明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(32)最新の学説「邪馬台国の最終定理」を読む(その1)

2023-10-01 23:37:00 | 歴史・旅行

ようやく秋の読書シーズンが始まった。ここんところ本が読めてないなぁと思っていて、色々 Amazon の「kindle読み放題」を眺めていたら邪馬台国の「最終何とか」というのが目に入って来た。邪馬台国で最終何とかというのは、いままで「嫌というほど見て来た」私だがついついチェックしてしまうのは古代史好きの性なんだろうか。とにかく読み放題なので無料である。今までの邪馬台国本とは「ちょっと違うかな?」と思ったので、ここは迷わずダウンロードした。古代史をブログで取り上げるのは久し振りだからどうしても気合が入る。

本文に入る前に先ず著者を紹介しておくと、宮崎照雄という人で、1949年三重県生まれ。わたしとほぼ同学年で、東京大学大学院農学系水産学修士課程修了、農学博士(東京大学および三重大学名誉教授)となっている。三重大学で40年間魚の病気を研究してきた学者先生なのだ。それが「何で邪馬台国なの?」という疑問は「こと邪馬台国に関して」は全く感じなかった。要するに門外漢、素人なのである。私は専門家ではない、ということは「プラス要素」と思っていて、学会の「常識」や流派などの政治的「しがらみ」に囚われない「自由な発想」が魅力だと思っている。

この本も魏から答礼遣使団か来た「いきさつ」をサラっと書いてから本題に入ると言う、素人っぽい手順を踏んでいるのも読者に優しい所が出ているな、と感じた。この辺りの「当時、邪馬台国の置かれたていた状況から書き始めている点」は(まあ当然と言えば当然だが)好感が持てる。文章も分かりやすく、しかしそれほど攻撃的にもならないバランスの良い書き出しで、これは「期待できそう」な本と言えるのじゃないだろうか。

早速本題に入る。

1、卑弥呼の置かれていた政治的状況
これは「桓霊の間倭国相攻伐す」と言われている通り、長い内乱の後卑弥呼が乱れた倭国を統一してやっと平和になった、と一般には言われている。だが私の倭国のイメージでは、当時の倭国は九州「佐賀」を中心に大分・阿蘇・熊本までの地域を勢力範囲としていて、博多・門司の辺りに進出してきた出雲勢力と「対峙している」状況ではないか・・・と考えている。つまり、倭国が内乱に陥ったのは出雲勢力の進出がキッカケとなり、その対応を巡って倭国内の統率が崩れて内乱に陥ったと見るのだ。そして内乱が収拾つかなくなり、ついに「卑弥呼の率いる宗教勢力」の力を借りてようやく再統一した、という風に私は考えている。だから、まだ出雲勢力との「対決状況は継続」しているのだ。そのような緊張状態にある時、服属していた帯方郡(遼東半島)の公孫氏が魏に滅ぼされるという大事件が起きた。激動の半島情勢に対して卑弥呼は瞬時に魏へ「服属先の鞍替え」を決断し、239年景初三年に魏王朝へ男女の生口10名と僅かの方物を朝貢した。要するに魏の冊封体制に入って「出雲勢力を牽制した」というのが真実ではないだろうか?

外国の権威を借りて国内の対立候補を黙らせる、というのは昔も今も同じである。私は「出雲勢力」と一義的に書いたが、これとは別に「対馬・壱岐の海洋勢=天孫族」が博多あたりに入って来ている事も考えられる。あるいは半島勢力が新羅などの北方勢力に追い出されて南下した、という話も無い訳じゃない。ま、色々な選択肢がある訳だ。宮崎氏はこの点については余り触れずに、240年正始元年答礼遣使団が豪華な下賜品「親魏倭王の金印・詔書・美麗な絹織物・毛織物・化粧品・太刀・金および銅鏡100枚」を携えてやって来た、と書くに留めている。主題が魏志倭人伝から読み解く邪馬台国の所在地ということなので、脇道に余り入り込むとそれで何冊もの本を書かなくちゃならなくなるから、まあ当然だろうなとは思った。倭国とか邪馬台国とかその他天孫族と出雲勢力の争いについては、いずれ「おいおい出て来る」ものとして、早速本題に入ろう。

2、いよいよ邪馬台国へ
最初に著者は魏志倭人伝(原文」を掲げる。例えば「土地山険多深林」など、中国語を喋れない私でも簡単に理解できる程度の文章が主なので、この程度ならば「正確を期して原文を読む」という取り組み方は良い事だと思う。但し、原文にある漢字が「日本語と同じだからと言って、意味も同じとは限らない」から難しさは変わらないので、やはりここは雰囲気だけ味わうことにして「正確な訳文は日本語で読む」のが正しいだろう。ちなみに私は原文の土地云々を「トーチーサンケン、ターシンリン」と、中国風の一文字一音を頭から順番に読む方法で「リズム重視」で読んでみた。中国語を読む時は、意味は分からないとしても必ず1字1音で読むことをモットーにしている。これが「中国の雰囲気を味わう秘訣」なのだ。そんなこんなでそこそこ雰囲気を味わいつつ、いざ「女王国」へと出発しよう!

3、上陸した末盧国以下の比定地問題
一応通説として末盧国を唐津にあて、それから伊都国=糸島市、奴国=福岡市、不弥国=宇美町と、何れも「方角」が魏志倭人伝と異なると指摘。まあこれは私にしてみれば当然である。通説が間違いなのだ。昔の地名を「音で当てはめる」のは間違いの元、というのは鉄則である。以前邪馬台国の所在地を先入観なしに検証した本を読んだことがあったが、その時に抱いた疑問は答礼遣使団が上陸してから、何故「行くに前人を見ず」という状態の「草ボーボーの原野」を進まなければならなかったのか?という点である。少なくとも半島は勿論のこと、中国とも何度か通交している筈なのに「整備されていない、初めて通る道」をわざわざ選んでやって来る、というのはどうにも解せないではないか。

半島あるいは海外と「しょっちゅう行き来」しているなら当然道は「通行しやすく」なっていて、人が休んだり物資を置いておく何らかの施設などが建っていると考えるのが普通だ。それが草ボーボーというのは何かおかしくないか?というのが私の反応である。答えは、答礼遣使団が上陸した末盧国=唐津は、普段使っている港では無かったのだ!。普段半島と行き来している港は「博多」にあった。それが出雲勢力の進出で「使えなかった」のである!。戦闘中だから「仕方なく」普段は使わなかったであろう寒村の末盧国くんだりに上陸せざるを得なかった、と私は思っている。勿論、答礼遣使団の目的である女王国が辺鄙な場所にあって、博多では遠回りになってしまうので「仕方なく最短距離」の末盧国に上陸した、とも考えられる。

果たして宮崎照雄はどのような説明をしているのだろうか?、楽しみである。



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