明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史刑事(デカ)・柚月一歩の謎解きは晩酌の後で(21)一条このみ「万葉の虹」を読み直す(その5)「白村江」前夜

2020-11-22 12:09:27 | 歴史・旅行

1、歴史とは何か?

ある日私はこの「歴史書のルール」というシンプルな事実に気がついて、稲妻に打たれたように「全ての疑問」が身体から抜け落ちていくのを感じた。どうしていままでこんな簡単なことに気が付かなかったのか?。私は余りにも単純な答えを見せられて、笑うしかなかったのである。そう、中国司馬遷以来の歴史書は、全て「前王朝のことを新王朝の立場で」書いているのだ!

宇宙の仕組みは、全てシンプルな数式で書き表せるという。古事記は「蘇我王朝が書いた前王朝=欽明王朝までの歴史」だ。だから推古天皇で終わっている(推古天皇は、後継者を指名せずに崩御した)。では日本書紀はというと、舒明天皇から始まって「持統天皇」で終わっている。つまり「大和国の歴史」が古事記であり、舒明天皇以降の「争乱の歴史」が天智と天武の死闘を克明に描いて、最後は持統で幕を閉じた。この時期はもしかすると九州王朝の飛鳥支配を意味していたとも考えられるが、まだ証明されていない。そして文武天皇に始まる皇統を記録したのが、次に続く「続日本紀」である。見事に歴史を区切っているではないか!。古事記と日本書紀の「不可思議な断絶」も、これで正しく説明が出来る筈である(但し、日本書紀は古事記をやめて「日本最初の歴史書」として新たに書き直した)。

「日本はもと小国、倭を併合わせたり・・・」

私は日本書紀を提出した先は、実は国内でなく「唐」である、と考えた。この時代に東アジアで政権を維持するものは、誰でも「唐の存在」を意識したであろう。書紀が純然たる漢文で書かれていたのも、提出先を考えれば「当然」だと言える(この点は余り強調されていないが、重要な傍証だと思われる)。倭国は白村江の決戦に敗れたあと、唐の進駐軍にひたすら恭順の意を示して、じっと頭を垂れて静かにしていた。一方で、臨時政府である天智天皇政権は、近江大津に宮を開いて国内政治に専念し、唐とも良好な関係を保っていたように見える。

但し、ここで近江というのは滋賀県の琵琶湖畔ではなく、「佐賀県のどこか」であろう。私は「壬申の乱の舞台は九州である」という大矢野英次説を信奉しているのでそう考えているのだが、もし敗戦国が進駐軍の監視下に置かれて、色々な政治の詳細を「GHQみたいに相談の上」決めなければいけないとしたら、その臨時政府の長が滋賀県の片田舎なんかに引っ込んでいたら、「全然役に立たない」のではないだろうか。天智は事細かに進駐軍の郭務悰にお伺いを立てるため、必ず「太宰府の近く」にいた筈である。それが唐側の事情により(新羅が唐と対立)、日本に対する政策が「支配属国から協力同盟国へ」と変化せざるを得なかったということから歴史が大きく転回した。唐の重石が取れて「国内の対立勢力」が力を持ち始め、壬申の乱という内戦を勝ち抜いた天武が、後継者大友を破って新王になったのである。これが今のところ、私の描いている「旧王朝=持統まで」の流れだ。日本書紀は、ここまでを記録する役目を持たされていた、というのが私の「歴史を見る目」である。

歴史書は、多くは編年体で記録した天皇の事績と、個々人のエピソードを描いた伝記部分の2つから成っている。書紀が年号を使用せず、〇〇天皇何年と記しているのも、年号を建てることが出来るのは中国の唐王朝のみという「建前を尊重」しているからなのだ。年号が作れなかったわけでは無いと思う(実際に九州王朝では年号を使用していた)。では壬申の乱とその後の争乱の時代を経て、新しく「文武朝」を開いた血統はどういった人たちなのか。時代は「唐」を敬いながらも朝鮮半島とは一線を画し、一歩引いて「自国内の安定を目指す」中央集権政治を加速させている。・・・だが先を焦らずに、一先ず「白村江前夜までの流れ」から調べて行こう。

2、倭国王の系譜
西暦478年、倭王武が上表文を送ったことが中国南宋の記録に残されている。502年には梁の武帝から征東大将軍に進号された。倭王武は510ー520年頃まで権力を振るったのではないか、と言われている。倭王が相変わらず高句麗と覇権を争っていた528年、継体天皇の時に、物部麁鹿火が磐井の乱という事件を起こし、筑紫国造磐井を斬ったとされる。事件は筑紫葛子が糟屋の屯倉を献上して終わったと記録にはあるが、この後倭国がどうなったかの記録はない。どうなったのだろう?。一条このみ氏は587年の丁未の乱(蘇我物部戦争)を倭国の大和制圧戦争としている(私にはまだ確証はなく、これはまだ保留としておこう)。次に記録に現れるのは隋書で、600年に阿毎多利思北孤が遣隋使を送っことである。これについては書紀は沈黙だ。607年にも送ったとされているが、これは書紀では推古天皇が小野妹子を送ったことになっている。・・・なお余談だが Wikipedia によると、この時の太子の倭歌彌多弗利は、本当は「利歌彌多弗利」となっていると知った。まだまだ知らないことが多いと驚いた次第である・・・。それから西暦622年には多利思北孤が亡くなっている。「多利思北孤ー利歌彌多弗利」と佛教信仰が続いた後、倭国は634年に唐と訣別して対外強硬政策に舵を切ったらしい。その時、唐使高表仁と礼を争った太子というのが「万葉集に出てくる中皇命」だろうという研究がある。その中皇命は朝鮮半島に軍を送ろうとして、吉野に何度も行ってる最中に亡くなった。柿本人麻呂が哀悼の意を込めて挽歌を捧げた「甘木の王者」がその人である。660年に中皇命は亡くなり、そして後継者「サチヤマ」が、白村江の運命の戦いへと挑んでいく。何故没年が分かるのかと言うと、この翌年(661年)に年号が「白鳳」と改元されたからなのだ(教科書でお馴染みの時代名称だが、これが九州年号だという事実は案外知られていない)。ちなみに斉明天皇は殆ど実体がなく、書紀の記事は全部「中皇命のすり替え」と考えて良い、と一条このみ氏は言う。これは私も当然だろうと思う。推古天皇の実体は蘇我王朝であり、その蘇我氏が倒れた後に作られた孝徳政権は中大兄皇子によって簒奪され、そのまま白村江の戦いまで中大兄皇子が実権を握っていた。だから斉明天皇などは存在せず、実態は「大和政権とは名ばかりの協力団体」という位置づけだったからだ。以上が大体の「白村江前夜」の日本の状況である。

3、白村江にいたった経緯
ここで白村江を考えるための流れを見ておこう。

a. 西暦562年、新羅が任那を含む伽耶国を滅ぼす。この頃から百済と新羅それに倭の争いが激化してくる。倭は朝鮮半島に相当のめり込んでいた。一方百済は高句麗とも争っていて、三つ巴の展開である。隋が607年及び612年ー614年の高句麗征伐に失敗して滅亡し、新たに登場した唐が圧力を増す中で、642年高句麗の淵蓋蘇文がクーデターを成功させ、この対唐徹底抗戦への体制変更が、朝鮮半島の各国に波及していく。結果倭国にも国策の変更を加速させるなど、与えた影響は計り知れない。

b. 西暦643年、危機感を持った百済の義慈王は息子「余豊璋」を人質として倭に送り、両国の関係を以前にも増して緊密にした。そんな中で645年、唐太宗は満を持して高句麗に進出する(これは、大和で乙巳の変が起きた年であることに留意)。この時は唐は撤退したが、660年に新羅の求めに応じて百済に侵攻、ついにこれを滅ぼすことに成功した。

c. 百済敗北後、残存勢力は泗沘城にいた唐将劉仁願を再び包囲する。この時も661年に唐の援軍が来て、百済側は散り散りになる。しかし鬼室福信が南西30kmにある錦江下流の「周留城」に立てこもって抗戦した。そして鬼室福信は、人質になっている余豊璋を百済の王に迎えたいと倭国に願い出る。661年9月、倭国は兵5千をつけて余豊璋を送り返し、反撃態勢を整える。だが一緒に行った秦造田来津等が、余豊璋等と避城に移る件でギクシャクした。

d. 西暦663年3月、避城に移った余豊璋等を新羅が攻める。倭国は対抗すべく、2万7千の軍勢を朝鮮半島南岸に上陸させた。だがこの後、この軍勢がどうなったかは、書紀の記述には全く出てこない。唐・朝鮮三国側の記録にも載っていないのだ。2万7千もの兵力が消えてしまった(或いはこの記事は、日本書紀のガセかも知れない)。そして9月、唐・新羅は錦江を遡って余豊璋軍を取り囲み、ついに白村江の緊張が最高潮に高まった。この後、倭国と唐・新羅の連合軍が、「運命の白村江」で激突するのである。

これが白村江大海戦までの「経緯」である。後日談になるが、この戦いに勝利した唐は後に新羅と対立し、最終的には新羅が半島を統一するもその新羅も900年頃から分裂し、935年に旧高句麗の後継の「高麗」が、後三国の混乱に終止符を打って現在に至っている(勿論、その後に南北分割されているが、これは割愛する)。

4、大和政権と白村江大海戦の関係
実は、白村江で唐・新羅連合軍と戦ったのは、中大兄皇子の率いる大和朝廷をトップとする日本連合軍ではない、というのが次回のテーマである。西暦660年、日本書紀によれば百済を救援すべく九州に赴いていた斉明天皇は、その途次に朝倉宮で亡くなってしまった。中大兄皇子は天皇の亡骸を大和に連れ帰り、喪に服した。それから3年後、軍を立て直して白村江へ国を挙げて攻め上って行ったのは、果たして誰であろうか?。乞うご期待!


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