明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

スポーツの醍醐味(3)オリンピック論・・・その3(理想編)

2024-08-12 14:22:00 | スポーツ・ゴルフ
前回前々回にオリンピックの現状と問題点を書きました。そして最終回「その3」では私なりのオリンピックの「理想形」を書きたいと思います・・・と言っていたわけだが、実は「2」を書いてから暫く日数が経つうちに「心境の変化」が起きてしまい、以前のように「日本選手のメダル獲得に一喜一憂する」ことが無くなって、それ程「オリンピックの興奮」というものを感じられなくなって来たのです。オリンピックオリンピックって、皆んなもの凄いビッグイベントみたいに騒いでるけど結局、「全部の競技を一箇所に集めて」それぞれ順位をつけてランキングする所が見る方からすれば「お祭り」っぽいだけで、やっている事は「ただの世界大会」の寄せ集めでしかなく普段と全然変わらないじゃん、と気が付いた訳です。

陸上100mで金メダルを取るのと水泳の高飛び込みで金メダルを取るのとサッカーで金メダルを取るのとは、冷静に考えれば「何の関連も無い」別々の競技です。全く・・・です。勿論選手達も普段から異なる競技の選手同士がコミュニケーションを取っているようには聞きませんし、もっと言うなら例えばバレーボールの選手にしてみれば、「自国のマラソンの選手」よりも相手国ではあるが競技種目が同じバレーの選手の方が「余程お互いを良く知っている旧知の間柄」だと言えるのじゃ無いでしょうか。色々な競技を同じ場所で網羅的に行うことで見る側は「目移りする楽しさ」はあっても観客はあくまで観客であり、それぞれが個人で楽しむイベントで、選手と観客の間には「ピアニストと聴衆」のような一方通行の温度差があると考えられるわけです。

これでは余程の興味が無ければ「わざわざパリにまで」行こうという気にはなれないのじゃないでしょうか。このままではオリンピックが「世界一のスポーツの祭典」としての市場価値も経済効果も生まれないでしょうし、ましてや出場選手に取っては何物にも代え難いメダル獲得の「モチベーション」も半減してしまいます。ところが現実には、選手は「国の代表」として国民の期待を一身に集めて競技に出場し、マスコミはこぞってその活躍を「夜中に眠い目をこすりながら必死で応援している全国民」に生でお届けするのです。どこから「こんな巨大な勝利への意欲」が生まれるのでしょう?。ちょっと待って!、これどっかで「見覚えのある姿」ではありませんか?

イエス!。昭和16年に山本五十六大将に率いられた日本国海軍が真珠湾攻撃でアメリカ艦隊を完膚なきまでに叩きのめして「日本中が未曾有の大勝利!と沸き返っていた」あの日の軍国日本の姿と重なるのです(実は私は生まれてないので資料で知るしかないのだが)。勿論戦争とスポーツを混同するというのは間違っているように思いますが、少なくとも国民の気持ちの上では「愛国心」という同じカテゴリーに分類される「人間心理」がその根底に働いているのは議論の余地が無い「確かなこと」だと思います。つまり本来は全く無関係な人間同士を「国という単純明快な線引き」で敵味方に分かれさせ、お互いに優劣を競わせることで元々ただの観客だった者を「心理的に選手と一体化・一丸となった「巨大な戦闘集団」に変質させることに成功したという訳です。アングロサクソンお得意の「オリンピック・マジック」という訳です。


例えば普段全く興味がなくて競技のルールも誰が出ているかも大して知らないのに、オリンピックとなると急に情報通になったりして「やっぱ高飛び込みは入水の姿勢が大事なんだよな」などと知ったか振りを言ったりして、俄然自国選手の活躍を応援するようになるから人間とは不思議な生き物です。出場している選手の名前などはその時まで全然知らなくても、メダルを取れそうだというだけで突然に「我が子のように応援する」心理は一体どこから来るのでしょうか。我々日本人は日本選手が金メダルを取ったといえば、それがどういう競技であるかは二の次にして、とにかく「やったぜーっ!」と特大ガッツポーズを決めるでしょう。例えばゴルフなぞ金持ちの遊びと見下していた人が日本人が「メダル争い」をしているという情報をマスコミが報じればすぐにテレビのチャンネルを回して、そこで相手国の選手がバーディチャンスに付けていようもんなら「外せ、外せ!」と大声で叫んだりする訳です。スポーツマンシップもクソもありゃーしませんぜ!、ですね。

この心理を分析すれば、仮に日本人選手がメダルを取ればそれは力一杯応援している「同じ日本人の私」がメダルを取ったのと心理的には「同然」となり、選手の喜びを私も共有して「勝利の快感」に身を委ねることが可能になる、というわけです。この「代用作用の興奮」が身体中を駆け巡って「一種のカタルシス効果」が得られるというのがすなわちオリンピック・マジックですね。これが度重なって病み付きになり、それで味をしめてまたまた他の競技も熱心に応援するようになる、という「無限ループ」が上手いことシステム化されたのがオリンピックなのです。IOC は上手いことを考えたものですね。なにしろ愛国心というのは「無料」ですから。

私はサッカーが好きで今回のオリンピックは予選からずっと見ていました。ですがグループリーグを突破して「さあこれから」という時に惜しくも負けてしまって、日本はメダル無しの敗退という結果に終わった訳です。なんか気が抜けたように落ち込みました。ところが後日、偶然にも「フランス対スペインの決勝戦」を見る機会があって、「どちらの側にも立たずに」純粋な1サッカーファンとしてゲームを見始めたら、これが実に中身の詰まった迫力のある点の取り合いの「真剣勝負」が繰り広げられて、3対1と2点差を追いかけるフランスが終盤でPKを獲得し同点に追いついて「延長戦」にもつれ込むという「絵に描いたようなドラマ」があって興奮しました。最後はスペインの勝利で終わりましたがその時私が感じたものは、私がどちらかのチームを応援してるわけではなかったのに「素晴らしい試合を見せてくれた」という満足感であり、サッカーの面白さを十二分に味わうことが出来たという充足感だったのです。これはオリンピック期間中に常時感じていた自国が対戦していて必死に応援している感覚よりも「より深く競技を楽しめ」たんじゃないのか?、という疑問が混々と湧いてきたのです。

勿論見る上で「サッカーが好き」というのもあるし、チームの戦略や個々のテクニックもある程度分かった上での観戦だったのは重要な要素です。つまり純粋に「試合を楽しむ素養」が少なくとも私にはあったということですね(程度の違いはご容赦下さい)。私はどんなスポーツであれ、そのスポーツを存分に楽しむためには「ある程度の知識と経験」が絶対不可欠だと思っています(幸いゴルフに関しては多少共その難しさを理解しているつもりです)。そして愛国心のような「競技と無縁の雑念」を取り除き冷静に両者の戦いを見れば、そこにはサッカー「競技本来の奥深い面白さ」が目の前に際立ってくる筈です。そう、オリンピックは純粋に、知力・体力を総動員した上で「どちらが上かの勝負」に徹するべきだと思います。そのことを今のオリンピックは忘れているんじゃないでしょうか?(或いは密かに忘れたフリをしているのかも)。これはピアノ発表会で我が子の拙い演奏を「無限の愛情」で眺めている親の誇らしい気持ちと、現代最高の名手が奏でる「至高の音楽」を演奏会場で生で堪能する喜びとの違いだと思いました。

つまり本来のオリンピックとは「純粋にスポーツの祭典」であるべきだ!・・・これが「その3最終回」のテーマです。

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ということで、オリンピックを本来のスポーツの祭典に戻すために、私が考えた「理想の形」を書いてみたいと思います。

1、オリンピックのコンセプトと出場選手
出場選手は決して「国民の代表」などではなく、あくまで国内選考を勝ち抜いて「出場権を得た」実力による勝者です。例えば東大入試に受かった者や司法試験に現役合格した者を「受験者代表」とは呼ばないのと同じことで、彼らには代表意識などはサラサラ無いだろうし、ましてや受験生に対して「選ばれたものとしての責任を感じる」気持ちなどは「1ミリも無い」だろうことは当然です。選ばれたのはその時点で「他の人より実力が上」だからで、国民の応援・後押しが「あっても無くても」選考会で選ばれただろうことは間違いありません。「実力が全て」なのがスポーツなんですね。話は実にシンプルで、情実の入り込む要素は全くありません。選手は自力で選考会を突破してオリンピック出場を決めたわけだから、もう彼らを「日本代表と呼ぶのは止める」ことにしましょう。もし呼ぶなら「日本選手とか日本選手団」が正確な表現だと思います。・・・これは単に「言葉の遊び」のように感じる人もいるかも知れませんが「選手と観客の立ち位置」を明確にする「オリンピックの肝」の考え方なので、是非ともご理解頂きたいと思います。オリンピックは全て「選手の物」で、観客は単に観客席から競技を見てその「素晴らしいパフォーマンスを楽しむ」だけ。愛国心などのスポーツに無用の雑念は、はっきり言って「邪魔以外の何物でも無い」・・・です。

2、開催日
これはオリンピックという「一つのまとまったイベント」だから、開催日は「同じ日同じ期間」に行うのが良いと思います。ただし、四年に一度というのは選手にとっては間隔が開きすぎて選手寿命とかピークを維持するのが難しくなるし、何より「試合数が少なければ少ない程」出場機会を争う選手達に「失敗したら次が無いかも」という無用なプレッシャーが掛かって、メンタルの負担が大きくなります。選手は心身ともに自分の状態が最も良い時に試合をしたいだろうし、見る側も選手の100%のパフォーマンスを出し切っての「真っ向勝負」を見てみたいでしょう。だからここはオリンピックと世界大会を合体させて「統一イベント」を作り、次々と出てくる有望な選手達に「毎年チャンスを与えて」その時々の本当の実力者にメダルを授与するのが良いと思います。まあ毎年やったりしたらメダルの数がめっちゃ多くなりすぎて「有り難みが減る」という意見も出てくると思いますが、例えば日本の女子ゴルフツアーでは毎年40人近くのチャンピオンが生まれています。本当はオリンピックの競技もゴルフのように年間を通して試合があり、毎回チャンピオンが出て来て「その上で年間チャンピオンを決める」のが理想と言えます。その年間チャンピオンを決める場としてオリンピックを行うというのも考えてもいいんじゃないかな。

3、開催場所
現在は選ばれた都市でローテーションし「運営から施設等、丸抱え」で行っているのが実際です。しかしこれは競技場の新設・改築などの負担が莫大な割に「期間終了後の利用」が難しく、多くの都市が後処理に困っているという話をよく聞きます(東京でも問題になっていて困っているそうだ。勿論、困っているのは東京都民です)。これを一気に改善する方法として、開催場所は「固定」する案はどうだろう。そして毎年同じ競技は同じ施設で行うものとするのです。つまり柔道なら東京、卓球なら北京という風に「どこかの国のゆかりの深い都市」に固定するのです。要は「世界各地で同時開催」するわけですね。これが「グローバル・オリンピック構想」というわけです。そして観客はそれぞれ気に入った競技を行っている場所に行って「個別に観戦する」ことも可能だし、今は通信技術が発達しているので「自国にいてテレビで全世界の競技を観戦する」のも可能なわけです。マスコミの巨額な放映料は独占をなくして多数の業者に権利を与えることで「グッと抑えられ」、むしろ各地のテレビ局のローカル性が表に出てきて「それも楽しみの一つ」にもなるだろうし、チャンネルをひねりりさえすれば「何でも見られる」わけだから、何もわざわざ一つの都市に限定して「無闇矢鱈と施設を濫造し、無用な廃墟を作る」必要も全然無いわけです。しかも施設は毎回開催されるから終わった後の利用方法を考える必要も全然無いわけです。それに場所を固定することで「その地域」が競技の認知度と共に爆上がりすることだって十分あり得ると思います。一石二鳥どころか3鳥4鳥ですね。これはメジャーじゃない競技にとっては「願っても無い」方法ではないでしょうか?。それでも1箇所では余りに少な過ぎるというのであれば、せめて3箇所ぐらいにして「一年の持ち回り」でも良いとは思いますがとにかく「競技ファースト」の考え方で運営すべきだと思います。

4、メダル
オリンピックの良いところは「メジャーじゃ無い競技にもスポットライトが当たる」ことでしょうか。こういう機会でも無い限り中々アマチュアの試合でメジャーじゃない競技に多数の人々の関心を集めるのは難しいとも言えます。ですからこの利点は最大限に活用すべきであり、積極的に競技の種類は増やすのが良いでしょう。その代わり、すでにプロの試合がシステムとして確立している超メジャーな競技については、オリンピックから外して「既に行っている国別対抗戦」で優劣を競っても良いと思います。例えばサッカーのワールドカップなどは当然「唯一無二の大会」として既に長年確立されているわけだし、何も無理して別に新しくメダルを増やす必要は全然無いのでは?。またバスケット・バレーボール・卓球・バトミントン・などは既にサーキット形式で世界大会が行われていて、世界ランキングも発表されている立派な競技です。本当は「世界大会」が一番権威のある大会であるべきなのですがそれでも「オリンピックのメダル」が欲しいという選手の要望が強いようなら、その競技の「年間王者」を決める大会を「オリンピック」に当てても良いかも。まあメダルの件は戦っている「選手の気持ち」に沿って決めるのが良さそうですね。

とにかく、国と国とを対抗させて無理やり優劣をつけるという「時代錯誤のナショナリズム」をメインの柱にしているIOCの戦略にまんまと乗せられて、国民とマスコミが「国をあげて熱狂する」のはもう止めようではありませんか?、と言いたいですね。何より選手は自分のキャリアの中で四年に一度という数少ないチャンスしか与えられず、さらに国民を代表して(税金を使って)試合に出ているという「責任も感じて」、もの凄いプレッシャーが両肩に乗っかった状態の中、追い込まれてギリギリの精神状態で試合を戦っているのです。この前 SMARTNEWS の記事で、卓球の張本智和が混合ダブルスでまさかの初戦敗退した後インタヴューに答えて「死ねるもんなら死にたい」と苦しい胸中を明かしていた、と書いてあった。何故「たかが卓球の試合」ぐらいで掛けがえの無いたった一つの人生を押し潰され、出口の無い闇の中に放り出されてしまうのか、これは考えものだと思いました。

まあ彼の本心など私なぞにはトント分かるべくもないですが、世界ランカーの張本にしてみれば「試合で負けた理由」がいくつか明確に分かっている筈だとは想像しています。それが球の精度なのか戦略の組み立てなのか、或いは反射神経なのか筋力強化なのかそれとも「ゾーン」に入るメンタルの強化なのか。ここぞという決め球が偶然ネットに掛かって「不運な失点」をしてしまって負けたかのように素人には見えても、一流選手の感覚には「回転の読み間違い」といった「技術的な分析」をしているに違いありません。以前卓球の試合で韓国の女子選手が日本の選手に手も足も出ずにコテンパンに負けた時、試合が終わっても号泣が止まらず見ている観客の側にも「ちょっと暗澹」とした気分が流れたことがありました。これなどは分かりませんが多分「期待はずれの結果しか出せなかった自分の実力が悔しくて悔しくて、それで「涙が止まらなかった」んだと思います。今回も柔道の阿部詩の号泣が色々と取り沙汰されているようですがこれも、「自分への過度の期待」が裏切られた時の感情のコントロールが出来ずに「号泣した」のではないかと想像します(勝手な想像で本当は全然違う、ということも十分あり得ます)。これなども四年に一回じゃなくて毎年何回も試合をやってそれぞれにチャンピオンがいる状況であれば、年間チャンピオンも自分に過度な期待をすることもなく自ずと決まってくるんじゃないでしょうか。そうすれば阿部詩も「あんなに泣く事はなかった」と思います。

とにかく今後オリンピックを継続して楽しく見るためには「自国が勝ったかどうか」という低レベルでの競争ではなく、好きな競技を絞って「選手がどうハイレベルに戦うか?、その技を尽くした勝負」という点に注目して競技を楽しむ、というのが正解じゃないでしょうか。

今回の結論:スポーツに「愛国心」を持ち込むのは間違いだと思います。


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