こないだ突然左耳が変になった。ヘッドフォンを聞いていると「反響音が出てビビる」のである。とうとうSHUREもダメになったか、と思ったがKLIPSHのネックバンド式イヤホンでも「同じ雑音」が聞こえてきたので、これは耳が変になったと分かった次第。それ以来、左耳は音楽を聴く時には「常に風呂場でやかんを叩く」ような雑音が聞こえるようになってしまった。まあ、特に「気にしなければ」邪魔にならない程度の音だが、真面目に音楽を聞こうとするとやっぱり邪魔である。それで私は「音質を追究する」のは諦めることになった。クラシックファンにとっては、死んだも同じである。最近は出かける時にKLIPSHのBluetoothイヤホンでモーツァルトの楽曲を聞き流すのが日課になっていたが、時々聞こえる「割れたような音」を聞かなければいけないかと思うと「マジ、気分も落ち込む」のだ。何か聞いていないと落ち着かないが、聞けば「余計な音」も聞かなければいけない。本来楽しみであるはずの音楽が、逆に苦痛に思えてくるから嫌になる。ベートーベンも晩年はこうだったのかと、生まれて始めて彼の苦悩がちょっぴり分かった気がした(遅いわ!)。まあ私は「だからどう」ってことは無いのだけれど。
閑話休題、私はクラシック音楽を3000曲程スマホに入れて時々聴いているが、普段は専らインターネット・ストリーミング・サービスのTUNE-INを愛聴している。ストリーミングというのは曲名や演奏者が分からない場合が多いので困ることもあるのだが、逆に「曲名を知らないまま」ランダムに聞けて、自分の好みの作曲家(例えばモーツァルト)などと真正面に向き合ってじっくりと浸る、というようなことが出来てしまう。普段は曲名が分かっているだけに、やや知識の部分が意識の片隅に残るのだ。そういえば、かれこれ3日間もモーツァルトばっかりを聞いている、などと気がついて「私の好みが相当偏っていることに」驚くことがある。昔誰かが言っていたが、アフリカの大自然の中でポツンと過ごす機会があって、色んな作曲家の曲を聞いた時モーツァルトだけが「何度聞いても飽きること無く新鮮な感動」を得ることが出来た、というのである。モーツァルトは、確かにいくら聴いても全然飽きることがない。これは凄いことではないだろうか。私はここにモーツァルトが他の作曲家と違う「何か秘密」があるように思えるのだ。つまりモーツァルトが「特別だ」という理由である。
考えられることの一つとして、バロックから古典前期までは、音楽は何かの用途に合わせて雰囲気を盛り上げる「飾りもの」、つまり彫刻や絵画と同じく「装飾」の一部であった(私の考え)。当時の色々な文章に書かれていることだが、食事の時に音楽を奏でるよう指示された作曲家が、演奏が「食欲を掻き立てるような美味しい音楽でなかった」という理由で首になった、なんてことがまかり通っている時代である。装飾ではあるけれど「芸術でもあるはず」なのに、聴いている側の意識は「気分の盛り上げ役」程度の「添え物」でしかなかったのだ。勿論、作曲家の側には、それ以上の意識の高まりは、あったと思うが。そして18世紀半ばにドイツでシュトルム・ウント・ドラング運動がゲーテやシラー等によって巻き起きると、時を同じくして各国でも多数の文人を輩出する一大運動となった。音楽では逸早くハイドンが現れ、この疾風怒濤運動の寵児となって「売れっ子作曲家」の名を恣にした(この運動とロマン主義の説明はリンクを張っておいたので参照されたい)。
https://www.google.com/url?q=https://jp.yamaha.com/services/music_pal/study/history/19c/p1/index.html&sa=U&ved=2ahUKEwi5i-z91-LhAhUEEqYKHfSBDOcQFjARegQIAhAB&usg=AOvVaw3VknCm8gs0d0ANIdk5Xzok
ハイドンは一時代を築いて多くの作品を残したが、私は残念ながら殆ど聞く機会は無いのでコメントは控えることにする。これは芸術の分野で起きたことだが、世界中で新しい発見や科学技術が発明された「激動の19世紀」の走りとなり、芸術では「ロマン派」に発展する重要な思想的改革となった。イタリア・ルネッサンスに始まった新しい波が、いよいよ人間の見方を大きく変えて「人間本来の自然な感情を前面に押し出す」時代が到来したのである。
で、モーツァルトはどうだったかと言うとその芸術は、「ベートーベンが市民の熱狂を代弁する音楽」だったのに対して、「平和で満ち足りた人々の愛好する音楽」と位置づけることが出来ると思う。モーツァルトの数多くの作品のうち前期の音楽は、貴族層の音楽愛好家が求める「類まれなる美しい音楽そのもの」に他ならない。私の求める音楽も、ひたすら「美しいメロディと和声進行」がマッチした珠玉の楽曲群である。焼き物や掛け軸や屏風といった「それぞれ目的があるもの」であっても、美しさを追求してゆけば「究極の美」に行き当たる。そして、それはもう単なる道具という概念を超えた「愛するもの」に昇華されるのだ。芸術と言っても、あくまで本質は焼き物であり掛け軸である。「モノ」本来の性格を備えたままで、その上に「存在感」を持ったものが、芸術なのではないだろうか。つまり、例えようもなく圧倒的な存在を主張する「壷」であり「湯呑」なのだ。それは人間とその創り出す「モノ」との関係性を保ったまま、かけがえのない美しさを兼ね備えた「芸術」となる。言わば、美についての高い見識を持った人が生活をする空間を彩るに相応しい各種のモノを集めて楽しむ、その「理想の生活全般」がすなわち「芸術」なのである。そこにモーツァルトの楽曲が何故聞き飽きないか、の理由を解くカギがありそうだ。
我々クラシックファンは誰彼と無く「贔屓の作曲家」を持っているものである。もうだいぶ前に亡くなってしまったが、私の年上の友人は他のどんな作曲家よりもプッチーニをこよなく愛していて、その影響もあってか私も一時期プッチーニにはまった時期があった。またこのブログに時折登場する会社の同僚のMH氏は、ショパン大好き人間である。ピアノ曲の最高傑作を「ショパンの前奏曲」と断言して憚らないほどのマニアで、最近はしきりと東京文化会館やサントリーホールなどで「生演奏」を堪能しているらしい。先日はポリーニの「ジャパン・ラストコンサート」を観てきたと言って、興奮して喋っていたので羨ましい限りだ。やはり音楽は生が一番である。ショパンは私も好きでよく聞く作曲家の一人であるが、それでも一番は誰かと聞かれれば「モーツァルト」と答えるしかない。第一、ショパンが「モーツァルトが一番」と死ぬ間際に言っていたというのが、証拠であるというのは都市伝説の類であろう。とにかく、ショパンは何度も聞いていると飽きるのである。たまに聞くと感動するのだが、次第に飽きてくるのは何故だろうか。
私はロマン派の音楽は嫌いじゃないが、ベートーベンから始まった感情の無制限の表出という芸術は、余りにも「暴力的で粗野」なために馴染めない、というのが本当のところである。彼が開いたロマン主義の音楽は、喜びだけでなく、怒り・絶望・夢想・悲しみ・そして破壊と孤独、といった「あらゆる感情」を劇的に表出する芸術に発展し、個人の心の解放といった「新たな音楽の役割」を担って人々の心を捉えた。コンサートに行って自分の感情を思いっきりぶつけ、カタルシス的な満足感を味わって帰る、というスタイルが定着したのがロマン派の音楽である。聴衆は心を揺さぶられることを望んでいるのだ。愛と欲の間で揺れ動き、悲劇的なものに立ち向かい、激情の闇に破滅していく人生を描くことで、聴衆を感動させるのである。それに対し、モーツァルトは美しい物を見せて皆んなで語り合い楽しむことにより、「理想の人格」を表現する。
結論が出たようだ。つまりモーツァルトの音楽は、それまでの添え物的脇役から「主役としてそれ自体を楽しむもの」に変化し、「理想の人々が集まって楽しむ曲」として完成させたものである。言わば聞くものとモーツァルトの音楽との関係は、「鑑賞者と対象物」の関係である。そこには聞くものの側の感情は無くて、「美しい音楽」だけがある。一方、ベートーベンに始まるロマン派の音楽は、聴衆の心を揺さぶって感情を盛り上げ、吐き出すことで感動させる。ここでは聴衆は音楽がアシストする先の「物語の世界」に酔いしれるのである。言わば聴衆は「麻薬に溺れた」ような感動を覚えるが、それは非日常的な世界である。非日常的な感動は、最初は強烈な刺激で心を虜にするが、毎回聞いているとしまいに飽きてくる。我々が映画を見るときを想像すると分かりやすいが、同じ映画を2度続けて見る人は少ないだろう。感動も度重なれば陳腐化する、それがロマン派の宿命だとは言えないだろうか。モーツァルトには、陳腐化する要素が「全くない」。
私はモーツァルトを「美しい日常」と呼んでいる。あるいは「何物にも代えがたい平穏」とも言える。だが、モーツァルトも後期になると時代の流れからか、ロマン派的作品を数多く作るようになってきた。一見聴衆に媚びているように感じるかもしれないが、あくまで彼の「音楽のスタンス」は変わってはいない。モーツァルトの音楽は、常に「鑑賞する対象」であったのだ。その関係は、曲の細かい作りの上でロマン派的技巧を取り入れてはいても、ずっと変わらなかったのである。彼の作品は、特に「緩徐楽章」がとてつもなく美しい!。人生の全てを美しい音楽に捧げたモーツァルトの最後の曲が「レクイエム(の一部)」であったというのは、鑑賞者にとっても「特別な機会、葬儀」を想定させて厳粛な気持ちになる。この曲が演奏される時は「誰かが天国に召された時だ」という重々しい雰囲気が、正に聴衆の心にダイレクトに伝わってくる名曲である。彼はオペラを多く書いたように、人間の「あらゆる感情」を音楽に乗せることに長けていたし、そこが天才たる所以でもある。他の作曲家は「精々2つか3つ」までしか感情を描けないのだが、モーツァルトの手にかかると「全部」が自由自在に表現される。何処かの本で読んだのだが、モーツァルトは人類史上最初で最後の「大天才」だそうだ。
やっぱり、モーツァルトは「聞き飽きない作曲家」だなぁ、というのが結論であるが、それは人間と共存しているからに他ならない。我々の生活と共に音楽があるとすれば、そこには必ずモーツァルトが流れているのである。私が死ぬ時にはモーツァルトを聞きながら死にたいと思っているが、では「どの曲を?」と聞かれた時に答えに困ってしまう。レクイエムでは重すぎるし、アヴェヴェルムがいいかとも思うが「ちょっと短すぎる」のだ、どうしよう?
ここは「ピアノコンチェルト第15番変ロ長調の第二楽章」を聞きながら人生を終わらせる、ってのがいいかな・・・。可憐な主題を見事な変奏で極限まで美しく織りなしたピアノコンチェルトの傑作である。できれば、最後まで聴き終えた時に「ご臨終!」、となれば最高だが・・・って、まだ先の話なんだけど。
閑話休題、私はクラシック音楽を3000曲程スマホに入れて時々聴いているが、普段は専らインターネット・ストリーミング・サービスのTUNE-INを愛聴している。ストリーミングというのは曲名や演奏者が分からない場合が多いので困ることもあるのだが、逆に「曲名を知らないまま」ランダムに聞けて、自分の好みの作曲家(例えばモーツァルト)などと真正面に向き合ってじっくりと浸る、というようなことが出来てしまう。普段は曲名が分かっているだけに、やや知識の部分が意識の片隅に残るのだ。そういえば、かれこれ3日間もモーツァルトばっかりを聞いている、などと気がついて「私の好みが相当偏っていることに」驚くことがある。昔誰かが言っていたが、アフリカの大自然の中でポツンと過ごす機会があって、色んな作曲家の曲を聞いた時モーツァルトだけが「何度聞いても飽きること無く新鮮な感動」を得ることが出来た、というのである。モーツァルトは、確かにいくら聴いても全然飽きることがない。これは凄いことではないだろうか。私はここにモーツァルトが他の作曲家と違う「何か秘密」があるように思えるのだ。つまりモーツァルトが「特別だ」という理由である。
考えられることの一つとして、バロックから古典前期までは、音楽は何かの用途に合わせて雰囲気を盛り上げる「飾りもの」、つまり彫刻や絵画と同じく「装飾」の一部であった(私の考え)。当時の色々な文章に書かれていることだが、食事の時に音楽を奏でるよう指示された作曲家が、演奏が「食欲を掻き立てるような美味しい音楽でなかった」という理由で首になった、なんてことがまかり通っている時代である。装飾ではあるけれど「芸術でもあるはず」なのに、聴いている側の意識は「気分の盛り上げ役」程度の「添え物」でしかなかったのだ。勿論、作曲家の側には、それ以上の意識の高まりは、あったと思うが。そして18世紀半ばにドイツでシュトルム・ウント・ドラング運動がゲーテやシラー等によって巻き起きると、時を同じくして各国でも多数の文人を輩出する一大運動となった。音楽では逸早くハイドンが現れ、この疾風怒濤運動の寵児となって「売れっ子作曲家」の名を恣にした(この運動とロマン主義の説明はリンクを張っておいたので参照されたい)。
https://www.google.com/url?q=https://jp.yamaha.com/services/music_pal/study/history/19c/p1/index.html&sa=U&ved=2ahUKEwi5i-z91-LhAhUEEqYKHfSBDOcQFjARegQIAhAB&usg=AOvVaw3VknCm8gs0d0ANIdk5Xzok
ハイドンは一時代を築いて多くの作品を残したが、私は残念ながら殆ど聞く機会は無いのでコメントは控えることにする。これは芸術の分野で起きたことだが、世界中で新しい発見や科学技術が発明された「激動の19世紀」の走りとなり、芸術では「ロマン派」に発展する重要な思想的改革となった。イタリア・ルネッサンスに始まった新しい波が、いよいよ人間の見方を大きく変えて「人間本来の自然な感情を前面に押し出す」時代が到来したのである。
で、モーツァルトはどうだったかと言うとその芸術は、「ベートーベンが市民の熱狂を代弁する音楽」だったのに対して、「平和で満ち足りた人々の愛好する音楽」と位置づけることが出来ると思う。モーツァルトの数多くの作品のうち前期の音楽は、貴族層の音楽愛好家が求める「類まれなる美しい音楽そのもの」に他ならない。私の求める音楽も、ひたすら「美しいメロディと和声進行」がマッチした珠玉の楽曲群である。焼き物や掛け軸や屏風といった「それぞれ目的があるもの」であっても、美しさを追求してゆけば「究極の美」に行き当たる。そして、それはもう単なる道具という概念を超えた「愛するもの」に昇華されるのだ。芸術と言っても、あくまで本質は焼き物であり掛け軸である。「モノ」本来の性格を備えたままで、その上に「存在感」を持ったものが、芸術なのではないだろうか。つまり、例えようもなく圧倒的な存在を主張する「壷」であり「湯呑」なのだ。それは人間とその創り出す「モノ」との関係性を保ったまま、かけがえのない美しさを兼ね備えた「芸術」となる。言わば、美についての高い見識を持った人が生活をする空間を彩るに相応しい各種のモノを集めて楽しむ、その「理想の生活全般」がすなわち「芸術」なのである。そこにモーツァルトの楽曲が何故聞き飽きないか、の理由を解くカギがありそうだ。
我々クラシックファンは誰彼と無く「贔屓の作曲家」を持っているものである。もうだいぶ前に亡くなってしまったが、私の年上の友人は他のどんな作曲家よりもプッチーニをこよなく愛していて、その影響もあってか私も一時期プッチーニにはまった時期があった。またこのブログに時折登場する会社の同僚のMH氏は、ショパン大好き人間である。ピアノ曲の最高傑作を「ショパンの前奏曲」と断言して憚らないほどのマニアで、最近はしきりと東京文化会館やサントリーホールなどで「生演奏」を堪能しているらしい。先日はポリーニの「ジャパン・ラストコンサート」を観てきたと言って、興奮して喋っていたので羨ましい限りだ。やはり音楽は生が一番である。ショパンは私も好きでよく聞く作曲家の一人であるが、それでも一番は誰かと聞かれれば「モーツァルト」と答えるしかない。第一、ショパンが「モーツァルトが一番」と死ぬ間際に言っていたというのが、証拠であるというのは都市伝説の類であろう。とにかく、ショパンは何度も聞いていると飽きるのである。たまに聞くと感動するのだが、次第に飽きてくるのは何故だろうか。
私はロマン派の音楽は嫌いじゃないが、ベートーベンから始まった感情の無制限の表出という芸術は、余りにも「暴力的で粗野」なために馴染めない、というのが本当のところである。彼が開いたロマン主義の音楽は、喜びだけでなく、怒り・絶望・夢想・悲しみ・そして破壊と孤独、といった「あらゆる感情」を劇的に表出する芸術に発展し、個人の心の解放といった「新たな音楽の役割」を担って人々の心を捉えた。コンサートに行って自分の感情を思いっきりぶつけ、カタルシス的な満足感を味わって帰る、というスタイルが定着したのがロマン派の音楽である。聴衆は心を揺さぶられることを望んでいるのだ。愛と欲の間で揺れ動き、悲劇的なものに立ち向かい、激情の闇に破滅していく人生を描くことで、聴衆を感動させるのである。それに対し、モーツァルトは美しい物を見せて皆んなで語り合い楽しむことにより、「理想の人格」を表現する。
結論が出たようだ。つまりモーツァルトの音楽は、それまでの添え物的脇役から「主役としてそれ自体を楽しむもの」に変化し、「理想の人々が集まって楽しむ曲」として完成させたものである。言わば聞くものとモーツァルトの音楽との関係は、「鑑賞者と対象物」の関係である。そこには聞くものの側の感情は無くて、「美しい音楽」だけがある。一方、ベートーベンに始まるロマン派の音楽は、聴衆の心を揺さぶって感情を盛り上げ、吐き出すことで感動させる。ここでは聴衆は音楽がアシストする先の「物語の世界」に酔いしれるのである。言わば聴衆は「麻薬に溺れた」ような感動を覚えるが、それは非日常的な世界である。非日常的な感動は、最初は強烈な刺激で心を虜にするが、毎回聞いているとしまいに飽きてくる。我々が映画を見るときを想像すると分かりやすいが、同じ映画を2度続けて見る人は少ないだろう。感動も度重なれば陳腐化する、それがロマン派の宿命だとは言えないだろうか。モーツァルトには、陳腐化する要素が「全くない」。
私はモーツァルトを「美しい日常」と呼んでいる。あるいは「何物にも代えがたい平穏」とも言える。だが、モーツァルトも後期になると時代の流れからか、ロマン派的作品を数多く作るようになってきた。一見聴衆に媚びているように感じるかもしれないが、あくまで彼の「音楽のスタンス」は変わってはいない。モーツァルトの音楽は、常に「鑑賞する対象」であったのだ。その関係は、曲の細かい作りの上でロマン派的技巧を取り入れてはいても、ずっと変わらなかったのである。彼の作品は、特に「緩徐楽章」がとてつもなく美しい!。人生の全てを美しい音楽に捧げたモーツァルトの最後の曲が「レクイエム(の一部)」であったというのは、鑑賞者にとっても「特別な機会、葬儀」を想定させて厳粛な気持ちになる。この曲が演奏される時は「誰かが天国に召された時だ」という重々しい雰囲気が、正に聴衆の心にダイレクトに伝わってくる名曲である。彼はオペラを多く書いたように、人間の「あらゆる感情」を音楽に乗せることに長けていたし、そこが天才たる所以でもある。他の作曲家は「精々2つか3つ」までしか感情を描けないのだが、モーツァルトの手にかかると「全部」が自由自在に表現される。何処かの本で読んだのだが、モーツァルトは人類史上最初で最後の「大天才」だそうだ。
やっぱり、モーツァルトは「聞き飽きない作曲家」だなぁ、というのが結論であるが、それは人間と共存しているからに他ならない。我々の生活と共に音楽があるとすれば、そこには必ずモーツァルトが流れているのである。私が死ぬ時にはモーツァルトを聞きながら死にたいと思っているが、では「どの曲を?」と聞かれた時に答えに困ってしまう。レクイエムでは重すぎるし、アヴェヴェルムがいいかとも思うが「ちょっと短すぎる」のだ、どうしよう?
ここは「ピアノコンチェルト第15番変ロ長調の第二楽章」を聞きながら人生を終わらせる、ってのがいいかな・・・。可憐な主題を見事な変奏で極限まで美しく織りなしたピアノコンチェルトの傑作である。できれば、最後まで聴き終えた時に「ご臨終!」、となれば最高だが・・・って、まだ先の話なんだけど。
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