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前章では、社会的通貨(人間の間の関係を測定し、査定し、維持するために使用されるもの)を伴った人間経済が、どのようにして別のものに変質しうるのかを素描してみた。そこでわかったことは、純粋な物理的暴力の役割を考慮することなくそうした問題を考察することは不可能だというものだ。
アフリカの奴隷貿易の場合、この暴力はまずもって外部から押しつけられたものであった。その突発性、野蛮さが、別の時代と場所において、より緩慢で無計画に発生していたに違いない過程をいわば静止画としてわたしたちに見せてくれる。それは何故かと言うと、奴隷制が、いずれの地においても市場の発生に重要な役割を演じたと考えるに足る根拠があるからである。
そのような過程がより緩慢に発生すると、いったい何が起こるのか?この歴史のほとんどが永久に失われてしまったようだ。しかし、おおまかな概要を再構成することは可能である。そのための最良の方法は、ある奇妙で厄介な概念から始めることである。すなわち、「名誉」の概念である。
この概念は、ある種の遺物、あるいは象形文字ともみなすことができる。それは、時間の経過から守られた断片なのであって、わたしたちが理解しようと試みているほとんどすべての問いへの回答がそこに圧縮されている。
“ということで、名誉についての話になる。”
一方には暴力がある。兵士であれギャングであれ、暴力によって生きる男たちは、ほとんど不可避に名誉にとり憑かれている。そして暴力の行使が有無を言わさず正当化されるのは、名誉を傷つけられるときであるとみなされている。
他方には負債がある。名誉を借りる[負う]=「信用借り」(debt of honor)とか、借り[負債]に名誉を与える=「借りを支払う」(honoring one's debt)という表現がある。
このような[負債と名誉の]変化の表現には、義務から負債がどのようにして発生したかについての最良のヒントが見てとれる。あたかも名誉の概念には、たとえ負債を負っているにしてもそこで一番大切なのは経済的な貸借ではないのだ、という挑戦的な主張が反響している。
名誉という観念は名誉剥奪[不名誉]の可能性がなければ意味がない。それゆえ、この歴史の再構成は、自由とモラルをめぐる基本的な諸概念が、どれほどもろもろの制度――とりわけ奴隷制だがそれにかぎらない――の内部で形成されたかを明らかにしてくれるのである。
“ここで、オラウダ・イクィアーノという人物が紹介される”
彼は、1745年前後、ベニン王国領域内の農村共同体で生まれ、1歳のとき、自宅から誘拐され、その後ビアフラ湾で活動するイギリス人奴隷商人に売り飛ばされる。それから、まずバルバドス、次に植民時代のヴァージニアにあったプランテーションへと運ばれた。彼の自伝によれば、7年戦争のほとんどを、イギリスのフリゲート艦に火薬を運搬してすごし、自由を約束されては、剥奪され、いく人かの所有者に売り飛ばされたあと、ペンシルベニア州のクエーカー教徒の商人の手に渡った。のちにその人物のおかげで、イクイアーノは自由を買い取ることになる。晩年は、商人として成功をおさめ、ベストセラー作家および北極探検家となり、英国で指導的奴隷廃止論者として名をはせた。彼の雄弁術と伝記の影響力は、1807年のイギリスによる奴隷貿易廃止を導くうえで重要な役割を演じている。
若い頃の彼は、奴隷制への反対の姿勢をほとんど見せていないのだ。それどころか、短期とはいえ、自由の買い取り資金を貯めながらアフリカの奴隷購入の仕事に携わってさえいた時期もある。(なぜ?)
その答えはまさにこの男の誠実さに宿っている。なによりも名誉を重んじる男である。名誉とは、定義上、他者からどう見られているかに存在するということである。とすると、それを回復するために奴隷は、必然的に自分を取り巻く社会の規則と基準を身につけなくてはならないことになる。そしてそのことは、少なくともふるまいにおいては、名誉を自分から剥奪した当の制度について完全に拒絶することはできない、ということを意味している。
イクイアーノはその制度が完全に不正であることを熟知している。しかし、失われた名誉を回復し、誠実さをもってふるまう能力を取り戻すためには、その制度の条件に即してふるまわねばならない。ここではそれが痛ましさの極限にまで達しているのである。
歴史の大部分を通じて、奴隷たちが支配者に対して蜂起したときでも、奴隷制それ自体に対決することがほとんどなかったことの理由を考えるとき、このことは参考になるだろう。
(奴隷制は)少なくとも、不名誉なものでありかつ醜悪なものであるとは、常にみなされていたのである。奴隷制に近すぎる人々にも悪評がつきまとってきた。とりわけ奴隷商人たちは非人間的な冷血漢として蔑まれてきた。
ほとんどの人々は、私たちが今日戦争をみるように奴隷制をみてきたのである。まぎれもなく下劣な事業ではあるが、それを簡単に排除できると考えるのはナイーヴすぎる、という具合に。
“奴隷商人と同様、現代の武器商人(兵器産業)にも、それは当てはまるようだ。この世界では常にどこかで戦争(殺し合い)が続いており、彼らは死の商人として軽蔑されながらも、それによって大儲けをしている。兵器はとてつもなく高価な商品であり、惜しげもなく消費されては再生産されている。闇の世界で、麻薬取引によって儲けることは非難され、犯罪として罰せられるが、人を殺すための道具を作り、売って儲けることは、公には非難されず、犯罪にもならない。そして、それを当前のこととして、人々は受け入れている。”
【名誉とは過剰な尊厳[剰余尊厳]である】
“続いて、奴隷制とはいったい何だろうか?という問から、名誉の本質が語られる。”
この制度の広範な歴史調査を初めて行なった学者アリ・アブド・アル=ワヒード・ワフィというエジプト人社会学者が、1931年にパリでくだした結論:
奴隷制とは、ある人間固有の文脈から、つまり、人をその人たらしめているあらゆる社会関係から剥奪されるということの究極的な形式である。
自由人が奴隷に身を落とす経路:
(1) 強制力の法による。
A 戦争で降伏するか捕虜になる。
B 奇襲攻撃か誘拐の犠牲者になる。
(2) 犯罪(負債をふくむ)に対する法的処罰。
(3) 父権(父親による子どもの売却)を通じて。
(4) 自発的な自己売却を通じて。
戦争における捕虜は絶対的に正当であるとみなされる唯一の事例である。それ以外はどれも、モラルの問題がつきまとっている。
これらの状況すべてに共通しているもの:
人間が奴隷になるのは、さもなければ死ぬよりほかない状況においてのみである。
オルランド・パターソンは、『奴隷制と社会的死』という著作において、(奴隷が)かくも徹底的かつ絶対的に自身の文脈から剥奪されることが厳密になにを意味していたのかを明らかにしている。
奴隷制がそれ以外のあらゆる人間関係と異なるのは、それがモラル含みの関係ではないからだ、ということである。奴隷所有者は、それをありとあらゆる法的、家父長主義的言語によって飾りたてようとする。だがそれは虚飾にすぎず信じる者などいない。現実において、それは純粋に暴力にもとづく関係である。奴隷は服従しなくてはならない。彼を主人につなぎとめている純粋な力関係のみが唯一の大切な人間関係なのだ。
その結果、奴隷の状況は、徹底的な名誉剥奪の状況でもあった。同時に、主人にとっては、この他者から尊厳を剥奪する権能が名誉の基盤になる。
場所によっては奴隷たちを利益目的で働かせることさえしなかった。富豪たちが奴隷の従者の大群をはべらせていたのは、たんに自己の権勢の象徴をのみ目的としていた。
名誉を重んじる男たちには、完璧なゆとりの感覚と自己過信を併せ持つ傾向がある。そこには、命令する習慣と悪名高い心変わり、軽視および侮蔑に対する過剰な反応がある。そして何らかの「信用借り[名誉の負債]」が未払いのままであることが男(ほとんど常に男なのだ)の傷であり恥であるという自覚がともなっている。
名誉とは過剰な尊厳[剰余尊厳]であるということさえできる。権力、およびその危険性についてのこの肥大した意識は、まさに他者の力と尊厳を剥奪したことから、あるいは少なくともその剥奪が可能であるという認識から生じたものである。
名誉とは、最も単純な形式においては、短剣や剣で防衛されねばならない過剰な尊厳である(周知のように暴力的な男たちはほとんど例外なく名誉にとり憑かれている)
その結果、今日に至るまで「名誉」は矛盾する2つの意味をはらむことになった。
一方では、名誉を単純に誠実さ/高潔さとみなすことができる。イクィアーノにとって「名誉」が意味したものとは、まさしくこれであった。
彼の抱えた問題は、名誉が同時に別のことを意味することであった。そしてそれは、最初に人間を商品に還元するために必要とされる暴力にまつわるすべてにかかわっているものなのである。
こういったあれこれは、貨幣の起源にすべて関係している。最古の貨幣形式のいくつかは、まさに名誉と不名誉の基準として使用されていたようだ。つまり貨幣の価値とは、究極的には、他者を貨幣に変換する力の価値であった。
“ということで、つぎは「名誉対価」というもののお話に移る”
【名誉代価(中世初期のアイルランド)】
アイルランドの状況は(その初期の歴史の大半にわたって)、前章の終わりで見た数々のアフリカ社会の状況とそれほど異なっていない。拡大する商業経済の周縁に人間経済が居心地悪くとどまっている、これがアイルランドの状況であった。さらにいえば、奴隷交易が非常に活発に行なわれていた時期もあった。
アイルランドには鉱物資源が存在しない。そこでアイルランドの諸王は、外国からの奢侈品を牛と人間という2つの輸出品で購入していた。とはいえ、現存する記録が現れた最初期、つまり、600年前後には奴隷交易は消滅しており、奴隷制という制度それ自体が教会から厳しい非難のもとで衰退しつつあった。
(それでもなお)なぜクマル(=少女奴隷)が単位として使用されつづけたのか?さらに、なぜ女たちなのか?初期アイルランドには多数の男性奴隷が存在していた。それでも男たちを貨幣として使用した様子はないのである。
中世初期アイルランド経済について知られていることがらの大半は、法を典拠としている。その文書群は、例外的に豊かなものである。
当時のアイルランドではいまだに人間経済が支配的だった。市場らしきものはほぼ皆無であったようだ。その結果、貨幣の使用は、ほぼ社会的な目的に限定されていた。ほとんどの日用品につては、価格のつけ方さえ知らなかった。だれもこういったものに金銭を支払っていなかったようにみえる。物品そのものが売りに出されることはなかったのである。
貨幣の貸付が行なわれることもあった。だが、それは主に罰金の支払いに用いられたものである。これらの罰金は、法典のなかで長々と仔細にわたって説明されているが、最も印象的なのはそれが注意深く等級づけられていることである。
この体系の鍵は名誉についての観念である。それは文字通り「面目」である。ある人物の名誉とは他者の目に映った尊敬のしるしであり、誠実さと高潔さと品位、かつあらゆる種類の不名誉や侮辱から自己と家族と従者を守る能力という意味の「力」でもあった。
ケルト人――なかでもアイルランド人――の制度において非常に異例であるのは、名誉が正確に数量化可能だったことである。どの自由人も、自分の「名誉代価」、つまり尊厳への侮辱に対して支払われるべき価格をもっていた。
名誉代価は贖罪金=生命の価格であると混同されてはならない。もしだれかがある男を殺害したなら、殺害者はそれを償うために7クマルに相当する財を支払う。そのうえでさらに(殺害によって)被害者の尊厳を傷つけたという理由により名誉代価が加算された。
障害のための支払いもあった。加害者は傷害の代償に重ねて名誉対価を支払う。最終的には、侮辱に対しても名誉対価の支払い義務が発生した。中世アイルランドでは名誉の価値が厳密に定められていたのである。
当時のアイルランドには、数千人の臣民を擁するおよそ150人の王がいて、その名誉対価は牛21頭であった。
諸地域を束ねる、より上位の王がいて、その名誉対価は一般的な王の2倍であった。
自由人の女性には、彼女に最も近い男性親族の半分の名誉対価が与えられた。
女性が独立した土地保有者の場合は、男性と同等の名誉対価が与えられた。
身持ちの悪い女性の名誉対価は0であった。
求婚者は妻の父親に妻の名誉対価を支払い、妻の後見人となる。
領主は一人の農奴を獲得するさい、その男の名誉対価を支払った。
その結果、領主は臣下の名誉を自分のものへと吸収し、名誉対価は上昇する。
一見したところ、貴族や王の名誉が奴隷(名誉代価ゼロの人間)によって評価されることは奇妙にみえる。だが個人の名誉が究極的には他者の名誉を取り上げる権能にもとづいているとすれば、これは完璧に理にかなっている。奴隷の価値とは、奴隷から取り上げられた名誉の価値であるからだ。
ウェールズのディメティアン法典も同じ原理にもとづいて機能している。
7つの聖なる司教座のどれかひとつに就く僧院長を侮辱した者はだれであれ、7ポンド支払うべし。そしてその人物の血縁である女を、血縁の汚名として洗濯女とし、名誉代価の支払いのしるしとして奉仕させよ。
洗濯女と転じた女性は生涯を通じて仕えることになった。彼女は実質的に奴隷の地位へと貶められた。彼女の永遠の不名誉、同時に僧院長の名誉の回復となる。
名誉とはゼロサム・ゲームである。自分の家族の女たちを保護する能力は男の名誉の本質的な一部分である。それゆえ家族の女を他人の家庭で卑しくつまらない雑用をさせるために引き渡すよう強要されることは、男の名誉にとって決定的な打撃となる。ひるがえって名誉を奪った者にとっては、これが自分の名誉の究極的な確認となるのである。
中世アイルランドの法学者たちは、人間の尊厳に金銭的な価格をつけることに対し、まったく違和感を抱いていない。それは、当時の人びとが卵や散髪を手に入れるために貨幣を使用しなかったからだ。いまだ貨幣の使用が社会的目的に限定される人間経済であったがゆえに、人間の尊厳を測定できるのみならず、その数量を足し引きすることさえ可能な込み入った制度が形成可能だった。
かつては尊厳を測定することに使用されていた同じ貨幣が卵や散髪に支払うために使用され始めると、その経済に何が起こるのか?古代メソポタミアや地中海世界の歴史が明らかにするように、その結果は根底的かつ永続的なモラル上の危機であった。
【メソポタミア(家父長制の起源)】
古代ギリシアで「名誉」を表す言葉はtimeであった。しかしその後数世紀にわたる市場の拡張とともにtimeの意味は変化を始める。一方でそれは、「価格」を表す語となる。他方では、市場に対する徹底的な軽蔑の態度を意味するようになる。
今日でも、ギリシアではtimiという語は名誉を意味しており、一般的にギリシアの農村社会で最も重要な価値とみなされている。(そして)名誉は、しばしば気前のよい寛大さと金銭的費用や計算に対する露骨な軽視として特徴づけられている。ところが、この同じ語がトマト1ポンドの値段といった「価格」の意味も持つ。
名誉とは、個人の金銭上の負債を快く支払うことなのか?あるいは、金銭上の負債など真に重視するに値するとは感じないということか?その両方であるようにみえるのだ。
地中海の村人たちの名誉観となったとき、たいていわたしたちの頭に浮かぶのは、結婚前の処女性に対する大変な執着である。男性の名誉は身内の女性を守る男性としての能力ではなく、むしろその女性たちの性的評判を守る能力のうちにある。
では、このような性的節度に対する想像を超える執着はなにゆえ生まれるのか?少なくとも人間経済から商業経済への移行によって、あるモラル上の矛盾が引き起こされたことは想像できる。たとえば、かつては結婚をとりもち名誉の抗争を調停していた同じ貨幣が売春婦を買うことにも使用できるとなったとき、いったい何が起きるだろうか?
まさにこうしたモラル上の危機の中にこそ、名誉についてわたしたちが現在抱いている概念の起源のみならず、家父長制それ自体の起源をも見出すことができる。
シュメール語の最初期の文書、特におよそ前3000年から2500年の文書の中には女性が遍在している。そして一般的に公的生活のあらゆる場面に自由に参加していたことを明らかにしている。だが続く数千年の間にすべては変化していった。市民生活における女性の地位が崩壊するのである。
徐々に、おなじみの家父長制的なパターンが貞節と結婚前の処女性に力点を置きながら形成され、行政と自由業における女性の役割は弱体化し、やがて消滅した。こうして女性の自立した法的地位は失われ、それによって夫の被後見人と化していったのだ。前1200年頃には、多くの女性たちがハーレムに隔離され、(少なくとも場所によっては)ヴェールの着用を義務づけられるのを眼にするようになる。
実のところ、これはより広範に及ぶ世界的なパターンを反映している。科学と技術の進歩や学習の蓄積、経済成長――好んで「人間の進歩」と呼ばれる――が必然的に人間の自由を促進すると考える人たちにとって、常に躓きの石であった。
なぜだろうか?
「より家父長制的な慣習を持っていたと推定されている牧畜民が周辺の砂漠から徐々に侵入してきたから」という地域限定的な説明もあるが、より広範なパターンについては何も述べていない。
フェミニストの研究者たちは、むしろ戦争の規模と社会的重要性の拡大、ならびにそれに伴う国家の中央集権化を強調する傾向にある。説得力があるのはこちらのほうである。
わたしは別の補足的な議論を付け加えたい。歴史的に見ると、戦争と国家と市場はすべてたがいに育み合う傾向にある。征服は徴税につながる。徴税は市場を創設する手段となる。市場は兵士と行政官にとって好都合である。メソポタミアの事例に限って言えば、こういったすべてが負債の爆発的上昇と複雑な関係をもち、負債の爆発的上昇はあらゆる人間関係――その延長上で女性の身体――を潜在的商品に変容させる脅威をもたらしていた。同時にそれは経済競争における(男性の)勝者の側におそるべき反応を生みだすことになる。勝者たちは徐々に圧力を感じ始めたのである。自分たちの女は売り買いできぬことをどんな手を使ってもはっきりさせるべし、と。
ここで真に決定的な要因は負債であった。メソポタミアの夫も妻を売ることはできなかった。あるいは通常はできなかった。ところが夫が借金に頼ってしまったとき、すべてが一変する。というのも借金となれば、そのために妻子を抵当に入れることは見てきたように完全に合法であり、返済できなければ、まさに奴隷や羊や山羊とまったく同じように、債務の人質である妻子を奪われる可能性があったのだから。
このことはまた、名誉と信用が実質的に同一のものになったことを意味する。少なくとも貧しい男にとって、自分の信用価値とは、まさに自らの世帯に対する統率力であった。そして(いわばそのコインの裏面として)家庭における権威ある関係、すなわち原則として配慮し保護する責任であるような関係が、実際に売買可能であるような所有権となったのである。
このことは貧者にとって、家族の構成員が賃貸ししたり売却したりすることの可能な商品になったことを意味した。
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「家父長制」とは、なによりもまず、ある種の純潔の名のもとに大いなる都市文明を拒絶するという身振りのうちに起源をもっている。古代中東における抵抗は常に、叛乱の政治というより大脱出の政治、つまり共同体や家族とともに――しばしば連れ去られてしまう前に――逃散することの政治である。[そのために]周辺地域で生活する部族民たちが常に存在して、繁栄の時代には、都市に流入してきた。窮乏の時代には、難民によってその数は膨れあがった。
旧約聖書には父親の絶対的権威と移り気な女たちに対する嫉妬含みの保護への異常なまでの強調がみられるが、それこそまさに、彼らが避難してきた都市における人間の商品化そのものの帰結であり、それに対する抵抗の帰結でもあった。
世界中の聖典――旧約聖書、新約聖書、コーランをはじめ中世から現代に至るまでの宗教文学など――は、腐敗した都市生活に対する軽蔑と商人に対する疑念、そしてしばしば強烈な女性嫌悪症の合体からなる、この叛逆の声を反響している。
これは家長による都市憎悪の声であり、古代の貧者の父たちによる至福千年の怒りの声である。
わたしたちの知る家父長制は、新興エリートと新興破産者たちの間の一進一退の戦いの中で形成されたものなのである。
フェミニストの歴史家ゲルダ・ラーナーは、ある論考において売春の起源について、以下のように指摘している。
商業売春のもうひとつの源泉として、農民の窮乏化と、飢饉の時代を生き延びるために彼らがますます借金に依存するようなった結果、債務奴隷が発生するようになったことがあげられる。子どもは負債の担保として譲渡されたり、あるいは「養子」として売られたりした。このような慣行から、家長のために女の成員に売春させることが容易に発展したのである。前2000紀の中頃には、売春婦は貧乏人の娘のおあつらえむきの職業として定着するようになった。
[そうなると]問題は卑しからぬ女性(いかなる条件においても身体が売り買いされることのない人たち)とそうでない女性をどうやって明確に、しかも永続的に区別するかということになる。金銭で交換できる女性たちは、そのことをただちに識別可能にしていなければならない。
前1400年から前1100年の間に制定された中期アッシリア時代の法典(によれば)卑しからぬ女性たちは外出のさいにヴェールで身を覆わなくてはならない。ヴェールを着用してしまった娼婦と奴隷(は処罰された)娼婦は公衆の面前で50回棒で叩かれ、頭から瀝青(ピッチ)をかけられる[恥辱をあたえる刑罰]規定であった。奴隷女性は耳を切り落とされるよう定められていた。
“ヴェールを着用しなかった卑しからぬ女性ではなく、ヴェールを着用してしまった娼婦と奴隷に刑罰が与えられたことに注意”
それらの展開は、商業、階級、挑戦的な男性的名誉の主張、そして貧民の逃亡のたえざる脅威など、複合的諸要素の交差によって駆り立てられていた。国家は、商品化を促進すると同時にその結果を改善するために介入するという複雑な二役を演じていたようだ。つまり負債の法規と父の権利を強化しながらも、周期的に恩赦を与えるという二役である。
この力学はまた、数千年の間に、性愛それ自体を、神からの贈与および文明的洗練の具現から不名誉、腐敗、罪業に結びついたおなじみの連想への、体系的な格下げに導いたのである。
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わたしが考えるに、すべての偉大な都市文明の歴史を通じて観察される女性の自由の全般的低下を説明するものは、ここにある。すべての都市文明において類似した事態が進行していた。
貧しい債務者の娘たちはたいてい売春宿へ、あるいは富裕層の調理場や洗濯場へと送られていた。どちらの場合も娘たちに桁外れにのしかかる商品化の推進力と、商品化されるあらゆる可能性から女たちを守るために父権を再強化しようと試みる人びとの反動力のはざまで、女性の形式的・実質的自由は、少しずつではあるがますます制限され消滅していった。
豊富かつ詳細にわたる史資料のみつかる場所といえば古代ギリシアをおいてない。古典ギリシア語の諸文献は、この転換についてまさに実際に起きているかのように観察する比類なき機会を提供してくれている。
【古代ギリシア(名誉と負債)】
ホメロスの叙事詩の世界は、交易を軽蔑する英雄的な戦士たちの支配する世界である。貨幣は存在していたが、何かを買うためのものではなかった。有力な男たちは名誉を追求しながら人生を送り、その名誉は追随者と財宝という物質的な形態をとっていた。
商業経済の到来による最初の影響のひとつは、メソポタミアやイスラエルで長期にわたって見られたたぐいの債務危機の連続であった。貧民は、男も子どもも妻も富者に隷属していた。
ほとんどの都市が最終的に見出した(債務危機の)解決策は、近東のそれとは大きく異なるものであった。定期的な恩赦を制度化する代わりに、ギリシア諸都市は負債懲役制度を制限するか全面廃止する方向に向かい、ついで将来の危機を防ぐため、[領土]拡張政策をとり、貧者の子どもたちを送り込んで海外に軍事的植民地を確立したのである。
今度はそれらの都市(軍事的植民地であるギリシャ人都市)が活発な奴隷貿易の流通経路としての役割を果たすようになった。奴隷の急増は、転じて、ギリシア社会の性格を徹底的に変質させた。なによりも、つつましい生活を送る市民さえも都市の政治的・文化的生活に参加できるようになり、真の市民的意識を抱くようになったのである。このことが旧貴族階級をして、新しい民主的国家の卑俗性やモラルの荒廃と彼らの眼には見えたものから自らを遠ざけるべく、ますます手の込んだ手段を発展させるよう駆り立てた。
彼ら(貴族)にとって金銭とは腐敗の化身であった。貴族たちは市場を軽蔑していた。貴族たちは、贈与と気前のよさと名誉の世界をあさましい商業的交換の上位に位置づけた。かたや普通の市民の卑しい商業的感性とみなされるものに対する貴族による抵抗の文化がある。かたや普通の市民の側からのほとんど分裂症的な反応(貴族文化のいくつかの側面を制限ないし禁止しようとしながら、同時に貴族的な感性を模倣しようとした)がある。この点においてきわだった事例は少年愛である。貴族的慣行の典型をなすとみなされていた成人男性と少年の間の恋愛を、民主政ポリスは政治的に有害なものとみなし、男性市民間の性的関係を違法とした。ところがそれとともに、ほとんどだれもがその慣行に手を染めはじめた。
ギリシア人男性の名誉への執着は、市場価値に対する貴族的抵抗に端を発している。とはいえ、その女性たちに対する影響は中東においてよりも厳しいものとなった。ソクラテスの時代にすでに、女性の名誉はほぼ性的な文脈においてのみ規定されるようになった。処女性とつつしみと貞節の問題としてである。公共生活の一翼を担うどのような女性もそのことによって売春婦あるいはそれに相当するものとみなされるようになった。民主政アテナィにおける女性たちは公共の場に出るにあたって、ヴェールを着用するものとされていた。
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かくて貨幣は、名誉の尺度から転じて名誉ではないものすべての尺度と化してしまった。何ゆえことさら貨幣がこのような名誉剥奪の象徴になったのか?すべて奴隷制のせいだったのか?
人間存在が徹底的に格下げされる可能性があったとしても、それが英雄的名誉に対する脅威であることは、いかなる意味においてもない。ある意味で、それこそ英雄的名誉の本質でさえあったのだから。
“奴隷の状況は、徹底的な名誉剥奪の状況でもあった。同時に、主人にとっては、この他者から尊厳を剥奪する権能が名誉の基盤になる。/この肥大した意識は、まさに他者の力と尊厳を剥奪したことから、あるいは少なくともその剥奪が可能であるという認識から生じたものである。/個人の名誉が究極的には他者の名誉を取り上げる権能にもとづいている。”
すると、商業的貨幣の到来によって伝統的な(貴族的な)社会的ヒエラルキーが混乱をきたしたということだろうか?
(これも違う)そもそもここまで洗練された貴族社会を可能にしたのは貨幣なのであるから。むしろ貨幣について貴族たちを本当に悩ませたのは、彼らもそれが欲しくてたまらなかったということだった。
貨幣は欲望の民主化を持ち込んだといえるかもしれない。だれもが貨幣を欲するかぎり、身分が高かろうと低かろうが、その同じふしだらな物体を追い求めるというわけだ。だがそこで終わらない。ますます欲しくなるというだけなく、それが必要になってしまうのである。
ホメロス的世界においては、人間生活にとって必要と考えられる事物(食糧、住まい、衣服など)をめぐる議論はほとんど見当たらない。だれもが有していると想定されているからだ。持たざる者であっても、最低限、裕福な世帯の奉公人になることができた。奴隷さえも食うには困らなかった。ここでもまた変化のありようを強力に象徴するのは売春婦である。娼館住まいの者といえば、奴隷のみならず、他方でたんに貧しいだけという者もいた。つまり、基本的必要性がもはや保証されえないという事実があったからこそ、彼女たちは他者の欲望に従属するよう余儀なくされてしまったのだ。
こういったことすべてが、ギリシアの都市国家における男性市民が、市場の危険と自由の双方から妻と娘を隔離するため異常な努力を払った背景であった。その結果、卑しからぬ女性たちは、経済・政治生活の主要な局面からはほとんど排除され、不可視の存在となったのである。負債のゆえに奴隷となる者があるとしたら、それは通常、債務者だった。
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商業的市場が形成されはじめた前600年前後、多くのギリシア都市を「債務危機」がみまっているが、そこで問題になっていたのはヒエラルキーの衰退であった。商業的市場が発達するにつれ、千年にわたって中東を苦しめていた債務危機と負債への抵抗、政情不安といった社会問題すべてが、ギリシアの諸都市でも急速に表面化するようになったといったところである。だが実のところ、事態はそれほど明快なものではない。
アリストテレスがおおざっぱな意味でいうところの貧民が「富者に隷属」するといった現象だが、ホメロス時代の社会においてさえ、富裕な男たちが従属的な貧民階層から集めた召使いや従者に取り囲まれて暮らすのは、ごく自明のこととみなされていた。こうした[かつての]パトロン-クライアント関係において決定的な点は、その関係性のなかでは、それぞれの側に[相手方への]それぞれの責任が想定されていたということである。ところが、このパトロン-クライアント関係が負債の関係に変質してしまうとすべてが変わってしまう。
この変化は、2つの点において完全に矛盾している。かたや、貸付には債権者の側には[債務者への]継続した責任がないという含みがある。かたや、貸付においては、[債権者と債務者という]契約当事者の間に、ある種の形式的・法的な平等が想定されている。二者は根本的におなじ種類の人間であると想定されている。市場を前にしての平等と把握されているという事実が、このような[かつてのパトロン-クライアント二者間の]関係性の持続をよりいっそう困難にするのである。
同様の緊張が、農村共同体において、何でも互いに与え合い、貸し借りを行なっている隣人たちの間にも見出し得る。こういった贈与や貸与について、農村共同体は人間による社交の基本的構造をなす本質的要素とみなしていた。他方で、要求の多すぎる隣人は常にいらだちを与える厄介者であった。それまで無償で与えられていた品目について、それを購入したり賃貸するといくらかかるか、だれもが正確に把握するようになると、ますますいらだちはつのるばかりであったのだ。
貨幣の出現によって、何が贈与で何が貸付か、はっきりしなくなった可能性もある。気前のよいお返しと利子の支払いとの違いはなんなのだろうか?
英雄的システムにおいては、応酬的交換の論理に徹して作動するのは、信用借り[名誉の負債]のみである。名誉と信用とは等しいのである。それは約束を守る能力であると同時にそれが守られない場合には「報復する/返済させる/五分五分になる」能力でもある。それは貨幣の論理ではあるのだが、貨幣あるいはなんらかの貨幣的関係性は信用借り[名誉の負債]に限定されている。
[ところが]かつてモラルの関係の本質であったものが、徐々に、そして微妙なかたちで、あらゆる種類の不誠実な策略の手段に変化してきた。しかも、進行中の事態の意味するところをだれも完全につかんでいないうちに。
“ここで、アテナイにおいて、裕福ではあるが生まれの卑しい男が、貴族の出自ではあるがいくらか窮乏状態にあった隣人の危機を親身になって救おうとしたばかりに、その隣人に騙され、財産を失くしそうになる話が紹介される。”
ここには、人間を商品に還元し、それによって最も凶暴な性格の計算を経済生活に導き入れてしまう、略奪的暴力の遍在する危険がみてとれる。それは海賊の側のみならず、おそらくそれ以上に市場のそばにひそむ金貸しの側に見受けられる。アテナイの名士たちは、自らの政治的企てを実現するために常に借金していた。それほど高名でない者たちは、自分の負債をどう返すか、または自分の債務者からどうやって取立てるか、たえず頭を悩ませていた。
ここにはもうひとつ、より微妙な要素がある。店舗や屋台での日常的な市場取引は、一般的には信用でおこなわれていた。だが、その一方で、純粋な信用体制においては端的に存在するはずもない取引の匿名性が、鋳貨の大量生産によってある程度可能になっていた。市場の高利貸たちも現金なくしては操業できなかった。それ以後、たいてい暴力含みである非合法の現金取引とやはり暴力を通じて執行されるきわめて過酷な信用契約という、おなじみの組み合わせを基盤として、無数の犯罪地下組織が形成されてきた。
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アテナイでは、その帰結は手のつけようのないモラル上の混乱であった。貨幣、負債、金融の言語が、モラルの問題についての強力な思考法を提供したのである。だが負債がモラリティだったとすると、モラルを正確で数量化可能な科学へと変えることができるものである貨幣が、醜悪きわまりないふるまいをも助長したという事実をどう考えるべきだろうか?
近代倫理学と近代哲学は、まさにこのジレンマから出発している。
“ということで、プラトンの『国家』の中での議論が紹介される。議論そのものは省き、グレーバーの結論だけを紹介する。”
強調しておきたいのは、わたしたちが今日、モラル理論と政治理論の中核をなす伝統とみなしているものが、自分の負債を返済するとはいったい何を意味するのか、という問いに源泉を持っていること、そして、それはどの程度そうなのか、ということである。
プラトンが最初にわたしたちに提示するのは、単純で字義通りのビジネスマン的な見解である。それが不適切であると判明したあと、今度はそれを英雄的な観点からとらえなおす。おそらく、あらゆる負債は、つまるところは名誉の負債[信用借り]である、というわけだ。
しかし英雄的名誉は、商業と階級と利潤がすべてを混乱させたあげく、人びとの真の動機がはっきりしなくなった世界においては、もはや居場所がない。じぶんたちの敵はだれかということさえ、どうやって知ることができるのか?
最終的にプラトンの示唆するのは、冷笑的な現実政治である。おそらく本当は、だれもがだれに対しても、何も負っていない。おそらく、利潤そのものを追求する人々が、結局のところ正しいのだ、と。だが、それすらもちこたえることはできない。既存の諸基準には一貫性がなく自己矛盾をきたしていること、論理的に意味をなす世界を形成するためにはある種の根源的な切断が必要とされるだろう、という確信だけが、わたしたちに残される。
しかし、プラトンの提示する線に沿って根本的な切断を真剣に考えるほとんどの人々は、モラル上の混乱よりはるかに悪いことが起こっているという結論に至るのである。そしてそれ以来、わたしたちはずっと、解決不可能なジレンマのただ中に放りだされている。
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“本題にはそれほど関係はないと思われるが、少しおもしろいお話だと感じたので紹介しておく。プラトンの思考がこういった問題に捕われていたのは、プラトン自身の経験によるところがあるとのこと。プラトンは不運な航海で捕らわれの身となり、競売にかけられた。そして、そこに居合わせたプラトンを知る哲学者アンニケリス(リビア人)が、その身代金を支払って開放してやった上、プラトンが面子にかけて返済しようとしたお金を受け取らず、代わりに名誉を受け取ったとのこと。
プラトンは、その後、数々の実績を残すことになるが、自身がまったく取るに足りぬとみなしていたギリシャ人でさえない哲人(アンニケリス)への負債によって、それが可能になったという事実を、特に悦ばしいものとみなしてはいなかったらしい。「友人の名まえをひけらかしたがるプラトンが、アンニケリスにだけは言及することがなかった」「わたしたちが彼(アンニケリス)の存在を知ることができるのは、後年の伝記作家によってのみであった」とのこと”
(その2に続く)
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