明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

五木寛之の百寺巡礼(11/17分を録画で見る)

2016-11-24 22:00:15 | 歴史・旅行
相変わらず美しいカメラワークが、秋の景色をしっとりと映し出している。このところ五木の語りをBGMに、映し出される映像を見るのが楽しみだ。五木は時々琴線に触れた事物をさりげなく語ってくれるのだが、だからといって感心するようなたいそうなことを言うわけではない。その風貌と落ち着いた口調で、映像の邪魔にならない脇役として画面に映っている。これはこれで、一つの寺巡りの新しい形式だろうと思った。BGMもなかなか聞かせる曲であり、プロデューサーの質も相当に良い。これは最初の印象より大分出来が上のようだ。

しかし回を追うごとに、五木は饒舌に語り始めているように感じる。今回は録画しておいた先週の広島の明王院だ。護摩堂や五重塔を見るが、僕は川の夕景を映し出すカメラのノスタルジックなセピアめいた画像に感心した。実に美しい。或いは名の通ったカメラマンに違いないのでは。五木は弥勒菩薩の正体と明治の廃仏希釈の事を語り、本尊を拝みながら民衆の信仰の本質を見たような気がすると言う。日本では、仏は有り難い存在であり、ヨーロッパや中東では、神は恐ろしい無限のパワーを持つ存在である。両者の違いは歴然としている。日本人の考える仏というものには、貴いという感情や敬うという心情が多分に入っていて、それが天皇を存続させ、市長を賛美し同族経営を良しとする日本的村社会の根幹となっている原因ではないかと気がついた。

もちろんヨーロッパや中東でも神と人間の間を取り持つ者は、神聖な役目として尊敬されている。だが、尊敬されているのは「神とのつながりの部分」だけである。役目が神聖ではあっても、当人が自分達と同じ人間であることには変わりはない。しかし日本では、神の代理人という代わりに当人が仏の仲間入りをしてしまうので、存在自体が貴いものに変化する。人間を超えた、一段上の存在である。これが日本人の宗教観の本質ではないだろうか。神を恐れひれ伏した西洋人と異なり、日本人はある種の愛情を込めて菩薩や如来を拝んだ。それが歴史の中で面々と伝えられ、あちこちの地域の寺の本尊として守られて来たのである。

そんな事を五木寛之の百寺巡礼を見て考えた。日本の仏は生活の中にある。民衆と同じ暮らしの中で、高貴な姿を現している。高い所から民衆を眺めている西洋の神とは、そこが決定的に違っているのだ。例えて言うならば、猿に取っての人間だ。猿である我々は、人間である仏を敬い憧れて従う。それが猿には無上に嬉しいのだ。主と従、そんな関係かも知れない。また宗教についての考えが、一段と深まったような気がした。百寺巡礼、いろいろ考えさせられる番組である。

ところでBGMが懐かしい名曲ばかりだったという件だが、ただプロデューサーが「団塊の世代だ」というだけなんじゃないかな?と思った瞬間に、質が良いと褒めたのを後悔した。百寺巡礼も、団塊の世代向けに番組の味付けがされているとすれば、ツボにはまっているのは僕等の団塊世代だけかも。なんか騙された感じがして思わず愚痴った、「あ~、年は取りたくない」。

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