日曜日の夕方、指定投票所の小学校へ行って立憲民主党に入れてきた。候補者名は壁に貼ってある氏名を見て書いたが、正直言って誰だか知らないのである。実にいい加減だ。こんなんで一票に数えていいんだろうか?、・・・いいわけないよね〜(IKKO風に)。
と言うわけで、大いに反省してこれからは少し「政治」について勉強しようと思ったのである。先ずは現在の自分の状態を見直してみよう。
1、立候補者は誰?
立候補者の名前くらい知らなくてどうする?、と自分をたしなめた。少なくとも告示されてから投票日まで最低1週間ぐらいはある筈だから、大体どんな人が出ているかぐらいは知ってから投票したい。まあこの場合の選挙の考え方は、ある意味「人柄」を見て投票することになるのだろうか。選挙は大体〇〇党候補で立候補するので、人柄は余程のことが無い限り「党が保証」している筈である(最近はそうとも言えない人が多くなったが)。
だからある意味、立候補者が「誰でも」構わないとも言えるわけだ。その点では「無所属」の人の場合はその人の争点に対する考え方や人柄を知らないと、投票のしようが無い。私の場合は「立憲民主党」と決めていたので、余り自慢にはならないが候補者が誰かはどうでも良かった(勿論、人柄で選んでいる人も居ると思うが・・・)。
つまり、私は議員を「自分の考えがなくて、党の言う通りに動くコマ」と見ている、ということになる(或いは議員と党の考えが完全に一致しているとも言えるが)。そもそも県議会だから当然お互い「議論する」わけだが、例えば国会の討論のTV中継などを見ていると「質問にまともに答えている」場面は殆ど無い。国会ですら議論出来ていないのだから、下部組織の県議会では「推して知るべし」だ。
とにかく議員には議論をしてもらいたいので、私は選挙では多数派の与党よりは「少数派の野党」に投票することにしている。意見の対立があれば、当然「議論も深まる」理屈との考えだ。しかし、何も考えずに「当日」投票所の貼り紙を見て投票するというのは「如何なもの」だろうか?
今回の反省は、こういう「いい加減な投票」を止めよう、というところから始まっているのである。
2、投票率が過去最低
しかし今回の投票率は全国平均で過去最低だったそうだ。毎回投票率の低下が叫ばれて随分と久しいが、一向に上がる気配は無い。多分日本人は「政治への無関心」が骨の髄まで染み込んでいるのだろう。それに日本では小選挙区制を採用していので、例えば一人区では2番目の人は「どんなに票を取っても」当選しない仕組みになっている。つまり、予想の段階で2番手の候補者は「そもそも当選の可能性」は、殆ど無いのだ。結局、二番手の候補者に入れた票は「死に票」になる(ということは投票してもしなくても同じ、って事!)。
これが選挙に行こうという気持ちを無くさせ、投票率を下げている原因の一つである。というか、誰が当選しても「政治は変わらない」という絶望の方が大きいのかも・・・。この、政治に有権者の声が反映されてない、という感覚は何が原因なんだろう?。そもそも皆んな「反映されない」って言うけど、では政治的な意見なり施策のアイディアなりを持っていて言っているのだろうか?、という意見もある。
このような「努力しない無関心」が人々の中に広がっているとしたなら、争点を深めるも何も「議論自体が起きない」と言える。投票率が40%そこそこで小選挙区制では「有権者の声」が届かない!と言うけど、本当は有権者の「声そのもの」が元々ないのでは?。これじゃ政治は一部の利害関係者のみの限定的なものになってしまって、有権者一人ひとりと社会全体との関わりが希薄になる気がする。
有権者はもっと一人ひとりが「生活する場としての社会」に関わるべきである。そうしなければ、民主主義の根本である「議論」も起こらないと言えるのだ。だから個人的には、投票率が70%に達しなかったら「再投票」するべきだと思う(理想は一人区での当選者は、有権者数の少なくとも50%以上の票を取る必要がある、etc)。
だが、誰に入れるか考えてない人に「無理やり投票」させて70%超えたとしても、そんな選挙は意味がないのでは?。何より「有権者の意思」が感じられてこその選挙である。そもそも投票に行かない人がこんなに多い理由は単純に「政治に関心が無い」からであり、人々に関心を持ってもらうためにはどうすればいいか、が分かって無い。
おそらく「社会を良くしよう!」という感覚は、棄権する人には無いのだと思う。それは政治というものが彼らの身近になくて「他人事」のように見えているからだろう。昔、江戸時代の庶民は江戸城での議論の中身など「そもそも知る立場に無い」から、自然と興味が湧かなかった。庶民に必要なのは日々何とか「小銭を稼ぐ」ことであり、大所高所の議論は「お偉いさん達のやる事」に見えただろう。
何をどう変えても「我々の得になる事は無い」という諦めの心理が、庶民にはあった。庶民は「政治の外」に置かれていたのである。これはある意味、現代でも変わっていない。
3、投票に行ったら後は知らない
それでも投票するだけマシだと思うかも知れない。だが、何年に1度くらい投票に行ったといって、「それが何の役に立つ?」と言われれば確かにその通りである。私もそうだが律儀に投票したからと言って、それで棄権した人よりも「政治に関心がある訳じゃ」無い。ただ国民の権利だし、大して面倒でもないからやっているに過ぎない。これが忙しい最中に仕事を中断してわざわざ行くとなると、果たして同じように「投票するかどうか」疑問である。
つまり、私の例で言えは「大した考えなし」に投票してるのである。これじゃ偉そうなことは言えない。
4、問題意識から改革する
まず選挙のことを身近に感じることから始めるのが「投票率アップ」の第一歩ではないだろうか。私のゴルフ仲間のSN氏の場合だが、人身事故が起きた「危険な道路」の問題から政治に関わるグループに加わって、段々と各議員や政党の取り組み方を考えるようになったという。自分の「身の回りの問題」に政治家がどう絡むかをキッカケにして、政治に関心を持つのは「正しい方向」ではある。だがこの方法では人によって「身近に関わるかどうか」の差が激しいので、必ずしも「万人が」政治に関心を持つキッカケに成るかと言うと、そうでもないとも言えそうだ。
例えば「原発の再稼働」の問題も、人によっては興味ないと言う人もいる。反応がマチマチなのだ。原発を再稼働するかどうかという「重要な問題」であっても、自分に「直接関係が無い」から興味が湧かない、という人もいる。逆に、政治に興味を持つためには直接自分に関係がなくても、「社会を守る意識」があれば選挙に行こうという気になるのである。では、どうやったら「そういう意識」になれるのか?
やはりそういう意識は「子供のうち」から教育を通して形成されるのが一番である。 子供のうちから「率先して自己主張をする」習慣が無ければ、大きくなっても「政治に関心を持つ」のは不可能だと私は思う。言葉では身近な問題と言ってはいても、実際に自分のものとして捉えるのは面倒臭い。意識が自分だけに向いている状態では、政治に関わる迄には至らないのだ。やっぱり「社会の一員」としての問題意識が、投票率を上げるには絶対必要である。これは人々の「社会への帰属意識の濃さ」ということになるだろうか。
ここまで考えてたまたまラジオの番組を聞いていたら、今回の争点は「経済、そして少子化・過疎化問題だ」と言っていた。おおっ、争点があったのか!、気付かなかったぜい!。
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選挙はいつの時代でも「経済回復」が選挙の争点の中心である。今回の選挙の場合でもそれは変わらない。ただ、経済が争点になるのは「経済対策が良いか悪いか」ということであり、今回のように「決定的な解決策が与野党何れの側にも無い」場合には、それは政党を選ぶ争点にはならないのである。どこの党を選んでも「物価高を一挙に解決」する方策は無い。少子化でも同じだし、過疎化の問題に至っては「ここ何十年も同じ問題」に取り組んでいるが、成果を上げるには至っていない。問題の核心が分かっていないのだ。
私はこれらの問題について適切な場を設け、「日常的に活発な議論」をしていくことが大切かな、と思う。よく国会で見られるような質疑応答では、充分な議論が尽くされているとはどうしても感じられないのである。どうしたらより良い方策を見つけられるか?。それを各党が「党利党略を捨て」て、真剣にアイディアを出し合って議論を深めて行くことが、取りも直さず日本を良くしていく唯一の方法だと私は考える。それには先ず「正しい議論の方法」を理解し、そして議論そのものの「技術」というのも必要だ。では、どうしたら議論のできる国民を育てることができるのだろう?
やはり長い目で見れば「子供のうちからの教育」が不可欠だと思う。そこで将来の日本を活性化するために、何よりも「教育の抜本的改革」を最優先し、議論する場をもっと増やすべきだと私は思う。そして何より国民は、もっともっと「政治に関心を持つ」べきであると強く思う。一日5分政治の事を考えるだけでも、そこから未来が変わるんじゃないだろうか?。とにかく「諦めずに続ける」こと。「千里の道も一歩から」というんでは余りにも遠すぎて無理としても、せめて「100歩を行くには、最初の1歩が大事」位の謙虚さが欲しいものである、地道に頑張るぞぉ〜!
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