●トフラー対談6 1982.5.1NHK出版 写真でみる第三の波P.148~
市民コントロールを採り入れた民主政治
長洲一二(神奈川県知事)
地方の時代
トフラー 長洲知事は中央集権的な日本の中で地方分権を主張しておられますが、政治的にみて、地方分権はどのくらいまで進めばよいとお考えなのでしょうか。
長 洲 日本は明治のはじめから100年余り、西洋に追いつこうと近代化をはかってきました。その過程では、中央集権化されたシステムが効率的に働いたわけです。しかし、この目標が達成され、しかもかなりの程度成熟社会になった今の日本にとっては、政治、経済、文化、あるいは街づくりまで含めて、もっと「地方の時代」にした方がより効果的ではないか。
私が数年前に、この「地方の時代」という考え方を提唱したところ、予想以上に広い、深い反響がありました。機運が熱していたのだと思います。これから21世紀へ向かう10年か15年ぐらいをかけて、もう少し各地域を表情豊かに育て、そういう地域の集合体に日本の国をつくり変えていく。まさに、社会システム全体の歴史的な大転換期に、日本はさしかかっている。それだけに、そう一朝一夕に実現できるはずはないのですが、しかし「地方の時代」は着実に進むのではないでしょうか。
トフラー ご承知のように私の本の中で、政治が地方分権化へ向かう風潮は、新しい社会への革命的な変化の一部をなしているのだと述べております。カナダ、西ヨーロッパ、アメリカで分権化への多くの運動があり、また草の根運動について、大きな議論がわき起こっております。しかし、分権化を支えるために必要な経済的基盤に対する注意が、あまり払われていないようです。そこで、第三の波の時代に地方分権化されたシステムを作っていくためには、経済的・技術的構造にどのような変化が必要と考えられますか。
長 洲 トフラーさんのご本は、共鳴する点が多かったのですが、私も、政治的な地方分権だけを主張しているのではありません。もっと根本のところで、画一、集権、巨大、管理といったこれまでの価値が問われ、多様、分権、適正、自立などへ、人々の目が向かい始めている。みんながアイデンティティを大事にする時代になっていると言ってもいいでしょう。産業化が進んで成熟期に達した国々では、一種の共鳴現象で、どこにも同じような動きがでていますね。
お話しの経済的、技術的な分野でも「地方の時代」への胎動がみられます。民間の企業は、だんだんと、地域に根をおろすことを考えるようになってきている。神奈川は、もともと技術水準も高く、未来を担っていける活力ある中堅、中小企業がぶ厚く蓄積されているところですが、東京に本社のある大企業も、環境問題、市民との交流を含めて、各地域でどう生きていくのかを模索せざるをえない。世界企業、多国籍企業でも同様ではないか。具体的には、世界のある「地方」へ進出していくわけですから。
これに対応して、自治体も地域政策、特に街づくりとの関連で独自の産業政策をもたなければならず、現にそういう試みが盛んです。これを私は、「地方の時代」に肉体、ボディを与えるといっているのですが。
多様化する教育・政治
トフラー 新しい社会へ転進していくに当っての問題の一つは、教育と文化の問題であります。伝統的な産業社会と第三の波の文化との間には、文化、ライフスタイル、生活態度、多様性を受け容れる態度に違いがあります。かつての古い社会では、すぐれた習慣とか生活態度とみられたものが、新しい社会では適合しないわけです。知事としては、神奈川県の教育システムを、どのようにしたらよいとお考えでしょうか。
長 洲 教育についても、もっと地方が個性をもつべきでしょう。子供たちに多彩な人生の道筋を用意しておく。そのためには教育自体がもっと多彩なものにならなければならない。そんな気持ちから、今神奈川県では「騒然たる」教育論議を県民の皆さんにお願いしています。
トフラー 例えば、ヴァーチヤーシステムと呼ばれるものがあります。親は子供のために学校を選ぶことができるシステムです。これは増大する教育システムの多様化を目的としたもので、大変議論の多い提案なんです。この問題に関して、同様の議論がおありでしょうか。
長 洲 そういう具体的な話はまだです。アメリカで起こっていることですか。
トフラー アメリカだけでなく、イギリスでもそうです。各々の地域社会が自らの教育を創出するという考えです。多くの同じタイプの学校をもつ代わりに、環境問題に焦点を合わせた学校、あるいは伝統的な教育をする学校ができる。芸術に重点を置く学校、ビジネスに重点を置く学校もあります。そして子供が自動的に割り振りされるのではなく、両親が学校を選ぶことができるというものなのです。
ところで、多くの先進興業国では政治権力が巨大企業、巨大な政治、巨大な労働組合に集中する傾向があります。日本ではここ15年、20年のうちに、大きな政治的混乱なしに、この3つの巨大組織の統制を断ち切ることができるのでしょうか。
長 洲 確かにあらゆるパワーは、企業にしろ政治組織にしろ、絶えず巨大になり、集権制を強め、官僚化する傾向をもっています。行政だけでなく、市民の側の組織も、利益集団、あるいは圧力集団として大きくなっていく。
しかし、民主主義の下で選挙による一種の取引が保証されているところでは、同時に多元化も進みます。生産者集団だけでなく生活者集団もどんどん声をあげる。そういう諸階層の多元的な要求にどういう体系と優先順位で応えていくかというのが、今の私の仕事です。
もちろん経済的にも、実践的にもまだまだ解かなければならない課題は多く、そういう意味で、これは多少期待と希望をこめて申し上げるのですが、市民によるコントロールが働く余地は閉ざされているわけではない。いろいろ実験を進めるべきでしょう。
3つの大量死
トフラー 社会の多様化が進む中で、政治はどう変わっていかなければならないのでしょうか。
長 洲 コミュニケーション手段の発達によって、一方的でなく双方向、多方向のやりとりが可能になる。そうした技術的基礎が出来始めているようで、大変興味深く思っております。いずれにせよ、単純な代表制民主主義で全て動くというわけにはいかなくなった。代表制民主主義を古典的な姿で守っているだけでは機能麻痺に陥ってしまう。神奈川でも、県民討論会のようなチャンネルを設け、半分直接民主制みたいな市民コントロールの形を作ろうとしています。
ところで、現代文明は空前の繁栄のもとで、実は“Triple mass death”3つの大量死の方向へ歩んでいるのではないか。1つには核による大量死、2つめは公害、環境破壊と資源枯渇による緩慢な大量死、3つめは管理社会による人格と精神の大量死。この3つの大量死は、ある意味では「歴史は絶えず進歩する」という考え方が生み出したものと言えるでしょう。しかし、これに対するコントロール機能もいろいろな形で考えられ、ためされてきている。核に対する平和運動、環境問題での市民運動、それから管理社会に対する青年の、あるいは最近ではもっと若い世代の反乱。必ずしも多数を制しているわけではないが、いずれも今の文明のあり方に鋭い問題提起をしていることは否定できません。
ここで興味深く、しかも賛成なのは、第二の波が生み出したものを乗り越えていく可能性もまた第二の波の中で作り上げられていくのだという、トフラーさんの指摘です。危機を生み出した文明は危機を乗り越える可能性をもうちにはらんでいるのであり、その両方を見ないと正しくないと思います。
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以上で、1982年のNHK出版掲載の対談は終了です。
11月より、「第三の波の政治」(1995年発行)『第6章社会主義と未来との衝突』をスタートします。
急激な円高、破綻寸前のユーロー圏経済、TPPによるアメリカ主導の輸出経済思想は、まさに金銭経済の
行き詰まりを見せ付けています。アメリカは、再び第二の波の煙突産業に回帰しようとしているようで、
まさに「変化の教え」を「可逆の教え」にすり替えているように思います。
無償の労働力を無視し続け、拝金主義に突き進んでいるから、いつまでも1%の富裕層が批判されているよう
に思えるのですが・・・。
被災地でのボランティア労働の非金銭経済を無視(家庭内の主婦家事労働も同じ)し続けた金満経済学が
もたらした結果でしょうか。
ということで、第三の波シリーズを突き進んでいきましょう。
市民コントロールを採り入れた民主政治
長洲一二(神奈川県知事)
地方の時代
トフラー 長洲知事は中央集権的な日本の中で地方分権を主張しておられますが、政治的にみて、地方分権はどのくらいまで進めばよいとお考えなのでしょうか。
長 洲 日本は明治のはじめから100年余り、西洋に追いつこうと近代化をはかってきました。その過程では、中央集権化されたシステムが効率的に働いたわけです。しかし、この目標が達成され、しかもかなりの程度成熟社会になった今の日本にとっては、政治、経済、文化、あるいは街づくりまで含めて、もっと「地方の時代」にした方がより効果的ではないか。
私が数年前に、この「地方の時代」という考え方を提唱したところ、予想以上に広い、深い反響がありました。機運が熱していたのだと思います。これから21世紀へ向かう10年か15年ぐらいをかけて、もう少し各地域を表情豊かに育て、そういう地域の集合体に日本の国をつくり変えていく。まさに、社会システム全体の歴史的な大転換期に、日本はさしかかっている。それだけに、そう一朝一夕に実現できるはずはないのですが、しかし「地方の時代」は着実に進むのではないでしょうか。
トフラー ご承知のように私の本の中で、政治が地方分権化へ向かう風潮は、新しい社会への革命的な変化の一部をなしているのだと述べております。カナダ、西ヨーロッパ、アメリカで分権化への多くの運動があり、また草の根運動について、大きな議論がわき起こっております。しかし、分権化を支えるために必要な経済的基盤に対する注意が、あまり払われていないようです。そこで、第三の波の時代に地方分権化されたシステムを作っていくためには、経済的・技術的構造にどのような変化が必要と考えられますか。
長 洲 トフラーさんのご本は、共鳴する点が多かったのですが、私も、政治的な地方分権だけを主張しているのではありません。もっと根本のところで、画一、集権、巨大、管理といったこれまでの価値が問われ、多様、分権、適正、自立などへ、人々の目が向かい始めている。みんながアイデンティティを大事にする時代になっていると言ってもいいでしょう。産業化が進んで成熟期に達した国々では、一種の共鳴現象で、どこにも同じような動きがでていますね。
お話しの経済的、技術的な分野でも「地方の時代」への胎動がみられます。民間の企業は、だんだんと、地域に根をおろすことを考えるようになってきている。神奈川は、もともと技術水準も高く、未来を担っていける活力ある中堅、中小企業がぶ厚く蓄積されているところですが、東京に本社のある大企業も、環境問題、市民との交流を含めて、各地域でどう生きていくのかを模索せざるをえない。世界企業、多国籍企業でも同様ではないか。具体的には、世界のある「地方」へ進出していくわけですから。
これに対応して、自治体も地域政策、特に街づくりとの関連で独自の産業政策をもたなければならず、現にそういう試みが盛んです。これを私は、「地方の時代」に肉体、ボディを与えるといっているのですが。
多様化する教育・政治
トフラー 新しい社会へ転進していくに当っての問題の一つは、教育と文化の問題であります。伝統的な産業社会と第三の波の文化との間には、文化、ライフスタイル、生活態度、多様性を受け容れる態度に違いがあります。かつての古い社会では、すぐれた習慣とか生活態度とみられたものが、新しい社会では適合しないわけです。知事としては、神奈川県の教育システムを、どのようにしたらよいとお考えでしょうか。
長 洲 教育についても、もっと地方が個性をもつべきでしょう。子供たちに多彩な人生の道筋を用意しておく。そのためには教育自体がもっと多彩なものにならなければならない。そんな気持ちから、今神奈川県では「騒然たる」教育論議を県民の皆さんにお願いしています。
トフラー 例えば、ヴァーチヤーシステムと呼ばれるものがあります。親は子供のために学校を選ぶことができるシステムです。これは増大する教育システムの多様化を目的としたもので、大変議論の多い提案なんです。この問題に関して、同様の議論がおありでしょうか。
長 洲 そういう具体的な話はまだです。アメリカで起こっていることですか。
トフラー アメリカだけでなく、イギリスでもそうです。各々の地域社会が自らの教育を創出するという考えです。多くの同じタイプの学校をもつ代わりに、環境問題に焦点を合わせた学校、あるいは伝統的な教育をする学校ができる。芸術に重点を置く学校、ビジネスに重点を置く学校もあります。そして子供が自動的に割り振りされるのではなく、両親が学校を選ぶことができるというものなのです。
ところで、多くの先進興業国では政治権力が巨大企業、巨大な政治、巨大な労働組合に集中する傾向があります。日本ではここ15年、20年のうちに、大きな政治的混乱なしに、この3つの巨大組織の統制を断ち切ることができるのでしょうか。
長 洲 確かにあらゆるパワーは、企業にしろ政治組織にしろ、絶えず巨大になり、集権制を強め、官僚化する傾向をもっています。行政だけでなく、市民の側の組織も、利益集団、あるいは圧力集団として大きくなっていく。
しかし、民主主義の下で選挙による一種の取引が保証されているところでは、同時に多元化も進みます。生産者集団だけでなく生活者集団もどんどん声をあげる。そういう諸階層の多元的な要求にどういう体系と優先順位で応えていくかというのが、今の私の仕事です。
もちろん経済的にも、実践的にもまだまだ解かなければならない課題は多く、そういう意味で、これは多少期待と希望をこめて申し上げるのですが、市民によるコントロールが働く余地は閉ざされているわけではない。いろいろ実験を進めるべきでしょう。
3つの大量死
トフラー 社会の多様化が進む中で、政治はどう変わっていかなければならないのでしょうか。
長 洲 コミュニケーション手段の発達によって、一方的でなく双方向、多方向のやりとりが可能になる。そうした技術的基礎が出来始めているようで、大変興味深く思っております。いずれにせよ、単純な代表制民主主義で全て動くというわけにはいかなくなった。代表制民主主義を古典的な姿で守っているだけでは機能麻痺に陥ってしまう。神奈川でも、県民討論会のようなチャンネルを設け、半分直接民主制みたいな市民コントロールの形を作ろうとしています。
ところで、現代文明は空前の繁栄のもとで、実は“Triple mass death”3つの大量死の方向へ歩んでいるのではないか。1つには核による大量死、2つめは公害、環境破壊と資源枯渇による緩慢な大量死、3つめは管理社会による人格と精神の大量死。この3つの大量死は、ある意味では「歴史は絶えず進歩する」という考え方が生み出したものと言えるでしょう。しかし、これに対するコントロール機能もいろいろな形で考えられ、ためされてきている。核に対する平和運動、環境問題での市民運動、それから管理社会に対する青年の、あるいは最近ではもっと若い世代の反乱。必ずしも多数を制しているわけではないが、いずれも今の文明のあり方に鋭い問題提起をしていることは否定できません。
ここで興味深く、しかも賛成なのは、第二の波が生み出したものを乗り越えていく可能性もまた第二の波の中で作り上げられていくのだという、トフラーさんの指摘です。危機を生み出した文明は危機を乗り越える可能性をもうちにはらんでいるのであり、その両方を見ないと正しくないと思います。
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以上で、1982年のNHK出版掲載の対談は終了です。
11月より、「第三の波の政治」(1995年発行)『第6章社会主義と未来との衝突』をスタートします。
急激な円高、破綻寸前のユーロー圏経済、TPPによるアメリカ主導の輸出経済思想は、まさに金銭経済の
行き詰まりを見せ付けています。アメリカは、再び第二の波の煙突産業に回帰しようとしているようで、
まさに「変化の教え」を「可逆の教え」にすり替えているように思います。
無償の労働力を無視し続け、拝金主義に突き進んでいるから、いつまでも1%の富裕層が批判されているよう
に思えるのですが・・・。
被災地でのボランティア労働の非金銭経済を無視(家庭内の主婦家事労働も同じ)し続けた金満経済学が
もたらした結果でしょうか。
ということで、第三の波シリーズを突き進んでいきましょう。