仏像などの宗教彫刻は、実在の人を模して像を作り思い出とするというのが原初の形ではないかと思う。素晴らしい人物や人並み外れた人物でしかも多くの民衆を救いの道に教化した人、いわゆる宗祖と呼べる人を彫刻にして長く記憶に留め、生きている姿にまた会える喜びを皆で分かち合う。空海や聖徳太子信仰はそうして発達して今に至っている。キリストやブッダも同じであろう。外国の教会もまたキリスト受難の姿やマリアを像に模し、祈りの対象にして来た。宗教とは単純である。法然上人や親鸞聖人を敬い祈ることは、法理を理解していなくても出来る。
一つには「なんて素晴らしい人なんだろう」という尊敬の情である。存在そのものがとても真似出来ない近寄り難い偉い人、という感情だ。では阿弥陀如来や大日如来はどういう理由で祈りの対象なんだろうか?それは仏教で言う教典に書かれている「世界の仕組みの一部として」頭で理解されて、その中で世界の中心と教えられている存在だからである。だがまてよ、仏教でそう教えられているからといって、誰か阿弥陀如来や大日如来を見た人がいるのだろうか。誰も見たこともなく存在自体を確認していない阿弥陀如来などを拝んでいるとき、果たして民衆の心は感動しているのだろうか。私は長年お寺にお参りしているが、仏像を心底有難いと思ったことは、一度も無い。
まずは自分の知っている人、あるいは書物や話に聞いて素晴らしさを実感した人、それが彫像を通して視覚で実在を身近に感じられて初めて敬う気持ちが湧いて来て、そして拝むことが自然と出てくるのだと思う。それが宗教の始まりだと言えるし、ギリシャ・ローマの時代から世界中でそれぞれに祀られているように「神もまた実在する」ものとして考えられていたのである。そう考えてこそ、ようやく皆が手を合わせて拝む行動を説明する事が出来ると私は思う。実在することで初めて個人対個人の(厳密には人間対神の)関係が出来上がる。西洋の宗教はそうして始まった。
一方、56億7千万年の未来にやって来て迷える民衆を全て救うという弥勒菩薩に手を合わせる人がいるなら、「そんな先じゃなくて今すぐに来てもらうわけにいかないんですか?」と尋ねてみたいのだが、弥勒は余りにも私達とかけ離れている存在に見える。仏教はインド人の考えた宗教で「自分の悩みの原因を取り除くためにはどうしたらいいか」という事から出発している。そして宇宙の構造から解き起こして壮大なスケールで万物の運命の法則を六道輪廻の法則で説明した。つまり仏教は科学なのだ。だからお寺に行っても尊敬の念が湧かないのだと私は考えた。世俗のご利益は色々あり、敬愛する聖人に出会うことがあったりしても、今ひとつ宗教としての内容に乏しいのは、現代科学の知識によって「宗教の教える世界観が間違い」だと分かっているからである。今の時代にはそれなりに現代にも通用する宗教が必要ではないだろうか。
私は法然上人と道元禅師を尊敬している。だから何宗というのではなく、宗教家として人間的に尊敬しているのだ。ただ個人的に尊敬する人を敬愛するのは宗教とは呼ばないだろうが、宗教というものを衆徒を教え伝えるもの=伝道するものと考えるならば、キリストもブッダも法然上人も立派な宗教家である。その中でも男女の平等を宗教の中で実現しようとした法然上人に、私は特に共感するのである。「阿弥陀如来の慈悲におすがりする」と法然が言った時、実は阿弥陀は「なんでもいい」のではないだろうか。法然が見ている阿弥陀如来と私にとっての阿弥陀とは、必ずしも一致する必要はない。大事なのは「法然の心の内部」である。
私は神社にお参りしておみくじを引き御利益を願う大衆の気持ちを考えると、これを「神は万物に宿る」と考える日本古来の神道のあるべき姿に思えて来る。それに対して仏教はもっと違う理論的アプローチをしてきた。どちらがどうかは決着していない。だが日本人は本心では神道を信じ、何かの出来事でそれによって救われない無辜の人々の迷える心を救い取ってくれるのが仏教ではないかとおもう。神道では、心の悩みは解決できないのではないだろうか。仏教でなければ、本当に悩みに苦しむ心を持った人は救われない。残念ながら私は心の底から絶望して悩んだことがない。
話がまとまらなかったが結局宗教とは、悩みに答えるものではないか、というのが私の今の考えである。ということは余談だが、これから平安文学を読もうとしている私は「平安人の深い悩み」を勉強する必要がある、という事だろうか。東寺や延暦寺を訪ねて彼等がそこに何を見たのか、それを知るためには長い長い追求の旅路に出かけなくてはならない。五木寛之の百寺巡礼というテレビ番組があるが、寺を巡って宗教とは何かを尋ね歩くという。私はむしろその答えは、当時の市井の生活の中にあるような気がしてならない。宗教は私にとっては、歴史を知るための一つの材料でもある。
一つには「なんて素晴らしい人なんだろう」という尊敬の情である。存在そのものがとても真似出来ない近寄り難い偉い人、という感情だ。では阿弥陀如来や大日如来はどういう理由で祈りの対象なんだろうか?それは仏教で言う教典に書かれている「世界の仕組みの一部として」頭で理解されて、その中で世界の中心と教えられている存在だからである。だがまてよ、仏教でそう教えられているからといって、誰か阿弥陀如来や大日如来を見た人がいるのだろうか。誰も見たこともなく存在自体を確認していない阿弥陀如来などを拝んでいるとき、果たして民衆の心は感動しているのだろうか。私は長年お寺にお参りしているが、仏像を心底有難いと思ったことは、一度も無い。
まずは自分の知っている人、あるいは書物や話に聞いて素晴らしさを実感した人、それが彫像を通して視覚で実在を身近に感じられて初めて敬う気持ちが湧いて来て、そして拝むことが自然と出てくるのだと思う。それが宗教の始まりだと言えるし、ギリシャ・ローマの時代から世界中でそれぞれに祀られているように「神もまた実在する」ものとして考えられていたのである。そう考えてこそ、ようやく皆が手を合わせて拝む行動を説明する事が出来ると私は思う。実在することで初めて個人対個人の(厳密には人間対神の)関係が出来上がる。西洋の宗教はそうして始まった。
一方、56億7千万年の未来にやって来て迷える民衆を全て救うという弥勒菩薩に手を合わせる人がいるなら、「そんな先じゃなくて今すぐに来てもらうわけにいかないんですか?」と尋ねてみたいのだが、弥勒は余りにも私達とかけ離れている存在に見える。仏教はインド人の考えた宗教で「自分の悩みの原因を取り除くためにはどうしたらいいか」という事から出発している。そして宇宙の構造から解き起こして壮大なスケールで万物の運命の法則を六道輪廻の法則で説明した。つまり仏教は科学なのだ。だからお寺に行っても尊敬の念が湧かないのだと私は考えた。世俗のご利益は色々あり、敬愛する聖人に出会うことがあったりしても、今ひとつ宗教としての内容に乏しいのは、現代科学の知識によって「宗教の教える世界観が間違い」だと分かっているからである。今の時代にはそれなりに現代にも通用する宗教が必要ではないだろうか。
私は法然上人と道元禅師を尊敬している。だから何宗というのではなく、宗教家として人間的に尊敬しているのだ。ただ個人的に尊敬する人を敬愛するのは宗教とは呼ばないだろうが、宗教というものを衆徒を教え伝えるもの=伝道するものと考えるならば、キリストもブッダも法然上人も立派な宗教家である。その中でも男女の平等を宗教の中で実現しようとした法然上人に、私は特に共感するのである。「阿弥陀如来の慈悲におすがりする」と法然が言った時、実は阿弥陀は「なんでもいい」のではないだろうか。法然が見ている阿弥陀如来と私にとっての阿弥陀とは、必ずしも一致する必要はない。大事なのは「法然の心の内部」である。
私は神社にお参りしておみくじを引き御利益を願う大衆の気持ちを考えると、これを「神は万物に宿る」と考える日本古来の神道のあるべき姿に思えて来る。それに対して仏教はもっと違う理論的アプローチをしてきた。どちらがどうかは決着していない。だが日本人は本心では神道を信じ、何かの出来事でそれによって救われない無辜の人々の迷える心を救い取ってくれるのが仏教ではないかとおもう。神道では、心の悩みは解決できないのではないだろうか。仏教でなければ、本当に悩みに苦しむ心を持った人は救われない。残念ながら私は心の底から絶望して悩んだことがない。
話がまとまらなかったが結局宗教とは、悩みに答えるものではないか、というのが私の今の考えである。ということは余談だが、これから平安文学を読もうとしている私は「平安人の深い悩み」を勉強する必要がある、という事だろうか。東寺や延暦寺を訪ねて彼等がそこに何を見たのか、それを知るためには長い長い追求の旅路に出かけなくてはならない。五木寛之の百寺巡礼というテレビ番組があるが、寺を巡って宗教とは何かを尋ね歩くという。私はむしろその答えは、当時の市井の生活の中にあるような気がしてならない。宗教は私にとっては、歴史を知るための一つの材料でもある。
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