デービッド・アトキンソンの新刊本が面白い。「新・生産性立国論」というタイトルで東洋経済新聞社から1500円+税で出ている。日本はデフレを克服するために黒田日銀総裁が「異次元の金融緩和」を始めてから何年にもなるが、一向に物価2%上昇を達成できないで停滞しているが、その原因は「人口減少と生産性の低さにある」と喝破しているのだ。なるほど、うすうす感じていた私の「経済の本質に対する無知」が明らかになった瞬間である。今回読み終えて、この一冊は是非皆さんにも紹介しなければと思い、勝手に中身をパクって書いてみた次第である。
私は、日本人の中にある「日本は特別」的な感覚が結局「全てを台無し」にする、というような意味の文章が心にグサッときて、一人の日本人として猛省しているのだ。このことは仮に日本の置かれている状況をそのまま、名前を「アフリア」とかなんとか「架空の国名」にして議論すれば、途端に「現実的」で「実際的」な議論に早変わりするのになぁと、ついつい妄想してしまう。それまではフラットな議論をしているのに、「日本人の弱点」というフレーズが一瞬でも出てくると、それに過剰に反応して「言い訳じみた説明」を始めるのが日本人なのだ。これは「データを信用しない」日本人の「悪い癖」である。精神一到火もまた涼し、ということである。ちなみに私の会社での経験では、詳しくは割愛するが「データを活用する」ということが全然出来ていなかったように思う。
かく言う私は「生産性」と聞いて労働者が「どれだけ利益を上げられるか」だと思っていた。利益=売上−原価−給料などの人件費と税金・配当その他ということだが、生産性は「付加価値の総額」である。生産性と利益とは「違う概念」なのである。普通は人件費もコストに含まれると考えられているが、それは会社の帳簿・税務上のことであり、実は「働く人間にとっては関係ない」のだ。人件費がコストだと思いこんでいる労働者は、税務署に洗脳されている「お目出度い人間」ではないかと、この本を読んで気がついた。
生産性の意味を厳密に理解すれば、日本の(あるいは企業といってもいいが)やるべき目標が見えてくるとアトキンソンの本は教えてくれる。「生産性」という単語は、何かを生産する指標と考えてしまうが「実は生み出した付加価値」としたほうが誤解を招かずにすむのではないだろうか。生産性と言うとどうしても「労働者の働く効率」と考えがちだが、効率は単に生産能率のことで生産性とは関係ないのだ。生産性は「付加価値」を図る指標なので、要するに「売上」が無いと「生産性」はゼロである!これは驚きの理屈だった。そこでこれからデビット・アトキンソンの本を読んで、私が気が付き・考えたことを書いて見ようと思う。
ちょっと関係は無いが「銀行業務」の例が本に書いてあったので一言、脇道に逸れるが書いてみる。これは私が提案する「キャッシュレス」を日本が採用することで、「銀行業務の大半が無用」になるという説である。当然「銀行員も殆どが必要無い」時代になる。コンピュータとメンテナンス要員に「貸付処理担当者」と少しばかりの資本家とがあれば、「大半の銀行」は出来てしまうのだ。何万人という支店の窓口係や帳簿担当者は「全員クビ」である(何とスゴイことだ)、一瞬にして莫大な利益が生まれるではないか。では余った労働力はどうなるか?・・・これが日本人の典型的な反応で、失業する労働者をどうしてくれる、と大反対が巻き起こるのである。しかし日本の活性化の為に「他の高度な労働力を必要とする分野」に余った労働力を転用すれば、「日本全体の生産性はもっと上がる」のである。ちょっとした自慢ですが、この本の理屈ではそうなるのである。
閑話休題。日本経済を「長時間労働・高品質・低価格」と言って褒め称える傾向は「安倍政権になってから強くなった」とアトキンソンはいう。理由もなく日本を「日本と言うだけで賛美する」傾向があるらしい。この事で思い出すのは、江戸末期に黒船が来て開国論が激しくなった時、尊王攘夷を唱えて倒幕を推進した勢力が「維新を果たすと急転直下、まっさきに西洋の先進文化を取り入れた事」である。学校では明治維新を尊皇攘夷派の勝利と教えていたような気がするが実は、どっちの陣営も「開国する」点では同じだったのである。要は尊王派と佐幕派の戦いであり、両者の主張に「攘夷」は消えて無くなっていたのだ。何が言いたいかと言うと、日本を愛しているのは良く分かるが、盲目の愛では困ると言うことである。明治の元勲は日本の状況を良く知っていた。日本人の多くが東京オリンピック招致で「おもてなし」発言が評価されたと思い込み、世界の中で「独自の文化を持ち続けている日本の美点」と自慢しているが、外国人観光者にしてみれば「トンチンカンな誤解」に過ぎないというのは最近よく知られていることである。日本人は日本の技術と労働者の質を自慢するが、その一方で「ロボット」をせっせと作っているのである。矛盾では無いか。やはり日本人は「経済」をもっと勉強しなければいけないのだ。そこでこれから「新・生産性立国論」の中身をかいつまんで紹介する。ちなみに、内容はデービッド・アトキンソンの受け売り「そのまま」であることをお断りしておく。興味のある方は、是非本屋で買ってみて読んでください。
1 経済成長は人口増のせい
日本が経済大国になったのは「人口大国」だからである。日本の高度成長の要因は「日本の企業文化と日本人の質」にあると言われているがそうではなく、単に人口が1億2千万人に増えたからである。日本の終身雇用制・年功序列などの特殊な要因は、経済の発展とまるきり関係なかったのだ。もちろん人口増に対応するだけの勤勉さと高い能力が日本人にあったことは否めない。だがとにかく「人口増」ありき、なのである。ここまで言い切られると、いささか「うーん」と言わざるを得ない。
2 人口減が日本を沈没させる
そこで肝心の人口だが、2060年まで今の減少が続けば「日本の人口は8700万人」まで減り、15歳から64歳までの生産年齢人口は7700万人から4400万人と43%も減ってしまうのだ。労働力がガタ減りなのである。人口が減るとどうなるかと言うと、「社会保障費と医療費が払えなくなる」のである(あわわわわ)。いまでも毎年高騰するこれらの費用を捻出するのに四苦八苦している政府が、4割も労働人口がへったら「とてもやっていけない」のは明らかだ。ちなみに総人口の減少の割合以上に労働人口が減るのは、高齢者の減少より若年労働者の減少のほうが「断然多い」からである。仮に労働者の生産性が今のまま2060年まで続くとすると、GDPは535兆円から308兆円になってしまう。もし老人に払う社会保障費(例えば年金)をGDPに合わせて減らすとすれば、生活できなくなる人がホームレスになって日本中に溢れ返ってしまう。大不況時代の到来である。それにいま日本の抱えている「借金」のGDP比率が「もっと高く」なることが想定されるのだ。これは「日本の信用」に関わる重大な問題である。もしかするとギリシャ以上の事件に発展するかもしれない.。結局は日本全体にとっては、何が何でも「GDPの維持」は必要不可欠なのである。そうしなければ、自分の親がホームレスになっても見捨てざるを得ない「親不孝なサバイバル社会」になるしかないのである、とデービッド・アトキンソンは書いている。
3 デフレの原因
私の生まれた1950年頃まで日本はベビーブームで、200万以上の大量の人間が「毎年」生まれていた。人間がどんどん増えていたのだから当然「それに引っ張られて個人消費」が急激に拡大し、朝鮮半島の特需もあって、日本経済はうなぎのぼりに伸びていた。それで「私が働き出した頃には、毎年2割ずつも給料が上がっていた」という有頂天の好景気で日本中が沸き返っていたのである。つまり人口増が経済を押し上げていたわけだ。ところが途中から人口が減り始めた。理由は色々あるだろうが、とにかく「減ってしまった」のである(かく言う私も未婚で子供なし、である)。消費が減っているのに商品は作り続けるから供給過剰でデフレになる、この単純な理屈が全てなのだ。ようやく政府が子供を増やそうと躍起になっているが、いまさら女性が「一人で4人も5人も生む」時代では無いし、もうそんなことは無理である。ところが日本は実は、GDPが大きい割に「一人当たりのGDP(これが生産性!)」が先進国の中で極端に低いのだ(つまり質より数)。これが、日本は人口が減っても「一人あたりの生産性を上げる事によって」GDPを維持することが出来る(可能性を持っている)証拠である(これを読んで、首の皮が繋がった気がした)。
では人口が減ってもGDPを維持していく「方法」はあるのだろうか。(続く)
私は、日本人の中にある「日本は特別」的な感覚が結局「全てを台無し」にする、というような意味の文章が心にグサッときて、一人の日本人として猛省しているのだ。このことは仮に日本の置かれている状況をそのまま、名前を「アフリア」とかなんとか「架空の国名」にして議論すれば、途端に「現実的」で「実際的」な議論に早変わりするのになぁと、ついつい妄想してしまう。それまではフラットな議論をしているのに、「日本人の弱点」というフレーズが一瞬でも出てくると、それに過剰に反応して「言い訳じみた説明」を始めるのが日本人なのだ。これは「データを信用しない」日本人の「悪い癖」である。精神一到火もまた涼し、ということである。ちなみに私の会社での経験では、詳しくは割愛するが「データを活用する」ということが全然出来ていなかったように思う。
かく言う私は「生産性」と聞いて労働者が「どれだけ利益を上げられるか」だと思っていた。利益=売上−原価−給料などの人件費と税金・配当その他ということだが、生産性は「付加価値の総額」である。生産性と利益とは「違う概念」なのである。普通は人件費もコストに含まれると考えられているが、それは会社の帳簿・税務上のことであり、実は「働く人間にとっては関係ない」のだ。人件費がコストだと思いこんでいる労働者は、税務署に洗脳されている「お目出度い人間」ではないかと、この本を読んで気がついた。
生産性の意味を厳密に理解すれば、日本の(あるいは企業といってもいいが)やるべき目標が見えてくるとアトキンソンの本は教えてくれる。「生産性」という単語は、何かを生産する指標と考えてしまうが「実は生み出した付加価値」としたほうが誤解を招かずにすむのではないだろうか。生産性と言うとどうしても「労働者の働く効率」と考えがちだが、効率は単に生産能率のことで生産性とは関係ないのだ。生産性は「付加価値」を図る指標なので、要するに「売上」が無いと「生産性」はゼロである!これは驚きの理屈だった。そこでこれからデビット・アトキンソンの本を読んで、私が気が付き・考えたことを書いて見ようと思う。
ちょっと関係は無いが「銀行業務」の例が本に書いてあったので一言、脇道に逸れるが書いてみる。これは私が提案する「キャッシュレス」を日本が採用することで、「銀行業務の大半が無用」になるという説である。当然「銀行員も殆どが必要無い」時代になる。コンピュータとメンテナンス要員に「貸付処理担当者」と少しばかりの資本家とがあれば、「大半の銀行」は出来てしまうのだ。何万人という支店の窓口係や帳簿担当者は「全員クビ」である(何とスゴイことだ)、一瞬にして莫大な利益が生まれるではないか。では余った労働力はどうなるか?・・・これが日本人の典型的な反応で、失業する労働者をどうしてくれる、と大反対が巻き起こるのである。しかし日本の活性化の為に「他の高度な労働力を必要とする分野」に余った労働力を転用すれば、「日本全体の生産性はもっと上がる」のである。ちょっとした自慢ですが、この本の理屈ではそうなるのである。
閑話休題。日本経済を「長時間労働・高品質・低価格」と言って褒め称える傾向は「安倍政権になってから強くなった」とアトキンソンはいう。理由もなく日本を「日本と言うだけで賛美する」傾向があるらしい。この事で思い出すのは、江戸末期に黒船が来て開国論が激しくなった時、尊王攘夷を唱えて倒幕を推進した勢力が「維新を果たすと急転直下、まっさきに西洋の先進文化を取り入れた事」である。学校では明治維新を尊皇攘夷派の勝利と教えていたような気がするが実は、どっちの陣営も「開国する」点では同じだったのである。要は尊王派と佐幕派の戦いであり、両者の主張に「攘夷」は消えて無くなっていたのだ。何が言いたいかと言うと、日本を愛しているのは良く分かるが、盲目の愛では困ると言うことである。明治の元勲は日本の状況を良く知っていた。日本人の多くが東京オリンピック招致で「おもてなし」発言が評価されたと思い込み、世界の中で「独自の文化を持ち続けている日本の美点」と自慢しているが、外国人観光者にしてみれば「トンチンカンな誤解」に過ぎないというのは最近よく知られていることである。日本人は日本の技術と労働者の質を自慢するが、その一方で「ロボット」をせっせと作っているのである。矛盾では無いか。やはり日本人は「経済」をもっと勉強しなければいけないのだ。そこでこれから「新・生産性立国論」の中身をかいつまんで紹介する。ちなみに、内容はデービッド・アトキンソンの受け売り「そのまま」であることをお断りしておく。興味のある方は、是非本屋で買ってみて読んでください。
1 経済成長は人口増のせい
日本が経済大国になったのは「人口大国」だからである。日本の高度成長の要因は「日本の企業文化と日本人の質」にあると言われているがそうではなく、単に人口が1億2千万人に増えたからである。日本の終身雇用制・年功序列などの特殊な要因は、経済の発展とまるきり関係なかったのだ。もちろん人口増に対応するだけの勤勉さと高い能力が日本人にあったことは否めない。だがとにかく「人口増」ありき、なのである。ここまで言い切られると、いささか「うーん」と言わざるを得ない。
2 人口減が日本を沈没させる
そこで肝心の人口だが、2060年まで今の減少が続けば「日本の人口は8700万人」まで減り、15歳から64歳までの生産年齢人口は7700万人から4400万人と43%も減ってしまうのだ。労働力がガタ減りなのである。人口が減るとどうなるかと言うと、「社会保障費と医療費が払えなくなる」のである(あわわわわ)。いまでも毎年高騰するこれらの費用を捻出するのに四苦八苦している政府が、4割も労働人口がへったら「とてもやっていけない」のは明らかだ。ちなみに総人口の減少の割合以上に労働人口が減るのは、高齢者の減少より若年労働者の減少のほうが「断然多い」からである。仮に労働者の生産性が今のまま2060年まで続くとすると、GDPは535兆円から308兆円になってしまう。もし老人に払う社会保障費(例えば年金)をGDPに合わせて減らすとすれば、生活できなくなる人がホームレスになって日本中に溢れ返ってしまう。大不況時代の到来である。それにいま日本の抱えている「借金」のGDP比率が「もっと高く」なることが想定されるのだ。これは「日本の信用」に関わる重大な問題である。もしかするとギリシャ以上の事件に発展するかもしれない.。結局は日本全体にとっては、何が何でも「GDPの維持」は必要不可欠なのである。そうしなければ、自分の親がホームレスになっても見捨てざるを得ない「親不孝なサバイバル社会」になるしかないのである、とデービッド・アトキンソンは書いている。
3 デフレの原因
私の生まれた1950年頃まで日本はベビーブームで、200万以上の大量の人間が「毎年」生まれていた。人間がどんどん増えていたのだから当然「それに引っ張られて個人消費」が急激に拡大し、朝鮮半島の特需もあって、日本経済はうなぎのぼりに伸びていた。それで「私が働き出した頃には、毎年2割ずつも給料が上がっていた」という有頂天の好景気で日本中が沸き返っていたのである。つまり人口増が経済を押し上げていたわけだ。ところが途中から人口が減り始めた。理由は色々あるだろうが、とにかく「減ってしまった」のである(かく言う私も未婚で子供なし、である)。消費が減っているのに商品は作り続けるから供給過剰でデフレになる、この単純な理屈が全てなのだ。ようやく政府が子供を増やそうと躍起になっているが、いまさら女性が「一人で4人も5人も生む」時代では無いし、もうそんなことは無理である。ところが日本は実は、GDPが大きい割に「一人当たりのGDP(これが生産性!)」が先進国の中で極端に低いのだ(つまり質より数)。これが、日本は人口が減っても「一人あたりの生産性を上げる事によって」GDPを維持することが出来る(可能性を持っている)証拠である(これを読んで、首の皮が繋がった気がした)。
では人口が減ってもGDPを維持していく「方法」はあるのだろうか。(続く)
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