本当の人間関係を学び続ける学徒のつぶやき

人間関係学を学び続ける学徒の試行錯誤

NHK 「こころの時代 仏の教えをたずねて 恐山菩提寺院代 南直哉」を観て

2022-02-23 09:26:18 | 日記

 先日、ベルリンに住むドイツ人の友人から、NHK 「こころの時代 仏の教えをたずねて 恐山菩提寺院代 南直哉」を見て、感想を聞かせてほしいと頼まれました。彼は、ドイツに暮らすある日本人の友人からこの番組を観るように進められて見たそうですが、いま一つ了解できなかったので、ともに現象学や人間関係学を学び、実践教育(IPRトレーニング、IPR: inter-personal relationship)を受けた私の感想も聞きたいとのこと。

 昨日、ワクチン接種のため仕事を休み時間ができたので、番組を観ました。以下は、友人にあてた小生の感想です。

 番組は、西洋の現象学と東洋の禅の接点を暗示させ、興味深いものだったのでブログの読者の方にも共有します。

※ なお、番組は以下のURLで視聴することができます。参考まで

https://youtu.be/8EG935ca54U

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Aさん、こんにちは

 今日は、3回目のワクチン(covid19-vaccine)接種のため仕事は休んでおります。

 いまのところ発熱や腕の痛みなどワクチンの副反応はなく、心身ともに良好なので、ご紹介いただいたNHK 「こころの時代 仏の教えをたずねて 恐山菩提寺院代 南直哉」を拝見しました。「こころの時代」シリーズはNHKの長寿番組の一つで時折秀作に出会えるので私は、2018年以来毎週録画しているのですが、この番組はかなり以前(2013年)に放送されたものらしく、今回初めて見ました。

 番組は、聞き手と僧侶の対談に終始しているため一見単調ではありますが、番組の内容はなかなか興味深く勉強になりました。

 

 南氏は禅宗(曹洞宗)の僧侶とのこと、13世紀、鎌倉時代の仏教徒、道元禅師の名を久しぶりに聞きました。

 1980年代後半から1990年代前半、私が大学を卒業し早坂泰次郎先生の社会人ゼミに参加していたころ、ゼミで道元禅師の禅問答が西洋の現象学と通じているような話題がありました。また、先生も「IPRは西洋禅だ」と、仏教の禅の教えとIPRの学びの関連性について話されていました。

 先生の著書「現場からの現象学」(川島書店 1999)に関連する記述をみつけましたので引用します。

***引用はじめ************

 それは、前にも触れたように、グループの中でキチンと目を「見る」このと途方もない重要さ、すごさに気づいていったのと並行していた。ここでいうキチンと目を見るとは、もちろんにろめっこすることではないし、単にひたすら視線を「向ける」ことでもない。互いに視線を届かせることであり、見つめあうことを通してそれぞれが相手の気持ちを感じ取ることである。言葉にすればこれだけのことだが、日常生活の中では目の前の相手にただ視線を向けることさえ殆どしていない日本人にとって、視線を届かせ、目で相手の気持ちを正確に感じ取ることがどれほど大変なことか、それができるようになった時、どんな凄いことが起るかが次第に明らかになっていった。あるグループの中で、人の話をなかなか聞こうとしないあるメンバーに対して、私が思わず発した「眼で聞くんだよ」という言葉が1,000年前の中国の禅書『洞山録』にそのままあるのをその後見つけて、落胆と同時に喜びを感じたりもした。 p.147

***引用終わり************

 先生から洞山録の話を、1990年頃、高田馬場の研究室で直接うかがったことを今も覚えています。

 先生は、IPRトレーニングの緊迫したメンバーとのやり取りの中で思わず「眼で聞く」と発したことが自分の人間関係学上の大発見と感じたのですが、その後、中国の禅書を読む機会があり、禅の教えの中に同様の言葉を見つけ、自分が最初に発見したのではないと落胆を感じた一方、「眼で聞く」ことの重要性が昔から人間関係の重要事項であることを確認できうれしかったそうです。そして、自分が最初に発見したかどうかが問題ではなく、自分もIPRの中で「眼で聞く」ことの重要性を確認できたことが重要だとおっしゃっていました。(懐かしいですね。その時の先生の少し酔った赤いお顔が今も思い出されます。)

 さて、話題を本題に戻します。

 1度番組を観ただけですが、ザっと番組を振り返ります。

 番組で南僧侶はまず、①発心のきっかけとして、幼少の時に感じた「なぜ、死があるのか」「なぜ、自分は自分なのか」という疑問と不安 が紹介されます。ついで②他者理解、自己理解、生と死と続き、他者存在、自己存在、そして存在の生と死には「決定的にわからないことが残」り、その「わからなさ」が人の悲しみでであり、その人の「わからなさ」をそのまま受けとめることが救いにつながると説きます。そして、③「自分探し」や「自分らしさ」について「自分のことをみつめていても、自分のことはわからない」述べ、「自分の生を受け入れることは困難な道のり」であり、「他者との関係で自己がある」と言います。さらに、④人間関係について「AとBとのあいだに関係があるのではなく、関係があるからAとBがある」と関係の先験性を指摘し、「他者との関係を充実させていくことが決定的に重要である」と説きます。そして、⑤「より良い生き方を目指す」すなわち「仏の教えの道」をあゆむためには「他者に敬意を払う」態度が必要で、この態度を身につけていくためには日々の積み重ねと学びが求められると教えます。

 いかがでしょう、南僧侶の言葉には仏教哲学(教学)の難解さはありますが、どこか西洋の現象学者たち人間学に通じるところがあるように感じませんか。これは私の推察ですが、この僧侶はマルティン・ブーバーの本を読んでいるかもしれません。特に④の関係についての見解はブーバーや早坂先生の教えに近いように感じます。また、「わからないこと」=「神秘」とすれば、南僧侶の「わからないこと」を認め、大切にする態度は、ブーバーの「神秘(解き明かせない重要な意味をもつこと)」に対する態度と共通するように感じます。

***引用**********

「人間とは何か」 マルティン・ブーバー著 児島洋訳 理想社 1961年

 これに反して、本質的関りを通しては、個人的存在の枠は事実上突き破られ、ただこのような場合にのみ発生しうる新しい現象が発生する、つまり、実在(本質)から実在(本質)へ向かう開放性(それは一定不変のものではなく、いわば点においてのみその局限的現実性に到達するが、しかし、生の連続性の中においてもまた形態を獲得しうる)、即ち、単なる表像においてでもなく、また単なる感情においてでもなく、実体の深みにおける他人の現前化(その結果、人々は自己の存在の神秘において他人の存在の神秘を体験する)、即ち、単に心理的ではなくむしろ存在的な人間相互の事実的関与が発生するのである。p.111 - 112

 人間はその本性と世界いおける地位とにもとづいて、三重の生活関係をもっている。人間は、すべての生活関係を本質的関係に変えることによって、彼の本性と世界における地位とを生活の中で完全な現実性にまで高めることができる。そしてまた、一つの生活関係のみを本質的関係に変え、他の生活関係を非本質的なものと見なし、そのように取扱うことによって、彼の本性及び世界における地位の諸要素を非現実性の中に放置することができる。

 人間の三重の生活関係は、世界及び物との関係、人間、即ち個人及び多数者との関係、並びに、右の二つの関係を貫いて現れつつも、それらを根本的に超越する存在の神秘との関係である。この存在の神秘を哲学者は絶対者とよび、信仰者は神とよぶが、この二つの名称を否認する人びとでさえも、事実上、彼のおかれた状況からそれを完全に閉め出すことはできないのである。 p.125

***引用終わり*******

 わたしは仏教の僧侶でも仏教の信者でもありませんが、今までの仏教の知識やIPR、人間関係学、現象学、ブーバーなどにふれてきたおかげで、この番組の南僧侶の教えについておおよそのイメージを捉え、なんとなく内容を理解しましたが、一番重要なことは、⑤の「他者に敬意を払う態度」を身につけていくためには日々の積み重ねと学びが求められることだと思いました。要は実践的な学びです。

 この番組では、この実践的な学びの具体的な説明はありませんでしたが、恐山のような人里離れた辺境な奥地で南僧侶は生きた人間とどのような関わり方を実践しているのでしょうか。いくつか相談に来た来訪者との関りや病棟のナースとの会話についての話がありましたが、どこか浮世離れしているような、現実離れしているような印象を受けました。南僧侶の優れた教学は、対人関係(人格間関係 IPR)において、どのように活かされているのか?

 この番組の趣旨は南僧侶による仏の教えの説明なので、禅の実践的な人間の関りについての説明は番組の対象外なのかもしれませんが、より深く理解しようと思う視聴者にとっては少し物足りない感じがしました。

***引用**********

「人間とは何か」 マルティン・ブーバー著 児島洋訳 理想社 1961年

 自己の真正さと十全さとは、自分自身との関わりの中では決して証明されえない。むしろ、それは完全なる他者性、無名の群衆のカオスとの交わりの中でこそはじめて証明されるのである。なぜなら、真正なる自己、十全なる自己は、群衆と接触するいたるところで自己存在の火花を発し、自己と自己とを結合し、「ひと」への対立物、即ち、単独者の団結を樹立し、社会的生命を素材として一つの社会的形態をかたちづくるからである。 p.127

***引用終わり*******

 少し意地悪な言い方をすれば、端正な顔立ちの南僧侶がどのようにブーバーのいう「火花」を発しているのか、番組では想像がつかなかった、ということです。はたして、南僧侶は「火花」を発したことがあるのでしょうか?

番組の感想をいえば、南僧侶の話は仏教哲学(教学)を学ぶためには役に立つとは思いますが、少し現実離れしており、ブーバーがハイデガーを「閉じている」と批判したように、南僧侶も難解で閉鎖的だと感じます、たとえ彼が④のように関係の先験性を語ってはいても。そして、わたしには、ブーバーの思想の方が明快で開放的で、わかり易く、具体的、生活的に思われます。簡単にいえば、私はブーバーの方が好きです。(真理・真実の問題は、好き嫌いの問題ではないのでしょうが、私の率直な感想です。)

 仏教にかんしていえば、先日紹介した、詩人である伊藤比呂美の「読み解き『般若心経』」の方が好きです。彼女は私同様、仏教徒でも信者でもなく、教学にも明るくありませんが、女性詩人らしい繊細さで生と死をみつめ、わかり易く、具体的、生活的に経文を現代の日本語に訳しています。もし、Aさんの日本人のご友人が仏教にご関心があれば、ご紹介されるとよいかもしれません。

 長文になりました。

 それでは、お友達によろしくお伝えください。

 Aさんもお元気で、ごきげんよう。