March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
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第12章 変貌する主要産業(2-2)
明日の道具
石炭、鉄道、繊維、鉄鋼、自動車、ゴム、工作機械製造・・これらは第二の波の古典的産業である。基本的には単純な電気メカニックの応用であり、大量のエネルギーを消費し、巨大な産業廃棄物を吐き出し、公害をもたらす。その特色は、長時間労働、非熟練労働、反復作業、規格化された製品、高度に集中化された管理体制などである。
先進工業国では、1950年代の中頃から、これらの産業が明らかに時代おくれのものとなり、衰退しはじめた。アメリカを例にとると、1965年から74年までの10年間に、労働人口は21%増加したにもかかわらず、繊維産業の従業員数はわずか6%しか増えず、鉄鋼産業の従業員は逆に10%減となったのである。スウェーデン、チェコスロバキア、日本などの第二の波の国家でも、こういうパターンが顕著である。
これらの時代遅れの産業は、安い労働力を持ち技術水準の低い、いわゆる「開発途上国」へ移っていき、それとともに、社会におよぼす影響力も弱まった。その代わりに、もっとダイナミックな、新しい産業がつぎつぎに出現したのである。
新しい産業は、いくつかの点で、前の時代の産業と著しく異なっている。新しい産業は、まず第一に電気メカニックではないし、第二の波の時代の古典的科学理論にもとづいたものでもない。量子電子工学、情報理論、分子生物学、海洋学、原子核工学、社会生態学、宇宙科学といったような、ここ四半世紀の間に生まれ育った新しい学問の最先端で開発された産業なのである。これらの新しい学問のおかげで、われわれは第二の波の時代の産業が尺度としていた時間や空間より、はるかに微小な単位を手にするようになった。ソ連の物理学者B・G・クズネツォフが書いているように、「極小な空間(原子核の直径は10-13cm)
と10-23秒というような極めて短い時間」を計測できるようになった。
これらの新しい科学と現代の急速に進んだ計測技術が、コンピュータとデータ処理、航空宇宙産業、合成石油化学、半導体、革新的な通信産業など、新しい産業を産み出したのである。
技術の分野で、第二の波から第三の波への以降がいちばん早く訪れたのはアメリカで、1950年代の中頃であった。東部、ニューイングランドのメリマック・バレーのような旧産業の町は不況の底に沈む一方、ボストン郊外の国道128号線沿いや、カリフォルニア州の「シリコン・バレー」と呼ばれる地帯は一躍脚光を浴びるようになった。郊外には、ソリッド・ステートのトランジスターなどを研究する物理学者とか、システム・エンジニアリング、人工頭脳、高分子化学などの専門家がどんどん移り住んだ。
技術の移動を追うように、仕事と富が移動した。南の「サンベルト地帯」の各州には、大口の軍需産業の受注によって最新の技術施設が次から次へと建設され、一方、東北部や五大湖周辺の旧産業地帯は疲弊し、破産しかねない状況に落ち込んだ。ニューヨーク市の長期的な財政危機は、まさに、この技術変動を反映するものだった。フランスの鉄鋼業の中心地だったロレーヌ地方の不況も同様である。そして、やや次元を異にするが、イギリス社会主義の衰退についても、同じことが言えるのである。第二次大戦後、イギリス労働党政府は、産業のとりでを確保すると発表し、かつ、実行した。ところが労働党政府が国有化したとりでは、石炭、鉄道、鉄鋼と、いずれも後日、技術革新が迂回してしまうものばかりで、言ってみれば前時代のとりでだったのである。
第三の波の産業を持つ地域は栄え、第二の波の産業地域は衰えた。しかし、この変換はいまはじまったばかりである。今日、多くの国で、政府は以降に伴う弊害を最小限におさえながら、意識的にこの構造改革を促進している。たとえば、日本の通産省の企画担当の役人は将来のサービス業の発展に役立つ新しい技術を研究しているし、西ドイツのシュミット首相と彼の顧問は、「構造的政治」を唱え、ヨーロッパ投資銀行の協力によって、将来の大量生産型の産業からの脱皮をはかっている。
今後、大幅に成長し、第三の波の時代のバックボーンになろうとしている産業は、相互に関連を持つ四つのグループに大別できる。これらの産業の成長に伴って、ふたたび、経済界や社会の権力構造に変動が起こり、政治の地図が塗り変えられることは必至である。
相互に関連の深い四つのグループの第一は、言うまでも無くコンピュータとエレクトロニクスである。
エレクトロニクス産業がこの世界に登場したのは比較的最近のことであるが、現在、すでに年間10億ドルの売上があり、1980年代後半には、3250億ドルから4000億ドルに達するのではないかとよ予測されている。この数字は、鉄鋼、自動車、化学工業についで、世界の第四位の産業になるということなのだ。コンピュータの急速な普及については周知の事実であり、ここであらためて説明するまでもなかろう。コンピュータの生産コストは急激に低下、容量は驚異的に大きくなっている。雑誌『コンピュータ・ワールド』は次のような記事を載せている。「この30年間にコンピュータ産業が成し遂げたことを、自動車産業がやれたとしたら、ロールスロイスは1台2ドル50セントで製造できただろうし、1ガロンのガソリンで200万マイル走ることができただろう。」
いまでは、安価なミニ・コンピュータがアメリカの家庭にどんどん入り込もうとしている。1979年6月には、家庭用コンピュータを製造する会社がおよそ100を数え、このなかには、テキサス・インスツルメンツのような巨大企業も含まれている。シアーズ・ローバックやモンゴメリー・ウォードなどのスーパー・チェーンが、家庭用品売場にコンピュータを並べるようになった。ダラス市のマイクロ・コンピュータ小売業者の言葉を借りれば、「もうじきコンピュータは全家庭に普及して、トイレと同じようにコンピュータ付き住宅があたり前になるであろう。」
家庭用コンピュータが銀行や商店、官庁、近所の家、自分の職場などと連結されれば、製造業から小売業にいたるまで、企業の形態も必然的に変わってくるだろう。労働の質や家族の構造にも変革が起こるにちがいない。
コンピュータ産業と切っても切れない関係にあるエレクトロニクス産業も、また爆発的に成長した。小型計算機、電子時計、テレビゲームなどが消費者を幻惑しているが、これはほんの序の口である。小型で安価な農業用の気候感知器、土壌検知器とか、衣服に取り付けて心臓の鼓動やストレスを探知する極小型の医療機器など、エレクトロニクスを応用した製品は、今後、無数に登場するだろう。
また、第三の波の産業への移行は、エネルギー危機によって、その時期が大幅に早められるであろう。というのは、第三の波の産業の生産工程や製品は、エネルギー消費量が少なくてすむからである。電話を例にとると、第二の波の時代には、道路の下は、曲がりくねった電話ケーブルや導管、継電器、スイッチなど各種の銅製品が埋め込まれていて、まるで銅山のようであった。しかしいまや、電話線は、毛髪のように細く、光を伝達する繊維を使った光ファイバー方式に切り替えれようとしている。この切り替えによる消費エネルギーの節減は驚くべきもので、光ファイバーの製造に要するエネルギー量は、銅を採掘し、精錬し、銅線に加工するエネルギー量の、わずか1000分の1ですむのである。90マイル分の銅線をつくるのに要する石炭で、光ファイバーは、なんと8万マイルもつくれるという。
エレクトロニクスの分野で、ソリッドステート物理学が主流に変わってきたことも、同じ方向を示すものである。生産される機器をみると、必要とする入力エネルギー量は着実に減少している。IBMが最近開発したLSI(高密度集積回路)による機器の消費電力は、わずか50マイクロワットである。
エレクトロニクス革命が持つこうした特色を考えると、エネルギー不足に悩む高度テクノロジー経済にとって、エネルギー浪費型の第二の波の時代の産業から第三の波のもたらした産業への方向転換こそ、資源節約の最上策だと言えるのである。
一般論として、雑誌『サイエンス』が書いているとおり、「エレクトロニクスの発展によって、国家経済は根本的に変わるであろう。新しい予期せぬエレクトロニクス機器が出現するたびに、フィクションが現実に置き換えられていくのである。」
しかし、エレクトロニクスの隆盛は、まったく新しい技術体系を切り拓く、ほんの第一歩にすぎない。
宇宙の富の活用
宇宙と海洋の開発についても、同じことが言えよう。ここでも第二の波の古典的テクノロジーを、はるかに越えた冒険が行なわれる。
今後の技術体系を構成する第二のグループは、宇宙産業である。当初の計画よりは遅れているが、近い将来、毎週五基の「宇宙連絡船」が人間や貨物を積んで、宇宙空間を往復する時代がくるだろう。こう書いても、一般の人びとにはあまり実感がわいてこないだろうが、欧米では多くの企業が「宇宙の辺境」こそ、来るべき高度の技術革命の舞台になるだろうと予測し、しかるべく策を錬っているのである。
グラマン、ボーイングの二社は、エネルギー生産用の衛星と宇宙基地を研究中である。『ビジネス・ウィーク』誌は次のように書いている。「いくつかの企業が人工衛星の重要性にやっと気づき始めた。半導体から薬品に至る様々な製品を、人工衛星で製造し加工することが出来るのである。高度のテクノロジーを使って作り出す物質は微妙な制御操作を必要とする場合が多く、重力が邪魔になることもある。宇宙空間では重力を気にする必要がないし、容器も不要である。有毒物質や放射性物質を扱う場合も、問題が起こらない。真空状態にも不自由しないし、超高温も超低温も自在である。」
こういうわけで、「宇宙工場」は、科学者、技術者、高度テクノロジー企業の経営陣などの間で、ホットな話題になっている。マグダネル・ダグラス社は、いくつかの製薬会社に対して、人体細胞から希酵素を分離するのに、宇宙連絡船を使ってはどうかと持ちかけている。ガラス業界は、レーザーや光ファイバーの原料を、宇宙で製造する方法を調査中である。宇宙空間でつくられた単結晶の半導体にくらべると、地上でつくられたものは、非常に初歩的なものだということになってしまう。また、ある種の血液疾患に使う凝血溶解剤は、現在、一回投与するたびに2500ドルもかかるが、NASAの宇宙工業研究部長ジェスコ・フォン・パットカマー氏によれば、これを宇宙空間で製造すれば、コストが5分の一で済むということである。
さらに重要なのは、地球上ではどんなに経費をかけても絶対に製造不可能な、まったく新しい製品である。航空宇宙開発とエレクトロニクスのTRW社の発表によれば、重力があるために地球上ではつくれない合金が400種もあるという。ゼネラル・エレクトリック社は宇宙溶鉱炉の設計をはじめているし、西ドイツのダイムラー・ベンツ社とMAN社では、宇宙ボールベアリング工場について研究している。欧州共同体宇宙局、それにブリティッシュ・エアクラフトなど特定の企業がひとつならず、宇宙空間での事業が商業ベースにのるように、さまざまな製品や設備を考案中である。『ビジネス・ウィーク』は次のように書いている。「これらの計画はSFではない。ますます多くの会社が、真面目に研究課題として取り組んでいる。」
「宇宙工場」におとらず真面目で、あるいはそれ以上熱心な支持者を獲得しているのが、ジェラルド・オニール博士の「宇宙都市」計画である。プリンストン大学の物理学者であるオニール博士は、宇宙に大規模な基地か島を浮かべて、何千人もの人口を持つ町を建設することができるのではないかと考え、あちこちで熱心に講演していた。いまでは、NASAやカリフォルニア州知事(カリフォルニア州の経済は宇宙産業への依存度が高い)ばかりか、なんと、『地球のカタログ』をつくった、スチュワート・ブランドの率いる、元ヒッピーの一派にまで支持されるにいたった。
オニール博士のアイディアは、月にはじめ天体から採掘する物質を使って、少しずつ宇宙に都市を建設しようというものであるが、同僚のブライアン・オレアリー博士は、アポロやアモールなど小惑星から、鉱物を採掘する可能性を研究している。NASA、ゼネラル・エレクトリック社、連邦政府の資源関係機関などの専門家は、定期的にブリストン大学に集まり、月など天体鉱物の化学処理に関する論文や、宇宙住宅の設計と建築、そこでの生態システムなどについて、情報交換を行なっている。
地球外での工業生産まで包括するひろい宇宙計画と、進んだエレクトロニクスを結合することによって、技術体系は、第二の波が持つ多くの束縛から解放され、新しい段階をむかえるだろう。
海底への進出
宇宙空間と方向がまったく逆だが、深海の開発は、宇宙開発と同様に重要である。海洋開発は、新しい技術体系の主要部門の第三グループになろうとしている。われわれの祖先が略奪と狩猟中心の生活をやめて農耕と牧畜をはじめたのが、地上最初の社会変革の波であったとすれば、現在のわれわれは、海に関して、まったく同じ局面に立っているといってよいだろう。
飢饉に直面している地域では、生みが食糧問題の解決の鍵を握っている。海を農場や牧場のように利用することによって、人体の栄養に欠かすことのできない蛋白質を無限に供給することができるのである。高度に産業化が進んだ現代の営利漁業は、日本やソビエトのまるで工場のような漁船が魚を根こそぎとっている姿に見られるとおり、過剰虐殺であり、さまざまな海洋生物を全滅させる恐れがある。これに反して、魚の養殖や海藻の栽培など、頭を使って「海洋農業」を行なえば、われわれの生命に深くかかわる微妙な生物環境を破壊することなく、世界の食糧危機を救うことができるであろう。
一方、海中で「油を育てる」可能性は、最近の海底油田採掘ラッシュのかげにかくれてしまった感があるが、バッテール記念研究所のローレンス・レイモンド博士は、石油成分の含有率が高い海藻を栽培できることを照明し、目下、経済的に採算のとれる栽培法を研究中である。
さらに重要なのは、海に眠る無尽蔵の鉱物資源である。銅、亜鉛、錫、銀、金、白金、そして農業用の肥料をつくる燐酸エステル鉱も忘れてはならない。水温の高い紅海には、34億ドル相当の亜鉛、銀、鉛、金などがあると考えられており、いくつかの鉱山会社が早くも目をつけている。世界最大の鉱山会社を含む100以上の企業が、じゃがいものような形をした海底マンガン団塊を採掘する準備を進めている。(マンガン団塊は自然再生する資源で、ハワイのすぐ南で発見されたマンガン帯だけでも、1年に600万トンから1,000万トンのマンガン団塊が形成されている。)
現在、4つの国際的なコンソーシアム(合弁企業)が、1980年代の中期から数十億ドルの規模で海底採鉱をはじめるべく、準備を進めている。第一のコンソーシアムには23の日本企業を始め、西ドイツのAMRグループや、カナダ・インターナショナル・ニッケルのアメリカにおける子会社などが入っており、第二コンソーシアムにはベルギーのユニオン・ミニエール、USスチール、サン社、などの名が並んでいる。第三グループには、カナダのノランダ社、日本の三菱、リオ・ティント・ジンク社、イギリスのコンソリデーデッド・ゴールド・フィールズ社が、そして第四コンソーシアムには、ロッキードとロイヤル・ダッチ・シェル・グループが参加している。ロンドンの『ファイナンシャル・タイムズ』は「こうした企画は、精選された数種の鉱物をめぐる世界の採鉱活動に革命的変化をもたらすものである」と書いている。
鉱山会社ばかりでなく、製薬会社ホフマン・ラ・ロッシュなどは、抗菌剤とか鎮静剤、検査薬、止血剤など、海中に新しい薬品を求めて調査を行なっている。
これらの技術が発展すれば、やがて、半分、場合によっては全体が海中にある「海洋農村」や、海上工場が実現するだろう。少なくとも現状では不動産価格がゼロであることと、海洋資源(風、潮流、波など)から現場で安くエネルギーが供給できることを考えれば、これらの施設は、地上の施設と十分競争していけるはずである。
海洋技術誌「マリン・ポリシー」はこう書いている。「海上建設技術は比較的単純なもので経費もさしてかからないから、近い将来、世界各国の政府や企業、団体が実際に手をつけるようになるであろう。現在のところ、いちばん可能性のあるのは、人口過剰の工業社会がつくる海上住宅街である。また、多国籍企業にとっては、貿易活動の動くターミナルとして、あるいは工場船として利用価値がある。食品会社は海上都市をつくって「海洋農業」を行なうだろうし、税金を払いたくない会社や新生活を求める冒険家は、新国家を樹立するかもしれない。やがて海上都市も外交上正式に承認されるようになるだろう。また、少数民族が海上国家をつくって独立するのも一案であろう。」
現在、海底油田の掘削機械は錨で海底に固定されているものがあるが、多くは、プロペラとかパラストとか浮力装置などを使って海上に浮かんでいる。この海底油田採掘機の建設に関するテクノロジーは急速に進歩しつつあり、将来の海上都市とそれを支える巨大な新しい産業の基盤をつくっているのである。
総体的に見て、海への進出をうながす商業的必然性は急速に増大しており、経済学者D・M・ライプザイガーが言うとおり「かつて、西部で入植者が農地を獲得した時と同じように、多くの大企業は少しでも広い海を獲得しようと、スタート・ラインに並んでピストルの合図を待っている。」こういう背景があればこそ、非産業国は、海洋資源を高める国ぐにに独占させず、人類の「共通の財産」として確保しようと闘っているのである。
こうした諸分野での進歩をそれぞれ独立したものと考えずに、相互に関連し合い、効果を高めるものだと考えれば、すなわち、ひとつの科学技術の進歩がほかの発展をうながすのだと考えれば、われわれの前に展開するのは第二の波のテクノロジーとはまったく次元を異にするものだということが、明白になるであろう。われわれは、きわめて新しいエネルギーシステムと、きわめて新しい技術システムへ向かって進んでいるのである。
しかし、これまで述べてきた進歩も、現在、分子生物学の研究で起こっている激しい変化にくらべれば、小規模なものと言わざるをえない。生物学産業こそ、明日の経済の第四グループであり、四つのグループの中で最大のインパクトを持っているのである。
遺伝子産業
遺伝子の働きが倍増したのかどうか、遺伝学に関する情報は2年ごとに2倍になっていると言う。雑誌『ニュー・サイエンティスト』は「遺伝子工学は現在、生産設備の基本的な準備を整えている段階で、やがて営業を開始するだろう」と書いている。著名な科学評論家リッチー・コルダーはこう語っている。「プラスティックや金属を扱ってきたのと同じように、生命ある物質を製造する時代がきた。」
大企業はすでに、新しい生物学の成果を商業的に応用できないものかと、必死の追求を行なっている。かれらの夢は、酵素を使って自動車の排気ガスを測定させ、空気の汚染度のデータをエンジンに取り付けた小型処理器に送って自動処理させる、といったようなことである。『ニューヨーク・タイムズ』は「金属を食べる微生物を使って、海水からたとえ微量でも、貴重な金属をとり出すことができる」と書いているが、このことも大企業の間で話題になっている。大企業は、新しい生物を特許の対象とするよう要求し、すでに特許権をとったものもでている。この競争に参加している会社はゼネラル・エレクトリック社をはじめエリ・リリー社、ホフマン・ラロッシュ社、G・D・シアール社、アップジョーン社、メルク社などである。
評論家や科学者は、はたして競争など許されてよいものか神経をとがらせているが、それは至極もっともなことである。かれらが懸念しているのは、油もれのような単純なことではなく、病気をまき散らし、多数の地域住民の生命を奪いかねない「細菌もれ」なのである。猛毒を持つ細菌を培養し、事故でそれが放出されたら-と考えただけでも恐怖がわくが、これは現代社会に対する警告のほんの一例にすぎない。立派な科学者が真面目に語り合っていることのなかにも、身の毛がよだつようなことが起こる可能性がたくさんあるのだ。
たとえば、牛のような胃袋を持ち、野に生えている草や干し草を食べる人間をつくれば、人間を含めた食物連鎖を変えることが可能になるから、食糧問題がおのずと緩和されるのではないか。労働者を仕事に応じて生物学的に変えることははたして許されるのか。たとえば、人並みはずれた速い反射神経を持ったパイロットをつくるとか、単純労働に向くように、神経学的に改造された組立工をつくるといった試みである。「劣った人間」を抹殺して「すぐれた人種」をつくってみるのはどうか。(ヒトラーと同じ試みだが、ヒトラーが持っていなかった遺伝子上の兵器が、やがて研究室から提供されるであろう。)戦争に向いた人間を、無性生殖的に発生させて兵士の役をさせるのはどうか。遺伝の法則を利用して、あらかじめ「不適応児」を排除することは許されるのだろうか。腎臓とか肝臓、肺などの「貯蓄銀行」をつくって、予備の内蔵器官を用意したらどうか。
このような考えは狂気の沙汰と思われるかもしれないが、科学者の間でそれぞれに対する賛同者もいれば反対意見をとなえる者もいるし、こういう考えを応用した商業的な計画も生まれているのである。遺伝子工学の評論家、ジェレミー・リフキンとテッド・ハワードの共著『神の役を演ずるのはだれか』には、次のような一節がある。「流れ作業による組み立て工程、自動車、ワクチン、コンピュータなどの技術と同じように、大規模な遺伝子工学もアメリカに導入されるであろう。遺伝子が進歩し新しい成果が商業的に実用化されると、それに伴って新しい消費者のニーズが開拓され、新しいテクノロジーのための市場がつくりだされていくであろう。」潜在的な応用法は無数にあるのだ。
たとえば、新しい生物学はエネルギー問題の解決に役立つ。科学者は、いま、太陽光線を電気化学エネルギーに変える働きをするバクテリアを利用するというアイデアを研究している。かれらは「生物学的太陽電池」などと称している。われわれは、原子力発電所にとって代わる生物をつくれないであろうか。もっともそうなれば、放射能もれの危険に代わって、生物もれの危険が生じるかもしれない。
健康の分野でいえば、現在のところ医学では直すことのできない多くの病気の予防や治療が可能になるのは確かだ。しかし、不注意とか悪意によって、もっと悪い病気が発生するかもしれない。(利潤の追求ばかり考えている会社が、自社の製品でしか治療できない新しい病気をつくって、ひそかに伝染させたらどうなるか。軽い風邪のような症状でも、治療薬や治療法が独占されていれば、巨大な市場をつくれるのである。)
多くの国際的に有名な遺伝学者と提携して仕事をしているカリフォルニアのセタス社の社長は、30年いないに「生物学は化学よりも重要な学問になるだろう」と語っている。またモスクワで発表されたソビエト政府のステートメントのなかでも「国家経済における微生物の広範な利用をはかり・・・」という言葉がみられる。
生物学の進歩によって、プラステックや肥料、衣料品、塗料、殺虫剤、その他多くの製品の生産に石油をまったく使う必要がなくなるか、あるいは消費量を減少させる結果となるだろう。木材とか毛のような「自然」商品の生産にも大きな変化が起こるであろう。すでに、USスチール、フィアット、日立製作所、ASEA,IBMなどは、独自の生物学研究所を持っているにちがいない。われわれは、そのうちに、想像もつかないような商品を、製造する時代から、“生造”する時代へと移行するのである。ザ・フューチャーズ・グループの指導者セオドア・J・ゴードンは次のように言っている。「いったん生物学に手をつけたならば、やがては『人間の組織と変わらないシャツ』とか、人間の乳房と同じ物質でつくった『乳房と同じ感触のマットレス』をつくれないものか、などと考えるところまでいってしまう。」
しかしそうなるよりはるか前に、遺伝子工学は農業面に活用されて、世界の食糧供給を増すのに役立つであろう。1960年代には、品種改良による農作物の増産をめざす「緑色革命」が大いに喧伝されるものだが、結局のところ、それは第一の波の世界の農民にとって、大きなワナでしかなかった。外国から石油合成肥料を大量に買って、畑にまかなければならなかったからである。来るべき生物学的農業革命の眼目は、まさに、この化学肥料への過剰依存を改めることなのである。遺伝子工学は、生産性の高い作物、砂地でも塩分の多い土地にでもよく育つ作物、病気に強い作物などを目指している。まったく新しい食料や繊維を創り出すと同時に、食料の保存や加工についても、簡略化、コスト低下、省エネをはかろうとしているのである。遺伝子工学は、おそるべき危険をはらんでいる反面、世界各地の飢饉に終止符を打つ可能性をもたらすのである。
こういy、良いことずくめの予想には疑問を抱く人も有るに違いない。しかし、たとえ遺伝子学農業を唱導する人びとの言うことが半分しか当らないとしても、それが農業に与えるインパクトは非常に大きく、他のもろもろの変化と同時に、究極的には、富める国と貧しい国の関係を変えていくであろう。緑色革命は、貧しい国が富める国に依存する度合いを弱めるどころか強める働きをしたが、生物学的農業革命はこの逆の結果をもたらすであろう。
生物学的テクノロジーが今後どんなふうに発展するのか、それ確言するには時期尚早であるが、ゼロへ逆戻りしようとしても、もはや手遅れである。すでに発見したことを伏せておくことはできない。われわれにできることは、その利用を正しく管理し、性急な開発を防ぐことである。一国に独占させることを許さず、この分野で企業や国家や科学者同士が競争するのを最小限に食い止めるよう、手遅れにならないうちに努力することである。
ひとつだけ確かなことがある。それは、われわれが、もはや、300年を経た第二の波のテクノロジーである電気・機械的な伝統的枠に縛られてはいない、ということである。そして、この歴史的事実の意義をようやくわれわれが理解しはじめたばかりだということである。
第二の波は、石炭、鉄、電気、鉄道による輸送などを統合して、自動車をはじめ生活を一新させた数々の製品をつくった。それとまったく同じように、われわれがコンピュータ、エレクトロニクス、宇宙や海洋からもたらされる新しい原料など、新しいテクノロジーを遺伝子と統合させ、さらにそれと新しいエネルギー体系とを結合させたときに、はじめて新たな変革の真のインパクトを感じることになるだろう。これらすべての要素を結合することによって、人類の歴史上かつてなかった技術革新の巨大な波がわき起こるだろう。われわれは、第三の波の文明の、劇的とも言える新しい技術体系を切り拓いているのである。
技術に対する反逆者たち
これらの技術の進歩が持つ重要性と、それが人類の進化に将来どれほど重要な影響をおよぼすかを考えると、技術の進歩を正しい方向にもっていくことが、どうしても必要になってくる。手をこまねいて傍観しているのも、また、たいしたことはないと楽観しているにも、われわれ自身と子孫の運命を破壊に導くことになろう。現在起こっている変化は、規模といい強さといい、またその速度においても、歴史上経験したことのないものである。危うく大災害になるところだったスリーマイル島の原発事故、悲劇的なDC10の墜落事故、メキシコ海岸の手のつけようのない大量の油もれなど、技術開発に伴う数々の恐るべき事件は、われわれの記憶に新しい。こうした災害を目の前にして、将来のもっと強力なテクノロジーの進歩や結合を、第二の波の時代の近視眼的で利己的な判断基準によって決定してよいものだろうか。
過去300年間、資本主義国、社会主義国を問わず、新しい技術が生まれるたびに問われたのは、経済的な利益があるか、あるいは軍備に役立つか、という二点だけであった。しかし、今後はこの二つの判断基準だけでは不十分である。新しい技術は、経済と軍備の二つの面からではなく、生態環境や社会性の面からも、きびしく審査されなければならない。
全米科学財団に提出されたある報告書のなかに「技術が社会に与えた衝撃」という一項があって、最近の技術災害が列挙されている。このリストを子細に調べると、そのほとんどが第二の波の技術が起こした災害で、第三の波の技術に起因するものはあまり見られない。理由ははっきりしている。第三の波のテクノロジーは、まだそれほど大規模に開発されていないからである。第三の波のテクノロジーの大半は、まだ幼児期にある。それにもかかわらず、すでに多くの危険をかいま見ることができる。たとえば、エレクトロニクス時代のスモッグ、情報公害、宇宙開発戦争、細菌の漏出、気象干渉、遠隔地で地殻振動を発生させて故意に地震を起こすような、いわゆる「環境戦争」などである。新しいテクノロジーの体系に向かって前進するにつれて、さらに多くの危険性が待ち構えていることであろう。
こういう状況のもとで、近年、新しいテクノロジーに対する、ほとんど無差別といってもよい大規模な民衆の抵抗が起こっているのは、当然のことである。新しい技術を押し留めようという試みは、第二の波の初期にも見られた。すでに1663年、ロンドンの労働者は、生活をおびやかされるという理由で製材所に新しく据えつけられた製材機械を破壊し、1676年には、リボン製造工が自分たちの機械を破壊している。1710年には、メリヤス機械の導入に抗議する運動が起こった。そののち、紡績工場で使う飛び梭を発明したジョン・ケイは、怒り狂った群衆に自宅をこわされ、とうとうイギリスから逃げ出してしまった。この種の事件でいちばん有名なのは、産業革命のさなか、1811年から16年にかけて、「ラッダイト」と名乗る機械破壊主義者たちが、ノッチンガムの紡績機をこわした事件である。
しかし、これら初期の機械反対運動はばらばらでまとまりに欠け、自然発生的なものだった。ある歴史家が指摘しているように、「事件の多くは機械そのものにたいする敵意から起こったというより、気にそまない雇用者を威圧する手段として発生した。」無学で貧しく、空腹と絶望に打ちひしがれた労働者の目に、機械は、生存そのものを脅かすものとして写ったのである。
とめどなく進むテクノロジーに対する現代の反抗は、これとは異質なものである。どう見ても貧しいとは言えず、無学でもない人びと、必ずしも反技術でもなく、経済成長に反対しているわけでもないが、野放図な技術革新が自分自身と世界全体の生存を脅かすと考える人びとが、この反抗に加わっている。そして、こうした人びとの数が、急速に増加しているのだ。
このなかの過激派は、機会があれば、ラッダイトと同じ手段に訴えるかもしれない。コンピュータ装置や、遺伝学研究室、建設中の原子炉などが爆破される可能性は十分にありうる。なにか特に恐ろしい技術災害が起こった場合、それが引き金になって、「諸悪の根源」である白衣の科学者が魔女狩りの対象になるだろうということは、容易に創造できる。未来の扇動政治家のなかには、「ケンブリッジ大学の不穏分子10人」とか「オークリッジ原子力発電所の7人」などと勝手に命名したうえ、その周辺を調べて名をあげようとする者も出てくるだろう。
しかし、現代の反技術集団の大半は、爆弾を投げたり、ラッダイトのように機械をこわしたりはしない。このなかには、何百万という普通の市民とならんで、原子力技術者、物理学者、公衆衛生関係の公務員、遺伝学者など、科学者自身が何千人も参加している。ラッダイトとは違って、きちんと組織され、発言力を持った人びとである。自分たちの手で科学雑誌や広報誌を刊行し、訴訟記録や法案をファイルしておく。同時に、ピケや行進やデモも実行する。
こういう運動は、しばしば反動的だと非難されるが、実は、台頭しつつある第三の波の重要な一部なのである。技術の分野で、エネルギーをめぐって三つの集団の間で闘争が行なわれることは、すでに本章で書いたとおりだが、技術の分野の闘争と並行して、政治、経済の分野でも三つ巴の闘いが起こる。そしてこうした運動に参加している人は、三つの集団の中でも、もっとも未来に近いところにいるのである。
ここでもまた、一方には第二の波の勢力があり、他方には第一の波の時代逆行派があって、第三の波の陣営は、その双方と闘わなければならない。第二の波の勢力は、技術に対する古い、愚かな考えに固執している。「役に立つなら、建設しよう。売れるなら、生産しよう。軍事力強化につながるなら、つくろう。」第二の波の支持者の多くは、進歩について時代おくれな、産業主義時代そのままの進歩の概念に凝り固まって、技術を無責任なやりかたで実用化しようとして利権を漁っている。かれらは危険性について、まったく無関心なのである。
一方、少数だが口うるさい超ロマンチストの一団がいる。この集団は原始的な第一の波のテクノロジー以外のすべてに敵意を持ち、中世の工芸や手工業に戻ろうとしている人びとである。多くは中産階級に属して、飢饉などとおよそ縁の無い有利な立場から発言している。第二の波の人びとが無差別に技術革新を支持したのと同じように、無差別に技術革新に抵抗している。われわれはもちろん、かれら自身でもとうてい我慢できないような世界へ戻りたいという、幻想を抱いているに過ぎないのである。
この両極端の二者の間に、各国で、技術への反乱の核となる人びとが、徐々にその数を増やしている。かれらは、自分では意識していないが、第三の波の代理人なのである。かれらは、いきなりはじめから技術を論ずるようなことはしない。われわれが将来どんな社会を望むのか、という難問から議論を始める。
かれらの論点は次のようなものである。いまや技術の進歩はあまりにも多岐にわたっているので、すべてに資金を出し、開発を進め、実用化するのは無理なことである。したがって、もっと慎重な選択を行なって、長期にわたって社会や環境に役立つ技術を選び出す必要がある。技術がわれわれの目的を定めるというようなことではなく、テクノロジーの大きな流れの方向を、社会が管理しなければならない。とかれらは主張している。
技術に対する反逆者たちは、まだ、はっきりとした包括的な計画を持っていない。しかし、これまでに出た数多くの声明、誓願、宣言、調査報告などを読むと、考え方にいくつかの傾向があることがわかる。これらの考え方が総合されて、技術に対するひとつの新しい見方、将来、第三の波へ推移するための、ひとつの積極的な方針が生まれていくのである。
かれらの考え方の出発点となるのは、地球の生物体系はもろくこわれやすいものだから、新しいテクノロジーが強力になるにつれて、それが地球全体にとりかえしのつかない損傷を与える危険性も大きくなる、という考えである。したがって、すべての新しい技術は、目的と反対の結果を惹起せぬよう事前に審査し、危険なものは計画のやり直しをするとか、開発を中止すべきであると主張する。一言で言えば、未来の技術には第二の波の時代にくらべて、よりきびしい生物環境上の制約を課すべきである、というのである。
技術に反対する人びとは、われわれが技術を支配しなければ、技術がわれわれを支配するだろうと言う。
この場合「われわれ」というのは、科学者、技術者、政治家、ビジネスマンなど、少数のエリートに留まらない。西ドイツ、フランス、スウェーデン、日本、アメリカなどに起こった核禁止運動や、コンコルド就航反対闘争、高まりつつある細菌研究制限要求などが、どのような功績を果たしたかは別として、こうした動きは、技術における決定過程を民主化すべきだという、強い要求がひろがりつつあることを反映している。
「すぐれた」技術というのは、必ずしも、大がかりで複雑で金のかかる技術である必要はない、と言うのがかれらの主張である。高圧的な第二の波のテクノロジーは、一見、「効率的」であるように見えるが、実際はそれほどではない。なぜかと言えば、西側で言えば企業、社会主義国で言えば各種事業体に共通して言えることだが、公害、失業、労働災害などに要する膨大な対策経費を、社会全体に肩代わりさせているからである。これも一種の「生産コスト」だと考えれば、一見「高い効率」を持ついろいろな機械も、実はまったく非効率なものだということになる。
テクノロジーの総合的な計画をたてて、もっと人間味ある仕事を用意し、公害をなくし、環境を保護し、国家とか世界の市場よりも地域や個人の消費を目的とする生産を行なうように、「適切なテクノロジー」を発展させなければならない。以上のような考え方にもとづいて、技術に対する反逆者たちは、世界各国で多くの実験を行なっている。いまのところ、技術の規模は小さいが、魚の養殖や食品加工から、エネルギー生産、ごみの再生、安い住宅建築、簡便な交通機関など、各方面で実験の火花が散っている。
これらの実験のなかには、あまりに素朴なものや時代逆行のようなものもあるが、実用的なものも多い。実験のなかには、最新の原料と科学的な装置を、新しいやりかたで、昔の技術と組み合わせたものもある。たとえば、中世技術史の研究家であるジーン・ジンベルがつくっている単純だが美しい道具類は、非工業国で大いに役に立つと思われる。これは新しい原料と古い技法を使ったものである。もうひとつの例は、最近、大きな関心をよんでいる飛行船である。飛行船の技術はいったん省みられなくなったが、最近は繊維そのほかの材料の進歩によって、有効積載量が大幅に増した。飛行船は、環境問題の面からも害がなく、ブラジルとかナイジェリアのように道路事情の悪い地域で、多少スピードには欠けるが、安くて安全な輸送手段として最適である。なにがいちばん妥当な技術か、あるいは、なにか代替技術はないかを調べる実験をしていくと、とくにエネルギーの分野では、簡単で小規模な技術でも、機械が作業目的にぴったり合っており、技術が持つ副次的効果まですべて計算に入れれば、複雑で大規模な技術に劣らず、「性能が高い」ものがあることがわかる。
技術に対する反逆者たちが心を痛めているのは、この地球上に科学技術のひどい不均衡があるということである。世界の総人口の75%を占める国ぐにの科学者の数は、世界の科学者総数のわずか3%にすぎない。貧しい国ぐにのために、もっと技術をふり向けなければならないし、宇宙資源や海洋資源も、もっと公平に分配しなければならない、とかれらは考えている。人類の共通の遺産は海や空だけではない。進んだ技術そのものが、インド人、アラビア人、古代中国人など、多くの民族の歴史的貢献によって今日のような発展を見たのである。
かれらの主張の最後は、第三の波へ移行するに当って、われわれは、第二の波の時代の資源を浪費し公害を伴う生産システムから、もっと「新陳代謝性能の高い」システムへ、一歩一歩、前進してゆかなければならない、ということである。「新陳代謝性能が高いシステム」というのは、生産のアウトプットと副産物が必ず次の生産のインプットになって、廃棄物や公害が出ない生産システムのことである。次の生産過程のインプットにならないものは生産しないようなシステムが、最終の目標である。こういうシステムができれば、生産性が高いばかりでなく、生物体系へ与える損害をゼロ、ないしは最小限におさえることができるであろう。以上が、現代技術に対する反逆者たちの意見である。
総体的に見ると、技術に対する反逆者たちの考え方は、激しい勢いで進んでいくテクノロジーを、もっと人間味のあるものにするための基準をつくる、ということだと言うことができるだろう。
かれらは、自分たちで自覚していようといまいと、第三の波の代理人なのである。かれらは将来、その数を増すことはあっても減ることはないであろう。金星探検、驚異的なコンピュータ、生物学上の発見、あるいは深海探検などが、すべて次の文明へ向かっての前進であるならば、技術への反逆者たちもまた、次の文明の先導者なのである。
第一の波の幻想家と第二の波のテクノロジーの擁護者と、この技術への反逆者との相克の中から、新しい永続きのするエネルギー体系にふさわしい、賢明なテクノロジーが生まれる。そうしたテクノロジーは、いまやわれわれの目前まできているのである。この新しいエネルギー体系と新しいテクノロジーを接続させるとき、われわれの文明全体が、まったく新しい次元へ引き上げられるであろう。この文明の根底には、厳重な環境規制と社会管理の枠の中で営まれる、科学に基礎を置きながらも洗練された「激しい流れ」の産業と、同じように洗練されてはいるが、小規模で人間味あふれる「ゆるやかな流れ」の産業が渾然一体となって存在することになるだろう。そして、この二つの産業が、相たずさえて明日の主要産業になるのである。
しかしここで述べたことは、もっと広大な展望の、ほんの一部分にすぎない。われわれは技術体系を変革しながら、同時に、情報体系をも変革しつつあるからだ。
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
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第12章 変貌する主要産業(2-2)
明日の道具
石炭、鉄道、繊維、鉄鋼、自動車、ゴム、工作機械製造・・これらは第二の波の古典的産業である。基本的には単純な電気メカニックの応用であり、大量のエネルギーを消費し、巨大な産業廃棄物を吐き出し、公害をもたらす。その特色は、長時間労働、非熟練労働、反復作業、規格化された製品、高度に集中化された管理体制などである。
先進工業国では、1950年代の中頃から、これらの産業が明らかに時代おくれのものとなり、衰退しはじめた。アメリカを例にとると、1965年から74年までの10年間に、労働人口は21%増加したにもかかわらず、繊維産業の従業員数はわずか6%しか増えず、鉄鋼産業の従業員は逆に10%減となったのである。スウェーデン、チェコスロバキア、日本などの第二の波の国家でも、こういうパターンが顕著である。
これらの時代遅れの産業は、安い労働力を持ち技術水準の低い、いわゆる「開発途上国」へ移っていき、それとともに、社会におよぼす影響力も弱まった。その代わりに、もっとダイナミックな、新しい産業がつぎつぎに出現したのである。
新しい産業は、いくつかの点で、前の時代の産業と著しく異なっている。新しい産業は、まず第一に電気メカニックではないし、第二の波の時代の古典的科学理論にもとづいたものでもない。量子電子工学、情報理論、分子生物学、海洋学、原子核工学、社会生態学、宇宙科学といったような、ここ四半世紀の間に生まれ育った新しい学問の最先端で開発された産業なのである。これらの新しい学問のおかげで、われわれは第二の波の時代の産業が尺度としていた時間や空間より、はるかに微小な単位を手にするようになった。ソ連の物理学者B・G・クズネツォフが書いているように、「極小な空間(原子核の直径は10-13cm)
と10-23秒というような極めて短い時間」を計測できるようになった。
これらの新しい科学と現代の急速に進んだ計測技術が、コンピュータとデータ処理、航空宇宙産業、合成石油化学、半導体、革新的な通信産業など、新しい産業を産み出したのである。
技術の分野で、第二の波から第三の波への以降がいちばん早く訪れたのはアメリカで、1950年代の中頃であった。東部、ニューイングランドのメリマック・バレーのような旧産業の町は不況の底に沈む一方、ボストン郊外の国道128号線沿いや、カリフォルニア州の「シリコン・バレー」と呼ばれる地帯は一躍脚光を浴びるようになった。郊外には、ソリッド・ステートのトランジスターなどを研究する物理学者とか、システム・エンジニアリング、人工頭脳、高分子化学などの専門家がどんどん移り住んだ。
技術の移動を追うように、仕事と富が移動した。南の「サンベルト地帯」の各州には、大口の軍需産業の受注によって最新の技術施設が次から次へと建設され、一方、東北部や五大湖周辺の旧産業地帯は疲弊し、破産しかねない状況に落ち込んだ。ニューヨーク市の長期的な財政危機は、まさに、この技術変動を反映するものだった。フランスの鉄鋼業の中心地だったロレーヌ地方の不況も同様である。そして、やや次元を異にするが、イギリス社会主義の衰退についても、同じことが言えるのである。第二次大戦後、イギリス労働党政府は、産業のとりでを確保すると発表し、かつ、実行した。ところが労働党政府が国有化したとりでは、石炭、鉄道、鉄鋼と、いずれも後日、技術革新が迂回してしまうものばかりで、言ってみれば前時代のとりでだったのである。
第三の波の産業を持つ地域は栄え、第二の波の産業地域は衰えた。しかし、この変換はいまはじまったばかりである。今日、多くの国で、政府は以降に伴う弊害を最小限におさえながら、意識的にこの構造改革を促進している。たとえば、日本の通産省の企画担当の役人は将来のサービス業の発展に役立つ新しい技術を研究しているし、西ドイツのシュミット首相と彼の顧問は、「構造的政治」を唱え、ヨーロッパ投資銀行の協力によって、将来の大量生産型の産業からの脱皮をはかっている。
今後、大幅に成長し、第三の波の時代のバックボーンになろうとしている産業は、相互に関連を持つ四つのグループに大別できる。これらの産業の成長に伴って、ふたたび、経済界や社会の権力構造に変動が起こり、政治の地図が塗り変えられることは必至である。
相互に関連の深い四つのグループの第一は、言うまでも無くコンピュータとエレクトロニクスである。
エレクトロニクス産業がこの世界に登場したのは比較的最近のことであるが、現在、すでに年間10億ドルの売上があり、1980年代後半には、3250億ドルから4000億ドルに達するのではないかとよ予測されている。この数字は、鉄鋼、自動車、化学工業についで、世界の第四位の産業になるということなのだ。コンピュータの急速な普及については周知の事実であり、ここであらためて説明するまでもなかろう。コンピュータの生産コストは急激に低下、容量は驚異的に大きくなっている。雑誌『コンピュータ・ワールド』は次のような記事を載せている。「この30年間にコンピュータ産業が成し遂げたことを、自動車産業がやれたとしたら、ロールスロイスは1台2ドル50セントで製造できただろうし、1ガロンのガソリンで200万マイル走ることができただろう。」
いまでは、安価なミニ・コンピュータがアメリカの家庭にどんどん入り込もうとしている。1979年6月には、家庭用コンピュータを製造する会社がおよそ100を数え、このなかには、テキサス・インスツルメンツのような巨大企業も含まれている。シアーズ・ローバックやモンゴメリー・ウォードなどのスーパー・チェーンが、家庭用品売場にコンピュータを並べるようになった。ダラス市のマイクロ・コンピュータ小売業者の言葉を借りれば、「もうじきコンピュータは全家庭に普及して、トイレと同じようにコンピュータ付き住宅があたり前になるであろう。」
家庭用コンピュータが銀行や商店、官庁、近所の家、自分の職場などと連結されれば、製造業から小売業にいたるまで、企業の形態も必然的に変わってくるだろう。労働の質や家族の構造にも変革が起こるにちがいない。
コンピュータ産業と切っても切れない関係にあるエレクトロニクス産業も、また爆発的に成長した。小型計算機、電子時計、テレビゲームなどが消費者を幻惑しているが、これはほんの序の口である。小型で安価な農業用の気候感知器、土壌検知器とか、衣服に取り付けて心臓の鼓動やストレスを探知する極小型の医療機器など、エレクトロニクスを応用した製品は、今後、無数に登場するだろう。
また、第三の波の産業への移行は、エネルギー危機によって、その時期が大幅に早められるであろう。というのは、第三の波の産業の生産工程や製品は、エネルギー消費量が少なくてすむからである。電話を例にとると、第二の波の時代には、道路の下は、曲がりくねった電話ケーブルや導管、継電器、スイッチなど各種の銅製品が埋め込まれていて、まるで銅山のようであった。しかしいまや、電話線は、毛髪のように細く、光を伝達する繊維を使った光ファイバー方式に切り替えれようとしている。この切り替えによる消費エネルギーの節減は驚くべきもので、光ファイバーの製造に要するエネルギー量は、銅を採掘し、精錬し、銅線に加工するエネルギー量の、わずか1000分の1ですむのである。90マイル分の銅線をつくるのに要する石炭で、光ファイバーは、なんと8万マイルもつくれるという。
エレクトロニクスの分野で、ソリッドステート物理学が主流に変わってきたことも、同じ方向を示すものである。生産される機器をみると、必要とする入力エネルギー量は着実に減少している。IBMが最近開発したLSI(高密度集積回路)による機器の消費電力は、わずか50マイクロワットである。
エレクトロニクス革命が持つこうした特色を考えると、エネルギー不足に悩む高度テクノロジー経済にとって、エネルギー浪費型の第二の波の時代の産業から第三の波のもたらした産業への方向転換こそ、資源節約の最上策だと言えるのである。
一般論として、雑誌『サイエンス』が書いているとおり、「エレクトロニクスの発展によって、国家経済は根本的に変わるであろう。新しい予期せぬエレクトロニクス機器が出現するたびに、フィクションが現実に置き換えられていくのである。」
しかし、エレクトロニクスの隆盛は、まったく新しい技術体系を切り拓く、ほんの第一歩にすぎない。
宇宙の富の活用
宇宙と海洋の開発についても、同じことが言えよう。ここでも第二の波の古典的テクノロジーを、はるかに越えた冒険が行なわれる。
今後の技術体系を構成する第二のグループは、宇宙産業である。当初の計画よりは遅れているが、近い将来、毎週五基の「宇宙連絡船」が人間や貨物を積んで、宇宙空間を往復する時代がくるだろう。こう書いても、一般の人びとにはあまり実感がわいてこないだろうが、欧米では多くの企業が「宇宙の辺境」こそ、来るべき高度の技術革命の舞台になるだろうと予測し、しかるべく策を錬っているのである。
グラマン、ボーイングの二社は、エネルギー生産用の衛星と宇宙基地を研究中である。『ビジネス・ウィーク』誌は次のように書いている。「いくつかの企業が人工衛星の重要性にやっと気づき始めた。半導体から薬品に至る様々な製品を、人工衛星で製造し加工することが出来るのである。高度のテクノロジーを使って作り出す物質は微妙な制御操作を必要とする場合が多く、重力が邪魔になることもある。宇宙空間では重力を気にする必要がないし、容器も不要である。有毒物質や放射性物質を扱う場合も、問題が起こらない。真空状態にも不自由しないし、超高温も超低温も自在である。」
こういうわけで、「宇宙工場」は、科学者、技術者、高度テクノロジー企業の経営陣などの間で、ホットな話題になっている。マグダネル・ダグラス社は、いくつかの製薬会社に対して、人体細胞から希酵素を分離するのに、宇宙連絡船を使ってはどうかと持ちかけている。ガラス業界は、レーザーや光ファイバーの原料を、宇宙で製造する方法を調査中である。宇宙空間でつくられた単結晶の半導体にくらべると、地上でつくられたものは、非常に初歩的なものだということになってしまう。また、ある種の血液疾患に使う凝血溶解剤は、現在、一回投与するたびに2500ドルもかかるが、NASAの宇宙工業研究部長ジェスコ・フォン・パットカマー氏によれば、これを宇宙空間で製造すれば、コストが5分の一で済むということである。
さらに重要なのは、地球上ではどんなに経費をかけても絶対に製造不可能な、まったく新しい製品である。航空宇宙開発とエレクトロニクスのTRW社の発表によれば、重力があるために地球上ではつくれない合金が400種もあるという。ゼネラル・エレクトリック社は宇宙溶鉱炉の設計をはじめているし、西ドイツのダイムラー・ベンツ社とMAN社では、宇宙ボールベアリング工場について研究している。欧州共同体宇宙局、それにブリティッシュ・エアクラフトなど特定の企業がひとつならず、宇宙空間での事業が商業ベースにのるように、さまざまな製品や設備を考案中である。『ビジネス・ウィーク』は次のように書いている。「これらの計画はSFではない。ますます多くの会社が、真面目に研究課題として取り組んでいる。」
「宇宙工場」におとらず真面目で、あるいはそれ以上熱心な支持者を獲得しているのが、ジェラルド・オニール博士の「宇宙都市」計画である。プリンストン大学の物理学者であるオニール博士は、宇宙に大規模な基地か島を浮かべて、何千人もの人口を持つ町を建設することができるのではないかと考え、あちこちで熱心に講演していた。いまでは、NASAやカリフォルニア州知事(カリフォルニア州の経済は宇宙産業への依存度が高い)ばかりか、なんと、『地球のカタログ』をつくった、スチュワート・ブランドの率いる、元ヒッピーの一派にまで支持されるにいたった。
オニール博士のアイディアは、月にはじめ天体から採掘する物質を使って、少しずつ宇宙に都市を建設しようというものであるが、同僚のブライアン・オレアリー博士は、アポロやアモールなど小惑星から、鉱物を採掘する可能性を研究している。NASA、ゼネラル・エレクトリック社、連邦政府の資源関係機関などの専門家は、定期的にブリストン大学に集まり、月など天体鉱物の化学処理に関する論文や、宇宙住宅の設計と建築、そこでの生態システムなどについて、情報交換を行なっている。
地球外での工業生産まで包括するひろい宇宙計画と、進んだエレクトロニクスを結合することによって、技術体系は、第二の波が持つ多くの束縛から解放され、新しい段階をむかえるだろう。
海底への進出
宇宙空間と方向がまったく逆だが、深海の開発は、宇宙開発と同様に重要である。海洋開発は、新しい技術体系の主要部門の第三グループになろうとしている。われわれの祖先が略奪と狩猟中心の生活をやめて農耕と牧畜をはじめたのが、地上最初の社会変革の波であったとすれば、現在のわれわれは、海に関して、まったく同じ局面に立っているといってよいだろう。
飢饉に直面している地域では、生みが食糧問題の解決の鍵を握っている。海を農場や牧場のように利用することによって、人体の栄養に欠かすことのできない蛋白質を無限に供給することができるのである。高度に産業化が進んだ現代の営利漁業は、日本やソビエトのまるで工場のような漁船が魚を根こそぎとっている姿に見られるとおり、過剰虐殺であり、さまざまな海洋生物を全滅させる恐れがある。これに反して、魚の養殖や海藻の栽培など、頭を使って「海洋農業」を行なえば、われわれの生命に深くかかわる微妙な生物環境を破壊することなく、世界の食糧危機を救うことができるであろう。
一方、海中で「油を育てる」可能性は、最近の海底油田採掘ラッシュのかげにかくれてしまった感があるが、バッテール記念研究所のローレンス・レイモンド博士は、石油成分の含有率が高い海藻を栽培できることを照明し、目下、経済的に採算のとれる栽培法を研究中である。
さらに重要なのは、海に眠る無尽蔵の鉱物資源である。銅、亜鉛、錫、銀、金、白金、そして農業用の肥料をつくる燐酸エステル鉱も忘れてはならない。水温の高い紅海には、34億ドル相当の亜鉛、銀、鉛、金などがあると考えられており、いくつかの鉱山会社が早くも目をつけている。世界最大の鉱山会社を含む100以上の企業が、じゃがいものような形をした海底マンガン団塊を採掘する準備を進めている。(マンガン団塊は自然再生する資源で、ハワイのすぐ南で発見されたマンガン帯だけでも、1年に600万トンから1,000万トンのマンガン団塊が形成されている。)
現在、4つの国際的なコンソーシアム(合弁企業)が、1980年代の中期から数十億ドルの規模で海底採鉱をはじめるべく、準備を進めている。第一のコンソーシアムには23の日本企業を始め、西ドイツのAMRグループや、カナダ・インターナショナル・ニッケルのアメリカにおける子会社などが入っており、第二コンソーシアムにはベルギーのユニオン・ミニエール、USスチール、サン社、などの名が並んでいる。第三グループには、カナダのノランダ社、日本の三菱、リオ・ティント・ジンク社、イギリスのコンソリデーデッド・ゴールド・フィールズ社が、そして第四コンソーシアムには、ロッキードとロイヤル・ダッチ・シェル・グループが参加している。ロンドンの『ファイナンシャル・タイムズ』は「こうした企画は、精選された数種の鉱物をめぐる世界の採鉱活動に革命的変化をもたらすものである」と書いている。
鉱山会社ばかりでなく、製薬会社ホフマン・ラ・ロッシュなどは、抗菌剤とか鎮静剤、検査薬、止血剤など、海中に新しい薬品を求めて調査を行なっている。
これらの技術が発展すれば、やがて、半分、場合によっては全体が海中にある「海洋農村」や、海上工場が実現するだろう。少なくとも現状では不動産価格がゼロであることと、海洋資源(風、潮流、波など)から現場で安くエネルギーが供給できることを考えれば、これらの施設は、地上の施設と十分競争していけるはずである。
海洋技術誌「マリン・ポリシー」はこう書いている。「海上建設技術は比較的単純なもので経費もさしてかからないから、近い将来、世界各国の政府や企業、団体が実際に手をつけるようになるであろう。現在のところ、いちばん可能性のあるのは、人口過剰の工業社会がつくる海上住宅街である。また、多国籍企業にとっては、貿易活動の動くターミナルとして、あるいは工場船として利用価値がある。食品会社は海上都市をつくって「海洋農業」を行なうだろうし、税金を払いたくない会社や新生活を求める冒険家は、新国家を樹立するかもしれない。やがて海上都市も外交上正式に承認されるようになるだろう。また、少数民族が海上国家をつくって独立するのも一案であろう。」
現在、海底油田の掘削機械は錨で海底に固定されているものがあるが、多くは、プロペラとかパラストとか浮力装置などを使って海上に浮かんでいる。この海底油田採掘機の建設に関するテクノロジーは急速に進歩しつつあり、将来の海上都市とそれを支える巨大な新しい産業の基盤をつくっているのである。
総体的に見て、海への進出をうながす商業的必然性は急速に増大しており、経済学者D・M・ライプザイガーが言うとおり「かつて、西部で入植者が農地を獲得した時と同じように、多くの大企業は少しでも広い海を獲得しようと、スタート・ラインに並んでピストルの合図を待っている。」こういう背景があればこそ、非産業国は、海洋資源を高める国ぐにに独占させず、人類の「共通の財産」として確保しようと闘っているのである。
こうした諸分野での進歩をそれぞれ独立したものと考えずに、相互に関連し合い、効果を高めるものだと考えれば、すなわち、ひとつの科学技術の進歩がほかの発展をうながすのだと考えれば、われわれの前に展開するのは第二の波のテクノロジーとはまったく次元を異にするものだということが、明白になるであろう。われわれは、きわめて新しいエネルギーシステムと、きわめて新しい技術システムへ向かって進んでいるのである。
しかし、これまで述べてきた進歩も、現在、分子生物学の研究で起こっている激しい変化にくらべれば、小規模なものと言わざるをえない。生物学産業こそ、明日の経済の第四グループであり、四つのグループの中で最大のインパクトを持っているのである。
遺伝子産業
遺伝子の働きが倍増したのかどうか、遺伝学に関する情報は2年ごとに2倍になっていると言う。雑誌『ニュー・サイエンティスト』は「遺伝子工学は現在、生産設備の基本的な準備を整えている段階で、やがて営業を開始するだろう」と書いている。著名な科学評論家リッチー・コルダーはこう語っている。「プラスティックや金属を扱ってきたのと同じように、生命ある物質を製造する時代がきた。」
大企業はすでに、新しい生物学の成果を商業的に応用できないものかと、必死の追求を行なっている。かれらの夢は、酵素を使って自動車の排気ガスを測定させ、空気の汚染度のデータをエンジンに取り付けた小型処理器に送って自動処理させる、といったようなことである。『ニューヨーク・タイムズ』は「金属を食べる微生物を使って、海水からたとえ微量でも、貴重な金属をとり出すことができる」と書いているが、このことも大企業の間で話題になっている。大企業は、新しい生物を特許の対象とするよう要求し、すでに特許権をとったものもでている。この競争に参加している会社はゼネラル・エレクトリック社をはじめエリ・リリー社、ホフマン・ラロッシュ社、G・D・シアール社、アップジョーン社、メルク社などである。
評論家や科学者は、はたして競争など許されてよいものか神経をとがらせているが、それは至極もっともなことである。かれらが懸念しているのは、油もれのような単純なことではなく、病気をまき散らし、多数の地域住民の生命を奪いかねない「細菌もれ」なのである。猛毒を持つ細菌を培養し、事故でそれが放出されたら-と考えただけでも恐怖がわくが、これは現代社会に対する警告のほんの一例にすぎない。立派な科学者が真面目に語り合っていることのなかにも、身の毛がよだつようなことが起こる可能性がたくさんあるのだ。
たとえば、牛のような胃袋を持ち、野に生えている草や干し草を食べる人間をつくれば、人間を含めた食物連鎖を変えることが可能になるから、食糧問題がおのずと緩和されるのではないか。労働者を仕事に応じて生物学的に変えることははたして許されるのか。たとえば、人並みはずれた速い反射神経を持ったパイロットをつくるとか、単純労働に向くように、神経学的に改造された組立工をつくるといった試みである。「劣った人間」を抹殺して「すぐれた人種」をつくってみるのはどうか。(ヒトラーと同じ試みだが、ヒトラーが持っていなかった遺伝子上の兵器が、やがて研究室から提供されるであろう。)戦争に向いた人間を、無性生殖的に発生させて兵士の役をさせるのはどうか。遺伝の法則を利用して、あらかじめ「不適応児」を排除することは許されるのだろうか。腎臓とか肝臓、肺などの「貯蓄銀行」をつくって、予備の内蔵器官を用意したらどうか。
このような考えは狂気の沙汰と思われるかもしれないが、科学者の間でそれぞれに対する賛同者もいれば反対意見をとなえる者もいるし、こういう考えを応用した商業的な計画も生まれているのである。遺伝子工学の評論家、ジェレミー・リフキンとテッド・ハワードの共著『神の役を演ずるのはだれか』には、次のような一節がある。「流れ作業による組み立て工程、自動車、ワクチン、コンピュータなどの技術と同じように、大規模な遺伝子工学もアメリカに導入されるであろう。遺伝子が進歩し新しい成果が商業的に実用化されると、それに伴って新しい消費者のニーズが開拓され、新しいテクノロジーのための市場がつくりだされていくであろう。」潜在的な応用法は無数にあるのだ。
たとえば、新しい生物学はエネルギー問題の解決に役立つ。科学者は、いま、太陽光線を電気化学エネルギーに変える働きをするバクテリアを利用するというアイデアを研究している。かれらは「生物学的太陽電池」などと称している。われわれは、原子力発電所にとって代わる生物をつくれないであろうか。もっともそうなれば、放射能もれの危険に代わって、生物もれの危険が生じるかもしれない。
健康の分野でいえば、現在のところ医学では直すことのできない多くの病気の予防や治療が可能になるのは確かだ。しかし、不注意とか悪意によって、もっと悪い病気が発生するかもしれない。(利潤の追求ばかり考えている会社が、自社の製品でしか治療できない新しい病気をつくって、ひそかに伝染させたらどうなるか。軽い風邪のような症状でも、治療薬や治療法が独占されていれば、巨大な市場をつくれるのである。)
多くの国際的に有名な遺伝学者と提携して仕事をしているカリフォルニアのセタス社の社長は、30年いないに「生物学は化学よりも重要な学問になるだろう」と語っている。またモスクワで発表されたソビエト政府のステートメントのなかでも「国家経済における微生物の広範な利用をはかり・・・」という言葉がみられる。
生物学の進歩によって、プラステックや肥料、衣料品、塗料、殺虫剤、その他多くの製品の生産に石油をまったく使う必要がなくなるか、あるいは消費量を減少させる結果となるだろう。木材とか毛のような「自然」商品の生産にも大きな変化が起こるであろう。すでに、USスチール、フィアット、日立製作所、ASEA,IBMなどは、独自の生物学研究所を持っているにちがいない。われわれは、そのうちに、想像もつかないような商品を、製造する時代から、“生造”する時代へと移行するのである。ザ・フューチャーズ・グループの指導者セオドア・J・ゴードンは次のように言っている。「いったん生物学に手をつけたならば、やがては『人間の組織と変わらないシャツ』とか、人間の乳房と同じ物質でつくった『乳房と同じ感触のマットレス』をつくれないものか、などと考えるところまでいってしまう。」
しかしそうなるよりはるか前に、遺伝子工学は農業面に活用されて、世界の食糧供給を増すのに役立つであろう。1960年代には、品種改良による農作物の増産をめざす「緑色革命」が大いに喧伝されるものだが、結局のところ、それは第一の波の世界の農民にとって、大きなワナでしかなかった。外国から石油合成肥料を大量に買って、畑にまかなければならなかったからである。来るべき生物学的農業革命の眼目は、まさに、この化学肥料への過剰依存を改めることなのである。遺伝子工学は、生産性の高い作物、砂地でも塩分の多い土地にでもよく育つ作物、病気に強い作物などを目指している。まったく新しい食料や繊維を創り出すと同時に、食料の保存や加工についても、簡略化、コスト低下、省エネをはかろうとしているのである。遺伝子工学は、おそるべき危険をはらんでいる反面、世界各地の飢饉に終止符を打つ可能性をもたらすのである。
こういy、良いことずくめの予想には疑問を抱く人も有るに違いない。しかし、たとえ遺伝子学農業を唱導する人びとの言うことが半分しか当らないとしても、それが農業に与えるインパクトは非常に大きく、他のもろもろの変化と同時に、究極的には、富める国と貧しい国の関係を変えていくであろう。緑色革命は、貧しい国が富める国に依存する度合いを弱めるどころか強める働きをしたが、生物学的農業革命はこの逆の結果をもたらすであろう。
生物学的テクノロジーが今後どんなふうに発展するのか、それ確言するには時期尚早であるが、ゼロへ逆戻りしようとしても、もはや手遅れである。すでに発見したことを伏せておくことはできない。われわれにできることは、その利用を正しく管理し、性急な開発を防ぐことである。一国に独占させることを許さず、この分野で企業や国家や科学者同士が競争するのを最小限に食い止めるよう、手遅れにならないうちに努力することである。
ひとつだけ確かなことがある。それは、われわれが、もはや、300年を経た第二の波のテクノロジーである電気・機械的な伝統的枠に縛られてはいない、ということである。そして、この歴史的事実の意義をようやくわれわれが理解しはじめたばかりだということである。
第二の波は、石炭、鉄、電気、鉄道による輸送などを統合して、自動車をはじめ生活を一新させた数々の製品をつくった。それとまったく同じように、われわれがコンピュータ、エレクトロニクス、宇宙や海洋からもたらされる新しい原料など、新しいテクノロジーを遺伝子と統合させ、さらにそれと新しいエネルギー体系とを結合させたときに、はじめて新たな変革の真のインパクトを感じることになるだろう。これらすべての要素を結合することによって、人類の歴史上かつてなかった技術革新の巨大な波がわき起こるだろう。われわれは、第三の波の文明の、劇的とも言える新しい技術体系を切り拓いているのである。
技術に対する反逆者たち
これらの技術の進歩が持つ重要性と、それが人類の進化に将来どれほど重要な影響をおよぼすかを考えると、技術の進歩を正しい方向にもっていくことが、どうしても必要になってくる。手をこまねいて傍観しているのも、また、たいしたことはないと楽観しているにも、われわれ自身と子孫の運命を破壊に導くことになろう。現在起こっている変化は、規模といい強さといい、またその速度においても、歴史上経験したことのないものである。危うく大災害になるところだったスリーマイル島の原発事故、悲劇的なDC10の墜落事故、メキシコ海岸の手のつけようのない大量の油もれなど、技術開発に伴う数々の恐るべき事件は、われわれの記憶に新しい。こうした災害を目の前にして、将来のもっと強力なテクノロジーの進歩や結合を、第二の波の時代の近視眼的で利己的な判断基準によって決定してよいものだろうか。
過去300年間、資本主義国、社会主義国を問わず、新しい技術が生まれるたびに問われたのは、経済的な利益があるか、あるいは軍備に役立つか、という二点だけであった。しかし、今後はこの二つの判断基準だけでは不十分である。新しい技術は、経済と軍備の二つの面からではなく、生態環境や社会性の面からも、きびしく審査されなければならない。
全米科学財団に提出されたある報告書のなかに「技術が社会に与えた衝撃」という一項があって、最近の技術災害が列挙されている。このリストを子細に調べると、そのほとんどが第二の波の技術が起こした災害で、第三の波の技術に起因するものはあまり見られない。理由ははっきりしている。第三の波のテクノロジーは、まだそれほど大規模に開発されていないからである。第三の波のテクノロジーの大半は、まだ幼児期にある。それにもかかわらず、すでに多くの危険をかいま見ることができる。たとえば、エレクトロニクス時代のスモッグ、情報公害、宇宙開発戦争、細菌の漏出、気象干渉、遠隔地で地殻振動を発生させて故意に地震を起こすような、いわゆる「環境戦争」などである。新しいテクノロジーの体系に向かって前進するにつれて、さらに多くの危険性が待ち構えていることであろう。
こういう状況のもとで、近年、新しいテクノロジーに対する、ほとんど無差別といってもよい大規模な民衆の抵抗が起こっているのは、当然のことである。新しい技術を押し留めようという試みは、第二の波の初期にも見られた。すでに1663年、ロンドンの労働者は、生活をおびやかされるという理由で製材所に新しく据えつけられた製材機械を破壊し、1676年には、リボン製造工が自分たちの機械を破壊している。1710年には、メリヤス機械の導入に抗議する運動が起こった。そののち、紡績工場で使う飛び梭を発明したジョン・ケイは、怒り狂った群衆に自宅をこわされ、とうとうイギリスから逃げ出してしまった。この種の事件でいちばん有名なのは、産業革命のさなか、1811年から16年にかけて、「ラッダイト」と名乗る機械破壊主義者たちが、ノッチンガムの紡績機をこわした事件である。
しかし、これら初期の機械反対運動はばらばらでまとまりに欠け、自然発生的なものだった。ある歴史家が指摘しているように、「事件の多くは機械そのものにたいする敵意から起こったというより、気にそまない雇用者を威圧する手段として発生した。」無学で貧しく、空腹と絶望に打ちひしがれた労働者の目に、機械は、生存そのものを脅かすものとして写ったのである。
とめどなく進むテクノロジーに対する現代の反抗は、これとは異質なものである。どう見ても貧しいとは言えず、無学でもない人びと、必ずしも反技術でもなく、経済成長に反対しているわけでもないが、野放図な技術革新が自分自身と世界全体の生存を脅かすと考える人びとが、この反抗に加わっている。そして、こうした人びとの数が、急速に増加しているのだ。
このなかの過激派は、機会があれば、ラッダイトと同じ手段に訴えるかもしれない。コンピュータ装置や、遺伝学研究室、建設中の原子炉などが爆破される可能性は十分にありうる。なにか特に恐ろしい技術災害が起こった場合、それが引き金になって、「諸悪の根源」である白衣の科学者が魔女狩りの対象になるだろうということは、容易に創造できる。未来の扇動政治家のなかには、「ケンブリッジ大学の不穏分子10人」とか「オークリッジ原子力発電所の7人」などと勝手に命名したうえ、その周辺を調べて名をあげようとする者も出てくるだろう。
しかし、現代の反技術集団の大半は、爆弾を投げたり、ラッダイトのように機械をこわしたりはしない。このなかには、何百万という普通の市民とならんで、原子力技術者、物理学者、公衆衛生関係の公務員、遺伝学者など、科学者自身が何千人も参加している。ラッダイトとは違って、きちんと組織され、発言力を持った人びとである。自分たちの手で科学雑誌や広報誌を刊行し、訴訟記録や法案をファイルしておく。同時に、ピケや行進やデモも実行する。
こういう運動は、しばしば反動的だと非難されるが、実は、台頭しつつある第三の波の重要な一部なのである。技術の分野で、エネルギーをめぐって三つの集団の間で闘争が行なわれることは、すでに本章で書いたとおりだが、技術の分野の闘争と並行して、政治、経済の分野でも三つ巴の闘いが起こる。そしてこうした運動に参加している人は、三つの集団の中でも、もっとも未来に近いところにいるのである。
ここでもまた、一方には第二の波の勢力があり、他方には第一の波の時代逆行派があって、第三の波の陣営は、その双方と闘わなければならない。第二の波の勢力は、技術に対する古い、愚かな考えに固執している。「役に立つなら、建設しよう。売れるなら、生産しよう。軍事力強化につながるなら、つくろう。」第二の波の支持者の多くは、進歩について時代おくれな、産業主義時代そのままの進歩の概念に凝り固まって、技術を無責任なやりかたで実用化しようとして利権を漁っている。かれらは危険性について、まったく無関心なのである。
一方、少数だが口うるさい超ロマンチストの一団がいる。この集団は原始的な第一の波のテクノロジー以外のすべてに敵意を持ち、中世の工芸や手工業に戻ろうとしている人びとである。多くは中産階級に属して、飢饉などとおよそ縁の無い有利な立場から発言している。第二の波の人びとが無差別に技術革新を支持したのと同じように、無差別に技術革新に抵抗している。われわれはもちろん、かれら自身でもとうてい我慢できないような世界へ戻りたいという、幻想を抱いているに過ぎないのである。
この両極端の二者の間に、各国で、技術への反乱の核となる人びとが、徐々にその数を増やしている。かれらは、自分では意識していないが、第三の波の代理人なのである。かれらは、いきなりはじめから技術を論ずるようなことはしない。われわれが将来どんな社会を望むのか、という難問から議論を始める。
かれらの論点は次のようなものである。いまや技術の進歩はあまりにも多岐にわたっているので、すべてに資金を出し、開発を進め、実用化するのは無理なことである。したがって、もっと慎重な選択を行なって、長期にわたって社会や環境に役立つ技術を選び出す必要がある。技術がわれわれの目的を定めるというようなことではなく、テクノロジーの大きな流れの方向を、社会が管理しなければならない。とかれらは主張している。
技術に対する反逆者たちは、まだ、はっきりとした包括的な計画を持っていない。しかし、これまでに出た数多くの声明、誓願、宣言、調査報告などを読むと、考え方にいくつかの傾向があることがわかる。これらの考え方が総合されて、技術に対するひとつの新しい見方、将来、第三の波へ推移するための、ひとつの積極的な方針が生まれていくのである。
かれらの考え方の出発点となるのは、地球の生物体系はもろくこわれやすいものだから、新しいテクノロジーが強力になるにつれて、それが地球全体にとりかえしのつかない損傷を与える危険性も大きくなる、という考えである。したがって、すべての新しい技術は、目的と反対の結果を惹起せぬよう事前に審査し、危険なものは計画のやり直しをするとか、開発を中止すべきであると主張する。一言で言えば、未来の技術には第二の波の時代にくらべて、よりきびしい生物環境上の制約を課すべきである、というのである。
技術に反対する人びとは、われわれが技術を支配しなければ、技術がわれわれを支配するだろうと言う。
この場合「われわれ」というのは、科学者、技術者、政治家、ビジネスマンなど、少数のエリートに留まらない。西ドイツ、フランス、スウェーデン、日本、アメリカなどに起こった核禁止運動や、コンコルド就航反対闘争、高まりつつある細菌研究制限要求などが、どのような功績を果たしたかは別として、こうした動きは、技術における決定過程を民主化すべきだという、強い要求がひろがりつつあることを反映している。
「すぐれた」技術というのは、必ずしも、大がかりで複雑で金のかかる技術である必要はない、と言うのがかれらの主張である。高圧的な第二の波のテクノロジーは、一見、「効率的」であるように見えるが、実際はそれほどではない。なぜかと言えば、西側で言えば企業、社会主義国で言えば各種事業体に共通して言えることだが、公害、失業、労働災害などに要する膨大な対策経費を、社会全体に肩代わりさせているからである。これも一種の「生産コスト」だと考えれば、一見「高い効率」を持ついろいろな機械も、実はまったく非効率なものだということになる。
テクノロジーの総合的な計画をたてて、もっと人間味ある仕事を用意し、公害をなくし、環境を保護し、国家とか世界の市場よりも地域や個人の消費を目的とする生産を行なうように、「適切なテクノロジー」を発展させなければならない。以上のような考え方にもとづいて、技術に対する反逆者たちは、世界各国で多くの実験を行なっている。いまのところ、技術の規模は小さいが、魚の養殖や食品加工から、エネルギー生産、ごみの再生、安い住宅建築、簡便な交通機関など、各方面で実験の火花が散っている。
これらの実験のなかには、あまりに素朴なものや時代逆行のようなものもあるが、実用的なものも多い。実験のなかには、最新の原料と科学的な装置を、新しいやりかたで、昔の技術と組み合わせたものもある。たとえば、中世技術史の研究家であるジーン・ジンベルがつくっている単純だが美しい道具類は、非工業国で大いに役に立つと思われる。これは新しい原料と古い技法を使ったものである。もうひとつの例は、最近、大きな関心をよんでいる飛行船である。飛行船の技術はいったん省みられなくなったが、最近は繊維そのほかの材料の進歩によって、有効積載量が大幅に増した。飛行船は、環境問題の面からも害がなく、ブラジルとかナイジェリアのように道路事情の悪い地域で、多少スピードには欠けるが、安くて安全な輸送手段として最適である。なにがいちばん妥当な技術か、あるいは、なにか代替技術はないかを調べる実験をしていくと、とくにエネルギーの分野では、簡単で小規模な技術でも、機械が作業目的にぴったり合っており、技術が持つ副次的効果まですべて計算に入れれば、複雑で大規模な技術に劣らず、「性能が高い」ものがあることがわかる。
技術に対する反逆者たちが心を痛めているのは、この地球上に科学技術のひどい不均衡があるということである。世界の総人口の75%を占める国ぐにの科学者の数は、世界の科学者総数のわずか3%にすぎない。貧しい国ぐにのために、もっと技術をふり向けなければならないし、宇宙資源や海洋資源も、もっと公平に分配しなければならない、とかれらは考えている。人類の共通の遺産は海や空だけではない。進んだ技術そのものが、インド人、アラビア人、古代中国人など、多くの民族の歴史的貢献によって今日のような発展を見たのである。
かれらの主張の最後は、第三の波へ移行するに当って、われわれは、第二の波の時代の資源を浪費し公害を伴う生産システムから、もっと「新陳代謝性能の高い」システムへ、一歩一歩、前進してゆかなければならない、ということである。「新陳代謝性能が高いシステム」というのは、生産のアウトプットと副産物が必ず次の生産のインプットになって、廃棄物や公害が出ない生産システムのことである。次の生産過程のインプットにならないものは生産しないようなシステムが、最終の目標である。こういうシステムができれば、生産性が高いばかりでなく、生物体系へ与える損害をゼロ、ないしは最小限におさえることができるであろう。以上が、現代技術に対する反逆者たちの意見である。
総体的に見ると、技術に対する反逆者たちの考え方は、激しい勢いで進んでいくテクノロジーを、もっと人間味のあるものにするための基準をつくる、ということだと言うことができるだろう。
かれらは、自分たちで自覚していようといまいと、第三の波の代理人なのである。かれらは将来、その数を増すことはあっても減ることはないであろう。金星探検、驚異的なコンピュータ、生物学上の発見、あるいは深海探検などが、すべて次の文明へ向かっての前進であるならば、技術への反逆者たちもまた、次の文明の先導者なのである。
第一の波の幻想家と第二の波のテクノロジーの擁護者と、この技術への反逆者との相克の中から、新しい永続きのするエネルギー体系にふさわしい、賢明なテクノロジーが生まれる。そうしたテクノロジーは、いまやわれわれの目前まできているのである。この新しいエネルギー体系と新しいテクノロジーを接続させるとき、われわれの文明全体が、まったく新しい次元へ引き上げられるであろう。この文明の根底には、厳重な環境規制と社会管理の枠の中で営まれる、科学に基礎を置きながらも洗練された「激しい流れ」の産業と、同じように洗練されてはいるが、小規模で人間味あふれる「ゆるやかな流れ」の産業が渾然一体となって存在することになるだろう。そして、この二つの産業が、相たずさえて明日の主要産業になるのである。
しかしここで述べたことは、もっと広大な展望の、ほんの一部分にすぎない。われわれは技術体系を変革しながら、同時に、情報体系をも変革しつつあるからだ。