信長の死はその後の歴史を大きく変えたと言われているが、本当の所は分からないのだ。出てくる役者が変わり、家康は寿命が尽きて、別の武将が天下を取っていてそれが原因で戦国時代があと何十年か伸びていた、と言うこともあったかもしれない。が、そこまで妄想を広げると歴史ではなくなってしまうので、そこで本能寺の変の後の秀吉の奇跡の中国大返しを検証してみると、信長弑逆の影の黒幕が見えてくるんじゃないか、そういうテレビ番組を見たので私見を述べて見る。本能寺の変は歴史の謎解きテーマとしては「邪馬台国の所在地」「天武天皇の出自」と並んで日本三大歴史問題になっているほどであるから、取り上げる価値はあると思う。とまあ前振りはこのくらいにしておいて、早速私の拙い知識による謎解きを始めよう。
まずは知られていない疑問から。
1 周りを取り囲んでいるのが明智の軍勢だと知った信長は「是非に及ばず」と言ったという有名な話があるが、信長の側近は全員討ち死にしたはずだから「誰が信長の言葉を後世に伝えた」のだろうか。
明智軍の誰かが信長の言葉を聞いているはずは無いから(もし近くで聞いているほど内部にもぐり込んでいるなら、信長の死体が見つからないことなど有り得ない筈である)信長の側の誰かである。可能性があるのは、唯一生き延びてイエズス会の宿舎に逃げ込んで助かった「黒人大名の弥助」であるが、彼またはイエズス会の記録からはその様な話は見えてこない。これはそもそも太田牛一の「信長公記」が作った捏造話である、というのが私の解釈である。だいたい明智軍は「信長本人が呼び寄せた」と言うのが今の定説である。その明智軍が秀吉の応援に行かずに老の坂から真っ直ぐ本能寺を目指していたら、信長の側近が気付かない筈は無い。当時は戦国の世の中でいつ寝首をかかれるか分からない状態であるから、信長も当然スパイ網をあちこちに張り巡らしているに決まっている。1万を超える大軍が堀川を渡って本能寺を取り囲むまで気がつかないとしたら、信長は相当な「うつけ者」であるし、そんな人間が天下を取るまで生きているほど戦国時代は甘くはない。
だから信長は明智の大軍が近くに来ていても全く驚かなかった、というのが真相だ。だがそんな信長ですら明智の裏切りは「全く予想だにしていない」ことであったのだ。完璧な裏切りである。配下の将兵ですら知らなかったのだから、信長にさんざん痛めつけられて我慢できずに裏切った「遺恨説」というのは、全然有り得ないと言える。光秀が周りに知られずに恨みを増幅させて「いつか殺してやる」と思い詰めていた、というのは「引きこもりの変質者」ならまだしも、光秀ほどの「公人」であればまず右腕の斎藤利三とか何人かの相談役がいる筈で、誰にも話さず信長弑逆というような大仕事を実行するには、「その後のスケジュール」も含めて、相当綿密に打ち合わせをやらなければ無理である。突然思い付いて殺した、なんて話は「有り得ない」のである。
2 そして第二の疑問、毛利方へ信長が討たれたことを知らせる密書を持ってひた走りに走っていた間諜が、運悪く秀吉方に見つかって中国大返しが成功した、と信じられているが、そんな大事件であれば何人も(つまり毛利だけではなく他の武将間の連絡網)スパイはいたわけで、たった一人が捕まったぐらいで毛利に信長の死が伝わらなかったと言うのは不審である。第一に、スパイが見つかる可能性は何時でも有るわけで、たった「信長が討たれた」という情報を伝えるためだけに「密書」を持たせる必要はないと思うのだがどうだろう。単に口で言えば済むのだから、密書を取り上げられたと言うのも作り事であろう。それに1万もの軍勢で本能寺を焼き落としたのだから、もう秘密でもなんでもない周知の事実であろう。秀吉は、中国大返しの時に「途中に握り飯を用意させて」兵隊達を元気付けたというが、それ以外にも「重たい装備を捨てて兵隊を空手で」走らせたとか、帰り道を「行軍しやすいようにあらかじめ整備しておいた」とか、色々な策を使って「7日で天王山まで戻った」ことになっているが、これも疑って見る必要がある。
テレビ番組では大学の力を借りてコンピュータを使い、実際の行軍が7日ではなく最低10日以上はかかるとの検証結果を得た。まあ、1時間番組であるから掘り下げての結論を得るのは難しいだろうが、私の考えでは「行軍は普通より少し早い」程度ではないだろうか。必死で戻ってきて疲れている兵隊を使って「絶対に負けられない決戦」を天王山で戦ったというのでは、日本代表のオーストラリア戦よりも数段分が悪い。問題点は秀吉ではなく「光秀側にある」と思うのだ、つまり信長を討った後の数日間彼は「何をしていたか」である。あちこちに書状は送り味方を募って奔走しているらしいが、「信長を討った後」にしては余りにもドタバタである。これでは全ての計算が、余りにも裏目裏目に出すぎていると思わないだろうか。そこで気になるのが家康の動向である。番組は、信長が家康を殺す計画で光秀を使ったつもりが、逆にその隙を光秀に突かれて返り討ちにあってしまったという説を取り上げている。世の中には光秀が生きていて「黒衣の宰相と言われた金地院崇伝その人だ」という説もあるくらいで、あながち出鱈目とも言えないのだ。たった2つの疑問を今回取り上げたが、まだまだ書く事はいっぱいある。考える時間があまりにも足りないので、残念だが残りは次回にしようと思う。
歴史の真実は生半可の事では分からないのだ。関ヶ原の戦いで小早川の裏切りを促した家康の問鉄砲というのも実際は違っているというし、武田を破った信長の鉄砲三段打ちも本当は違っていたという。巷で言われている有名な話は、尾ひれがついて眉唾物である例が多いのだ。だから歴史を丸飲みにするのでなく細かい点は放っておき、大事なところだけを押さえるということだろう。壬申の乱を例に取れば、大友皇子と天武天皇が戦って天武天皇が勝った、という事が唯一の事実である。それ以外の事はすべて疑ってかかること、特に事件が古代であればなおのことである。後世に本当のことが書き残されていると考えること自体、歴史というものを誤解しているとも言えるのだ。なぜなら「真実はわざわざ人に知らせる必要」はなく、自分だけがこっそり心に隠しておけばいいことだからだ。
真実を世間の目に広く知らしめるという中国の歴史家の命がけの心構えは、未だに日本人には理解できない感覚なのではないだろうか。日本人は歴史上の出来事を、全て「歌舞伎の題材」にしてしまうゴシップ好きの国民である。それは今の国会を見ていてもびっくりするくらい顕著で分かりやすい。つまり皆にとって真実がどうなのかよりも、「公務員の皆さんは、自分たちの生活を守る事に必死」なのである。そして、私たちはそれを許してしまう国民でもあるのだ。
話は本能寺の変からだいぶ脇道にそれてしまったが、実に嫌な国民である。
まずは知られていない疑問から。
1 周りを取り囲んでいるのが明智の軍勢だと知った信長は「是非に及ばず」と言ったという有名な話があるが、信長の側近は全員討ち死にしたはずだから「誰が信長の言葉を後世に伝えた」のだろうか。
明智軍の誰かが信長の言葉を聞いているはずは無いから(もし近くで聞いているほど内部にもぐり込んでいるなら、信長の死体が見つからないことなど有り得ない筈である)信長の側の誰かである。可能性があるのは、唯一生き延びてイエズス会の宿舎に逃げ込んで助かった「黒人大名の弥助」であるが、彼またはイエズス会の記録からはその様な話は見えてこない。これはそもそも太田牛一の「信長公記」が作った捏造話である、というのが私の解釈である。だいたい明智軍は「信長本人が呼び寄せた」と言うのが今の定説である。その明智軍が秀吉の応援に行かずに老の坂から真っ直ぐ本能寺を目指していたら、信長の側近が気付かない筈は無い。当時は戦国の世の中でいつ寝首をかかれるか分からない状態であるから、信長も当然スパイ網をあちこちに張り巡らしているに決まっている。1万を超える大軍が堀川を渡って本能寺を取り囲むまで気がつかないとしたら、信長は相当な「うつけ者」であるし、そんな人間が天下を取るまで生きているほど戦国時代は甘くはない。
だから信長は明智の大軍が近くに来ていても全く驚かなかった、というのが真相だ。だがそんな信長ですら明智の裏切りは「全く予想だにしていない」ことであったのだ。完璧な裏切りである。配下の将兵ですら知らなかったのだから、信長にさんざん痛めつけられて我慢できずに裏切った「遺恨説」というのは、全然有り得ないと言える。光秀が周りに知られずに恨みを増幅させて「いつか殺してやる」と思い詰めていた、というのは「引きこもりの変質者」ならまだしも、光秀ほどの「公人」であればまず右腕の斎藤利三とか何人かの相談役がいる筈で、誰にも話さず信長弑逆というような大仕事を実行するには、「その後のスケジュール」も含めて、相当綿密に打ち合わせをやらなければ無理である。突然思い付いて殺した、なんて話は「有り得ない」のである。
2 そして第二の疑問、毛利方へ信長が討たれたことを知らせる密書を持ってひた走りに走っていた間諜が、運悪く秀吉方に見つかって中国大返しが成功した、と信じられているが、そんな大事件であれば何人も(つまり毛利だけではなく他の武将間の連絡網)スパイはいたわけで、たった一人が捕まったぐらいで毛利に信長の死が伝わらなかったと言うのは不審である。第一に、スパイが見つかる可能性は何時でも有るわけで、たった「信長が討たれた」という情報を伝えるためだけに「密書」を持たせる必要はないと思うのだがどうだろう。単に口で言えば済むのだから、密書を取り上げられたと言うのも作り事であろう。それに1万もの軍勢で本能寺を焼き落としたのだから、もう秘密でもなんでもない周知の事実であろう。秀吉は、中国大返しの時に「途中に握り飯を用意させて」兵隊達を元気付けたというが、それ以外にも「重たい装備を捨てて兵隊を空手で」走らせたとか、帰り道を「行軍しやすいようにあらかじめ整備しておいた」とか、色々な策を使って「7日で天王山まで戻った」ことになっているが、これも疑って見る必要がある。
テレビ番組では大学の力を借りてコンピュータを使い、実際の行軍が7日ではなく最低10日以上はかかるとの検証結果を得た。まあ、1時間番組であるから掘り下げての結論を得るのは難しいだろうが、私の考えでは「行軍は普通より少し早い」程度ではないだろうか。必死で戻ってきて疲れている兵隊を使って「絶対に負けられない決戦」を天王山で戦ったというのでは、日本代表のオーストラリア戦よりも数段分が悪い。問題点は秀吉ではなく「光秀側にある」と思うのだ、つまり信長を討った後の数日間彼は「何をしていたか」である。あちこちに書状は送り味方を募って奔走しているらしいが、「信長を討った後」にしては余りにもドタバタである。これでは全ての計算が、余りにも裏目裏目に出すぎていると思わないだろうか。そこで気になるのが家康の動向である。番組は、信長が家康を殺す計画で光秀を使ったつもりが、逆にその隙を光秀に突かれて返り討ちにあってしまったという説を取り上げている。世の中には光秀が生きていて「黒衣の宰相と言われた金地院崇伝その人だ」という説もあるくらいで、あながち出鱈目とも言えないのだ。たった2つの疑問を今回取り上げたが、まだまだ書く事はいっぱいある。考える時間があまりにも足りないので、残念だが残りは次回にしようと思う。
歴史の真実は生半可の事では分からないのだ。関ヶ原の戦いで小早川の裏切りを促した家康の問鉄砲というのも実際は違っているというし、武田を破った信長の鉄砲三段打ちも本当は違っていたという。巷で言われている有名な話は、尾ひれがついて眉唾物である例が多いのだ。だから歴史を丸飲みにするのでなく細かい点は放っておき、大事なところだけを押さえるということだろう。壬申の乱を例に取れば、大友皇子と天武天皇が戦って天武天皇が勝った、という事が唯一の事実である。それ以外の事はすべて疑ってかかること、特に事件が古代であればなおのことである。後世に本当のことが書き残されていると考えること自体、歴史というものを誤解しているとも言えるのだ。なぜなら「真実はわざわざ人に知らせる必要」はなく、自分だけがこっそり心に隠しておけばいいことだからだ。
真実を世間の目に広く知らしめるという中国の歴史家の命がけの心構えは、未だに日本人には理解できない感覚なのではないだろうか。日本人は歴史上の出来事を、全て「歌舞伎の題材」にしてしまうゴシップ好きの国民である。それは今の国会を見ていてもびっくりするくらい顕著で分かりやすい。つまり皆にとって真実がどうなのかよりも、「公務員の皆さんは、自分たちの生活を守る事に必死」なのである。そして、私たちはそれを許してしまう国民でもあるのだ。
話は本能寺の変からだいぶ脇道にそれてしまったが、実に嫌な国民である。
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