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デーヴィッド・グレーバーの『負債論』――貨幣と暴力の5000年――を読み直している。読み直さずにはいられないほど重要な本だと感じた。この本は、あらためて「人間」とはいったい何なのだろう、どういう存在なのだろうという問題を考えざるを得なくさせてくれる。ここでは、特に考えさせられる部分について書き記しておきたい。したがって、これはこの本の要約ではない。著者が伝えたいことが抜けている可能性も多い。なお、およそ600ページの本であり、また、考えさせてくれるエピソードも多すぎるので、折に触れて、少しずつというかたちになる。まずは「第1章 モラルの混乱の経験をめぐって」について。なお、グレーバーは経済学者ではなく、人類学者である。
「IMF(国際通貨基金)は、基本的に世界の借金取立人の役割を担っている」「借金を返さないと痛めつけに押しかけてくる連中の高級金融版だといってもいい」とグレーバーは言う。どういうことだろう。
1970年代の石油危機で生まれたOPECの莫大な金が西側の銀行に流れ込んだ。銀行はその投資先が見えず、第三世界諸国に金を借りるように説得した。最初は低利融資であったが、1980年代初頭のアメリカの金融引き締め政策で金利は即座に20%近くまで上昇した。そのことが1980年代と1990年代を通じて第三諸国に債務危機を招いた。
そこでIMFが介入し、再融資と引き換えに、貧困国に対し、基礎食品の価格維持政策や戦略的食糧備蓄の放棄、無償の教育および無償の健康保険の放棄を要求した。その結果、地球上で最も貧しく、最も脆弱な人々のための最も基本的な支援の解体を引きおこす。その結果として生じたのは貧困、公共資源の略奪、社会の崩壊、暴力の蔓延、栄養失調、絶望、生活破たんである。
このようなグレーバーの話に対し、反貧困団体のために法的支援をおこなっている財団で働いている女性弁護士は言う。
「でも、彼らはお金を借りたのです!やっぱり借りたお金は返さないと」
この反応に、グレーバーは戸惑ってしまう。この出来事をプロローグとしてこの長い『負債論』が始まる。
IMFに関して、グレーバー自身がマダガスカル高地に2年ほど滞在していたときに経験したことも紹介されている。
現地でマラリアの大流行があった。しかし、その対策のための費用を政府は捻出できなかった。理由はIMFに押し付けられた緊縮財政政策である。そのため、1万人近くの人々が死亡した。どうみても収支にさしたる影響もなさそうな損失を認めたくないシティバンクを救うためにである。
また、つぎのような事実も示される。
先の第三諸国が受けた融資は、独裁者によって引き出され、そのほとんどが独裁者自身のスイスの銀行口座に直接振り込まれてしまった。そして、飢えた子供たちの口から食べ物をはく奪することによって借金が返済されている。しかし、融資された資金を自分のものにしてしまった独裁者とその取り巻きのふところは痛まない。これら貧困国の多くが現時点ですでに借用分の3倍から4倍の金額を返済しているにもかかわらず、複利のミラクルによってほとんど元金さえ減っていない。
これを読んだとき、アルゼンチンの大統領府が2014年6月、日本やアメリカの新聞に出した全面広告を思い出した。表題は「アルゼンチンは債務返済を継続したいが、継続させてもらえない」というもので、内容はつぎのようなものであった。
2001年、アルゼンチンはデフォルト(債務不履行)に陥った。その負債額は1000億ドル以上(アルゼンチンのGDPの1.6倍以上)であった。2003年以来、アルゼンチンが行なったすべての債務交渉に共通する前提として、経済成長をかかげ、それによって支払債務履行の財源を創出することになった。そして、成長を続け、IMFへの債務は完済し、投資紛争解決国際センターの最終裁定に関して債権者と合意にこぎ着け、米州開発銀行、世界銀行、アンデス開発公社といった国際機関に対する義務も完全履行し、最近ではパリクラブ(主要債権国会議)と7年間の返済計画について合意し、さらに、石油会社YPFの株式の51%以上の支配権を接収した件に関してREPSOLへの賠償も終えた。
最も複雑な問題は債権者数千人(810億米ドル相当)との合意であったが、アルゼンチンはこれにも成功した。長い交渉を経て、債権者と協議し、信義則を適用した末に、デフォルト債の証券をヘアカット(元本減免)した長期低金利の新国債と任意交換することで合意し、それによりアルゼンチンの支払債務履行が持続可能になった。2003年以来、アルゼンチン国民が一丸となって努力した結果、再編された債務全てについて1900億ドル以上の元利支払いを期限通りに、国際金融市場にアクセスすることなく行なってきている。
ところが、一部の貪欲な投資ファンドが、この再編に合意せず、金利やペナルティを含む全額の支払いを求めて、ニューヨーク州南部連邦地裁に提訴した。この裁判は最高裁まで争われたが、アルゼンチン側が敗訴した。その結果、先に合意をしていた92.4%の債権者への支払いができなくなった。
この投資ファンドは「米共和党のキングメーカー」の異名をとるポール・シンガーという人物が率いており、破たん国家をターゲットに大もうけをしているという。2008年(アルゼンチンがデフォルトに陥ったのは2001年)に、元本6億1700万ドルのアルゼンチン債権を購入した。デフォルト債であり、額面の30%くらい=約1億8000万ドル(もっと安く購入したという説もある)で購入している。敗訴したアルゼンチン政府はそのファンドに22億8000万ドルを支払った。投資額の12.6倍のリターンを得たわけである。なお、このために、アルゼンチンは2014年、再びデフォルトに陥っている。
アルゼンチンの話も含め、このハイエナのようなファンドについては、黒木亮氏の「破綻国家にたかる訴訟型「ハイエナ」ファンドのエグすぎる手口――狙われたら骨の髄までしゃぶられる」というコラムに詳しく述べられている。
グレーバーに戻る。IMFの話だけではない。2008年のリーマンショックについても、その内実が明かされる。
2008年9月に金融危機がはじまり、世界経済全体がほとんど悲鳴をあげ停止するにまでいたった。過去10年ほどのあいだに聞かされてきた話(最新の金融イノベーションのあれこれ)がとんでもない虚言であることがさらけ出された。
* 最新の金融イノベーションのあれこれ:クレジット・デリバティブ、コモディティー・デリバティブ、モーゲージ担保証券デリバティブ、ハイブリッド証券、債務スワップなど
ほとぼりがさめるにしたがって、その多数が念の入った詐欺以外のなにものでもないことがあきらかになった。ゆくゆくは債務不履行が不可避になるように仕組まれたローン契約を貧しい家庭に売りつけるような操作がその内実であった。
それらの借り手が債務不履行におちいるまでにどれだけかかるかに賭けること、ローンと掛け金をひとまとめにし、どのみち儲かるとうそぶきながら、機関投資家に売り飛ばすこと、こうした操作によって、投資家たちは証券化されたパッケージを貨幣のように流通させることができた。
その掛け金への支払い責任を巨大保険コングロマリットに転嫁し、確実にそうなることが予想された状態、すなわち負債の重みに沈みそうな状態になったら、納税者総体による救済が行なわれた。そのコングロマリットが救済された。
その事実が露呈したとしても政治家や官僚が手を尽くして損害を弁済させてくれるであろうことを承知の上で、まったく無責任な融資を行なったということである。しかも、どれだけ多くの人々の生活が壊滅的に破壊されようと素知らぬ顔で。
このたびの銀行家たちは、もはや想像を絶する規模(その負債総額は世界中すべての国のGDPの合計を上回った)でそれを行なったという点が1970年代後半とは異なっている。
軍隊と警察は予想される暴動と騒乱への弾圧にすばやくそなえた。(ひとまずはなにも起こらなかった)
合衆国は3兆ドルを緊急救済につぎこんだが、改革にはいっさい手を付けなかった。銀行は救済された。一方、わずかの例外を除き、小規模債務者は救済されなかった。それどころか、救済を受けた金融企業が、法律をふりまわし、財政困難に陥った一般市民を罰するように促している。借金を返済できない人々が毎日投獄されている。2010年1月には、イリノイ州ケニーの男性に貯木場への債務300ドルを工面するまで無期限収監が言い渡された。(債務者監獄の復活)
「軍隊と警察は予想される暴動と騒乱への弾圧にすばやくそなえた」ということは、その内実が明らかになれば、「暴動と騒乱」は避けられないと、その内実を知る人たちが考えた、つまり、それほどのことをしていたことになる。
「でも、彼らはお金を借りたのです!やっぱり借りたお金は返さないと」ということが、モラルであり、正義であるなら、その内実が明らかになれば、「暴動と騒乱」は避けられないようなことをしていた人たちはどうなのだろう。彼らは救われた。その彼らが「法律をふりまわし、財政困難に陥った一般市民を罰するように促している。借金を返済できない人々が毎日投獄されている」。これがこの世界の実態である。
さらに、こんなことも述べられている。
1980年代からアメリカは自国の負債を膨張させる。軍事費である。その債権(財務省長期債券=Tポンド)は、ドイツ、日本、韓国、台湾、タイ、湾岸諸国が持つ。それらの諸国は重装備の米軍基地(赤字財政支出の原因そのもの)によって覆われている。
これら諸国がTポンドを買うのは、貢納ではなく融資だとみなす理由は、本当に起きている現実を否認すること以外にない。
銃をちらつかせて1000ポンドのみかじめ料を要求するギャングと、銃をちらつかせて1000ポンドを貸してくれと要求するギャングとの違いは何か。前者は貢納、後者は融資となる。
つまり、ドイツ、日本、韓国、台湾、タイ、湾岸諸国がアメリカの債権を買い、アメリカの軍事費を支えていることになる。これらの国はアメリカに貢物を納めているわけだが、それを融資と呼ぶことで、その事実を覆い隠しているということである。
いままたIMFはつぎのように警告している。その警告は正しいとグレーバーは言う。
もし経済がいまのままの歩みをつづけるならばなんらかの破たんは不可避であるし、その場合、もはや緊急救済はありえないであろう。だれもそれにもちこたえられるはずもなく、その結果、ついにすべてが瓦解してしまうだろう。
つぎの一節は、いまの世界の一面の本質を言い表しているのではないだろうか。
負債とは何かについてわたしたちが理解していないという事実そのもの、あるいはこの概念の融通無碍であることそれ自体が、負債の力の基盤である。もし歴史の教えというものがあるとしたら、暴力に基盤を置く諸関係を正当化し、それらをモラルで粉飾するためには、負債の言語によってそれらを再構成する以上に有効な方法はないということだ。
マフィアや侵略軍の司令官はこれを理解している。「おまえたちはおれたちに借りがあるのだ」「生きていられるのもおれたちのおかげだ」「なぜなら、殺されずにすんでいるのだから」
この世界は暴力に基盤を置く諸関係を持つ。それを、わたしたちが理解していない「負債」という、融通無碍な概念で、モラルの関係として再構成することによって、覆い隠し、人々が受け入れざるを得ないものとしているということである。
グレーバーは言う。
「借りたお金は返さなければならない」という言明は実質的には経済的な言明ではなく、モラルの言明であり、だからこそ強力なのだ。
ちなみに、グレーバーはこうも言っている。
「借りたお金は返さなければならない」という言明は、標準的な経済理論にとっても真実ではない。貸し手が、ある程度のリスクを受け入れることは大前提である。もし貸したお金と利子について、どんな手段を行使してでもすべて回収することが銀行に保証されているなら、システム全体が作動しなくなってしまう。」
こうして見てくると、「借りたお金は返さなければならない」ということがモラルとして正しいとすれば、この世界では、そのモラルに照らして、返すべき者が返さず、返す必要のない者が返しているように思われてくる。
この章の最後の節でグレーバーはこの後の展開を述べる。
本書が取り扱うのは負債の歴史である。だが本書は同時にその歴史を利用して、人間とはなにか、人間社会とはなにか、またはどのようなものでありうるのか――わたしたちは実際のところたがいになにを負っているのか、あるいは、このように問うことはいったいなにを意味するのか――について根本的に問いを投げかける。
そのために、経済および社会の本性についてのわたしたちの共通感覚 [常識] の基礎を形成しているもろもろの神話――物々交換の神話、それに対抗する神々や国家への原初的負債という神話――を穿つことからはじめる。
この本によって、わたしたちが持っているさまざまな常識が覆される。人は、自らが持っている知識や、経験を以って自らの世界観を築き上げる。わずかな知識と経験しか持たない人も、膨大な知識を持ち、多くの経験を積んだ人も、それぞれが、それぞれの世界観を築き上げる。知識には、当然、その社会で常識とされる知識も含まれ、その影響力は個人的知識より大きいはずだ。そうであれば、自らが持つ常識を覆されるということは、その人の世界観に大きな影響を与えることになる。その意味で、この本はわたしたちに大きな影響を与えるものである。
でも、わずかな知識と経験しか持たない人ほど、この世界は単純に見え、その世界観によってなんでも説明できるように見え、自分が何でもできるような万能感を持つ。したがって、知識や経験を増やすことにあまり意義を見出さない。だから、常識を覆されるような本に出合うこともない。当然、このような本に出合うこともなく、影響を受けない。結果として、その世界観は単純で、固定的になってしまう。
反対に、多くの知識や経験を持つ人は、その知識を増やし、経験を積むに従い、自身がいかに無知であるのか、経験不足であるかを実感として持つようになる。そして、世界の奥深さ、複雑さを理解するようになる。したがって、何事にも慎重になり、さらなる知識や経験を求めるようになる。
人は成長の過程で、わずかな知識と経験からスタートし、少しずつそれを増やしてゆくはずである。したがって、歳を重ねるほどに知識と経験は増えてゆくはずである。ところが、実際には、歳を重ねても知識や経験があまり増えず、それを積極的に増やそうという意欲も持たない人がいる。一方で、自らの無知や経験不足を認識し、積極的にそれを増やそうとしている人がいる。その違いはどこからくるのだろう。たぶん、生まれ持った資質、生まれた育った環境がその違いをもたらすのだろう。それは、やむを得ないことかもしれない。
でも問題だと思うのは、前者のような万能感を持った人が、多くの人に影響を与える地位につき、自らの狭隘な世界観で以って、この世界に強引に働きかけてゆくことである。政治家、増してや、そのトップがそのような人であったとしたら、その国民は悲惨である。安倍晋三という人はどうなのだろう。現在の日本の制度は、そのような種類の人が権力を得たとき、それをコントロールできるようなシステムになっていない。憲法を自らに都合のよいように勝手に解釈したり、税金を使ってお友達に便宜を図ったり、準強姦をはたらいた人を不起訴、無罪にしたり、都合の悪いことを国会で追及されるのが嫌で、追及する側の質問時間を減らしたり、そのようなことをしても、それをやめさせる有効な手段を持たない。それらがみんなまかり通ってしまう。ますます彼らの万能感=何でもできる感を増大させ、非常に危険だと思われる。
どうやら、『負債論』とは違う方向の話になってきた。次回は、「第2章 物々交換の神話」について書きたいと思う。
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