明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(25)斎藤忠の「倭国滅びて日本建つ」を読む・・・その ⑤ 大体の粗筋は分かったように思う

2021-09-05 16:08:14 | 歴史・旅行

今まで私は、日本古代史の謎は「九州にある」とばかり思い込んでいた。壬申の乱は「九州熊本」で起きたし、藤原氏の由来は佐賀県諫早湾の対岸「鹿島」である・・・等々。ところが斎藤忠氏の著作を読む内に、その謎を解くカギは九州ではなくて、段々とここ「奈良」にあるような気がしてきたのだ。これで良かったのか悪かったのか、「奈良移住」を計画している私としては、一応は安堵で胸を撫で下ろしたと言えそうだが。斎藤忠氏によれば、倭国の歴史を終わらせたターニングポイント、そのカギは「701年の易姓革命」にあると言う。大化の改新でもなく白村江でもなく、ましてや壬申の乱でもない「もっと重大な革命」、それが歴史の闇に深く静かに埋もれて眠っていたのだ。その歴史の墓を暴いて「真の被葬者」を白日の下に晒すことが、日本古代史の新しい扉を開くことになる。果たして私の人生目標たる古代史の第一幕は、斎藤忠氏によって切って落とされるのだろうか?

とまあ、大時代的な前ふりで始めた最終回だが、いつものように淡々と進めていこう。前回は公文書の年次記述の仕方は「701年より前は干支」で書き、「701年からは年号」で書いた、と説明した。紀年表記のスタイルが701年を境にしてガラリと変更になったのである。そして書紀の書き方である「天皇紀年」は、何れの年代を通しても、発掘された木簡からは「一度も出ていない」のだ。これ程はっきりした事実はないであろう。何故書紀が天皇紀年を採用して「年号」を用いなかったのか?。・・・答えは唯一つ、年号が「天皇代替わり」と一致しないからなのだ!(普通は、天皇の代替わり時には、年号も新しくするのが常識)。これで少なくとも522年の九州倭国年号制定以来の日本の歴史を、書紀の描く「大和朝廷の天皇紀年」でなく、正式な「年号」に合わせて記述することは「無理だ」という事実が明らかになったわけだ。何故ならば、その日本の歴史の主人公は大和朝廷の天皇じゃなくて、「別の朝廷の天皇だったから」・・・である!(おおっ!)

この辺で一応私が考えている、これまでの大和朝廷の流れを見てみよう。

まず欽明天皇系の天皇が蘇我氏の崇峻天皇弑逆で「蘇我氏独裁制」に変わり、傀儡政権の推古天皇・舒明天皇の後、蘇我氏の内紛から「乙巳の変」が起こる。これは蘇我倉山田 石川麻呂と阿部内麻呂が、皇后(皇極天皇=宝皇女)の弟を担いで起こしたクーデターだと言われている。天智は脇役として参加したわけだが、孝徳天皇の対外政策に反対の立場から徐々に孝徳政権と距離を取り、最終的には飛鳥勢力をバックとして政権を元に戻した。百済が滅ぼされた時、天智天皇は百済復興に積極的でなかったと考えられる。そして倭国が白村江で大敗を喫すると、倭国政権の空白に付け入って戦後処理を一手に引き受け、ついに近江に政権樹立した。

一応このような筋書が考えられる。だが、孝徳天皇が開いたとされる難波長柄豊碕宮は存在した形跡がなく、書紀の「大化の改新の虚偽記述」などを見ると「どこからどこまでが真実なのか」疑問が残ってしまうのだ。蘇我本宗家を倒した蘇我倉山田・阿部連合政権に対し、天智天皇が反対勢力を結集して654年にもう一度「飛鳥」に政権を戻した、というのが真実ではないかとも思われるが、この辺りの経緯はよく分からない。この時点では、大和朝廷が倭国の「一藩国」である。という関係は変わってはいない。ここまでが第一幕である。

そして倭国が百済復興にのめり込んでいくに従い、距離を取っていた大和朝廷が力を蓄えていき、倭国が唐・新羅連合軍に白村江で大敗して政権中枢に空白が出来たのを契機として、対唐戦後交渉を一手に引き受ける。この時期に天智天皇は、飛鳥ではなく何故か近江に都を開き、旧飛鳥勢力の反発を食らった。近江には息長氏など名族が勢力を持っていて、秦氏なども絡んでいるかも知れず、何かこの辺に「天智政権の特殊性」がありそうだ。一方、壬申の乱に勝利した天武天皇には多くの妻がいて、鵜野讚良や元明・元正は蘇我氏の出、高市皇子は九州宗像氏の出身である。書紀では天武天皇ー草壁ラインが有力視されていたように描いているが、斎藤忠氏は「高市皇子の倭国」が大和朝廷をリードしていたと見る。高市皇子は天武から皇位を引き継ぎ、新益京に壮大な都を建設して「大化の改新」を断行した。だが696年、その改革の最中に突然「死んで」しまう。ちょっと不審だが、まあ良しとしよう。これで第二幕が終わる。

次は草壁皇子の遺児「文武天皇」が立ち、そして病弱だった彼の陰で支えたのが「母、元明天皇」である。彼女は710年に都を平城京に移し、712年には古事記を完成させて「奈良時代」を作った女帝である。ここに高市皇子系は長屋王が孤立して力を失い、持統ー元明ー元正と続く「女帝時代」が始まった。まさに今回の「易姓革命の主役」である。その後、草壁皇子の孫「首皇子=聖武天皇」から孝謙・称徳天皇へと藤原氏が政権に参入してくるが、この期間は長屋王らの旧倭国勢力を一掃して、持統・草壁系の地歩固めに鋭意邁進していると見て大過ないだろう。これを第三幕としよう。

そしていよいよ歴史の大転換を迎える。天智系統の復活である。光仁天皇の父は志貴皇子といって、父は天智天皇だが母は「越道君伊羅都姫」という、蘇我氏とは縁もゆかりもない系統の人だ。この光仁天皇と「帰化人の高野新笠」との間に生まれたのが、日本で初めて封禅・郊祀を行った「桓武天皇」である。倭国と日本国との争いも草壁系が称徳天皇で断絶し、ようやく「天智系の復活劇」で最終幕を閉じたのである。一応はこのような流れが私の今の理解だ。では、天智天皇とは一体誰なんだろう?・・・これが「古代史最大の謎)として残った訳である。勿論、天武天皇の存在も謎だが、まずは天智天皇である。以上で最終の幕が下りた。

斎藤忠氏の本はまだ読み終わってはいないが、おおよその歴史認識は、今までの古代史観から大きく逸脱するものではなさそうだ。ほぼ予想通りの展開だが、最後に「おまけ」として新しく得られた情報を2、3書いておく。

おまけ:大宝建元に伴う色々な事件

大宝元年正月15日に大伴御行が没した。この時大和朝廷は、翌日皇親・百寮を集めて踏歌の宴を催し、歓楽を極めたという(踏歌はこの頃中国から伝わった正月行事)。さらに23日には遣周使派遣を発表する。そして3月21日に対馬から金が頁進され、大宝が建元された。さらに冠位制を止めて官位制を導入した。8月3日には「大宝律令」の完成と公布、即日施行した。・・・怒涛の改革である。後に対馬の金産出は虚偽だったとされて、大伴御行は騙されていたことが暴露される。この辺りは何とも不思議な記事である。奈良・平安朝では天変地異や瑞祥が重んじられ、政治が左右されることは多々ある。しかしこの事件は「如何にも胡散臭い」感じがするではないか。新王朝発足の色々な準備が整って、「後は何かのキッカケだけ」というタイミングで「都合よく」倭国対馬で金が出たのである。余りに出来すぎだし、裏に新王朝を画策した者の陰湿な「意図」がうっすらと見え隠れするのだ。

新羅本紀699年の条に「東海で大規模な戦闘があった」と暗喩された記事が見えている。実は九州倭国と近畿大和朝廷が、696年の高市皇子の死と文武天皇即位の後、日本各所で戦闘していたのではないか、と斎藤忠死は見ているようだ。紫式部が日本紀など〇〇だと言って、むしろかぐや姫で有名な「竹取物語」を真実の書と見ていた、という話がある。この竹取物語に出てくる5人の貴公子のうちの一人が、大伴御行なのである。話の上では、彼は九州に龍退治に行って散々な目に遭って帰ってくるのだが、本当は「倭国と戦って」敗北を喫していたという逸話の「比喩」ではないか、ということが想像される。実は、続日本紀の天平12年に書かれている藤原広嗣の乱は、一部「大伴御行の戦闘談」が加えられているとも言う。この辺はそれを証拠づける史料はまだみつかって無いが、十分有り得る話である。

九州倭国の歴史を考えてみると、壬申の乱に勝利して皇位を奪還した天武天皇は、次の天皇を病弱な草壁皇子から「体力・知力に秀でた大津皇子」にしようと考えていた。それを天武の死後に持統天皇が急遽「謀反の罪」という冤罪で大津皇子を死刑にして、草壁皇子の皇位相続を確定したのだ。ところが肝心の草壁皇子が病を得て死亡。結局、実力者「高市皇子」が皇位を継いだと言う流れである。持統天皇は大和朝廷の王だが、九州倭国の王はあくまで天武ー高市ー文武という「天武の男系相続」だと考えれば、日本伝統の相続形式がこの場合も採用されたと言える。その倭国が倒れて日本の宗主の座を元明天皇の大和朝廷に奪われたのが「701年の易姓革命」ということの本当の意味だと私は解釈した。

通常は高市皇子が死んで文武になった時点で、易姓革命が成ったと解釈する。だが、大宝元年正月23日に「日本国として遣周使(則天武后の開いた周に対して遣使だから)」を送ると決定していて、これにより元明天皇(阿閉皇女)は既に文武に代わって登位済だ、と斎藤忠氏は考えている。それは神宮斎王の交代時期から、倭国王文武の禅譲と日本国王「元明の即位」が701年に行われたと推測したようだ。すべては「周の則天武后」を見倣った行動だと想像出来るのだという。例えば大宝元年9月、文武の紀伊・牟婁温泉行幸などは、史料などによると船を38艘建造させ、随員およそ2000人の掛けているのだ。湯治にしては尋常ならざる陣容である。行程から言っても滞在日数は1、2日ばかりとあっけない。多分だが、文武を幽閉して元明天皇が「ヤマト国」の支配体制を確定したのではないかと思う。これは中国の則天武后の事績に見倣っての行動だと考えたい。

(完)


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