明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

川崎の殺人鬼と引きこもり

2019-06-01 20:16:05 | ニュース
ここ一週間は月末退職に向けての最後のご奉公ということで、割と忙しく日を過ごしていた。何だか久しぶりに本格社会復帰の気分を味わえたように思えた一週間である。月曜から木曜まで毎日次から次へと仕事をこなすしていると、なんだか自分がバリバリ仕事をしていた昔に戻ったようで、生活も張りが出てくるしリハビリも大分改善された。やはり人間は働いている時が、一番心が休まる。それは自分が社会に必要とされているという実感を、日々感じ取って生きているからに他ならない。年を取って能力に衰えを感じるのであれば、それなりに仕事の質を易しいものに下げれば何の問題もない。勿論給料も下がるが、能力に見合った給料になるのだから、そんなことにいちいち文句を言っているようでは働くのは無理だろう。それなりに老後の準備をして蓄えも多少はあるとすれば、何もガツガツお金に執着しなくてもいい筈である。何よりも「社会に必要とされている」気分を満喫することが、人間にとっては重要なのだと思う。楽しんで働いてなおかつお金も貰えるのだから、一石二鳥とはこのことではないだろうか。これが理想的な老年の過ごし方であろう。

と考えたが、しかし会社の事情で退職することになった。業績が年々思わしくなく、使い勝手が限定される年齢の我々は、雇っておくメリットが無くなっていたのであろう。もとより近々やめるつもりだったので、理由を説明する手間が省けたとも言える。これで念願の「奈良生活」を始める準備が出来るというものだ。これはこれで嬉しい反面、こうして社会との縁がプッツリ切れてみると、案外心にポッカリと「空白」が出来てくる。私は社会全般に対して何事の不満や不公平感を感じずに生きてきたし、幸せな人生だったと今でも思っている人間である。しかし、そうは思わないで不平不満のまま底辺に沈んだ生活を送っている人が、世の中には大勢いるのだと時々考えることがある。先日からニュースを賑わせている川崎市の無差別大量殺傷事件は、そんな暗澹たる事件である。

引きこもりの51歳の男が犯人で、直後に自分で首を切って死んだらしい。小学校の登校時を狙って柳刃包丁など4本を用意して犯行に及んだというから、もう頭の中は子供を殺してやるという「一つのことしか無かった」状態である。この犯人は子供の時に両親が離婚して、叔父夫婦に引き取られたらしいから、その後何十年か「ずっと引きこもり」だったのか、あるいは「社会に出て適合できずに」次第に引きこもりになってしまったのか、詳細はまだニュースなどでも報じられていないから分からないが、何れにしても「行き場を社会からシャットアウトされ、先の見えない閉塞感と深い怨念とが心を蝕んでいった挙げ句に、何かをきっかけにして暴発した」行動だと思われる。つまりこの犯人の底流には、社会に対する「何らかの攻撃」をしたいという衝動が常に渦巻いていた、と言える。いとこ2人がこの被害を受けたカリタス小学校に通っていた、ということも、この犯人の心の何処かに「複雑な思考経路の中で」何故かターゲットに選ばれたのだろうとしか思えない。自分と社会との歯車が狂って、修復できないほどになってしまったその接点が「カリタス小学校」だったとしたら、余りにも不幸な「自分勝手な巡り合わせ」だと言わざるを得ない。

この犯人の心の中を垣間見ることが出来るとすれば、この小学校の生徒を襲って、記憶の中に残っていたであろう楽しかった唯一の思い出を「血の海で抹殺し」、四方八方をがんじがらめに閉じ込められている自分の人生の不甲斐なさと、そういう自分を「まるでいないかのように忘れ」て日々を過ごしている社会全般に対するやり場の無い怒りが混じり合って、ぞれら全部を「めちゃくちゃにして」全てを一気に終わらせるつもりで事件を引き起こした、ということではないだろうか。狂人には違いないが、社会にそうなるべくして追い込まれてしまったとも言える。この犯人には、同居の夫婦が殺されるということもあり得たわけで、何かの事件を起こさなければ「結局決着はつけられなかった」というのが真相であろう。暴力的狂人があやうい綱渡りの生活を続けていたのだから、いつかは爆発せざるを得ない。問題は「どこで止めるか」である。こういう事件はアメリカで頻発しているが、日本でも徐々に起こるようになってきた。きっと、何かのきっかけで「事件を起こす青写真が頭に現れ」、それを消すことが出来ず「むしろ増幅させて」実行に移すというのが特長である。ある事件を「想像して」、その結果が何か自分の閉塞感を「吹き飛ばしてくれる」と思い込んでしまい、それを実行することから思考が離れなくなる。そういうことでは無いだろうか。中身は違うが「私にも、また誰にでもある」ことである。実行するかどうかではなく、「何を」実行するかが「犯罪と普通のこと」の分かれ道だ。人間の行動のロジックはそれほど人によって違うわけではない。脳の思考回路が、どこかで狂って犯罪を犯すのである。1億2千万もいれば、必ず「どこかおかしい人間」が出てくるものである。

人間の権利(=ヒューマンライツ)ということに着目して声高に主張していけば、リスクは負わなければならないだろう、難しいところである。問題は、暴発する前に隔離するか、暴発して事件を起こしてから捕らえるか。今回は、暴発して自分も死んで決着を付けた。唯一犯行を未然に防ぐ可能性があるとすれば、普段から「暴発の徴候」をきめ細かくチェックしていて、「包丁を買った時点で」隔離することである。この種類の犯人は、必ず事前に武器を購入する。だから犯罪対策としては「常に危ない奴をリストアップ」しておき、何か「準備行動に入った」と思った瞬間を見計らって、未然に防ぐべく行動を起こすしかないであろう。彼等はいろいろ理屈を付けて正当化しようとするだろうが、理屈で考えてはこの手の「異常な思考の人間」は判断することはできない。本質的な対策としては「本人にカウンセリングシステムを受けさせる」こと、しかないかもしれない。人間の権利を尊重し、かつ市民一般の安全を確保するためには、これしか無いような気もする。おかしい奴がおかしい事を始めた時、それを「おかしいと感じるシステム」が必要だ。マスコミはただ犯人の異常性を取り上げて騒いでいるだけだが、この犯人を「特殊な狂人」と捉え、育った環境や社会的な要因を調べ回っている間は根本的な解決を見つけることは出来ない。

まあ、いろいろ考えることもあるが、私の身の上に降りかからないことだけを祈るとしよう。閑話休題、これから私は「引きこもり解消策」を考えなければならない。この間、総務省だか文科省だかどこかの省の発表した数字によると、老年の引きこもりが「実は結構な割合で」増加しているそうである。勿論、引きこもりの定義が変更になっての結果であるから私自身、もう一度考え直してみる必要もあるのじゃないかと思っている。つまり、コンビニやスーパーに行って「日用品」を買う、というのは「出掛ける」ことには入らないのだそうだ。そう言えば日常で出掛けているところと言えば、会社以外ではセブンイレブン・マミーマート・コインランドリーとゴルフ練習場の4ヶ所だけである。これで殆どの生活の用は足りている。それと、たまにビックカメラや本屋のジュンク堂あたりを「ぶらぶら」とウィンドゥショッピングするぐらいで、これでは今度の引きこもりの定義では「完全にアウト」である。何より、言葉を発する必要が全然無い。人間と人間のコミュニケーションの基本は、会話することである。その会話が今回会社を辞めたことで、「残りの人生、一言も言葉を発しない」であの世に行ったとしても何ら不思議はない状況だ。ブログを書いているから会話している気分になってはいるが、実際は「無言の人生」になっているのだ、ああ、このままではマズイ、マズイぞう〜!

そこで心機一転、会話を増やすために今後努力してみたいことを羅列してみよう。

1、スイング解析機のある練習場でレッスンを受け、会話と同時にゴルフを極めるという一石二鳥の案
私の唯一の社会との接点は、小学校の時からの友人であるSN氏とSY氏だ。共にゴルフ仲間でもある。近年病気をしてからコースに行けてないので、徐々に疎遠になってしまった。それでもたまにゴルフ帰りに飲み会に誘ってくれて、数少ない会話の時間を作ってくれるのは「やはり昔からの友人」のよしみと感謝している。私もゴルフだけは練習をマメにやっていて、最近は三觜理論を何とかモノにしようと、「練習場シングル」を目指し日々琢磨している。が、これでは「無言のゴルファー」の道をひたすら歩むだけなので、引きこもりの解消には全然役立っていない。そこでスイング解析機のあるレッスンスタジオに入会することで、先生との会話も出来るだろうからいいんじゃないかと考えた。是非感じの良い先生のいるスタジオを探して、レッスンを受けてみることにしたい。取り敢えずは、体験レッスンが狙いめである。

2、喫茶店を復活する
家の近くに小さい喫茶店があって、二階に上がって行くこじんまりした店なのでまだ行ってないが、ちょっと今度は行ってみようと思う。余りおしゃべりをするところではないが、私は意外とお客が喋っていてガヤガヤしている喫茶店で本を読むのが好きなのである。タバコを辞めてからは「余り行かなく」なってしまったのは残念である。ここはもう一度奮起して、喫茶店生活を復活させることにしたい。家でテレビの前に座っていると、ついついテレビを見るだけで一日が終わってしまう。人生の目標である歴史の勉強を達成させるためには、次から次に読書をしていかなければ追いつかない。それで都会の雑踏というのではなく、ずっと静かな「喫茶店のさざめき」を求めて探し歩くことにしたのである。ちなみにドトールやマックやサンマルクカフェとかの「安いコーヒーショップ」はうるさくっていけない。特に子供連れなどもっての外なわけで、静かな喫茶店で微かにBGMの流れているくらいが丁度よい、なんて「今時、相当贅沢な要求」であろうか。ただ、おじさん達「常連」が屯して新聞を拡げているような昭和の喫茶店は具合が悪い。女の子が3、4人おしゃべりしている若いお客の集まる店も、私はどちらかと言えば「BAD」なのだ。だって、話の中身が空っぽなのである。女の子の代りにおばさんが想像を絶する声で「団体でガヤガヤ」しゃべくり倒している悲惨な状況に遭遇した場合は、どんなにコーヒーを飲みたいと思っていても「店には入らない」ように気をつけている。おばさんは、とにかく最悪なのだ。それで、ひとけのない喫茶店を探している。

3、カルチャースクールまたは趣味の集まりに参加する
私は歴史に興味があるので、何か歴史についておしゃべりするような「同好の士の集まり」があれば参加してみたいと思っている。が、この手の会は「ボスが威張って会を牛耳っている」のが殆どである。人間の集まりでは、どうしたってその人の知識や性格からヒエラルキーが自然発生的に生まれてきて、結果としてボスが決まり、それに対して「汲々と金魚のフンよろしく従う」パシリが周りを取り囲むということになりやすい。これはどんな会でも起こることで、自然にそうならざるを得ないのだ。人間社会の必然である。それが嫌で何処にも属さず、孤独な探求を続ける「変わった人」も出てくる、というのは避けられないことである。では、どうすればいいのか?。結局歴史の会には参加するが、真剣に取り組むというのではなく、暇つぶしと会話を楽しむために参加するのである。いわゆる「つかず離れず」であろうか。そんな程度で入っておけば、期待もしない代りにトラブルに巻き込まれることもない。たまたま入った会にきれいな女性でも居れば、「めっけもん」と思うぐらいが丁度いい。いずれにしても奈良に行く前の肩慣らしであるから、軽い気持ちでトライしたいものである。と思ってネットでいろいろ探してはいるのだが、これが案外と見つからない。やっぱり歴史はマイナーなのであろうか。

結局は、奈良に移住する時は「快活な社交的な」性格に生まれ変わっていたいのである。そのための練習であるから、真剣である。時間は半年、余りない。ちなみに今度の7月に、取手桜ヶ丘ゴルフ倶楽部でコース再デビューする予定である。これが思いの外「好成績」だった場合は「もう少しゴルフライフを満喫する」ために、奈良移住計画は2年ほど先送りしても良いかな、と考えているがどうなることやら。兎に角「引きこもり」にならないように気をつける年齢になったということは、肝に命じておくことにしよう。つまり、川崎殺傷事件は他人事ではない。他人と付き合うのが辛い人達の、等しく抱えている問題が「表に出た」事件に過ぎないのだ。そう思うことで、私も「人並みを目指して生きる努力」をするつもりである。

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