蕎麦好きと言うのがある。駅のホームで立ち食い蕎麦屋を見かけると、どうにも素通りできずについ一本電車を見送ってでも、入って食べずにはいられない、そういう人たちである。こういう人は大概、盛大に大きな音を立てて蕎麦をすすり、いかにも満足げにニッコリと微笑んでいる。一方私は蕎麦がすすれないのである。勿論汁物全般に対し「すする」と言うことが苦手である。原因は「猫舌」にある、と思っている。テレビによると、猫舌は「舌の先端を熱い液体に直接浸ける」ことで起きる知覚過敏だということらしい。確かに舌を前歯の後ろに隠して熱いコーヒーなどを飲んでみると、熱い感覚が少し和らぐように気がするから猫舌というのも飲み方かも知れない。しかし習慣というものは簡単には変えられないので、相変わらず私は猫舌のままである。でも、それで全然不満がない。逆に熱いお茶を平気でグビグビ飲んでいる人を見れば、可哀想に「味が判らないんだな」と憐憫の情が眉をひそめるのである。蕎麦だって同じだ、一瞬にして「ズルッ」と飲んでしまう蕎麦の達人は皆「喉越しの蕎麦の香りが鼻に抜けて云々」と、蕎麦の旨さを「香り」で表現するのである。しかし私は違う。
実は私は、蕎麦好きと言うよりは「醤油好き」なのである。そばつゆも醤油の甘辛の味が大好きなのだ。で、私は蕎麦が好きと長年思い込んで関西のうどん文化を馬鹿にしていたのだが、4年ほど前に新宿の東口地下にある「梅本」でうどんを食べて以来、「うどんも行けるくち」になっちゃったわけで、毎朝会社にいく前に「竹輪うどん」を食べるという「うどん人間」になった。勿論蕎麦が嫌いになったわけではなく、帰りは西口の「箱根そば」で「夏の冷しおろし蕎麦」を食べて1日の締めくくりにしていた。蕎麦もうどんも両方好きだった、ということは「そばつゆ」に満足していたということで、蕎麦もうどんも「トンカツに合わせるご飯」の位置である。主役はあくまでも「そばつゆ」なのだ。こういう人種が存在するかどうか私は知らないが、私は「そばつゆ」派である。昨日NHKで蕎麦の番組があったが、あくまで蕎麦作りや地元の生活の支えとなった話で、蕎麦の旨さに焦点を当てた番組ではなかった。それでも番組に出てきた老人たちの一人が「ずずーっ」と一気にすすって「あー旨い」と言っていたのを見て、私とは違うなと思って見ていたら、もう一人の老人が「そばつゆ」に蕎麦をたっぷんたっぷんに浸して食べていた。さっきの老人が「そんなにつゆをつけたら蕎麦の味が判らないじゃないか」とたしなめていたが、言われた老人は「へへへーっ」と笑っていたので面白かった。自分の食べ方が「通」ではないと指摘されてその老人は笑ってごまかしていたが、私はその老人の気持ちがよく分かる気がして「そんなに卑屈にならなくていいんだよ!」と声をかけてあげたい気分になっていた。
蕎麦の「通」は蕎麦についてあれこれ講釈を垂れるが、そばつゆについて「蘊蓄を語る」人はあまりいない。蕎麦は確かに旨いかもしれないが、実際に味の決めての殆どは「微かに香る」程度の蕎麦独特の香りである。確かに「どっぷり」つゆに浸してしまっては、蕎麦本来の味わいは「どっかへ飛んでいってしまう」という通老人の指摘は正しいであろう。それでも「そばつゆ」を味わいためにだけ蕎麦を食べる人種が、世の中には存在するのである。彼らにとっては「旨い蕎麦」とは多分「もちもち感」があり、蕎麦つゆがよく絡んで、お腹にずっしりと入って「満腹」になるような蕎麦である。だから「うどん」でもいいわけで、天ぷらやコロッケや大根おろしなどという「オマケの食材」も結局は、そばつゆに「合わせる」という発想に変わりはないと言える。この手の人には一家言を持つ蕎麦職人の技も「何の影響力もない」。私は最後に「蕎麦湯」を飲み干して店を出ることにしているが、塩分が濃くて体には相当悪い。というわけで平成14年12月に脳梗塞になって以来今日まで、蕎麦もうどんも一度も食べていないのだ。食べてみたい気もしないでもないが、まあ、一生食べられなくてもしょうがないと諦めている。車の運転も諦めたし、イタリア語を話すのも諦めたし、ピアノでショパンやバッハやモーツァルトを楽しむというのも諦めた。それでもゴルフは挑戦しているし、日本酒も毎日呑んでいるし、古代史もより深く掘り下げられるように研究を続けている。まだまだする事はいっぱいあるのだ。まだ私には「出来ることをやるだけの時間と力が、十分残っている」と言うだけでも、両親には感謝しなくてはなるまい。人生には、楽しみ方だって「何千通り」もあるのだ。
で、蕎麦好きうどん好きもどっちもいいけど、確実に存在する「ごく少数の醤油好き」に、乾杯!
実は私は、蕎麦好きと言うよりは「醤油好き」なのである。そばつゆも醤油の甘辛の味が大好きなのだ。で、私は蕎麦が好きと長年思い込んで関西のうどん文化を馬鹿にしていたのだが、4年ほど前に新宿の東口地下にある「梅本」でうどんを食べて以来、「うどんも行けるくち」になっちゃったわけで、毎朝会社にいく前に「竹輪うどん」を食べるという「うどん人間」になった。勿論蕎麦が嫌いになったわけではなく、帰りは西口の「箱根そば」で「夏の冷しおろし蕎麦」を食べて1日の締めくくりにしていた。蕎麦もうどんも両方好きだった、ということは「そばつゆ」に満足していたということで、蕎麦もうどんも「トンカツに合わせるご飯」の位置である。主役はあくまでも「そばつゆ」なのだ。こういう人種が存在するかどうか私は知らないが、私は「そばつゆ」派である。昨日NHKで蕎麦の番組があったが、あくまで蕎麦作りや地元の生活の支えとなった話で、蕎麦の旨さに焦点を当てた番組ではなかった。それでも番組に出てきた老人たちの一人が「ずずーっ」と一気にすすって「あー旨い」と言っていたのを見て、私とは違うなと思って見ていたら、もう一人の老人が「そばつゆ」に蕎麦をたっぷんたっぷんに浸して食べていた。さっきの老人が「そんなにつゆをつけたら蕎麦の味が判らないじゃないか」とたしなめていたが、言われた老人は「へへへーっ」と笑っていたので面白かった。自分の食べ方が「通」ではないと指摘されてその老人は笑ってごまかしていたが、私はその老人の気持ちがよく分かる気がして「そんなに卑屈にならなくていいんだよ!」と声をかけてあげたい気分になっていた。
蕎麦の「通」は蕎麦についてあれこれ講釈を垂れるが、そばつゆについて「蘊蓄を語る」人はあまりいない。蕎麦は確かに旨いかもしれないが、実際に味の決めての殆どは「微かに香る」程度の蕎麦独特の香りである。確かに「どっぷり」つゆに浸してしまっては、蕎麦本来の味わいは「どっかへ飛んでいってしまう」という通老人の指摘は正しいであろう。それでも「そばつゆ」を味わいためにだけ蕎麦を食べる人種が、世の中には存在するのである。彼らにとっては「旨い蕎麦」とは多分「もちもち感」があり、蕎麦つゆがよく絡んで、お腹にずっしりと入って「満腹」になるような蕎麦である。だから「うどん」でもいいわけで、天ぷらやコロッケや大根おろしなどという「オマケの食材」も結局は、そばつゆに「合わせる」という発想に変わりはないと言える。この手の人には一家言を持つ蕎麦職人の技も「何の影響力もない」。私は最後に「蕎麦湯」を飲み干して店を出ることにしているが、塩分が濃くて体には相当悪い。というわけで平成14年12月に脳梗塞になって以来今日まで、蕎麦もうどんも一度も食べていないのだ。食べてみたい気もしないでもないが、まあ、一生食べられなくてもしょうがないと諦めている。車の運転も諦めたし、イタリア語を話すのも諦めたし、ピアノでショパンやバッハやモーツァルトを楽しむというのも諦めた。それでもゴルフは挑戦しているし、日本酒も毎日呑んでいるし、古代史もより深く掘り下げられるように研究を続けている。まだまだする事はいっぱいあるのだ。まだ私には「出来ることをやるだけの時間と力が、十分残っている」と言うだけでも、両親には感謝しなくてはなるまい。人生には、楽しみ方だって「何千通り」もあるのだ。
で、蕎麦好きうどん好きもどっちもいいけど、確実に存在する「ごく少数の醤油好き」に、乾杯!
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