本当の人間関係を学び続ける学徒のつぶやき

人間関係学を学び続ける学徒の試行錯誤

【改訂】『対話の倫理』抄本  ~ハイデッガーからの宿題~ 

2023-09-23 11:12:03 | 日記

 現在、IPR現象学研究会社会人ゼミではマルティン・ブーバーの『対話の倫理』を輪読しています。先週の社会人ゼミで、「第3章 現代における神の沈黙——実存主義と深層心理学について」を読了しました。この賞の後半でユーバーは深層心理学者であるユングを鋭く批判するのですが、章の終わりにハイデッガーの言葉を引用しつぎのように述べています。

われわれはハイデッガーのこの言葉にしっかりと耳をかたむけなければならない。なぜなら、われわれはこの言葉が言いあらわしている事柄や、ほのめかしている事柄が、今日この世において真実であるかないか、われわれ自身ではっきり判断を下さなければならないからである。(p.167)

 この本が書かれて70年以上経ちますが、今回追記したハイデッガーの言葉は今なお、わたしたちにとって新鮮かつ重要な問題ではないでしょうか。いや、ブーバーやハイデッガーが生きた世界大戦の時代よりも現代の方が、途方もなく巨大なシステムがわれわれ人間にとって最も重要な真実をおおい隠し尽くしてしまっているので、より一層困難な問題になっているのかもしれません。

今回、この文を抄本に追加し、読者の方々と共有して一緒に考えていきたいと思います。

 

改訂版 『対話の倫理』抄本 版1.5

http://www7b.biglobe.ne.jp/~ipr_phenomenology/Buber_conversasion_1.5.pdf

IPR現象学研究会社会人ゼミ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~ipr_phenomenology/zemi2.htm

IPR現象学研究会のホームページ

 

***追加引用文(抄本 p39-40, 41)***

ニーチェは「死せり、すべての神々は。されば、われらは望む、超人よ生きよ」と力強く叫んだ。ハイデッガーは、ニーチェのこの警告にたいして、ちょっとかれらしからぬ調子でつぎのような付けたしをしている。(111)「人間の本質はいかにしても神の本質的領域には及びえない。だから、人間が神の位につくということなどけっしてありえない。しかしながら、この不可解事にくらべれば、はるかに不気味なことが起こりうるのである。われわれはその本質をいまようやく考え始めたところである。形而上学的にいって、神にふさわしい位とは、存在者を被造物として創造的に生み出し、またそれを維持する活動の場所であるといえよう。この神の位は空っぽのままのことがある。そんなときには、そのかわりに、形而上学的にそれに対応するもう一つの場所が口を開く。この場所は神の本質の領域とも人間の本質の領域とも同じではないけれども、それにしても人間はそれと卓越した関係を結ぶことができるのである。超人は神の位につくのではない。そんなことがあるはずがない。そうではなく、超人の意志が到達する位は、被造物と存在を異にする存在者を、神と異なる仕方で基礎づける活動の領域なのである」と。 
 われわれはハイデッガーのこの言葉にしっかりと耳をかたむけなければならない。なぜなら、われわれはこの言葉が言いあらわしている事柄や、ほのめかしている事柄が、今日この世において真実であるかないか、われわれ自身ではっきり判断を下さなければならないからである。

訳注

(111)『森の道』235頁参照。この引用とつぎのユングの言葉とを比較されたい。「神の座が空位となっている期間というものは、一触即発の危機をはらんでいる」(『心理学と宗教』中「ある自然的事象の歴史とその心理的構造」)これは本文とほとんど反対のことを意味している。


原始仏教について ~ドイツ人の友人G氏への返信(2022年8月21日)~

2023-09-10 08:48:03 | 日記

 G様、興味深い動画(注1)をご紹介いただきありがとうございました。

 今朝、拝見しました。

 原始仏教(スリランカ上座仏教:テーラワーダ仏教)については、アルボッムレ・スマナサーラ(Alubomulle Sumanasara)という東京在住の長老僧侶の本を2010年から2012年頃にかけて読んだので、多少は知識がありましたが、あらためて仏教のもとの教え、そして変遷について学ぶことができました。

 植木雅俊という方はいままで存じ上げませんでしたが、高名なインド哲学者 中村元氏のお弟子さんとのこと。中村元氏は、ブーバー(注2)の『対話の倫理』という訳本の訳注にも登場するなど原始仏教解釈の第一人者です。動画での植木氏の講話も中村氏の流れを継ぐ、高い見識にあふれた内容でした。

 さて、冒頭でわたしが10年ぐらい前に原始仏教の本を読んだと書きましたが、結構のめりこみました。当時、仕事や家族の人間関係でいろいろと悩みを抱え、何らかの答えを求めてアルボッムレ・スマナサーラ師の本をあさるように読んでいたのだと思います。たしかに師が解く仏教は生きている人間に寄り添い、進むべき道を示してくれました。そして、瞑想の実践方法とその意義を学び、自分の心の動きを感じ(自己覚知)、コントロールしようと試みることを覚えました。(もちろん完全にではありませんが。)いまはもう、これらの本に何が書いていたかほとんど覚えていませんが、このときの自分の経験は、たしかに今の自分の基礎のひとつになっているようにと感じます。

 今日の動画を含め、仏教関連の解説はどれも難解です。わたしには世間では難解と知られるブーバーの本よりもずっと仏教関連の解説書のほうが難しく感じる。なかなか、仏教関連の本を手にとって読もうという気になりません。その理由の一つは仏教の「教学」という伝統だと思います。西洋思想に当てはめれば、教学とは心理学、社会学、哲学、倫理学などにあたるのでしょうが、要は「観察と論理」です。ブーバーの言葉を借りれば「われーそれ」の態度です。僧侶などの仏教社会ではいかに「教学」を高めるか、ということが至上命題となり、権威主義が横行・増大する結果を導いたように感じます。そして、動画で植木氏が指摘しているように、僧侶組織の権威主義が、仏教の原義を曲解させ、組織にとって都合のよいように解釈されるようになったのだと思います。(男女差別の問題など)

 日本には、その曲解された仏教が伝来したので、もはや生きた人間に寄り添うという仏教の原義は色あせ、「葬式仏教」と揶揄され、「観光地拝金主義」と誹謗されるまでに荒廃してしまったともいえるでしょう。

 しかし、一つ私の心にひびいた経典の日本語訳があります。以前ご紹介した伊藤比呂美という女性詩人が訳した「般若心経」です。(注3) この訳を読んで、(訳者の解釈を超えて)この経典の意味・意図がわかるような気がしました。

 私の解釈は、こんな感じです。

 教学(論理学)に長けた仏弟子シャーリプトラ(舎利子)にたいして、音を観る(watch sound: )ことのできるかんのん(観世音菩薩)が、教学をどんなに突き詰めていっても結局はなにもない、だれも救われない、無駄なことだと指摘し、ある「まじない」を教えます。わたしには、このまじないは、いわゆる仏教の「呪文」ではなく、どこかの外国の歌のように思われます。(確かに古代バーリ語の「呪」に当たる言葉は「歌」といういみがあるようです。) そして、教学ばかりに励むのではなく、一緒に歌おうと誘います。ともに歌うことにより、シャーリプトラをとりかこむ人間関係は「われーそれ」から「われーなんじ」に開けていくことができ、シャーリプトラは目ざめ、苦しみから解脱できました。

 この経典の呪は漢訳されておらず、音を写した漢字で表現されています。英語の歌をカタカナで音写しだれでも歌えるようにしたのと同じです。

 わたしは、この訳文を母に読み聞かせています。そして、この呪のところは、自分で考えた節回し(歌い方)で歌います。母も喜んでくれます。

アルファベットで表記すればこんな感じでしょうか。

  gya-tei gya-tei.

  hara gya-tei.

  haraso-gya-tei.

  boji-sowaka.

明るくのびやかに謡います。

あえて意味を書けば、こんな感じです。(参考まで)

  行くひとよ

  行くひとよ

  川の向こう岸に行くひとよ

  川の向こう岸にすっかり渡りきるひとよ

  悟って、しあわせになられることを願ってます

※ 川の向こう岸とは、「彼岸」つまり「あの世」、死後の世界のことです。生きとし生けるものが必ずわたる向こう岸です。

母も私もこの歌を毎晩一緒に謡います。私も母もこの歌が大好きです。

親愛なるG様

                               和智章宏

 

(注1) 原始仏教・大乗仏教の溌剌とした女性たち 植木雅俊さん 池田香代子の世界を変える100人の働き人68人目 2022.8.16.

https://www.youtube.com/watch?v=FVm3GLNZo_U

(注2)マルティン・ブーバー(Martin Buber)  ユダヤ系宗教哲学者、社会学者 「我と汝」「対話の倫理」など

(注3)読み解き「般若心経」 伊藤比呂美 朝日文庫 2013年