② 身分制の梯子を登る
人間の幸せを考えると、生きていく上で必要な大抵の物が手に入った段階でその「物欲」を究極まで求めていく人と、それより「一段上のレベル」に欲望をステップアップさせて行く人と「2つ」に分かれると思う。上を目指す人がその先に求める歓びは「他人より自分の方が上だ」という比較での勝利欲求である。この競争欲は、ゴリラの世界で言えば簡単には「どっちが強いか」となるだろう。どれだけ物を持っているかという比較では、ゴリラの世界では「当然、限界がある」からだ。だが人間では頂点を目指すだけでも相当な満足が得られるものと考えられる。
まあ、「金持ち」と言われれば悪い気はしない。しかし物を買えるというだけでは、人々の興味は「あくまで物」に限定されたままだ。「〇〇さん、いい車に乗ってますねぇ」などと羨ましがられていても、褒められているのは車であって「本人ではない」のがアリアリである。「車が好き!」というマニアならそれで「十分に幸せ」だろうが、そうじゃない上昇志向の人にとっては「次第に不満」になってくる。同じ人間同士が集まって、その中で「一目置かれたい」という自己顕示欲が相当強めの人になればなるほど(逆に言えば、物自体にはそれ程執着しない性格の人、または執着する対象が「自分自身」という人)、自分を飾って注目を浴びたいと欲求するようになってくる。だから他人と自分を見比べて、勝ったと感じることが無常の喜びになるのである。例えば「私の方が彼女より綺麗だわ!」・・・などなど。これは相当に根深い「タチの悪い幸せ」である。
現代ではローマの剣闘士みたいな「生まれつきの肉体を誇示する戦い」は減ってきて、同じ競争でも「よりソフトな」種目に変わってきてはいるようだ(オリンピックでは、まだこの形が残っているが)。勿論、体育会系以外の普通の人にとっては、会社の中で「誰が一番売り上げが多いか」などという、昔ながらの「ランク付け」手法で給料に差をつける意識付けが、実にわかりやすいと評判であろう。これなどは相手が強ければ強いほどメラメラと闘争心が燃え上がってくるのが普通であるから、「支配する側」にすれば実に楽チンだと言える。これらは金で買えるものではないから、他人との差別化という面では「非常に本人の満足度が高い」と言える。その究極の形が、地位・権力などの「社会的な競争」である。
地位や権力などの「獲得競争」は社会の基本構造に組み込まれていて、なおかつ競争欲に支えられた物欲という「複合型」も世の中には沢山あり、大概はセットで手に入れられるので「より強力な」モチベーションに成り得る。これはある意味、現代人のありふれた「欲望の形」といえよう。曰く、「一国一城の主」というわけだ。「いつかはクラウン」と言うのも、一昔は社会人の共通目標だった。人間は大体このどちらか、または「両方」のコンプレックスで作り上げられた欲望の中で、キリキリとした毎日の生活を送っているのである(皆さんもご経験がお有りだと思う)。
例えばインドなどに根付いた「がんじがらめ」の強力な身分社会では、ヒエラルキーの頂点に君臨することにより「自然と」物欲も競争欲も両方得ることが出来る仕組みになっていて、これはこれで「下から上に登る」ことは非常に難しい。まあインドのように上に行く道が全く閉ざされていると、社会全体が閉塞感に包まれてしまってなかなか「欲望爆発」とは行かないわけで、この辺が「ある日、突然」大革命の起きる要因なのだろう。こう言うふうに世の中には、インド程ではないが多かれ少なかれ、その人の能力とは別に「予め上昇範囲の限界の枠」を嵌めている社会が一般的である(日本は明治維新で、一度この枠を解体した)。一度上のレベルに上がった人というのは、必ずと言っていいほどその地位を「手放すまい」とあの手この手を使って居座り続ける。そして出来れば、自分の子に「跡目を相続させたい」と願うようだ。
これが社会の流動性」を悪くし、上昇志向の「芽を摘んで」しまう悪癖である。諸悪の根源は「地位・権力を得るための競争」にあるのではなく、一旦得てしまったものを何とかして保持しようとする「醜い欲求にこそある」のだと思う。何だか今、世間を大いに賑わしている「菅首相のしがみつき」みたいではないか。そろそろ民意を受け入れて勇退する時だと思うけどねぇ。私が思うに、個人の努力・才能を度外視した姑息な欲求を無理くり通そうとする行為は、いずれ社会の反発を招くだけである。しかし哀しいかな、人間はこの「保守性」から逃れられないと見える。まあ、功なり名を遂げた成功者はこれこそが人生の最終目標と信じ、己の子供にも跡を継がせようと「教育の名のもとに」とことん成功体験を刷り込んで行くのである。通称「幸せの連鎖」とも言う。
その昔、日本人全員が猫も杓子も東大を目指した時期が何十年か前にあったが、目指す入試に受からなくても「それ程のダメージ」は無かったように思う。今は受験戦争は一層「シビア」になっていて、ついて行けない「試験勉強が苦手の若者」は、落ちこぼれとしてどんどん社会の底辺に「掃き溜めのように」沈み込む体制が固まりつつある。これは「身分制」の復活であろうか。昔は東大に行き財務省の役人になって、末は大臣か首相にでも・・・と夢を膨らませて勉強した人が多かった。今は東大に行っても縛りの多い公務員などにはならず、むしろ外資系の一流投資会社に入ったりして「将来は部長、いや社長にまで」上り詰め、定年後はリタイアして「優雅な生活を満喫する」という現実的な計画を考えている若者が多いという。今の子供には「夢より打算」かも。
結論:欲望の形態は「物への執着」から大きく二手に別れ、一方はマニアックな世界での「ナンバーワン」を目指し、他方は物欲よりも「自分を飾る」ことへと変化していく。もし全ての国民が同じスタートラインに立ち、ヨーイドンで一斉に走り出したとすれば、ウサイン・ボルトみたいな「能力に優った人」が勝つだろうことは自明である。しかし現実社会では、エリートと呼ばれる「ごく一部の選ばれた人々」が恵まれたスタートを切り、社会の頂点である「組織のトップ」の座を目指すことになる。つまり何か「価値のある物を所有している幸せ」から大きくジャンプアップして、何か「価値のある才覚・能力を所有している幸せ」に変化してきたのである。「物」であればお金で解決できるが、才覚・能力となると「お金ではどうにもならなくて」、どうしても本人の努力や周りを取り巻く環境などが大事になってくる(勿論、お金を稼ぐことだって才能や努力が必要なことは当然であるが、その努力などは見過ごされる場合が殆どである)。まあ、どちらにしても「他人と比較して幸せを感じる方法」であることは論を待たない。
要するに幸せとは、「物そのもの」に幸せを感じて所有したいと思うか、それとも他人より優れていると比較することで「自分自身に酔い痴れる」のか、2者択一のどちらかである。そういう意味では「総理大臣になる」とか「オリンピックで金・銀・銅のメダルを取る」とか、お金と関係なく、比較することで自分の優位性を立証出来る「地位や権力」は、幸せ感を満足させる格好の獲物だ言えるだろう。もっと卑近な例で言えば、「SNSでフォロワー数〇〇万人超」などという「新手の評価」が、若者の間で好まれるようになってきている。時代に持て囃される価値はどんどん変わってきているようにも見えるが、実は社会的実質的評価が「他人の評価」という曖昧な尺度に崩れてきている点、より閉塞感が増してきているとも言えるのかも知れない。しかし昔は、社長に成れなくても「それなりの地位に応じて」多少とも評価はあったものだが、今は評価基準が「恐ろしく多様化して」いて細分化されている点が特徴かも知れない。今や「どんなことでも一番になっちゃう」時代になってきた。そのいい例が「大食い」などという、生物にとって無意味な行為だって評価される訳である。そういう意味では、幸せになるのも「楽な」時代になった。何もトヨタの社長になれなくても、十分心から幸せに暮らせるのだ。このように「選択肢が爆発的に増えた」ことは、社会が成熟してきたことの証明である。
それにしても、相変わらず「才能と努力」が必要なことには変わりはない。これで私は幸せになれるのだろうか?
・・・私は一応「ブログを書くことで」評価されようと頑張っているが、その評価基準である「アクセス数」は、全く伸びていないのだ!(ああ、どうしよう?)
(続く)
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