本当の人間関係を学び続ける学徒のつぶやき

人間関係学を学び続ける学徒の試行錯誤

死者への追悼と2020五輪

2021-06-12 07:12:53 | 日記
 2020東京オリンピック・パラリンピックの開催予定日まで1か月余りとなった。しかし、スポーツの祭典・オリンピックの直前というのに巷では中止を求める声も多く、一向に盛り上がらない。テレビや新聞で、聖火リレーの様子や選手の活躍を報道するが、しらけた虚無感が漂う。
 日本政府は高齢者への新型コロナウイルスのワクチン接種を7月末までに終えると宣言し、コロナ禍の終焉を演出して開催を推し進めようとするが、こうも開催の気運が高まらないのはなぜだろうか。日本国内のワクチン接種率が欧米諸国と比べ低く、まだ市井に不安が蔓延しているからだろうか。あるいは、宣言や措置により飲食店で酒が飲めなくなり、とてもお祭り気分にはなれないからだろうか。確かに、ウイルス感染による死の恐怖はまだ全然払拭できていないし、店で仲間が集まって酒を飲めなければ、お祭りどころではない。しかし、自分にはこの気運の停滞の原因はもっと深いところにあるように思える。
 
 今日の新聞(2021年6月12日付)に新型コロナウイルス感染による国内の死者13,990人、世界の死者3,773,600人と載っている。大変多くの方がすでに亡くなった。紙面では数しかわからないが、亡くなった方にはそれぞれの人生があり、家族があり、職場の同僚や近所の付き合いがあったはずだ。病疫によって強いられた数多くの別れの痛みや苦しみはまだ決して癒えてはいない。身近な人の死は周りの人の心を揺さぶり悼ませる。「悼む」とはまさに「痛む」である。この痛みが社会全体、世界全体を覆っていることが、「お祭り騒ぎどころではない」と人々に思わせているのだ。
 IOCや日本の為政者たちは先ずこのことに気がつくべきである。「国民にワクチンが行き渡ればもう大丈夫」ではない。ワクチンももちろん重要であるが、まず死者を悼み、死者に敬意をしめすべきである。そして、生き残り別れに傷づいた人々に心を寄せることがIOCや為政者たちの務めではないか。そのようにして人々が癒されたとき、はじめて復興五輪の意義があるのではないか。死屍累々のなかで復興五輪を旗印に突き進んでも意味がない。
 今回の新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、長い間遠ざけられ秘匿されてきた「死」をわれわれの身近にさせた。われわれは永遠に続く健康寿命という幻想から目覚め必ずある「死」に気づいた。死があるから生に意味がある。生に意義が生まれる。いかに生きようかと真剣に考え意味のある生き方を求めるようになる。こうして「生きがい」のある生き方をするようになる。このことは今回のコロナの功罪のなかの最大の「功」であろう。
 「死」への追悼をわれわれがともにすることによって、残された人々のなかで「生」が復活する。オリンピック・パラリンピックもコロナ禍で亡くなられたすべての死者への追悼を終えた後であれば、間違いなく全世界の市民の賛意を得、開催の気運が盛り上がるであろう。