(1)一の蔵 特別純米酒4合瓶は、久々に飲んだ上手い酒
特別栽培米仕込みという聞きなれない酒である。化学肥料や農薬を極力使用しない製法で育てた米を使ってつくった酒という意味らしい。冷蔵庫で保管してあるのでキンキンに冷えている状態、飲み口はまろやかで口当たりや喉越しはマイルドだ。辛口の酒にありがちな「キーン」とくる感じは、冷蔵庫から出して少し経てばスッと抑えられて、日本酒独特の粘りのようなコメの感覚が喉を伝わって、吟醸酒ほどでは無いがアルコール分が軽く鼻に抜けていく。つまみを選ばないし、これは家飲みに最適かもしれないな、などと「選択が当たった時の満足感」が、アルコールの余韻とあいまって心地よい。一の蔵は宮城の銘醸でもともと評価は高かったが、一度「無鑑査」というのを買った事があり、その時は失敗した。今回はセブンイレブンで棚に並んでいるミニチュア瓶(516円だったと思うが)を、他に無くて仕方なく買ったのであるがこれが当たったので気を良くして、今回4合瓶を購入した。
舌に乗っけて転がした感じは、酒らしい膨らみのしっかりした豊潤な味で、喉越しがスッキリした嫌味のない酒である。純米酒と言うだけに雑味がなく、刺身に合わせても控え目で魚の味を消さない上品さがある。私は山廃仕込みという製法で作った酸味の強いどっしりした酒がどうにも好きになれず、軽くて爽やかな吟醸タイプの酒が好きである。手取川や景虎なんか好きであるが、こないだ飲んだ「八海山 特別本醸造酒」がとても美味くて「さすがは八海山」と感心したが、当たり外れがあると言うので次に買うのが美味いとは限らないという。それより色んな酒蔵の酒を味わってみたいので、まだ八海山はチャレンジしていない。最近は東北の酒や新潟・石川の酒をひとまず置いておいて、静岡・愛知か群馬・栃木の酒を試そうと思っている。日本全国の色んな酒を飲むためには、それを取り揃えてある酒屋を見つけるしかない。それかネットで注文するか。で、柏で取扱量の多い酒屋を見つけて「主人と友達になる」ことにした。
これから探すので、見つかるまではネットで買うことにする。手始めに「写楽」を頼んでみる。そういえば、ワインの品評会よろしく日本酒にも「格付け機関」が誕生したと言う。元々日本酒にも品評会はあるが、今回のは「ワインを格付けしている外国の機関」だというので話題になったようだ。日本酒も、柔道みたいにワールドワイドになって「柔道じゃない」へんなスポーツに成り下がった例があるから外国から格付けされるのも良し悪しだが、一度は10月発売の格付けリストを見て「新しい酒」を発見するのも楽しいかも。柏の酒屋探しは続報を期待頂くとして、後何年酒が飲めるかわからないが「酒は人生の最良の友」ってのは真理です。
(2)消費エネルギーとダイエットの関係
病気をして初めて知ったのだが、サービス付き高齢者住宅に住むようなお年寄りは、ほとんどご飯を食べないという事だ。一日中寝ているか「デイ」というお遊戯の時間を過ごして暮らすお年寄りには、補充すべき消費エネルギーの量はさほど多くない。食べないからお通じも細々として、介護士から「難儀なのよ」などと嘆かれることになる。やはり健康だという事は「食べること」なのである。私は食べることに関しては大してこだわりがないのだが、量を食べる傾向があった。品数は少ないが一品ごとの量は結構多かったと思う。病気をする前は一人暮らしでもあり、人参でも小松菜でもチクワブでも、全て「一個単位」で食べていた。野菜中心だが量が多いので、結果は太り気味である。174cmで体重が73kg 、スポーツ選手なら筋肉質でいい感じなのだが、いかんせん私は脂肪太りでタプタプなのだ。だが病気をして以来街中で見る人々の体型を観察するようになって、皆んな思ったより痩せてることに驚いた。いままでは気づかなかったが、人間って「こんなに細い動物なんだ」というのが正直な感想である。
まず男の脚が細い。つぎに胴が細い。女の肩幅も細くて、周り中「細い!細い!」のオンパレードだ。勿論太いのもいるが目に留まらない。病気してから自分も相当痩せたが、ふと気付くと「丁度良い」体型なのである(実はこれが驚き)。人間は174cm で63kg ぐらいがベストらしい。肉体労働する人たちはもっと太いのだろうが、私くらいの活動量からすれば「出るエネルギーから逆算すると、食べる量はほぼほぼ足りてるらしい。栄養のことを考えると食べすぎになる傾向だが、嚥下障害のお蔭か食べることに興味がなくなって、むかし散々食べていた「せんべい・ポテトチップ・チョコレート・アメリカンドッグ・ソースたっぷりトンカツ・エビのタルタルソース・テンプラ蕎麦 etc etc」などとは無縁の生活を2年間続けている。人間はそんなに食べる必要は無い、というのが病気をして覚えた唯一の真実である。
皆んな世の中ではダイエットへの関心がかってないほど高まっているが、結局売らんかなの思惑と目先の快楽に溺れて「必要以上に食べてしまう」ことが全ての原因であり、太る理由なのである。飽食の時代になってから久しいが、正しい食事をしている人も中にはいるのであるから、ダイエットを考える前に一度「高齢者の方の食事の量」を見てから実行することをお勧めする。しばらく最小の食事(品数はそこそこある)で我慢して、それから健康診断を受けてなんともなければそれが適正な量なのである。「こんな食事じゃ、生きてる喜びがないよ」とおっしゃるのなら、食事を変えるより考え方を変える方が先であると言いたい。何かに打ち込む、というのが人生を楽しくする秘訣である。食事は「必要な分だけ」と思うこと。別に難しいことでは無い。ヒマだから食べてしまうのだから、食べることを忘れるくらい忙しければ・・・という事になる。
先ずは楽しいことを頭に浮かべて見よう。それが食事だとするとこの話は通用しない。そういう人はダイエットは諦めて、太く短く生きましょう。そもそも食べる事が生きがいなんだから、ダイエットなんか考えるだけ無駄、「いくらでも太ってあっさり死んじゃいましょう」というもんです。食事以外のことが頭に浮かぶようなら、先ずはその事から集中して見ませんか?
世の中の半分の人は健康で痩せていることに気がつきましょう。人間は元々細い生き物なんです。「病気して 初めて分かる 標準食」、これ私の作った川柳です。
(3)ドイツでは、ペットも人間も同等
ドイツは犬の殺処分がゼロだそうだ。さすがペット大国ドイツだ。猫はどうだか知らないが、ドイツでは犬は人間と同じ扱いである。電車にもレストランにも犬を連れて行って構わないというのは、そもそも生産者がきちんと育てる習慣があるからだそうだ。日本はペットショップでバンバン赤ん坊の犬を売っているが、結局売った後は飼い主任せで捨てられる犬も結構な数になる。野犬は保健所が管理して最後は処分ということになるのだろうが、元はと言えば「売られていたか貰われて来たか」、何れにしても捨て犬というのは数が少ないだろう。それが理由は何にしろ「捨てられて処分される」というのでは、飼い主の責任は重大である。よく言われる事だが、一旦ペットを飼ったら死ぬまで責任持って飼育していくべきである。ペットはオモチャではなく、愛情を与えてくれる天使である。当然飼い主は、ペットの愛情を「自分のものとして受けとる権利を買った」ということになる。
犬は頭もいいし頑健で人懐こい動物だ。家族の一員として愛情を注ぐに足る「友人」である。ドイツでは良い友人になるための教育が社会の中でしっかり根付いているのだろう。日本はペットとしての歴史が短いからかもしれないが、犬は長い間「番犬」の域を出なかった。日本では長屋のご意見番のご老人が、愛犬に話し掛ける姿なぞは想像できない「ペット後進国」である。日本もそろそろ経済大国から脱皮して、フランスのような文化大国を目指してもいいんじゃ無いかと思うがどうだろう。
そう言えば先頃亡くなったMさんを思い出した。同じく脳梗塞を患った同僚のY君と私の二人で、夏の暑い日にMさんの家に遊びに行ったことがあった。二階に上がって三人麻雀をしてたら、何処からともなく下手なカラオケが流れて来た。「ったく下手くそだな、誰が歌ってんダァ!」と舌打ちしながら呟いたら、Mさんがきまり悪そうにボソッと言った、「女房なんだ」。
今となっては懐かしい思い出である。奥さんも独りになって寂しいと思うが、ペットでもいれば「何の裏もない可愛い目で、じっと見つめてくれる」友人になってくれたのにと感慨深くなる。Mさんあの世で今頃どうしてるかなァ。
(4)豊洲の新市場建設事情
移転を進めている東京都は、盛土の問題を共産党に指摘され、小池新知事にも指摘されて進退窮まった。都庁の役人といい議員団といい、どうも都民は知らなくていいという「自分が都の主人」的感覚が蔓延しているようである。しかしマスコミを始め都民の反応は筋違いではなかろうか。「都民の台所を預かる豊洲新市場は、まず安心・安全こそが大事である」という主張が声高に叫ばれているが、安心・安全なんて「どれだけ都民の生活に関係あるのだろうか」と言いたい。食べたらすぐ死ぬというんじゃ困るが、ドラム缶いっぱい毎日食べなきゃというんじゃ「例え有毒であっても」それほど気にしなくても良いのじゃないか。要は責任さえはっきりすれば、多少の有害物質は大目に見るのが大人の対応というもの。それよりもっと大事なことが目の前にあるのに誰も真っ先に指摘しないのは、不思議を通り越して「マスコミの糾弾に乗っかる形の」世論形成がジンワリ見て取れるから、こちらの方が問題だ。それで私の築地移転問題へのアプローチを提言して見る。
1 東京都の新市場の正式資料から地下の空洞が隠されていた件
これは盛土をしたことになっているのに実際はやってなかったわけだから、詐欺である。当然盛土の原材料調達費用と工事費用がスッポリいらないのだから「費用がどえらく浮く」ことになる。手抜きの典型だ。もし盛土の費用を含めた請求をしていれば架空請求だし、盛土の費用を減らしていれば「専門家の決定」と違うやり方で工事をしたのだから図面錯誤のやり直しである。都庁職員は「もちろん知っていた」のに都民に隠していたのであるから、「事実の隠蔽」で通常の会社であれば「クビ」である。都庁職員が公務員だから罪を逃れられるというのは逆であって、公務員だからこそ「厳正に対処し、首にすべき」ではないのか。もちろん工事業者も損害賠償と諸々の追徴金を免れる事は出来ない。
2 石原元都知事の指示だという話
あり得る。多分業者も嫌々やらされたのだろうが、浮いたお金でどういう乱脈が行われたか「厳正な捜査で明らか」にし、この際石原元都知事一党を徹底的に調べ上げ追及すべきである。舛添前都知事も隠蔽に加わっているに違いない。何故ならこれほど大きな事実を隠し通すためには、相当な権力の締め付けがなければ不可能だからである。これがうやむやになるようであれば、我々は住民税を払わなければ良い。
3 オリンピックに間に合わない件
今度の東京オリンピックは最初からケチのつき通しである。この際開催国の名誉を返上して、とりあえずロンドンに頼み込んでもう一回やってもらうか、ギリシャに「設備の改修費用は日本持ちで」引き受けてもらうというのはどうだろう。まだ4年もあるのだから、やったことがある都市なら何とでもなるのではないか。何なら北京でもう一度開催してもらい、習近平に擦り寄るのも「手」である。
4 建設・土木となると汚職の匂いがプンプンしてくるが、要は自民党という党の体質が田中角栄以来「建設・土木」の汁を吸って大きくなった党であることに原因がある。原子力発電しかり鉄道しかり、何かの構造物を作っては金儲けする体質なのだ。作るだけだから後のことは全然気にしない。オリンピックもブラジルのことを散々間に合わないだのどうこう言っていたが、結果は大過なく行われたみたいである。東京オリンピックも莫大な費用が見込まれているが、終わってみれば無駄のオンパレードでは、何の為の税金か教えてもらいたいものだ。誰の懐に入るのか「国民は浮かれているだけでなく、真剣に考える必要がある」と私は思うのだが、どうもタダで開催できるとでも思っているフシがあるのは如何なものか。
豊洲新市場の件でわかったように、日本人は「責任者という感覚が無い」国民である。誰が決定し、誰が認可し、誰がチェックしてオーケーを出したのか。この最低限のルールが「ハッキリしない」では、税金を扱う資格はない。関連部署を全部首にするくらいの不退転の気持ちで小池都知事には望んでもらいたいが、果たしてどこまでやるか。二、三人辞めさせられて終わりなんてことのないように、しっかり監視していきたいものである。
(5)iOS 10 の新機能とアップルのやる気
アップデートが来たとニュースサイトで知ったので、早速アップしてみた。記事ではトラブルだなんだと書いてあったが、幸いなことに私は一度もそんな目に遭ったことがないので安心しきって実行、完了した。アップルはこう言う古い機種と新しい機種のアップデートに関して、平等なところが好きだ。勿論ハードウェア的に機能が発揮できない場合については承知している。だがアンドロイドのように発売メーカーごとにちょっとずつ違うユルユル製品と違い、アップルが考える最高のパフォーマンスを自社で完成させた製品で提供する姿勢は、ユーザーに取って安心以外の何物でもない。フラッシュが使えないとか、おサイフケータイが使えないとか、テレビが見られないとか、防水じゃないとか、色々あったけど結局は「アップルが出すのまで我々は待った」のだ。アップルが「これはこうして使う」と宣言したら、我々は従うのである。その機能がどうしても欲しければ、アンドロイドを買えばいい。だがアップル製品の持つ完全な一体感は、iOS でなければ得られない。私はその一体感を、つまり十分に考え抜かれた iPhone と iPad と iCloud の連携が好きなのである。ここにはアップルの考える「コンピュータ・テクノロジーを、人間の最良の友人にする」というメッセージが感じられないだろうか。私の好きなのはそこである。アップルと暮らす、それが今の私の選択である。
(6)柏と大宮の違い
東京から四通八達している鉄道網の中で、大宮と柏は30〜40分の「丁度いい感じの離れ具合」の町である。住民も40〜50万人とやや大きい部類の都市と言える。柏は常磐線の沿線でも人混みがある方で、高島屋とそごうに丸井やビックカメラなど買物にも便利な所でもあり、東武アーバンパークラインという線で南は船橋まで北は春日部・大宮へと繋がっている。流山おおたかの森駅でつくばエクスプレスが最近つながって便利になった。しかし全国住みやすい街ランキング100位以内には入っていない「人気はそれほどでも無い」街なのである。
どうもガサツだし、住んでて愛着が湧かない。どうやら東京に近すぎて「東京の場末の、さらに周りにぶら下がってる街」的イメージが強いのだ。その点は松戸は、中身はどうあれ柏から見ると、「都会の中の静かな街」としてアイデンティティがしっかりあるように見える(引越してみれば違うかもしれない)。青山あたりとは比べるべくも無いが、住みやすい街というのはやはり、歩いていても「ホッとする」空間かそこかしこにあるような気がする。それが瀟洒なお店だったり暑い日差しを和らげる木陰だったり、心が動くシチュエーションに街の住人も気を配って整えているのだろう。柏は、用があると近場で済ませるが、何か重要な事をしようとすると「東京に行く」という感じが満載なのだから当然、街は人と会うところではなく、全てがコンビニ化してくる。
柏は寝るところ、人生を過ごすのは「東京」である。だから住んでるというより「寝れればいい」街になるのは、当然である。引越す前は良いチョイスだと思ったのだが、一ヶ月もしないうちにもう飽きて来た。大宮はどうかなと気になる比較だが、住み心地を考えると東京の山手か横浜のあたりがベストな気がする。年もとって人生の残された時間にも限りがある私なぞは、貯金をはたいて「青山暮し」も考えようかな、なんて妄想に駆られる今日この頃である。ちなみにそごうは閉店だそう。高島屋も客が減ってるそうだから、いずれは撤退するのかも。
私の柏再開発案はまず駅を作り直して低層のガラス張り駅舎とし、周辺に「人の憩える空間を配置する」というもの。物を売ることに一生懸命で買う人のことを考えてこなかったゴミゴミした街並みを、「文化的な雰囲気」の漂う街へと変貌させるという強い意志を持たなければ、地域の中で「中心的役割」を果たすことは出来ないと思う。まずは「東京の呪縛から離れて、独自路線の一歩を踏み出す」ことであろう。とはいっても、私は別にどっちでもいいが。
(7)久し振りにアメ横に行ったら、歩いている人々がやたらと外国人で驚いた。タイやベトナムやフィリピンといった ASEAN 諸国、インド・パキスタン系、イラン・イラクの中東系、中国・韓国・台湾の東南アジアの隣国、それに欧米各国・アフリカ・南米と、人種も言語も多種多様である。比率も以前に比べるとグッと上がっていて、感覚としては歩いているお客の半分近くは「いわゆる外人」に見えてくる。アメ横は特に外人観光客が多いのだろうが、それでも日本も「人種のるつぼ」と言われる日がそう遠く無いことを、実感させられる光景である。
彼らが何を話してるかは全然わからないが、中国人はひときわ声がデカイ。静かに話すという文化は中国には無いようだが、これは言葉が単音で構成されているということにも原因はあると私は密かに思っている。四声といわれる抑揚で漢字を表現するのだが、同音異義語の連続である。日本人の感覚からすると「あの複雑な漢字を文章を、全部一音で言ってのける」と言うのは異常である。中国の詩人は世界に冠たる李白・杜甫を筆頭として綺羅星のごとく輝いているが、字面を見ないで発音だけを聞いているとそれほどでも無い気もする。あまりに短くて変化に乏しいと言うのが、私の漢詩の素直な感想である。やはり中国語は「眼で見て、形からくるイメージを鑑賞する」言語なのであろう。
ウェイウェイと叫ぶ中国人を眺めながら、私はアメ横の雑踏を抜け二木ゴルフの中古ショップへ入った。此処でも外人観光客が増えている。なんだか海外旅行に行っているような不思議な感覚に襲われる。パリやニューヨークなんかも、街中はそうなんだろなと思った。東京は世界の大都市、そう感じても不思議はない。むしろその中にどっぷりと浸かって「ここはグローバルな場所なんだ」と思う事が、これからの日本人には必要とされるかもしれない。と言うか、日本人という言葉自体が死語になる時代がすぐそこに来ていると思った。勿論田舎に行けば日本は残っているだろうが、ますます希少になるのは時代の流れである。日本らしさ、私は残したいと思うけど果たしてどうなることやら。
(8)蓮舫議員が二重国籍だからなんだっていうの?
騒いでる議員達も代表選挙でああも圧勝されては、褒め讃えるしかないだろう。しかしマスコミや一部の有権者が二重国籍を懸念するような発言をしているのはいただけない。「首相になる可能性がある人なんだから二重国籍はどうなんだろう」と、テレビで視聴者(別に国民の代表でもなんでもない)が言っているのを流していたが、こういう尻切れトンボな発言をただ垂れ流した挙句にいつの間にか国民的意思形成に持って行く手法は、如何にも議論抜きの感情論がまかり通る国民性の国である。日本人は「二重国籍はまずいよね」的な雰囲気で考えているが、白黒はっきりつける習慣にすべきであろう。以下に私なりの決着をつけたので、今後の議論のご参考になれば幸いです。
◯二重国籍がデメリットと考えるのは何故か、その理由
1 特に理由というほどではないが「普通の人と違うのは、なんかの時に普通の対応が出来ないんじゃないかと思って」いる。つまり、よくわかんないけど普通の日本人が良いんじゃないかなぁやっぱ、というごくごく一般的で女性に多い非論理的な印象派。理論がないだけに一番タチの悪いタイプ。こういう人はデカイ声の自信満々な演説にすぐ同調しやすく、日本人の典型でもある。で、判定は「論外」。自分の考えをキチンと述べられるように整理し論理的思考を普段から身につける必要がある。
2 二重国籍は利害関係が「日本だけでなく複数の国にわたるので、一所懸命になれない」、だから純日本人と違い「もう一方の国の為にも利益になるように動きかねず、日本のためだけを考える人に比べて、思考基準が日本国民と完全に一致していない部分がある」という人。これは一理あるように見える。しかし、日本人だからといっても日本以外の国にベッタリの人もいるわけだし、二重国籍でなく純日本人でも「両親が中国人」という人がいるので、これは国籍と言うものを誤解している人の発言である。日本国籍と日本を愛してやまないと言うのは別である。人間は外見ではなく「中身で判断すべき」であろう。で、判定は「論理逸脱の中途半端」。問題は、日本のことを良くしようと真剣に考えられるかどうかである。もちろん「良くしようとは、どうするのか」の議論は、また別である。
3 二重国籍はいいが、台湾というのが気に入らない人。じゃあアメリカなら良かったのかと聴きたくなるが、これはすでに政策や外交問題が含まれている意見でもある。ちなみにアメリカならいいという人に聞きたい。アメリカは中国を大事にしているようだが「アメリカがそうなら、日本も中国と仲良くする」という考えであろうか。この手の考えには自分の考えというものが微塵も感じられない事であろうか。寄らば大樹の陰という理論だが、どんなに邪険に扱われても忠犬ハチ公のように「アメリカについていきます」というのでは、日本の独自外交は無いと宣言したようなものである。独自外交という単語もおかしいはなしだが、G7でもG20でも日本の発言が全く相手にされてないと言うか馬鹿扱いされているのは、「日本の意見は、つまりアメリカの言う通りだ」と見透かされているからである。いつまでもアメリカの腰巾着はやめて(日本独自の憲法をというなら尚更)、いっぱしの大人として自分の頭で考えた意見を日本も国際舞台で言えるようになるべきである。で、判定は「大人になれない子供」。これじゃあ蓮舫議員の事をどうこう言う資格はない。
4 二重国籍は国政から排除すべきと声高に言う人。もう理屈もへったくれもない右翼である。日本は神の国だと言った人が東京オリンピックの推進役だと言うのだから何をかいわんやであるが、民進党代表というのは党の方針を決定する人であるから、極端な事を言えばインド人でもケニア人でも「言ってる事や考えている事が日本を良くする1番の方法」であれば、その人を代表にすべきである。Microsoft もGoogle も CEO はインド人、だからと言って経営がおかしくなる訳では決してない、要は中身である。これが日本人というか人種差別主義者の日本人には、悲しい事に大変に難しいのだ。
色々言ったが、要は「二重国籍問題は的外れ」と言える。蓮舫代表候補は「嘘をついて時間稼ぎした」から、代表選は無効だ」と言う正論信者が一部にはいるようだが、そう言う人が真っ先に「二重国籍者が代表選に出馬するなどは前代未聞」などと無知な党員を煽る発言をするからややこしい。どんな些細な事でも騒ぎ立てて相手を引き摺り下ろそうとするゲスな人間にはお似合いの発言であるが、お里が知れると言うものである。
◯二重国籍のメリット
台湾というのがちょっと弱いが、国にとらわれないグローバルな視点を展開する能力は、一国の中で育った日本人には新鮮であろう。どちらにしても代表選は決着がついた訳だが、日本人の中には釈然としない人もいるようなので、あくまで日本にこだわる「国粋主義者」は何かにつけて騒ぎ立てる集団なのであって、ああいう下品な連中が「日本を代表」しているかと思うと暗然たる気持ちになってしまう、とでも言っておこう。日本も少しはスタイリッシュな議論を展開できる「大人の国」に、なってほしいものだ。
(9)富山市議の政務活動費不正受給問題
呆れてものが言えないとはこの事だ。現職市議が7人も不正受給で辞職するという前代未聞の事態に富山の市民は怒り心頭かと思いきや、「あっそー」てな感じで何ともはや呑気なもんである。地方議会なんてこんなものだよと言うが、富山といえば少し前まで「都市交通のお手本」ともてはやされたトラムの見学で全国に名前を売った市長のいる町である。市民の生活を大事にし、市の財政をも同時に活力をつけた画期的な政策を立案実行する政治家の手本と言われた市が、こんなセコイ汚職に手を染めるとは。しかし不思議なのは不正受給をやった議員の犯罪の追及が余り厳しくなく、辞職で一件落着にしようとする空気が未だに根深いことである。
本来これらの悪徳議員連中は、石でも抱かせるなり逆さ吊りや水責めでも何でも、徹底的に締め上げて胃袋吐くぐらいに全部吐き出させた挙句に「市中引き回し獄門磔の極刑」にすべきではないか。ただの泥棒ではない、税金詐取である。その罪は「万死に値する」ではないか。刑事訴訟法に悪名高い「日本のお家芸である自白強要」でも何でもして、「国民の血税を盗んだら死刑だ」くらいの姿勢は示せないのだろうか。「潔く」辞めるなんて美辞麗句は、身の潔白を証明できずに悶々として罪を背負った悲劇の人に使う言葉で、こすっ辛い小悪党が偉そうに使う言葉ではない。
くすねたお金は全額返し、お詫びの金額も上乗せして、そこで初めて「罪の償い受ける権利」が発生する。金も返さず事件の全容も忘れたから言えないでは、辞める辞めないなど「言うのは100年早い」のだ馬鹿ヤロー。彼ら人間のクズを富山の市民が「武士の情け」的温情で不問に付したら、富山市民は「余程のバカの集まり」と全国から唾棄されるであろう。これからどうなるか、お楽しみである。ちなみに私は市議会議員など悪の温床だから、「無くても困らない」派だからお見知り置きを。
(10)佐倉駅で運転士が放尿だって?
オシッコぐらいでガタガタ騒ぐんじゃないよ。線路に放尿したって言うけど、運転席なら良かったとでも言うつもりかな。我慢できなかったんだからしょうがないじゃないか、良くないことぐらい本人が一番わかっているはずだよ。それでもしちゃったのは限界を超えてたわけ。誰にも影響がない線路に放尿したのは、運転士として節度ある態度だと逆に褒めてやりたいくらいだ。
こんな事をいちいちあげつらうマスコミや鉄道関係のお偉いさん達は、困った人間の立場っつーもんが全然わかってないね。トイレの問題はそう言う状況になったら「何を言ってももう遅い」って事ぐらい、子供じゃないなら皆んな知ってるのだ。かく言う私も前立腺肥大症を患って以来、トイレの問題は「最大関心事」になってしまった。とにかく全く気配のない状態からとても我慢ができない状態になるまで、「あっという間に」やってくるのである。気がついたら「もう遅い」のだ。柏に引越して最初にした事が、「トイレのある場所を確認する」事だった。
トイレを自分でコントロール出来る友人は「先に済ましとけば」とか平気で無理難題を言ってくるが、先に済ましても突然やってくる場合がある。つまり「急いで歩いて行って1分以内の所にトイレがある」状態でなければ、安心して何かする事は不可能なのである。柏でも松戸でもどこでも今は街中で用を足すことなどできないのであるから、トイレがしばらく歩かなければ無い住宅街で「突然やってきた場合」はもう「気が狂わんばかりに」目当てのトイレに駆け込むことになる。頭の中はトイレのことしかない。だからトイレが何処にあるかを熟知している場所にしか、私は行かないことにしている。それほど前立腺肥大症と言うのは生活の質を落としかねない「重大な病気」なのである(最近は少しマシになってきたみたいだが、油断は禁物だ)。
で、この運転士が前立腺肥大症だとは言わないが、いろんな理由が重なったか何かでとうとう我慢の限界を超えてしまったのだと思う。正直このニュースを聞いた時に頭に浮かんだのは「可哀想に」だった。周りは色んなことを言うだろうが、全ては「言ってもしょうがないこと」でしかない。もし私がこの運転士の上司だったら、「最悪の状況の中の最善の解決策だったな。あとは雨が全てを消してくれるさ。だからもう、忘れろ」と言うだろう。不謹慎だとか規律違反だとか最近はやたらと完璧を求めすぎるきらいが多いが、人間少しは抜けてるところがあっても、許すと言う寛大さも必要である。
あまり好きではない言葉だが、昭和は遠くなってしまったようだ。
特別栽培米仕込みという聞きなれない酒である。化学肥料や農薬を極力使用しない製法で育てた米を使ってつくった酒という意味らしい。冷蔵庫で保管してあるのでキンキンに冷えている状態、飲み口はまろやかで口当たりや喉越しはマイルドだ。辛口の酒にありがちな「キーン」とくる感じは、冷蔵庫から出して少し経てばスッと抑えられて、日本酒独特の粘りのようなコメの感覚が喉を伝わって、吟醸酒ほどでは無いがアルコール分が軽く鼻に抜けていく。つまみを選ばないし、これは家飲みに最適かもしれないな、などと「選択が当たった時の満足感」が、アルコールの余韻とあいまって心地よい。一の蔵は宮城の銘醸でもともと評価は高かったが、一度「無鑑査」というのを買った事があり、その時は失敗した。今回はセブンイレブンで棚に並んでいるミニチュア瓶(516円だったと思うが)を、他に無くて仕方なく買ったのであるがこれが当たったので気を良くして、今回4合瓶を購入した。
舌に乗っけて転がした感じは、酒らしい膨らみのしっかりした豊潤な味で、喉越しがスッキリした嫌味のない酒である。純米酒と言うだけに雑味がなく、刺身に合わせても控え目で魚の味を消さない上品さがある。私は山廃仕込みという製法で作った酸味の強いどっしりした酒がどうにも好きになれず、軽くて爽やかな吟醸タイプの酒が好きである。手取川や景虎なんか好きであるが、こないだ飲んだ「八海山 特別本醸造酒」がとても美味くて「さすがは八海山」と感心したが、当たり外れがあると言うので次に買うのが美味いとは限らないという。それより色んな酒蔵の酒を味わってみたいので、まだ八海山はチャレンジしていない。最近は東北の酒や新潟・石川の酒をひとまず置いておいて、静岡・愛知か群馬・栃木の酒を試そうと思っている。日本全国の色んな酒を飲むためには、それを取り揃えてある酒屋を見つけるしかない。それかネットで注文するか。で、柏で取扱量の多い酒屋を見つけて「主人と友達になる」ことにした。
これから探すので、見つかるまではネットで買うことにする。手始めに「写楽」を頼んでみる。そういえば、ワインの品評会よろしく日本酒にも「格付け機関」が誕生したと言う。元々日本酒にも品評会はあるが、今回のは「ワインを格付けしている外国の機関」だというので話題になったようだ。日本酒も、柔道みたいにワールドワイドになって「柔道じゃない」へんなスポーツに成り下がった例があるから外国から格付けされるのも良し悪しだが、一度は10月発売の格付けリストを見て「新しい酒」を発見するのも楽しいかも。柏の酒屋探しは続報を期待頂くとして、後何年酒が飲めるかわからないが「酒は人生の最良の友」ってのは真理です。
(2)消費エネルギーとダイエットの関係
病気をして初めて知ったのだが、サービス付き高齢者住宅に住むようなお年寄りは、ほとんどご飯を食べないという事だ。一日中寝ているか「デイ」というお遊戯の時間を過ごして暮らすお年寄りには、補充すべき消費エネルギーの量はさほど多くない。食べないからお通じも細々として、介護士から「難儀なのよ」などと嘆かれることになる。やはり健康だという事は「食べること」なのである。私は食べることに関しては大してこだわりがないのだが、量を食べる傾向があった。品数は少ないが一品ごとの量は結構多かったと思う。病気をする前は一人暮らしでもあり、人参でも小松菜でもチクワブでも、全て「一個単位」で食べていた。野菜中心だが量が多いので、結果は太り気味である。174cmで体重が73kg 、スポーツ選手なら筋肉質でいい感じなのだが、いかんせん私は脂肪太りでタプタプなのだ。だが病気をして以来街中で見る人々の体型を観察するようになって、皆んな思ったより痩せてることに驚いた。いままでは気づかなかったが、人間って「こんなに細い動物なんだ」というのが正直な感想である。
まず男の脚が細い。つぎに胴が細い。女の肩幅も細くて、周り中「細い!細い!」のオンパレードだ。勿論太いのもいるが目に留まらない。病気してから自分も相当痩せたが、ふと気付くと「丁度良い」体型なのである(実はこれが驚き)。人間は174cm で63kg ぐらいがベストらしい。肉体労働する人たちはもっと太いのだろうが、私くらいの活動量からすれば「出るエネルギーから逆算すると、食べる量はほぼほぼ足りてるらしい。栄養のことを考えると食べすぎになる傾向だが、嚥下障害のお蔭か食べることに興味がなくなって、むかし散々食べていた「せんべい・ポテトチップ・チョコレート・アメリカンドッグ・ソースたっぷりトンカツ・エビのタルタルソース・テンプラ蕎麦 etc etc」などとは無縁の生活を2年間続けている。人間はそんなに食べる必要は無い、というのが病気をして覚えた唯一の真実である。
皆んな世の中ではダイエットへの関心がかってないほど高まっているが、結局売らんかなの思惑と目先の快楽に溺れて「必要以上に食べてしまう」ことが全ての原因であり、太る理由なのである。飽食の時代になってから久しいが、正しい食事をしている人も中にはいるのであるから、ダイエットを考える前に一度「高齢者の方の食事の量」を見てから実行することをお勧めする。しばらく最小の食事(品数はそこそこある)で我慢して、それから健康診断を受けてなんともなければそれが適正な量なのである。「こんな食事じゃ、生きてる喜びがないよ」とおっしゃるのなら、食事を変えるより考え方を変える方が先であると言いたい。何かに打ち込む、というのが人生を楽しくする秘訣である。食事は「必要な分だけ」と思うこと。別に難しいことでは無い。ヒマだから食べてしまうのだから、食べることを忘れるくらい忙しければ・・・という事になる。
先ずは楽しいことを頭に浮かべて見よう。それが食事だとするとこの話は通用しない。そういう人はダイエットは諦めて、太く短く生きましょう。そもそも食べる事が生きがいなんだから、ダイエットなんか考えるだけ無駄、「いくらでも太ってあっさり死んじゃいましょう」というもんです。食事以外のことが頭に浮かぶようなら、先ずはその事から集中して見ませんか?
世の中の半分の人は健康で痩せていることに気がつきましょう。人間は元々細い生き物なんです。「病気して 初めて分かる 標準食」、これ私の作った川柳です。
(3)ドイツでは、ペットも人間も同等
ドイツは犬の殺処分がゼロだそうだ。さすがペット大国ドイツだ。猫はどうだか知らないが、ドイツでは犬は人間と同じ扱いである。電車にもレストランにも犬を連れて行って構わないというのは、そもそも生産者がきちんと育てる習慣があるからだそうだ。日本はペットショップでバンバン赤ん坊の犬を売っているが、結局売った後は飼い主任せで捨てられる犬も結構な数になる。野犬は保健所が管理して最後は処分ということになるのだろうが、元はと言えば「売られていたか貰われて来たか」、何れにしても捨て犬というのは数が少ないだろう。それが理由は何にしろ「捨てられて処分される」というのでは、飼い主の責任は重大である。よく言われる事だが、一旦ペットを飼ったら死ぬまで責任持って飼育していくべきである。ペットはオモチャではなく、愛情を与えてくれる天使である。当然飼い主は、ペットの愛情を「自分のものとして受けとる権利を買った」ということになる。
犬は頭もいいし頑健で人懐こい動物だ。家族の一員として愛情を注ぐに足る「友人」である。ドイツでは良い友人になるための教育が社会の中でしっかり根付いているのだろう。日本はペットとしての歴史が短いからかもしれないが、犬は長い間「番犬」の域を出なかった。日本では長屋のご意見番のご老人が、愛犬に話し掛ける姿なぞは想像できない「ペット後進国」である。日本もそろそろ経済大国から脱皮して、フランスのような文化大国を目指してもいいんじゃ無いかと思うがどうだろう。
そう言えば先頃亡くなったMさんを思い出した。同じく脳梗塞を患った同僚のY君と私の二人で、夏の暑い日にMさんの家に遊びに行ったことがあった。二階に上がって三人麻雀をしてたら、何処からともなく下手なカラオケが流れて来た。「ったく下手くそだな、誰が歌ってんダァ!」と舌打ちしながら呟いたら、Mさんがきまり悪そうにボソッと言った、「女房なんだ」。
今となっては懐かしい思い出である。奥さんも独りになって寂しいと思うが、ペットでもいれば「何の裏もない可愛い目で、じっと見つめてくれる」友人になってくれたのにと感慨深くなる。Mさんあの世で今頃どうしてるかなァ。
(4)豊洲の新市場建設事情
移転を進めている東京都は、盛土の問題を共産党に指摘され、小池新知事にも指摘されて進退窮まった。都庁の役人といい議員団といい、どうも都民は知らなくていいという「自分が都の主人」的感覚が蔓延しているようである。しかしマスコミを始め都民の反応は筋違いではなかろうか。「都民の台所を預かる豊洲新市場は、まず安心・安全こそが大事である」という主張が声高に叫ばれているが、安心・安全なんて「どれだけ都民の生活に関係あるのだろうか」と言いたい。食べたらすぐ死ぬというんじゃ困るが、ドラム缶いっぱい毎日食べなきゃというんじゃ「例え有毒であっても」それほど気にしなくても良いのじゃないか。要は責任さえはっきりすれば、多少の有害物質は大目に見るのが大人の対応というもの。それよりもっと大事なことが目の前にあるのに誰も真っ先に指摘しないのは、不思議を通り越して「マスコミの糾弾に乗っかる形の」世論形成がジンワリ見て取れるから、こちらの方が問題だ。それで私の築地移転問題へのアプローチを提言して見る。
1 東京都の新市場の正式資料から地下の空洞が隠されていた件
これは盛土をしたことになっているのに実際はやってなかったわけだから、詐欺である。当然盛土の原材料調達費用と工事費用がスッポリいらないのだから「費用がどえらく浮く」ことになる。手抜きの典型だ。もし盛土の費用を含めた請求をしていれば架空請求だし、盛土の費用を減らしていれば「専門家の決定」と違うやり方で工事をしたのだから図面錯誤のやり直しである。都庁職員は「もちろん知っていた」のに都民に隠していたのであるから、「事実の隠蔽」で通常の会社であれば「クビ」である。都庁職員が公務員だから罪を逃れられるというのは逆であって、公務員だからこそ「厳正に対処し、首にすべき」ではないのか。もちろん工事業者も損害賠償と諸々の追徴金を免れる事は出来ない。
2 石原元都知事の指示だという話
あり得る。多分業者も嫌々やらされたのだろうが、浮いたお金でどういう乱脈が行われたか「厳正な捜査で明らか」にし、この際石原元都知事一党を徹底的に調べ上げ追及すべきである。舛添前都知事も隠蔽に加わっているに違いない。何故ならこれほど大きな事実を隠し通すためには、相当な権力の締め付けがなければ不可能だからである。これがうやむやになるようであれば、我々は住民税を払わなければ良い。
3 オリンピックに間に合わない件
今度の東京オリンピックは最初からケチのつき通しである。この際開催国の名誉を返上して、とりあえずロンドンに頼み込んでもう一回やってもらうか、ギリシャに「設備の改修費用は日本持ちで」引き受けてもらうというのはどうだろう。まだ4年もあるのだから、やったことがある都市なら何とでもなるのではないか。何なら北京でもう一度開催してもらい、習近平に擦り寄るのも「手」である。
4 建設・土木となると汚職の匂いがプンプンしてくるが、要は自民党という党の体質が田中角栄以来「建設・土木」の汁を吸って大きくなった党であることに原因がある。原子力発電しかり鉄道しかり、何かの構造物を作っては金儲けする体質なのだ。作るだけだから後のことは全然気にしない。オリンピックもブラジルのことを散々間に合わないだのどうこう言っていたが、結果は大過なく行われたみたいである。東京オリンピックも莫大な費用が見込まれているが、終わってみれば無駄のオンパレードでは、何の為の税金か教えてもらいたいものだ。誰の懐に入るのか「国民は浮かれているだけでなく、真剣に考える必要がある」と私は思うのだが、どうもタダで開催できるとでも思っているフシがあるのは如何なものか。
豊洲新市場の件でわかったように、日本人は「責任者という感覚が無い」国民である。誰が決定し、誰が認可し、誰がチェックしてオーケーを出したのか。この最低限のルールが「ハッキリしない」では、税金を扱う資格はない。関連部署を全部首にするくらいの不退転の気持ちで小池都知事には望んでもらいたいが、果たしてどこまでやるか。二、三人辞めさせられて終わりなんてことのないように、しっかり監視していきたいものである。
(5)iOS 10 の新機能とアップルのやる気
アップデートが来たとニュースサイトで知ったので、早速アップしてみた。記事ではトラブルだなんだと書いてあったが、幸いなことに私は一度もそんな目に遭ったことがないので安心しきって実行、完了した。アップルはこう言う古い機種と新しい機種のアップデートに関して、平等なところが好きだ。勿論ハードウェア的に機能が発揮できない場合については承知している。だがアンドロイドのように発売メーカーごとにちょっとずつ違うユルユル製品と違い、アップルが考える最高のパフォーマンスを自社で完成させた製品で提供する姿勢は、ユーザーに取って安心以外の何物でもない。フラッシュが使えないとか、おサイフケータイが使えないとか、テレビが見られないとか、防水じゃないとか、色々あったけど結局は「アップルが出すのまで我々は待った」のだ。アップルが「これはこうして使う」と宣言したら、我々は従うのである。その機能がどうしても欲しければ、アンドロイドを買えばいい。だがアップル製品の持つ完全な一体感は、iOS でなければ得られない。私はその一体感を、つまり十分に考え抜かれた iPhone と iPad と iCloud の連携が好きなのである。ここにはアップルの考える「コンピュータ・テクノロジーを、人間の最良の友人にする」というメッセージが感じられないだろうか。私の好きなのはそこである。アップルと暮らす、それが今の私の選択である。
(6)柏と大宮の違い
東京から四通八達している鉄道網の中で、大宮と柏は30〜40分の「丁度いい感じの離れ具合」の町である。住民も40〜50万人とやや大きい部類の都市と言える。柏は常磐線の沿線でも人混みがある方で、高島屋とそごうに丸井やビックカメラなど買物にも便利な所でもあり、東武アーバンパークラインという線で南は船橋まで北は春日部・大宮へと繋がっている。流山おおたかの森駅でつくばエクスプレスが最近つながって便利になった。しかし全国住みやすい街ランキング100位以内には入っていない「人気はそれほどでも無い」街なのである。
どうもガサツだし、住んでて愛着が湧かない。どうやら東京に近すぎて「東京の場末の、さらに周りにぶら下がってる街」的イメージが強いのだ。その点は松戸は、中身はどうあれ柏から見ると、「都会の中の静かな街」としてアイデンティティがしっかりあるように見える(引越してみれば違うかもしれない)。青山あたりとは比べるべくも無いが、住みやすい街というのはやはり、歩いていても「ホッとする」空間かそこかしこにあるような気がする。それが瀟洒なお店だったり暑い日差しを和らげる木陰だったり、心が動くシチュエーションに街の住人も気を配って整えているのだろう。柏は、用があると近場で済ませるが、何か重要な事をしようとすると「東京に行く」という感じが満載なのだから当然、街は人と会うところではなく、全てがコンビニ化してくる。
柏は寝るところ、人生を過ごすのは「東京」である。だから住んでるというより「寝れればいい」街になるのは、当然である。引越す前は良いチョイスだと思ったのだが、一ヶ月もしないうちにもう飽きて来た。大宮はどうかなと気になる比較だが、住み心地を考えると東京の山手か横浜のあたりがベストな気がする。年もとって人生の残された時間にも限りがある私なぞは、貯金をはたいて「青山暮し」も考えようかな、なんて妄想に駆られる今日この頃である。ちなみにそごうは閉店だそう。高島屋も客が減ってるそうだから、いずれは撤退するのかも。
私の柏再開発案はまず駅を作り直して低層のガラス張り駅舎とし、周辺に「人の憩える空間を配置する」というもの。物を売ることに一生懸命で買う人のことを考えてこなかったゴミゴミした街並みを、「文化的な雰囲気」の漂う街へと変貌させるという強い意志を持たなければ、地域の中で「中心的役割」を果たすことは出来ないと思う。まずは「東京の呪縛から離れて、独自路線の一歩を踏み出す」ことであろう。とはいっても、私は別にどっちでもいいが。
(7)久し振りにアメ横に行ったら、歩いている人々がやたらと外国人で驚いた。タイやベトナムやフィリピンといった ASEAN 諸国、インド・パキスタン系、イラン・イラクの中東系、中国・韓国・台湾の東南アジアの隣国、それに欧米各国・アフリカ・南米と、人種も言語も多種多様である。比率も以前に比べるとグッと上がっていて、感覚としては歩いているお客の半分近くは「いわゆる外人」に見えてくる。アメ横は特に外人観光客が多いのだろうが、それでも日本も「人種のるつぼ」と言われる日がそう遠く無いことを、実感させられる光景である。
彼らが何を話してるかは全然わからないが、中国人はひときわ声がデカイ。静かに話すという文化は中国には無いようだが、これは言葉が単音で構成されているということにも原因はあると私は密かに思っている。四声といわれる抑揚で漢字を表現するのだが、同音異義語の連続である。日本人の感覚からすると「あの複雑な漢字を文章を、全部一音で言ってのける」と言うのは異常である。中国の詩人は世界に冠たる李白・杜甫を筆頭として綺羅星のごとく輝いているが、字面を見ないで発音だけを聞いているとそれほどでも無い気もする。あまりに短くて変化に乏しいと言うのが、私の漢詩の素直な感想である。やはり中国語は「眼で見て、形からくるイメージを鑑賞する」言語なのであろう。
ウェイウェイと叫ぶ中国人を眺めながら、私はアメ横の雑踏を抜け二木ゴルフの中古ショップへ入った。此処でも外人観光客が増えている。なんだか海外旅行に行っているような不思議な感覚に襲われる。パリやニューヨークなんかも、街中はそうなんだろなと思った。東京は世界の大都市、そう感じても不思議はない。むしろその中にどっぷりと浸かって「ここはグローバルな場所なんだ」と思う事が、これからの日本人には必要とされるかもしれない。と言うか、日本人という言葉自体が死語になる時代がすぐそこに来ていると思った。勿論田舎に行けば日本は残っているだろうが、ますます希少になるのは時代の流れである。日本らしさ、私は残したいと思うけど果たしてどうなることやら。
(8)蓮舫議員が二重国籍だからなんだっていうの?
騒いでる議員達も代表選挙でああも圧勝されては、褒め讃えるしかないだろう。しかしマスコミや一部の有権者が二重国籍を懸念するような発言をしているのはいただけない。「首相になる可能性がある人なんだから二重国籍はどうなんだろう」と、テレビで視聴者(別に国民の代表でもなんでもない)が言っているのを流していたが、こういう尻切れトンボな発言をただ垂れ流した挙句にいつの間にか国民的意思形成に持って行く手法は、如何にも議論抜きの感情論がまかり通る国民性の国である。日本人は「二重国籍はまずいよね」的な雰囲気で考えているが、白黒はっきりつける習慣にすべきであろう。以下に私なりの決着をつけたので、今後の議論のご参考になれば幸いです。
◯二重国籍がデメリットと考えるのは何故か、その理由
1 特に理由というほどではないが「普通の人と違うのは、なんかの時に普通の対応が出来ないんじゃないかと思って」いる。つまり、よくわかんないけど普通の日本人が良いんじゃないかなぁやっぱ、というごくごく一般的で女性に多い非論理的な印象派。理論がないだけに一番タチの悪いタイプ。こういう人はデカイ声の自信満々な演説にすぐ同調しやすく、日本人の典型でもある。で、判定は「論外」。自分の考えをキチンと述べられるように整理し論理的思考を普段から身につける必要がある。
2 二重国籍は利害関係が「日本だけでなく複数の国にわたるので、一所懸命になれない」、だから純日本人と違い「もう一方の国の為にも利益になるように動きかねず、日本のためだけを考える人に比べて、思考基準が日本国民と完全に一致していない部分がある」という人。これは一理あるように見える。しかし、日本人だからといっても日本以外の国にベッタリの人もいるわけだし、二重国籍でなく純日本人でも「両親が中国人」という人がいるので、これは国籍と言うものを誤解している人の発言である。日本国籍と日本を愛してやまないと言うのは別である。人間は外見ではなく「中身で判断すべき」であろう。で、判定は「論理逸脱の中途半端」。問題は、日本のことを良くしようと真剣に考えられるかどうかである。もちろん「良くしようとは、どうするのか」の議論は、また別である。
3 二重国籍はいいが、台湾というのが気に入らない人。じゃあアメリカなら良かったのかと聴きたくなるが、これはすでに政策や外交問題が含まれている意見でもある。ちなみにアメリカならいいという人に聞きたい。アメリカは中国を大事にしているようだが「アメリカがそうなら、日本も中国と仲良くする」という考えであろうか。この手の考えには自分の考えというものが微塵も感じられない事であろうか。寄らば大樹の陰という理論だが、どんなに邪険に扱われても忠犬ハチ公のように「アメリカについていきます」というのでは、日本の独自外交は無いと宣言したようなものである。独自外交という単語もおかしいはなしだが、G7でもG20でも日本の発言が全く相手にされてないと言うか馬鹿扱いされているのは、「日本の意見は、つまりアメリカの言う通りだ」と見透かされているからである。いつまでもアメリカの腰巾着はやめて(日本独自の憲法をというなら尚更)、いっぱしの大人として自分の頭で考えた意見を日本も国際舞台で言えるようになるべきである。で、判定は「大人になれない子供」。これじゃあ蓮舫議員の事をどうこう言う資格はない。
4 二重国籍は国政から排除すべきと声高に言う人。もう理屈もへったくれもない右翼である。日本は神の国だと言った人が東京オリンピックの推進役だと言うのだから何をかいわんやであるが、民進党代表というのは党の方針を決定する人であるから、極端な事を言えばインド人でもケニア人でも「言ってる事や考えている事が日本を良くする1番の方法」であれば、その人を代表にすべきである。Microsoft もGoogle も CEO はインド人、だからと言って経営がおかしくなる訳では決してない、要は中身である。これが日本人というか人種差別主義者の日本人には、悲しい事に大変に難しいのだ。
色々言ったが、要は「二重国籍問題は的外れ」と言える。蓮舫代表候補は「嘘をついて時間稼ぎした」から、代表選は無効だ」と言う正論信者が一部にはいるようだが、そう言う人が真っ先に「二重国籍者が代表選に出馬するなどは前代未聞」などと無知な党員を煽る発言をするからややこしい。どんな些細な事でも騒ぎ立てて相手を引き摺り下ろそうとするゲスな人間にはお似合いの発言であるが、お里が知れると言うものである。
◯二重国籍のメリット
台湾というのがちょっと弱いが、国にとらわれないグローバルな視点を展開する能力は、一国の中で育った日本人には新鮮であろう。どちらにしても代表選は決着がついた訳だが、日本人の中には釈然としない人もいるようなので、あくまで日本にこだわる「国粋主義者」は何かにつけて騒ぎ立てる集団なのであって、ああいう下品な連中が「日本を代表」しているかと思うと暗然たる気持ちになってしまう、とでも言っておこう。日本も少しはスタイリッシュな議論を展開できる「大人の国」に、なってほしいものだ。
(9)富山市議の政務活動費不正受給問題
呆れてものが言えないとはこの事だ。現職市議が7人も不正受給で辞職するという前代未聞の事態に富山の市民は怒り心頭かと思いきや、「あっそー」てな感じで何ともはや呑気なもんである。地方議会なんてこんなものだよと言うが、富山といえば少し前まで「都市交通のお手本」ともてはやされたトラムの見学で全国に名前を売った市長のいる町である。市民の生活を大事にし、市の財政をも同時に活力をつけた画期的な政策を立案実行する政治家の手本と言われた市が、こんなセコイ汚職に手を染めるとは。しかし不思議なのは不正受給をやった議員の犯罪の追及が余り厳しくなく、辞職で一件落着にしようとする空気が未だに根深いことである。
本来これらの悪徳議員連中は、石でも抱かせるなり逆さ吊りや水責めでも何でも、徹底的に締め上げて胃袋吐くぐらいに全部吐き出させた挙句に「市中引き回し獄門磔の極刑」にすべきではないか。ただの泥棒ではない、税金詐取である。その罪は「万死に値する」ではないか。刑事訴訟法に悪名高い「日本のお家芸である自白強要」でも何でもして、「国民の血税を盗んだら死刑だ」くらいの姿勢は示せないのだろうか。「潔く」辞めるなんて美辞麗句は、身の潔白を証明できずに悶々として罪を背負った悲劇の人に使う言葉で、こすっ辛い小悪党が偉そうに使う言葉ではない。
くすねたお金は全額返し、お詫びの金額も上乗せして、そこで初めて「罪の償い受ける権利」が発生する。金も返さず事件の全容も忘れたから言えないでは、辞める辞めないなど「言うのは100年早い」のだ馬鹿ヤロー。彼ら人間のクズを富山の市民が「武士の情け」的温情で不問に付したら、富山市民は「余程のバカの集まり」と全国から唾棄されるであろう。これからどうなるか、お楽しみである。ちなみに私は市議会議員など悪の温床だから、「無くても困らない」派だからお見知り置きを。
(10)佐倉駅で運転士が放尿だって?
オシッコぐらいでガタガタ騒ぐんじゃないよ。線路に放尿したって言うけど、運転席なら良かったとでも言うつもりかな。我慢できなかったんだからしょうがないじゃないか、良くないことぐらい本人が一番わかっているはずだよ。それでもしちゃったのは限界を超えてたわけ。誰にも影響がない線路に放尿したのは、運転士として節度ある態度だと逆に褒めてやりたいくらいだ。
こんな事をいちいちあげつらうマスコミや鉄道関係のお偉いさん達は、困った人間の立場っつーもんが全然わかってないね。トイレの問題はそう言う状況になったら「何を言ってももう遅い」って事ぐらい、子供じゃないなら皆んな知ってるのだ。かく言う私も前立腺肥大症を患って以来、トイレの問題は「最大関心事」になってしまった。とにかく全く気配のない状態からとても我慢ができない状態になるまで、「あっという間に」やってくるのである。気がついたら「もう遅い」のだ。柏に引越して最初にした事が、「トイレのある場所を確認する」事だった。
トイレを自分でコントロール出来る友人は「先に済ましとけば」とか平気で無理難題を言ってくるが、先に済ましても突然やってくる場合がある。つまり「急いで歩いて行って1分以内の所にトイレがある」状態でなければ、安心して何かする事は不可能なのである。柏でも松戸でもどこでも今は街中で用を足すことなどできないのであるから、トイレがしばらく歩かなければ無い住宅街で「突然やってきた場合」はもう「気が狂わんばかりに」目当てのトイレに駆け込むことになる。頭の中はトイレのことしかない。だからトイレが何処にあるかを熟知している場所にしか、私は行かないことにしている。それほど前立腺肥大症と言うのは生活の質を落としかねない「重大な病気」なのである(最近は少しマシになってきたみたいだが、油断は禁物だ)。
で、この運転士が前立腺肥大症だとは言わないが、いろんな理由が重なったか何かでとうとう我慢の限界を超えてしまったのだと思う。正直このニュースを聞いた時に頭に浮かんだのは「可哀想に」だった。周りは色んなことを言うだろうが、全ては「言ってもしょうがないこと」でしかない。もし私がこの運転士の上司だったら、「最悪の状況の中の最善の解決策だったな。あとは雨が全てを消してくれるさ。だからもう、忘れろ」と言うだろう。不謹慎だとか規律違反だとか最近はやたらと完璧を求めすぎるきらいが多いが、人間少しは抜けてるところがあっても、許すと言う寛大さも必要である。
あまり好きではない言葉だが、昭和は遠くなってしまったようだ。
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