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<なの花畑>
第8章で、「ユーラシア大陸の過去5000年の歴史をみると、信用貨幣が支配的な時代と金銀が支配的になる時代とが長期にわたって交互に入れ替わる、という事態が観察される」ということで、「仮想貨幣と金属貨幣の交替に沿って、ユーラシア大陸の歴史を次のように区分してみよう」として、つぎのような時代区分が示された。
● 農業帝国時代(前3500年――前800年)……仮想の信用貨幣に支配された最初の時代
● 枢軸時代(前800年――後600年)。……硬貨鋳造の開始、そして金属塊への全般的転換がみられる。
● 中世(600年――1450年)……仮想の信用貨幣への回帰が起きる。
● 資本主義帝国の時代(1450年――1971年)……兌換貨幣(金への交換が保証された貨幣)すなわち、金属貨幣の時代
● 1971年のニクソンによる兌換の終焉宣言から今日まで……その全体像も当然いまだ未知である、新たな仮想貨幣の時代
9章では、このうちの「枢軸時代」について語られる。
「枢軸時代」という呼称は、ドイツの実存主義哲学者カール・ヤスパースが唱えたものである。ヤスパースによれば、この時代は、前800年頃にペルシアの予言者ゾロアスターとともに始まり、前200年頃に終焉を迎える。それに続いたのが、イエスやムハンマドらが中心的に活動する「霊魂の時代」となる。
グレーバーは、これら二つを組み合わせた方が有益であるように思うとして、前800年から後600年と定義する。すると枢軸時代は、ピタゴラス(前570―前495)、ブッダ(前563―前483)、孔子(前551―前479)といった世界の主要な哲学的潮流が誕生したのみならず、ゾロアスター教、預言者的ユダヤ教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教、儒教、道教、キリスト教、そしてイスラーム教という、今日の主要な宗教すべての誕生を目の当たりにした時代となる。地域を隔てて互いの存在すら知らなかったのに、ギリシア、インド、中国において、競合しあう知的学派どうしの議論が突如開花をみた時代である。
ここから、なぜこのようなことが起きたのか?という疑問が生まれる。
[これらの思想が生まれる背景。特に政治的背景]
初期鉄器時代は諸帝国間の休止の期間であった。政治的風景は小規模な王国や都市国家のおりなすまだら模様に分解されていた時代であり、それぞれが外にむけてはたえず戦争状態にあり、内にあっては政治抗争にあけくれていた。
どこにおいても、ドロップアウト文化のようなものの発展がみられる。荒野に逃避したり、叡智を求めて町から町を彷徨う修行者や賢者たちが見られるのである。
ギリシアのソフィストであれ、ユダヤの預言者であれ、中国の賢人であれ、インドの聖人であれ、いずれにあっても、やがて新種の知的ないし精神的エリートとして政治体制に吸収されていった。
その結果、理由はどうあれ歴史上はじめて、人間が理性的な探求の原理を人間の実存という大いなる問いにふりむけた時代となった、とヤスパースは言う。
彼の見るところ、中国、インド、地中海というこれら世界の偉大な地域において、懐疑論から観念論にいたるまで、おどろくほど類似性のある哲学潮流があらわれた。
事実、それぞれの文脈において、哲学者たちは、宇宙、精神、行為の本性、および人間存在の諸目的について、あらゆる主要な立場を同時に発展させており、それらはいまにいたるまで哲学的議論の実質を形成し続けている。
(本の中では、少し隔たった位置に書かれているが、枢軸時代の思想の発展にはつぎのことも大きな契機となっているはずである)
枢軸時代の思想が発展していたまさにその時代に暴力の水準がどれほどのものだったか。……フェニキア人都市の運命は教訓的である。なかでも最も豊かだったシドンは、前351年の反乱後、ペルシア皇帝アルタクセルクセス3世によって破壊された。シドンの住民4万人は降伏より集団自決を選んだと伝えられている。その19年後、テュロスは、アレクサンダー大帝による長期にわたる包囲攻撃の末、破壊された。戦死者は1万人をかぞえ、生存者3万人は奴隷として売り飛ばされた。カルタゴはもう少し長く存続したが、前146年にローマ軍によってその都市が破壊されたさいには、数十万のカルタゴ人が暴行を受け、虐殺され、5万人の捕虜が競売にかけられたあと、都市そのものが消滅させられ、その跡地には塩がまかれたといわれている。
[硬貨鋳造の開始について]
ピタゴラスや孔子、ブッダが生きた時代が、鋳貨の発明された時期にほぼ対応している。……硬貨がはじめて発明された世界の3カ所は、まさにこれら賢者たちが活動したその地でもあった。事実、中国の黄河周辺の諸王国や都市国家、インド北部のガンジス川流域、エーゲ海沿岸部といったそれらの地域は、枢軸時代の宗教的・哲学的創造性の震源地であった。
その関連性はなんだったのか?「硬貨とはなにか?」と問うことからはじめた方がよいだろう。
世界初の硬貨は、前600年頃に西部アナトリア(現トルコ)のリュディア王国で作られたとものだといわれている。……最古のものは、いくつかの文字が刻まれただけで、一般の宝石細工人によって鋳造されていたようだ。
それにとってかわったのは、新たに設立された王立造幣局によって鋳造された硬貨であった。アナトリア半島沿岸地帯のギリシア人都市国家が、まもなくみずから硬貨の鋳造にのりだし、それらはその後ギリシア自身でも採用されるようになる。前547年にペルシア帝国がリュディアを併合したあと、帝国内でもおなじことが起こっている。
インドでも中国でも同様のパターンが観察される。民間人が鋳貨を発明し、国家がすぐさまそれを独占するようになったのである。
この3つの地域には、それぞれ数多くの小国家が存在していた。それは多種多様な通貨制度が存在していたことを意味する。……諸国はすべて、どれほど小さくても独自の公式通貨の発行を熱心に推進している。硬貨の素材である金、銀、青銅は、長期にわたり国際貿易の媒体だったが、この時代までそれを手にしていたのは富者のみだった。
どういうわけか枢軸時代に、こうした事態がいっせいに変化をはじめる。……それらは神殿および富裕層の邸宅からとりだされ、ふつうの人びとの手に渡り、小さな断片へと分解され、日常の取引で使用されはじめたのである。どのようにして?
イスラエルの古典学者デヴィッド・シャップスによる提案が最も妥当なものである。すなわち、そのほとんどは盗まれたのだ、と。この時代は戦争が一般化した時代である。そして、戦争の性質上、貴重品は掠奪されるものである。
アルカイック期のギリシア、ジャナパダ勃興期のインド、戦国時代の中国の不断の戦争状態は、市場取引、とりわけ、通常は少量に限定されていた貴金属の交換にもとづく市場取引の発展にとって、強力な推進力であった。略奪によって貴金属が兵士たちの手に渡れば、市場がそれを住民に浸透させることになる。
枢軸時代には、……中国、インドそしてエーゲ海沿岸に共通した新しい現象がみられた。貴族の戦士とその家臣ではなく、訓練を受けた職業軍人によって編成された新種の軍隊の隆盛である。
訓練された傭兵の軍隊は、放っておいてかまわないホメロス的な従者とはちがって、それなりに価値ある報酬を必要としていた。
おのおのに掠奪品のわずかな分け前を分配することは、出てきて当然の解決策であったようにおもわれる。
諸国家は、これら「掠奪品である]金属塊を純正の貨幣に転換する必要があった。その大きな理由は単純に(硬貨の)生産能力である。
日常的な取引で人びとが使えるだけの量の硬貨を作るためには、地元の商人や鍛冶屋の能力をはるかに超える大量生産を必要とした。
なにゆえ国家がそれを領導したのか、わたしたちはすでにみた。市場の存在が国家にとってきわめて好都合だったからである。
たんに大規模な常備軍への支給がそれによって簡便になるからだけではなかった。以後、国家発行の硬貨のみを報酬、礼金、税金として受け入れると布告することによって、国家は、後背地にすでに存在していたおびただしい社会的通貨を圧倒し、統一的な国内市場のようなものを確立することができたのである。
[鋳貨と軍事力、そしてこの前例なき思想の噴出のあいだにひそむ関係とはいかなるものだったのか?]
<地中海世界>
アテナイとローマを比較すると、ただちに顕著な類似性が眼を惹く。どちらの都市も、度重なる債務危機とともに歴史がはじまっている……最古の危機は通貨の出現に先行しているようだ。どちらの場合も、鋳貨はむしろ解決策となった。
(債務危機における)負債をめぐる抗争には、2つのありうる帰結があった。
第一は、貴族が勝利し、貧民が「金持ちの奴隷」にとどまる――「金持ちの奴隷」が実際に意味するのは、大多数の人びとが富裕なパトロンのクライアントと化してしまうということである。このような国家は、一般的にいって軍事的に無能である。
第二は、民衆の叛徒が優勢になり、土地の再分配や負債懲役制度禁止のように、よくみられる民衆によるプログラムを制度化することで、自由農民の階級的基盤を創出するというものである。これによって、その子息たちは、戦争の訓練に多くの時間をふりむける自由をうることになる。
鋳貨はこの種の自由小農民階級を維持するうえで決定的な役割を担った。負債による拘束によって大領主に束縛されることなく、土地所有を保証されたのである。……金、とくに銀は、戦争で獲得されたか戦争で捕虜にされた奴隷によって採掘されていた。
都市国家は硬貨を配給するおびただしい方法を発展させていった。……民衆一般にまで普及した。
おなじ硬貨について、国家に対するあらゆる支払いの法定貨幣であると公布することで、市場を発展させるに十分な需要の対象になることを保証した。
こういった事態の全体を可能にしたのは奴隷制であった。
ジェフリー・インガムは、その結果としてあらわれた制度を「軍事=鋳貨複合体」と呼んでいる。だが、わたしは「軍事=鋳貨=奴隷制複合体」と呼ぶ方が適切だと考える。
アレクサンドロス大帝は、ペルシア帝国の征服にあたって、兵士たちに支払い食べさせるための金銭のほとんどを借用した。
遠征軍兵士には「支払い」、しかも高額な支払いが必要である。
当然、古代の鉱山で働いていたのは奴隷たちであった。そして鉱山で働く奴隷のほとんどが、戦争捕虜であった。
アレクサンドロスは、古代の信用制度の残滓を一掃した人間であった。
信用システムの基盤であったバビロンおよびペルシアの神殿の金や銀の備蓄を脱宝物化し、さらに新 政府への税金はすべてわれの発行する貨幣でもって支払うべし、と指令した。
ヘレニズム諸王国は、ギリシアからインドにいたるまで、国軍ではなく傭兵を採用した
ギリシアの民衆叛乱と、エジプトやメソポタミアで典型的に試みられた大脱出の戦略のはざまに位置する興味深い中間点である。
ここでも貴族たちは、最終的に決断をせまられた。
「農業貸付を利用して、平民を徐々に貴族の地所に緊縛された労働者の一階級に転換させるか」
「債務者保護にかんする大衆的要求を呑み、自由農民という地位を維持させ、自由民たる農家の年下の方の息子たちを兵士として雇いあげるか」
実際には元老院階級に帝国主義的路線を選択させるべく強要しなくてはならなかった。
このような展開のなかで、時がたつにつれ元老院は、少なくとも戦利品の分け前を、兵士と古参兵とその家族に再利用する福祉制度を確立していったのである。
ローマで硬貨鋳造がはじまったと推定される前338年が、債務労働がついに違法化された前326年とほぼ同時期であることは意味深いようにおもわれる。
くり返すが、戦利品から造出された鋳貨は、危機の原因ではなかった。それはむしろ、解決策として使用されたのだ。
その歴史のほとんどを通じて、硬貨の使用は帝国内の二つの地域に極度に集中していたのである。イタリア半島といくつかの主要都市、および軍団が配置されていた辺境/前線である。鉱山も軍事行動もない地域では、旧来の信用制度が運用されつづけていたようだ。
ギリシアにおいても、ローマ同様、軍事的拡大を通じて債務危機を解決しようとする試みは、結局いつも問題を回避する方途にしかならず、それが効果をもった期間はかぎられていた。拡張が止まると、すべてが以前の状態に戻っていった
ギリシア世界においてさえ、多数の人びとが実際に農奴や隷属平民の地位に貶められている。
共和政後期においては、自暴自棄になった債務者によって策定された陰謀や謀議の記録が残っている。その多くは、冷酷な債権者のおかげで貧民と手を組むまでに追いつめられた貴族たちであった。
自由農民はおおかた根絶されたのである。帝国末期には、完全に奴隷というわけではない地方在住のほとんどの人びとは、実質的に、富裕な領主の負債懲役人と化していったのである。
軍隊の基盤となる自由農民がいなくなった。
<インド>
さまざまな側面からみて、インドほど古代地中海世界とは異質である文明はみあたらない。ところがそこにも、同一の基本的なパターンが顕著なほどみられるのである。
その新しい文明は、ガンジス川以東をかこむ肥沃な平野に集中した。ここにもまた、武装平民と都市の民主的集会が支えるかの有名な『クシャトリヤの諸共和国」から、選挙君主制、あるいはコーサラ国やマガタ国といった中央集権的帝国にいたるまで、さまざまの政体の混在がみられる。
(将来ブッダとなる)ゴータマも(ジャイナ教の開祖となる)マハーヴィーラも、それぞれこれらの共和国のうちのひとつで生を受けたが、双方とも最終的には巨大帝国のなかで教えを説くようになった。
帝国の支配者たちは、しばしば放浪の修道者や哲学者のパトロンとなった。
その起源はさておき、硬貨と市場の登場は、ここでもまた、なによりもまず戦争機構をまかなうことを目的としている。
戦争から生まれた市場経済が徐々に政府によって乗っ取られていった。この過程によって通貨の拡大は抑制されるどころか、2倍にも3倍にもなったようだ。
政府は、穀倉庫、工房、商館、倉庫、牢獄を計画的に設置し、有給の役人を配置する。次に、あらゆる生産物を市場で売りに出し、兵士や役人に支払われた銀貨を集め、ふたたび王室の国庫に戻すのである。その結果は日常生活の貨幣化であった。
動産奴隷制にも似たような事態が起きていたようだ。動産奴隷制は強力な軍隊が擡頭する時代には日常化する傾向がある
アショーカ王の改革について考えることが有益なのは、わたしたちのいくつかの基本的なおもい込みがどれほど誤っているかがあきらかになるからである。とりわけ、貨幣と硬貨とはおなじものであり、流通する硬貨が増加すれば交易も活発になり、民間商人の役割が大きくなる、というおもい込みである。
商人たちの利害は、アショーカ王の改革を完全に支持していた。ところがその結果、日常的取引における現金の使用が増加するどころか、まったく反対の事態がもたらされたのである。
仏教は、その貴金属への懐疑にもかかわらず、信用協定に対しては常に寛大な態度をとってきた。
宗教運動にとって、暴力と軍事主義を拒絶するが商業には反対しないという姿勢は完璧に理にかなっていた。
アショーカ王の王国は長つづきせず、より弱体でおおよそより小規模な諸国家の交替がみられるが、そのあいだにも仏教は根づいていった。
大がかりな軍隊の衰退は、いずれ鋳貨のほとんど全面的な消失につながった。それとともに、さまざまなかたちの信用が開花して、時を追うにつれ洗練をみせていくのである。
<中国>
最終的に国家は秦によって統一されるものの、この王朝はただちに大規模な民衆蜂起の連続によって滅亡し、漢王朝(前206―後220年)が取って代わる。
彼(漢の建国者、劉邦)はその後およそ1000年にわたってつづく儒教思想と科挙制度、文治主義を採用した中国初の指導者となった。
中国哲学の黄金時代は統一前の混乱の時代であり、典型的な枢軸時代のパターンを踏襲している。すなわち、分裂した政治情勢、訓練を受けた職業的軍隊の勃興、主にその支払いのための鋳貨の創出である。
それに加えて、市場の発展を刺激するために設計された政府の政策、中国史において後にも先にも匹敵する規模のない動産奴隷制、遍歴の哲学者および宗教的預言者たちの出現、知識人諸学派の抗争、そしてそれにつづいて、新しい哲学を国家宗教に変容させようとする政治指導者たちによる試みが観察されるのである。
金や銀の硬貨を鋳造したことはなかった。商人たちは貴金属を地金のかたちで使用していたが、実際に流通していた硬貨は基本的に小銭であった。
こうした現象に対する最も妥当な説明は、とくに統一後の中国の軍隊が巨大であったことである。
秦王朝および漢王朝の時代以降、支配者たちは、みずからの軍隊が独立した権力の基盤とならないよう、その状態を維持するように注意を払っていたのである。
中国の新しい宗教および哲学運動は、そもそもはじめから社会運動であったという大きな差異がある。別の場所では、むしろ、徐々にそうなっていったのである。
中国においては、戦国時代に開花した「諸子百家」の創始者の多くが、諸侯の関心を惹かんとして都市から都市へと移動して日々をついやす放浪の賢者たちであった一方、最初から社会運動の指導者だった者たちもいた。
農民知識人によるアナキスト運動であった農家は、国家間の裂け目や亀裂に平等主義的共同体を形成しようと試みている。墨家は、都市部の職人を社会基盤としていたようだが、平等主義的合理主義者で、戦争と軍事主義に哲学的に反対するだけでなく軍事技術者の部隊を組織し、どの戦争においても侵略に抵抗する側に志願することで、積極的に紛争を妨げてきた。宮廷儀式を重んじる儒家でさえ、その初期においては、主要には民衆教育に割いた努力によって知られていたのである。
<唯物論1 利潤の追求>
枢軸時代は人類史においてはじめて、書き言葉を学ぶことがもはや聖職者と官吏と商人に限定されることなく、市民生活に十全に参加するうえで不可欠になった時代である。アテナイにおいては、まったくの文盲は田舎者のみであるという見方が常識であった。
大衆の読み書き能力なしに、大衆的知識人運動の出現も、枢軸時代の思想の拡がりも不可能だっただろう。
市場の成長もまたひとつの役割をはたしていたことはうたがいない。お決まりの地位や共同体の足枷から人びとを解放する手助けをするのみならず、投入と産出あるいは手段と目的を予測する合理的な計算のような慣習をも奨励したのである。
市場の勃興とともに、市場でだまされたくなければだれもが学ぶべき心得となったのである。(計算を含む合理的な考え方)
前3500年、シュメール人の農民および商人たちは、そのような計算術に完全に習熟していた。しかし、……数学的比率こそ宇宙の本性と天体の運動を理解する鍵であるとか、万物は究極的には数から構成されているといったふうに、ピタゴラスのように結論づけた者はだれひとりとしていなかったし、この認識の共有を基盤として秘密結社を結成して、討議を交わしたり追放したり破門し合ったりする、などといったこともなかったのだ。
なにが変化したのか理解するには、枢軸時代のはじまりに出現したある特殊な種類の市場にふたたび目をむける必要がある。すなわち、隣人さえも赤の他人のごとく扱うことを可能にした、戦争から生まれた非人格的な市場である。
人間経済においては、諸々の動機は複合的であることが想定されている。……とはいえ、ここには欠落しているものがあって、それは最大の自己中心的(「利己的)」)動機こそが必ずや真の動機であるという感覚である。
そこでは借用証書の価値は、発行人の手取り所得とおなじく、その人物の性格にも依存しており、さらに愛や妬みや自尊心などの動機が完全に無視されることもありえなかった。
見知らぬ者たちのあいだの現金取引はそれとは異なっていた。取引が戦争の最中に企てられ、かつ戦利品の処理や兵士への支給に関係する場合にはますますそうなった。そのようなときには売買される物品の来歴にこだわらない方が無難であるし、いずれにせよ継続的な人格的関係をつくることに関心をもつものなどもいない。ここでは取引というものは、端的にある量のXがどの量のYに相当するかを定める計算と化してしまっている。すなわち、比率の計算、品質の評価、最大の利益を獲得しようとする企図に還元されているのである。
枢軸時代には人間の動機についての新しい思考法が生まれる。すなわち動機の根本的な単純化であって、それが「利益」や「優位性」のような概念について語りはじめることを可能にするのである。
そして次のような想像をめぐらせることも可能になる。人間が本当に追求しているものは、いついかなるときもそれ「利益、優位性]である、と。
まさにこれ[動機の根本的単純化]こそ、人間の生を手段と目的の計算の問題に還元できるものであるかのように、天体の引力と斥力の研究とおなじ方法で検討できるようなものであるかのように、おもわせてしまうのである。
貨幣、市場、国家、軍事が、すべて内的に結合している時代にあっては、貨幣はなによりもまず軍隊への支払いに必要だったという違いがある。貨幣を生産するための金が必要である、金を採掘するには奴隷が必要である、奴隷を捕獲するためには軍隊が必要である、その支払のためには貨幣が必要である、というわけだ。
利己的な目的が平和的な手段によって実現可能であるとはだれも想像だにしなかったのである。こうした人間性についての理解が、おどろくべき一貫性をもってあらわれはじめたのは確実である。
孔子の時代にすでに、中国の思想家たちは利潤の追求こそが人間が生きるための駆動力であると語っていた。
この時代に生まれた国政術についての数多くの手引きでは、あらゆる事象が以下のような観点からとらえ返されている。すなわち、利益と優位性の認識、統治者の利益と民衆の利益との比較衡量法、統治者の利益が民衆の利益と等しい場合と対立する場合とを見定める方法。政治学、経済学、軍事戦略から生まれた技術用語(たとえば「投資収益率」や「戦略的優位」などのように)が混ぜ合わされ、かつ重ね合わされているのである。
たとえ統治者がさして賢明ではなくそのことを自覚できないとしても。それでもなお、民衆を操作するのは容易であろう。というのも民衆の動機といえばみな、おなじだからである。
法家とおなじようにカウティリヤも、統治とはモラルと正義の追求であるという口実をでっちあげる必要性を強調していたが、統治者自身に語りかけるさいには「戦争と平和は利益の観点からのみ考慮されるべきである」と主張した。
都市国家さらには政治派閥さえ、まさに、インドのや中国の皇帝とおなじように冷たい計算づくの方法でふるまうようになっていた
もし、あなた方が貢租をささげる臣民たる意思がなければ大量虐殺をも辞さぬつもりである、それはわが帝国の利益なのである。
徹底した唯物論である。神と女神、魔術、神託、供犠の儀式、先祖伝来の祭式、さらにはカーストや儀式の位階制度さえも消滅しているか、脇に追いやられている。それらは、目的そのものとしてではなく、物理的利得の追求のために利用されるたんなる道具として扱われているのである。
このような理論をすすんで編みだそうとする知識人たちに君主が耳を傾けたことはおどろくべきことではない。この種の冷笑主義に憤慨し、これらの君主たちに対抗する民衆運動と共同戦線を張った知識人たちがいたこともおどろくべきことではない。だが、よくあるように、対抗的知識人たちはある選択をせまられた。すなわち、支配的な語彙を使用するか、その正反対を試みるのか。
墨家の創始者である墨子は、前者のやり方にしたがった。彼は「利」の概念を、「社会的効用」とでもいうべきものに転換させ、戦争自体、定義からして利のない活動であることを示そうとした墨子の結論は、人間や動物の殺戮と物質的損害を合計するなら、勝者にとってさえそれが利益を上回ることは決してない、ということであった。それどころか、墨子はこの論理をつきつめて、人間全体にとっての利益を最適化するただひとつの方法は、私的利益の追求を完全に放棄し、彼が「兼愛」と呼ぶ原理を採用することであると主張した。
市場交換の原理をその論理的帰結にまでつきつめれば、ある種のコミュニズムに行き着くほかにないと論じているのである。
儒家は、そもそもの前提をしりぞけ、[墨家とは]反対の途をたどっていった。
とはいえ、その終着点はおおよそおなじである。儒家が理想とする[仁]、つまりひとの慈悲心とは、基本的に、利益計算の、墨子の兼愛[普遍的愛]よりも徹底した反転であるにすぎない。
礼の技法とでも呼びうるものを重視しながら、儒家は計算それ自体への反感をつけ加えている
これらすべては、それぞれが市場の論理を反転させた鏡像を提示しようとする試みであった。ところが、つまるところ鏡像とは反転した同一物にすぎない。
いずれの場合もほどなくして、わたしたちは二項対立のはてしなき迷宮に捕縛されるのである。
[利己主義]対[利他主義]、[利潤]対[慈愛]、[唯物論]対[唯心論]、[計算]対[自発性]――いずれも、純粋な、計算づくの、利己的な市場取引から出発した者以外には、そもそも想像しうるはずもないものだった。
<唯物論2 実体>
中国において哲学は、倫理についての議論にはじまり、そのあとはじめて宇宙の本質についての思索に変容したという意味で異色である。ギリシアとインドにおいては、宇宙についての思索が先行していた。だがどちらにおいても、物理的宇宙の本質についての問いは、ただちに精神、真実、意識、意味、言語、幻想、世界精神、宇宙的知性、人間の魂の運命についての思索に道をゆずった。
人類学者たちは、それまでこの種の対話に参加したことがなかった人間が、はじめて枢軸時代の諸概念にさらされたときどのように反応するかを観察できるという独自の強みをもっている
カトリック宣教師モーリス・レーナルトは、ニューカレドニアで福音を説くことに長年をついやしていたが、920年代にそういった契機を経験した。彼の教え子のひとりであるボースーという名の年配の彫刻家に、精神的[霊的]な諸観念に接してどう感じたかたずねたさいのことである。
かつて、わたしが長年教えを説いてきたカナック人たちの心の発展を理解しようとして、以下のように示唆してみた。
「つまり、わたしたちは、きみの思考に精神という考えを手引きした、ということになるかね?」
彼は反論した。「精神?そんなばかな。あんたがもってきたのは精神なんかじゃない。精神が存在することぐらいわれわれはすでに知っていた。われわれは常に精神にしたがって行動してきた。あんたがもってきたのは肉体だよ」。
彼にとって衝撃的なまでに新奇で異質だったのは、神経や繊維の物質的集合にすぎない「肉体なるもの」が魂とはべつに存在するという考えであった。
枢軸時代の精神性は唯物論を基盤に構築されている。このことがその秘密なのである。わたしたちに不可視になったものといってもよいだろう。
もしそれを「理論」と呼ぶことができるならば、それは次の問いではじまる。「世界はどのような実体から形成されているか?」「この世界にある物体の物質形態の背後にある根元的な素材はなにか?」「万物は一定の基本要素(大地、空気、水、火、石、運動、心、数…)の多様な組み合わせから成立しているのか?あるいは、こういった要素もより根本的ないくつかの物質(たとえばニヤーヤ学派や、のちのデモクリトスが提唱したような微小の原子…)のとる諸形式なのか?」
リュディア王国ではじめての硬貨が鋳造、イオニア地方にたちまち拡がった。最大規模のものは巨大城塞都市であるミレトスで、独自の硬貨を造出したギリシア初の都市。ギリシア人傭兵の大部分を供給していたのもイオニアで、ミレトスが実際の司令部であった。ミレトスはその地域の交易の中心であり、おそらく、日常的な市場取引が信用ではなく主要に硬貨でおこなわれるようになった世界初の都市であった。
ギリシア哲学は3人の男によって開始された。――ミレトスのターレスとミレトスのアナクシメネスとミレトスのアナクシマンドロス――貨幣制度がはじめて導入されたまさにその時代に、その都市に生きていた男たち。
この3人はみな、世界の根源である物質的実体の本質にかんする思索によって主要に記憶されている。ターレスは水を提唱し、アナクシメネスは空気を提唱し、アナクシマンドロスは新語アペイロン(それ自体は知覚不可能だが、存在するすべての物質的基盤である純粋に抽象的な実体)を考案した。
3人に共通する発想は以下のようなものであった。このような第一実体が、熱せられ、冷やされ、結合され、分割され、加圧され、広げられ、動かされるとする。そうすることで、第一実体は、人間が世界で実際に遭遇する無限である個別の物体または実体を生みだし、そこから物理的対象が構成される――そして、それらすべての形態は、ゆくゆくはすべてそこにむけて分解されていく。
それはあらゆるものに変容しうるなにものかなのである。シーフォードが強調するように、貨幣がそうであった。
シーフォードにとって硬貨にかんして決定的に新しいことは、その二面性だった。すなわち、硬貨とは一片の貴金属であるとともに、それ以上のなにかでもあるという事実である。
硬貨は一片の金属である。だが、特定の形状を与え、言葉と像を刻むことによって、それを一片の金属以上のものにすることに、市民共同体は合意したのである。
だがこの力は無際限ではない。青銅の硬貨を永遠に使いつづけることはできない。鋳貨の品質を切り下れば、やがてはインフレが発生することになる。あたかもそこには、「共同体の意志」と「対象それ自体の物理的本質」のあいだに緊張関係が存在するかのようである。
かくしてギリシアの思想家たちは、突如として決定的に新しい種類の対象に、すなわち、桁外れに重要だが――かくも多数の男たちが手に入れようとして命の危険さえいとわないのだから――その本質が深い謎に包まれた対象に直面していたのである。
どのような唯物論哲学においてもそうであるように、ここで問われているのは、形式「形相」と内容および実体と形状の対立である。創造者/製作者の頭のなかにある観念、記号、紋章あるいはモデルと、物質の物理的特性のあいだの衝突なのである。
<精神>と<肉体>、高貴な<理想>と醜い<現実>、合理的知性とそれに抗う頑迷な肉体の衝動や欲望のあいだの戦争という発想、そして、平和と共同体は自然発生的に出現するものではなく、卑金属に刻み込まれる聖なる記章のように、よりいっそう基底的[卑近]な物質的本性上に刻み込まれる必要がある、という発想――こうした思想が、枢軸時代の宗教的、哲学的伝統につきまとうようになり……そして、これらの思想は、この新しい貨幣形式の本性にすでに刻み込まれているとみなしうるのだ。
枢軸時代の哲学のすべてが鋳貨の本質についての考察にすぎなかった、などと主張するのはばかげている。だがわたしは、鋳貨が危機的/批判的出発点だったと主張するシーフォードを正しいとおもう。
イデアとはなにか?それらはたんなる集団的慣習なのか?プラトンが主張したように、物質的実在の彼岸である聖なる領域に存在するのか?あるいは、わたしたちの頭のなかに存在するのか?あるいは、わたしたちの精神自体が、究極的にはこの聖なる非物質的領域の一部なのか?もしそうだとすれば、そのことは、わたしたちが、自身の身体ととりもつ関係についてなにを意味しているのか?
*****
インドと中国でも、議論のかたちこそ違えど、やはり唯物論が常に起点であった。
インドの王パーヤーシは次のような立場をとった。魂は存在しない、人間の身体は空気、水、大地、火の特殊な配合にすぎない、人間の意識はそれらの諸要素の相互作用の結果である、わたしたちが死ねばそれらの要素に分解するだけである。だがこのような考えは、あきらかにありふれたものだった。
枢軸時代の宗教さえ、おおよそ以前と以後の宗教にみられる超自然的な力への情熱をひどく欠いている。
しかしそれと同時に、なによりもこの時代から――制度的な観点からみて――生き延びてきたものこそが「世界宗教」といわれるものなのだ。
こうしてみると、ここにみられるのは奇妙な往復運動、攻撃と反撃ということになる。そんな動きによって、市場、国家、戦争、宗教のすべてが、たえず分離したり、あるいは結合しあうのである。可能なかぎり簡潔に要約してみよう。
(1)少なくとも近東においては、市場はまず政府の行政機構の副次的効果として出現したようだ。
時がたつにつれ、市場の論理は軍事的活動に巻き込まれていった。
最終的にその論理が、政府それ自体を征服し、政府の目的そのものまで規定するようになった。
(2)その結果、軍事=鋳貨=奴隷制複合体の出現する場所ならどこにおいても、唯物論哲学の誕生がみられるようになる。
聖なる諸力でなく物質的諸力から世界は形成されていること。
人間存在の最終的目的は物質的富の蓄積であるということ。
そこでは、徳性や正義のような諸理念も、大衆を満足させるべく設計された道具として再文脈化されていった。
(3)どこにおいても、こうした事態と格闘しながら、人間性と魂についての思想をつきつめ、倫理と徳性の新しい基盤をみいだそうとする哲学者たちがみいだされる。
(4)どこにおいても、こうした並外れて暴力的かつ冷笑的な新しい支配者たちと対決しながら不可避的に形成された社会運動と共同戦線を張る知識人たちがみられる。
そこから人類史にとって新しい現象が生まれた。すなわち、知識人の運動でもある民衆運動である。
このとき現存する権力装置に対立する人びとは、現実の性質についての特定の種類の理論の名のもとに対立するという想定があらわれたのである。
(5) どこにおいても、これらの運動は、政治の基礎としての暴力という新しい発想、とりわけ侵略的戦争を拒絶したがゆえに、なによりもまず平和運動であった。
(6) どこにおいても、非人格的市場によって提供された新しい知的道具を使って新しいモラルの基盤を考案してやろう、という初発的衝動があったようだ。そしてどこにおいても、それは頓挫した。
社会的利益という思想をもってその課題に応じた墨家は、わずかのあいだ隆盛をきわめたかとおもうと、たちまち瓦解した。
そして、そのような思想を全面的に拒絶した儒教が取って代わったのである。
モラル上の責任を負債の観点から再定義しようとする試みは……一様に不満を残すものであったようにみえる。
それよりいっそう強力な衝動が、負債が全面的に廃棄されてしまうような、もうひとつの世界を構想することのうちにはみられる。
だがそこでは、ちょうど身体が監獄であるように、諸々の社会的絆も束縛の諸形態とみなされてしまったのだ。
(7) 統治者の姿勢は、時ともに変化した。当初は、個人としては冷笑的な現実政治の諸説を信奉しながら、新しい哲学的、宗教的諸運動に対しては興味本意の寛容を示していた。
帝国が拡張の限界に達して軍事=鋳貨=奴隷制複合体を危機に引きずり込むにつれて、すべてが変化した。
インドでは、アショーカ王が仏教にもとづく王国の再建を試みた。
ローマでは、コンスタンティヌス帝がキリスト教に救いを求めた。
中国では、前漢の武帝が儒教を官学として採用した。
最終的に成功したのは武帝のみであった。
仏教は、(インドではなく)中国やネパール、チベット、スリランカ、朝鮮半島、日本そして東南アジアのほとんどで、より確固たる根をおろした。
(8) その最終的効果は、人間の活動領域の一種の観念的分断であって、それは今日までつづいている。すなわち、かたや市場、かたや宗教というわけである。
いずれにせよ枢軸時代の宗教が、それ以前には存在しないも同然だった慈愛の重要性をおしなべて強調したことは、まちがいなく重要である。
純粋な貪欲と純粋な寛大とは相補的な概念なのである。どちらも他方抜きでは想像することすらできない。
双方とも、非人格的で物理的な銭貨が姿をあらわす場所であればどこでも、そろって出現しているようにおもわれる。
宗教運動については、現実逃避者であると決めつけるのはかんたんである。……だが、問題はより複雑である。そもそも、現実逃避についてはそのような見方ですむようなものではない。
古代世界における大衆反乱は、たいてい叛徒の虐殺に終わった。
大脱出や離脱といった物理的逃避は、わたしたちの知る最も古い時代から、抑圧的な条件に対する最も効果的な応答でありつづけてきた。物理的逃避が不可能な場合、抑圧された農民はいったいなにをすべきだろうか?
少なくとも、彼岸的な宗教は、根本的なべつの世界を垣間みさせてくれた。それらはしばしば、この世界における別世界を創造すること、なんらかの解放空間を創造することを人びとに可能にしたのだ。
古代世界で奴隷制の廃止に成功した人びとは、エッセネ派などの宗教的宗派だけだったことはまちがいなく意味深い。
これら諸運動のはたした大きな歴史的達成は、事実上、無意味なものではなかった。それらが定着するにつれ、事態は変化をはじめたのだから。戦争は以前よりも残忍さの度合いを低減させ、頻度も減少させた。奴隷制は制度としては衰弱していき、中世には、ユーラシア大陸のほとんどで存在意義を失うか、存在しなくなるまでにいたった。負債がもたらしてしまった社会の崩壊に、すべての場所で等しく新しい宗教的権威たちは真剣な取り組みを開始したのである。
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