(1)カレーの美味いレストラン
ターンパイクから大観山を抜けて十国峠に到着するルートは、何度か走ったお気に入りのコースである。初夏の抜けるような青空の下、音楽を聴きながら舗装された林間のワインディングロードをゆったり流す爽快感は、オープンカーならではの楽しみ方の一つだ。たまに後ろからポルシェやアウディの、いかにも速そうな車がウィンカーをチラチラさせながら追い抜いて行く。「こんな絶景ロードだぜ、もっと景色を楽しめよ」と、相手にせず道を譲る。僕の腕じゃ勝負にならないのはわかっているので、悔しいとも思わないのが逆に楽しい。ドライブは楽しんでナンボ、テクニックを試すのもいいし、景色を楽しむのも良し、信号など無い山道をひたすら走るのもまた楽しみの一つだ。
十国峠に着いた頃、ちょっと早い食事を取ろうとレストランに寄る事にした。中に入るとガランとしてお客は僕一人だけ、窓際の席に座って外を眺めた。ここは三叉路の分かれ道にポツンと建っているレストランだから、お昼時には満員なのかと思うが分からない。暇なのは僕には願っても無いことなので、ウエイトレスにカレーとコーヒーを頼みタバコの箱を取り出した、前にもこんなこがあったけ。初めて車に乗ってドライブに出かけた時の事、ひたすら6号の海沿いの国道を走り続けてとあるドライブインに入った。お客は今日と同じで一人ぼっち、大きなガラス窓から眺める大海原が銀色にキラキラ輝いて、遠くの白い雲の流れるのをじっと見ていた、そんな記憶が蘇ってきた。
2シーターのオープンカーはマツダやポルシェなどたまに見かけるが、大概一人で乗っている。二人でしかもカップルと言うのは長い事走っているが、出会った事は記憶にある限り、無い。何故なんだろうかと考えたが、どうしても一人になりたいんだな、という結論になった。確かに宣伝ポスターやCMに見る絵柄では、美形の男女が海沿いの景色の良い開放的な舗装道路を楽しそうに喋り合いながらかっ飛ばしていくのが定番だ。美しい。
しかし現実に見るのは、デブの中年オヤジが暑苦しい腹をハンドルの下に潜り込ませて走ってる、およそイメージとかけ離れた姿だ。フェラーリやアルファの超高いスポーツモデルに限って、ハンドルを握っているのはサングラスを掛けたデブなのだ。メーカーに取っては何という悲劇、見るものに取っては何という喜劇。オープンのカッコいいモデルに乗るためには、免許がいるとかの法律またはメーカー側の規制が有ってもいいんじゃないかと思う。余りにも車に似合わないドライバーは運転してはならないと言うのは、人権の面ではアウトかも知れないが、メーカーの「買って欲しくない権利」も守られるべきだと思う。ストラディバリウスがいくら金があっても下手が弾いてはダメなように、オープンカーもデブはノーサンキューである。
そんな事を考えている間に、注文したカレーとコーヒーが来た。遠くに青く霞む山のシルエットを眺めながら食べるカレーは、また格別の味がする。食後のコーヒーを楽しんでは、ドライブって何んて自由なんだろうと道々の景色を思い返した。都内を朝早く抜けて、まだ眠りの中に静かに横たわる大都会東京を後にした僕は、朝日の輝く海を見て旅の始まりを実感した。これだよ、僕の心を日々のしがらみから解き放つ魔法の風景は!
海は黙ったまま、寄せる波音だけが聞こえてる。
(2)修善寺の古い町並みを通り過ぎる
伊豆スカイラインを亀石峠で降りて修善寺に向かう。伊豆は山道の連続で、どこまで行ってもタイトなワインディングロードを、ハンドル操作とアクセルワークで華麗にクリアする楽しみに飽きることは無い。だが僕は運転が上手い方では無いので、ほどほどのスピードで駆け抜けた。腕に自信がある方はもっと違う車でカーブを攻めるところだが、景色重視派の僕はゆっくり美しく回ることに専念することにした。どちらも楽しめるパーフェクトなコースである。
初夏のやや暑いほどの午後、ようやく修善寺の入り口に愛車カルタスが、その青く引き締まった凛々しい姿を現した。じっと佇む孤高のフォルムが辺りの静けさを一層際立たせて、低いエンジンノートを響かせながら主人の帰りを待っている。つまり、僕がちょっくら道を尋ねていたのだ。カーナビの珍しい頃、僕はまだ案内板の表示とゼンリンの地図を使って旅をしていた。不思議なものでカーナビを使うようになったここ数年よりは、断然地図頼りだった昔のほうが旅は面白かった。カーナビはハズレがない。頭もカンも不要だ。だから、間違って思いもしない場所に行き、観光ルートから外れてるけど自分だけが見つけた絶景レストランとか、旅につきものの地元の人との出会いとか、多くの思い出を作ってくれた。カーナビは目的地に正確に着くことに特化した便利なものだけど、旅には向かない道具だなと思う。何かを目指すだけが旅ではない。放浪の旅、漂白の旅、と言うのもまた旅の一つの魅力だな。
修善寺の古風な景色を横目に見ながら、136号・414号と下田街道を下って一路、天城越えと洒落込んだ。僕は天城越えは歌ではなく、吉永小百合と高橋英樹の「伊豆の踊子」で育った団塊の世代である。山口百恵の新しい版はあまり記憶にないが、吉永小百合の方は彼女の、素朴で若い世間知らずの旅芸人の娘という荒唐無稽の設定にもかかわらず、幼い恋に溢れたいい映画であった。今は昔の良き時代、貧乏だけどその分幸福感に満ちた時代が懐かしい。
人は昔のことを素晴らしかったとか、いい時代だったと語りたがる。いつの世もそうだったし、これからもそうなるのだろう。オープンカーの屋根を開けた爽快感が、しんみりとした雑念を吹き飛ばしてくれる。憧れの伊豆は高く上がった太陽を浴びて、新緑の山々を真っ青な青空のもと、くっきりと浮かび上がらせている。快晴、澄んだ空気が心地よい。途中の浄蓮の滝あたりで観光バスの群れに出くわしたが、ちょっと降りて土産物屋を覗く。「やっぱ、俺のカルタスはカッコいいな」。改めて惚れ直した愛車の勇姿は、駐車場の隅っこにいても存在感がハンパない(と僕には見えた)。
颯爽と運転席のドアを開け、シートに背中を沈めると一本タバコを取り出し、口に咥えてエンジンを掛けた。「海に出ようか」と声をかけゆっくり本線に戻ると、後ろで歓声が上がる。芸能人かなんかがテレビ番組で来てるらしい。旅は色々なことが思い出になる。僕はアクセルを吹かして下田に向かった。
ターンパイクから大観山を抜けて十国峠に到着するルートは、何度か走ったお気に入りのコースである。初夏の抜けるような青空の下、音楽を聴きながら舗装された林間のワインディングロードをゆったり流す爽快感は、オープンカーならではの楽しみ方の一つだ。たまに後ろからポルシェやアウディの、いかにも速そうな車がウィンカーをチラチラさせながら追い抜いて行く。「こんな絶景ロードだぜ、もっと景色を楽しめよ」と、相手にせず道を譲る。僕の腕じゃ勝負にならないのはわかっているので、悔しいとも思わないのが逆に楽しい。ドライブは楽しんでナンボ、テクニックを試すのもいいし、景色を楽しむのも良し、信号など無い山道をひたすら走るのもまた楽しみの一つだ。
十国峠に着いた頃、ちょっと早い食事を取ろうとレストランに寄る事にした。中に入るとガランとしてお客は僕一人だけ、窓際の席に座って外を眺めた。ここは三叉路の分かれ道にポツンと建っているレストランだから、お昼時には満員なのかと思うが分からない。暇なのは僕には願っても無いことなので、ウエイトレスにカレーとコーヒーを頼みタバコの箱を取り出した、前にもこんなこがあったけ。初めて車に乗ってドライブに出かけた時の事、ひたすら6号の海沿いの国道を走り続けてとあるドライブインに入った。お客は今日と同じで一人ぼっち、大きなガラス窓から眺める大海原が銀色にキラキラ輝いて、遠くの白い雲の流れるのをじっと見ていた、そんな記憶が蘇ってきた。
2シーターのオープンカーはマツダやポルシェなどたまに見かけるが、大概一人で乗っている。二人でしかもカップルと言うのは長い事走っているが、出会った事は記憶にある限り、無い。何故なんだろうかと考えたが、どうしても一人になりたいんだな、という結論になった。確かに宣伝ポスターやCMに見る絵柄では、美形の男女が海沿いの景色の良い開放的な舗装道路を楽しそうに喋り合いながらかっ飛ばしていくのが定番だ。美しい。
しかし現実に見るのは、デブの中年オヤジが暑苦しい腹をハンドルの下に潜り込ませて走ってる、およそイメージとかけ離れた姿だ。フェラーリやアルファの超高いスポーツモデルに限って、ハンドルを握っているのはサングラスを掛けたデブなのだ。メーカーに取っては何という悲劇、見るものに取っては何という喜劇。オープンのカッコいいモデルに乗るためには、免許がいるとかの法律またはメーカー側の規制が有ってもいいんじゃないかと思う。余りにも車に似合わないドライバーは運転してはならないと言うのは、人権の面ではアウトかも知れないが、メーカーの「買って欲しくない権利」も守られるべきだと思う。ストラディバリウスがいくら金があっても下手が弾いてはダメなように、オープンカーもデブはノーサンキューである。
そんな事を考えている間に、注文したカレーとコーヒーが来た。遠くに青く霞む山のシルエットを眺めながら食べるカレーは、また格別の味がする。食後のコーヒーを楽しんでは、ドライブって何んて自由なんだろうと道々の景色を思い返した。都内を朝早く抜けて、まだ眠りの中に静かに横たわる大都会東京を後にした僕は、朝日の輝く海を見て旅の始まりを実感した。これだよ、僕の心を日々のしがらみから解き放つ魔法の風景は!
海は黙ったまま、寄せる波音だけが聞こえてる。
(2)修善寺の古い町並みを通り過ぎる
伊豆スカイラインを亀石峠で降りて修善寺に向かう。伊豆は山道の連続で、どこまで行ってもタイトなワインディングロードを、ハンドル操作とアクセルワークで華麗にクリアする楽しみに飽きることは無い。だが僕は運転が上手い方では無いので、ほどほどのスピードで駆け抜けた。腕に自信がある方はもっと違う車でカーブを攻めるところだが、景色重視派の僕はゆっくり美しく回ることに専念することにした。どちらも楽しめるパーフェクトなコースである。
初夏のやや暑いほどの午後、ようやく修善寺の入り口に愛車カルタスが、その青く引き締まった凛々しい姿を現した。じっと佇む孤高のフォルムが辺りの静けさを一層際立たせて、低いエンジンノートを響かせながら主人の帰りを待っている。つまり、僕がちょっくら道を尋ねていたのだ。カーナビの珍しい頃、僕はまだ案内板の表示とゼンリンの地図を使って旅をしていた。不思議なものでカーナビを使うようになったここ数年よりは、断然地図頼りだった昔のほうが旅は面白かった。カーナビはハズレがない。頭もカンも不要だ。だから、間違って思いもしない場所に行き、観光ルートから外れてるけど自分だけが見つけた絶景レストランとか、旅につきものの地元の人との出会いとか、多くの思い出を作ってくれた。カーナビは目的地に正確に着くことに特化した便利なものだけど、旅には向かない道具だなと思う。何かを目指すだけが旅ではない。放浪の旅、漂白の旅、と言うのもまた旅の一つの魅力だな。
修善寺の古風な景色を横目に見ながら、136号・414号と下田街道を下って一路、天城越えと洒落込んだ。僕は天城越えは歌ではなく、吉永小百合と高橋英樹の「伊豆の踊子」で育った団塊の世代である。山口百恵の新しい版はあまり記憶にないが、吉永小百合の方は彼女の、素朴で若い世間知らずの旅芸人の娘という荒唐無稽の設定にもかかわらず、幼い恋に溢れたいい映画であった。今は昔の良き時代、貧乏だけどその分幸福感に満ちた時代が懐かしい。
人は昔のことを素晴らしかったとか、いい時代だったと語りたがる。いつの世もそうだったし、これからもそうなるのだろう。オープンカーの屋根を開けた爽快感が、しんみりとした雑念を吹き飛ばしてくれる。憧れの伊豆は高く上がった太陽を浴びて、新緑の山々を真っ青な青空のもと、くっきりと浮かび上がらせている。快晴、澄んだ空気が心地よい。途中の浄蓮の滝あたりで観光バスの群れに出くわしたが、ちょっと降りて土産物屋を覗く。「やっぱ、俺のカルタスはカッコいいな」。改めて惚れ直した愛車の勇姿は、駐車場の隅っこにいても存在感がハンパない(と僕には見えた)。
颯爽と運転席のドアを開け、シートに背中を沈めると一本タバコを取り出し、口に咥えてエンジンを掛けた。「海に出ようか」と声をかけゆっくり本線に戻ると、後ろで歓声が上がる。芸能人かなんかがテレビ番組で来てるらしい。旅は色々なことが思い出になる。僕はアクセルを吹かして下田に向かった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます