない、現象そのものへの謙虚さが求められるゆえんはここにある。それは言いかえれば、人間関係の体験そのものに自分自身の目を向けることであると言ってもよい。」と現象学にもとづく科学的態度の必要性を表明します。
現象学という言葉を聞くとフッサールやハイデッカーなどの哲学者が思い浮かび、とにかく難解という印象が先立ちますが、このテキストは「現象学」という単語がないためにかえって、日常私たちの周りに実際に存在する人間を理解するための現象学の実践的な有効性が見えてきます。現象そのものへの謙虚な態度の科学的根拠(よりどころ)こそ現象学の最大の意義です。そして先生は、この現象学にもとづく科学的態度の持続は緊張の持続を伴い、この緊張が現象への感受性をつちかい、それが失われるとき、現象への鈍感さが現れると指摘し、この緊張の持続が柔軟、自由、闊達な態度を生み、緊張が失われるとき、がんこ、不自由、狭隘な態度が生まれると述べます。現象学とは簡単に言えば、人間現象を正確に見続けるためのメガネのメガネ拭きクロスのようなものと言えるでしょう。
この本が出版された同じ年に先生のライフワークとなるIPRトレイニングが始まりました。このことを考え合わせてこのテキストを読むと、これは単なる本質学ではなく現実学としての現象学の実践の場を求め、IPRトレイニングを始めた先生の決意表明のように読めます。そして、登山家ヒラリーの「山がそこにあったからだ」や禅僧沢木興堂の「何もならん」という言葉を引きながら、「“対象の理解”に志すとき、“なんのために”という前提をわれわれはいったん捨てなければならない。私が相手を知りたいのは、相手が人間だからであり、私が人間だからであって、それ以外の事柄はすべて二次的な重要さしかもたないことを、人間科学の従事者は認識しなければならない。」と説きます。この言葉は、私たちIPRトレイニングスタッフ共通の戒めになります。他人になぜIPRトレイングを行うのかと問われたとき、私たちは「何のために」―――例えば職場で業務遂行ための良好な人間関係構築のため―――ではなく、純粋に「対象(人間)の理解のため」という無条件の科学的探究のためと答えなければなりません。あえて言うなら「生きることの意味の発見」のためということになります。現象学に基づく科学的態度で人間現象に臨むこととはそういうことであり、その実践の場であるIPRトレイニングもそういうものだとしか言いようがありません。「何のために」という思考に慣れきった私たち現代人、特に利益と効率にコミットする企業社会で生活している私にとって、このことは大変な難問です。
しかし、相手が人間であり自分も人間であるから相手のことを知りたいということは、人間の本来の姿に立ち戻れば至極当たり前のことであり、よく経験することではないでしょうか。そして出来るだけ正確に知りたい、既成の理論や概念、あるいは社会に蔓延する偏見や因習にとらわれずに現実に存在する人間そのものを認識知として知りたいというのは人間として自然な欲求だと思います。この自然な欲求を満たすための最適な方法が現象学でありその実践の場としてIPRトレイングがあると言えます。
「科学的態度とは、先入見なしに現象にあい対し、現象の意味を、自分自身の納得いく仕方で把握しようとする努力であった。しかし、そのことは、一見容易であるが、実は決してそうではない。現象は無限に大きく、また無限に変化するが、個々の人間の能力はきわめて限られているからである。」と先生は科学的態度の困難さを教えます。私たちは、もちろん日常生活で様々な人間関係に直接的、間接的に接しますが、このすべてに対して現象学にもとづく科学的態度を継続し緊張感を保つことは不可能です。しかし、私はIPRトレイニングスタッフとして最低限、IPRトレイニングの期間(ベーシックトレイニング3泊4日、メイントレイニング1泊2日)内だけでもIPRトレイニングにコミット(全力投球)し科学的態度を継続して緊張感を保つつもりです。そして、そのことが、IPRトレイニングがメンバーのみならずスタッフである私にとってもかけがえのないトレイニングになるための条件になります。「何のために」でない以上、その成果がどうなるかはわかりませんが、トレイングを経て本当の人間の理解に一歩ずつ近づいていけると思っています。