1、委奴国
前回、金印についてはサラっと触れただけだが、本に出て来る委奴国はその後版図を広げて倭国になった(としておこう)。57年に後漢光武帝から金印を貰ったあと更に発展して107年には後漢の安帝に朝貢し、この時伊都国王師升は「倭国王」の叙任を請願した、と後漢書にある。委奴国ではなく「倭国王」として封じられることを願い出たのだから、この時点で倭国というのは「定着した国名」だと思ってもいいのではないかと思う。で、この時点で日本列島の勢力図はどうなっていただろうか?。後漢書には列島(日本のこと)から朝貢してくる国は「倭国だけ」のようだから、この時「中国や朝鮮半島」との貿易を熱心に行なっていた国々を束ねていたのは「倭国」だった、で良いと思う。まあ、束ねていると言っても「緩やかな団体のまとめ役」と言ったところではないかとは想像できる。
宮崎氏は伊都国の場所を「糸島地方」としているので、邪馬台国の都とは「背振山地」で隔てられているわけだ。現代の地図を見た感じでは、糸島市は山越えの邪馬台国なんかよりもむしろ「福岡市や宗像市」などの、玄界灘沿岸地域を束ねて支配してるイメージを私は持った。農業の収穫量などの土地の豊饒さや気候の上から考えると、戸数は邪馬台国の方が断然多かったのであろう。しかしそれにしても倭国全体を支配して各国は大いに畏怖していたという伊都国の人口が、陳寿の描くように僅か「1000戸余り」だったというのはどうしても納得がいかない。昔も今も「国力はすなわち人口」である。だから古の委奴国が名称が変わって伊都国になった、とする説は「すんなりOK」というわけにはいかない。
いったい倭国というのは「どのあたりを表す言葉」なのか?、それが謎である。
陳寿の記述では「草ボーボーで行くに前人を見ず」というのが私にはどうしても引っかかる。松浦に上陸して海岸沿いに糸島地方へ行くのに「草ボーボー」は有り得ないではないか?。まあこの問題はひとまず「保留する」しかない。そもそも宮崎氏は魏使は末盧国には行ってなくて、上陸したのは「伊都国」だと書いているので簡単には結論は出ないのだ。もしかしたら「最後のキー」の可能性もある(ちょっと大袈裟か)。
2、卑弥呼の出身国
倭国大乱と魏志倭人伝に書かれた戦争を宮崎氏は「伊都国陣営と狗奴国の覇権争い」だったと言う。だが覇権争いとは別に、伊都国内部でも問題が発生した。それは伊都国王が急死したのである。しかも跡継ぎが幼児なのだ。死亡した伊都国王に近い伊都国出身者でそれなりに尊敬されていて、しかも直接的に「王統が他に移ってしまうのを防ぐ」目的にピッタリ合致するのは「宗教的な権威」があって尚且つ「夫がいない」という卑弥呼はベストチョイスである。伊都国の説明に「丗有王皆統属女王国」とあるから、卑弥呼は「伊都国出身者」で自分の国=女王国を作り、そこで静かに宗教行事を行っていたのだろう。まだ幼い王権の候補者が成人するまで跡目を守り「共立」して難をやり過ごすのは、よくある方法と言える。
これは私の勝手な想像で2時間ドラマ風の筋書きに近いが、伊都国の王が急に病に倒れて死亡し、後継ぎの男子がまだ幼くて後継者不在という状況を「千載一遇の好機」と見た狗奴国が攻めて来て戦争になった、と仮定しよう。そこで伊都国王の「親戚の卑弥呼」が中継ぎとして立ったというわけだ。奇しくも天武天皇が亡くなった後で位を継くべき草壁皇子が急死して「軽の皇子」がまだ幼少だった為に「一時的に持統天皇が皇位を継いだ」ようなもの(実際は高市天皇が後を継いだという説がある。私もこの説が正しいのではないかと考えている)。で、さらに文武天皇も25歳で急死した為に元明天皇ー元正天皇とつないでやっと「聖武天皇」を即位させたのに似ている。つまり同じような事が伊都国にも起こり、卑弥呼が「娘の台与」を立てて最終的には「孫の男王」を伊都国王に即位させたんだと思う。これは全く私のあくまで想像だが、これに近い事があったのだろうと勝手に思っている。倭国大乱と呼ばれているが恐らくは「跡目争いにつけ入った覇権奪取」の戦いだろう。よくある話である。
なお、この王位継承ドラマは宮崎氏曰く、倭人伝にある統属を「王統を血統で継続する」意味に取るとピッタリ通じるらしい。台与の子の男王が記紀神話および先代旧事本義に現れる「饒速日尊、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、天火明尊」であり、後世「瓊瓊杵尊」の兄として脚色されることになる、と言う。まあここまで来ると「ちょっと空想はいっちゃってるかな~?」って気がしないでもない。
3、狗奴国
魏志倭人伝の狗奴国の所在地比定は長らく球磨川流域の熊襲族だと考えられてきた。しかし墓制の違いなどから南部熊襲族は狗奴国ではないのじゃないか、と指摘する。宮崎氏は狗奴国を大きな奴国つまり「鋸奴国(こなこく)」と解釈した。私は伊都国が狗奴国と争っているわけだから、両国はほぼ「相接する国」でなくてはならないと思う。宮崎氏の言う通り、伊都国が糸島地方で邪馬台国が背振山脈を越えた台地つまり佐賀平野の北辺とすると、狗奴国は熊本県か北九州・出雲勢力かの2つに絞られることになる。宮崎氏によれば倭国大乱は「卑弥呼を共立して」一旦収まったらしい。そうすると狗奴国も「倭国の一部」なんだろうか?。
邪馬台国も含めた北九州地方は出雲地方と度々争っており、大宰府近郊の「水城」は白村江で負けて唐が攻めて来るから防御の為に作ったんではなく、もっと昔に「出雲勢力から攻め込まれてそれを防ぐために作られたもの」だという説を昔に読んだ記憶がある。あの水城は相当な難工事で、白村江で負けたので急い作った、などという「簡単な物」では無いと思った。思うに出雲地方と北九州伊都国傘下の諸国との戦いを倭国大乱とすれば、これを卑弥呼の共立で収めたというのは余り理解しがたい。何れにしても狗奴国との戦いに苦戦して魏国に援助を求めた卑弥呼だったがあえなく戦死、人々は彼女の墓に「径百歩の大きな円墳を作った」と言う。
しかし言葉の音韻から言えば、狗奴国はやはり熊本地方が妥当と言うのも分かる。謎の5世紀の讃珍済興武が中国に提出した上表文には、祖先の暦年の戦について「東と西と海北」は書いてあるが「南は書いてない」のが気がかりだ。南は元々伊都国の領土だったんだろうか。私は南は既に伊都国が勢力をもっている「グループの一部」だと考えている。つまり熊本地方は有明海を含めて伊都国全体の発祥の地・母体のような土地であり、結果「倭国連合」に主体に入っていたのではないか。これは「壬申の乱の舞台」で有明海沿岸地域を詳細に解説していた大矢野栄次先生の説を私は「真実」と信じているので、心の内で狗奴国は「どうも出雲地方の勢力」ではないだろうか?と思っている(思っているだけで証拠はないのだが・・・)。
4、伊都国と狗奴国の関係
両国の関係については、記紀神話から説明していくことが必要と宮崎氏は考えた。この辺は普通の歴史書では軽く飛ばす所だが、宮崎氏の深い洞察によって「とても興味深い」ストーリーが展開される。話は天武12年天武帝が阿曇稲敷に命じて川島皇子ら11人の日本書紀の編纂に加わり一緒に「帝紀および上古の諸事」を記すように言ったとある(私が理解した所を分かりやすい文に書き直したので、本当は意味を取り違えている可能性もあるので注意して下さい。詳しくは宮崎氏の本を読むこと)。ここで宮崎氏は「国生み神話」を取り上げる。なお、国生み神話に登場する洲々がすべて「阿曇族の拠点」が在る地域や島であるが詳細は「別書で説明」とあって、内容は書いてないのが何とももどかしい。この辺が Amazon 読み放題の難点なのかも・・・。
森浩一氏によれば、国生み神話は塩を作る情景を元にしたドラマだ、という説がある。阿曇族は淡路島で製塩を行っているらしく、紀元57年後漢への朝貢に活躍した阿曇族の後裔が阿曇稲敷で、日本書紀の上古の諸事に深くかかわっていておかしくない。その一つが国生みの後日談だそうだ。この辺りは宮崎氏の真骨頂である。
さて伊弉諾尊は黄泉の国から逃げ帰った後、「筑紫の日向小戸の橘のアハギ原」で禊を行った。この時に生まれた底筒男命・中筒男命・表筒男命の綿津見=少童(わたつみ)三神が、阿曇連の守護神である(勉強になるねぇ)。この筑紫の日向小戸の橘のアハギ原を宮崎氏は「福岡市に住吉神社のある那珂川河口の冷泉津と比定した。そして伊弉諾尊が禊をした時に生まれたのが、左目から天照大神・右目から月読尊・鼻から素戔嗚尊である(雑学です)。さらに宮崎氏の推理は続き、伊弉諾尊は伊那国王、天照大神は伊都国の表徴で卑弥呼を表していて、月読尊は奴国の表徴・素戔嗚尊は狗奴国の表徴で卑弥弓呼を表していると言う。ここまで来ると素直に「なるほど」とは言えないなぁ、とも思った。
続きは次回に。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます