671年に郭務宋が持ってきた唐の国書は「大唐皇帝敬問倭王」とある。この時の天皇は天智である。唐は旧唐書でも倭と日本を別の国と認識していたのだから、この時点で日本が既に存在していたかは別として、倭王に宛てた国書ということになる。では天智が倭王なのか?天智の息子大友皇子は懐風藻に詩を残してるくらいだから漢学の素養がしっかりあって中国との結びつきの強さを感じさせ、もしかしたら天智の家系は韓国百済系王族という可能性も高い。そもそも倭王は天孫降臨神話が示すように、半島から勢力を伸ばした部族の流れと見ることが妥当ではないか。飛鳥地方に勢力を持つ高砂族を中心とした部族共同体は、神武の東征によって征服され渡来系王朝が現地勢力と合体して「日本」が出来た、と私は見ている。天智は白村江の戦い当時に倭国王であった。これは小松洋二の本で得た確信である。
唐は新羅と組んで百済を滅ぼしたが、その後に唐は傀儡政権による百済再興を目論見、結果新羅が反唐に転じて両国の仲もスッタモンダして来た。そのため郭務宋は倭国の力を利用しようとして2回も倭国に来て、合計2、3千人もの百済人を送り込んで来た。2度目の671年には「サチヤマ」等4名の倭国の捕虜が一緒に来て、唐の情報を伝えているという。唐に付いて新羅討伐戦に出陣するか、それとも断固拒否して唐と対決するか、郭務宋は最後の決断を求めて来たと思われる。天智は既に亡くなっていて、大友皇子が中心になって会議が開かれたと小松洋二は言う。この時期倭国の最大の関心事は、唐に付いて冊封体制に組み込まれるか、自主独立して新羅と共に戦うか、二者択一を迫られていたのである。答えは唐の冊封体制を受け入れるであった。それが壬申の乱の理由である。
実に明快に歴史を紐とく小松洋二の手腕には、ほとほと感心の極みであった。そして一番の古代史最大の問題点、天智と天武それぞれの人物像の解明へと入っていく。彼は天智を百済系の人間と見る。王族であったかも知れない。そして天武を倭国王の弟「すなわち皇弟」だと断言する。つまり倭国王は誰だかわからないが、天智は大津に百済亡命政権を作って対唐工作をせっせとやっていたのである。ここで言う大津とは、当然「九州の那の大津」である。例の船出の歌で有名な額田王は、最初天武の嫁であったが後に天智の妃になった、というのは実は、彼女こそが倭国王女ではなかったか、と小松洋二は書いている。鋭い指摘だ。古代の恋愛観を今日の感覚で推量るのは無意味であり、当時は政略結婚という特殊な意識もなく普通に行われていた事と思われるのだ。
天智は色々と倭国王族に接近していて、斉明女帝が白村江出発間際に亡くなった後は、称制で指揮を取っていたが、倭国を百済救援に駆り立てていたのは百済系王族である。斉明女帝は実は暗殺であったとし、天智も親百済派から殺されたと見ているのが小松洋二だ。この辺りはさすがに推測しかできないが、大化の改新から壬申の乱までの一連の出来事を上手く説明する事が私のというか「古代史ファン」の宿願であれば、小松洋二は相当にイイ線行っていると思う。
どうも壬申の乱が現滋賀県の大津を舞台として起きた事件であるというのは動かない事実のようだ。小松洋二の本を読む限り、それに疑いを持ってはいない。しかし天武が「倭国の皇弟」であるならば当然その首都に近く居を構えるのではないか。だが飛鳥のどこにも天武が住んでいたという記録(大海人皇子の記録)なり伝承が見当たらないのはなぜなのだろう。天武のみならず天智も余り飛鳥に住んでいたようには書かれていなく、影が薄いのだ。万葉集から書紀や古事記に渡って文化の花開く宮廷といった記述は多い。しかし吉野という地名に、どうも政治的重要性が感じられないのである。吉野はやっぱり九州の吉野ヶ里ではないか。
と、ここまで来て「一条このみ著、万葉の虹」という本が衝撃的な内容の論を展開しているという情報を得た私は、早速Kindle版をダウンロードして読むことにした。Kindle版は欲しいと思った時に「瞬時」に届くので、現在最強の本である。紀伊国屋のKinnopyも同等のアプリだが、なんとも凄い時代になったものである。しかし電子書籍というのは何故あんなに高いんだろうか。諸コストを考えれば定価の3分の1でも充分お釣りが来るはずなんだが。多分紙の本が売れなくなってしまうので、不本意ながら釣り合いを取っているのだろうが、もしそういう理由であれば「釣り合いのために付加している金額を、作者にあげたら」と思うのだが、まあ関係ない話ではある。
サンプルをチラッと読んだが中々の書きっぷりで新しい切り口を展開しているようだ。小松洋二の話をしようとしていたのに一条このみの話に移ってしまって困ったが仕方ない。この続きは後日ちゃんと読み終えてからまた書きたいと思う。
〇
唐は新羅と組んで百済を滅ぼしたが、その後に唐は傀儡政権による百済再興を目論見、結果新羅が反唐に転じて両国の仲もスッタモンダして来た。そのため郭務宋は倭国の力を利用しようとして2回も倭国に来て、合計2、3千人もの百済人を送り込んで来た。2度目の671年には「サチヤマ」等4名の倭国の捕虜が一緒に来て、唐の情報を伝えているという。唐に付いて新羅討伐戦に出陣するか、それとも断固拒否して唐と対決するか、郭務宋は最後の決断を求めて来たと思われる。天智は既に亡くなっていて、大友皇子が中心になって会議が開かれたと小松洋二は言う。この時期倭国の最大の関心事は、唐に付いて冊封体制に組み込まれるか、自主独立して新羅と共に戦うか、二者択一を迫られていたのである。答えは唐の冊封体制を受け入れるであった。それが壬申の乱の理由である。
実に明快に歴史を紐とく小松洋二の手腕には、ほとほと感心の極みであった。そして一番の古代史最大の問題点、天智と天武それぞれの人物像の解明へと入っていく。彼は天智を百済系の人間と見る。王族であったかも知れない。そして天武を倭国王の弟「すなわち皇弟」だと断言する。つまり倭国王は誰だかわからないが、天智は大津に百済亡命政権を作って対唐工作をせっせとやっていたのである。ここで言う大津とは、当然「九州の那の大津」である。例の船出の歌で有名な額田王は、最初天武の嫁であったが後に天智の妃になった、というのは実は、彼女こそが倭国王女ではなかったか、と小松洋二は書いている。鋭い指摘だ。古代の恋愛観を今日の感覚で推量るのは無意味であり、当時は政略結婚という特殊な意識もなく普通に行われていた事と思われるのだ。
天智は色々と倭国王族に接近していて、斉明女帝が白村江出発間際に亡くなった後は、称制で指揮を取っていたが、倭国を百済救援に駆り立てていたのは百済系王族である。斉明女帝は実は暗殺であったとし、天智も親百済派から殺されたと見ているのが小松洋二だ。この辺りはさすがに推測しかできないが、大化の改新から壬申の乱までの一連の出来事を上手く説明する事が私のというか「古代史ファン」の宿願であれば、小松洋二は相当にイイ線行っていると思う。
どうも壬申の乱が現滋賀県の大津を舞台として起きた事件であるというのは動かない事実のようだ。小松洋二の本を読む限り、それに疑いを持ってはいない。しかし天武が「倭国の皇弟」であるならば当然その首都に近く居を構えるのではないか。だが飛鳥のどこにも天武が住んでいたという記録(大海人皇子の記録)なり伝承が見当たらないのはなぜなのだろう。天武のみならず天智も余り飛鳥に住んでいたようには書かれていなく、影が薄いのだ。万葉集から書紀や古事記に渡って文化の花開く宮廷といった記述は多い。しかし吉野という地名に、どうも政治的重要性が感じられないのである。吉野はやっぱり九州の吉野ヶ里ではないか。
と、ここまで来て「一条このみ著、万葉の虹」という本が衝撃的な内容の論を展開しているという情報を得た私は、早速Kindle版をダウンロードして読むことにした。Kindle版は欲しいと思った時に「瞬時」に届くので、現在最強の本である。紀伊国屋のKinnopyも同等のアプリだが、なんとも凄い時代になったものである。しかし電子書籍というのは何故あんなに高いんだろうか。諸コストを考えれば定価の3分の1でも充分お釣りが来るはずなんだが。多分紙の本が売れなくなってしまうので、不本意ながら釣り合いを取っているのだろうが、もしそういう理由であれば「釣り合いのために付加している金額を、作者にあげたら」と思うのだが、まあ関係ない話ではある。
サンプルをチラッと読んだが中々の書きっぷりで新しい切り口を展開しているようだ。小松洋二の話をしようとしていたのに一条このみの話に移ってしまって困ったが仕方ない。この続きは後日ちゃんと読み終えてからまた書きたいと思う。
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