アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

第七章 国家に対する熱狂

2014年11月20日 21時08分07秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第七章 国家に対する熱狂
 
 アバコ島は人口6,500、フロリダ海岸沖の、バハマ諸島のひとつである。数年前、アメリカ人実業家、武器商人、政府の規制を最小限にすべきだとする「自由企業」論者、それに黒人情報工作員とイギリス上院議員といった人びとからなるグループが、いまこそ、アバコは独立を宣言すべき時だ、という断定をくだした。
 かれらは原住民に、革命が成功すれば、ひとり当たり1エーカーの土地を無償で与えると約束し、バハマ当局の支配を排して、島を接収しようともくろんだのである。(実現すれば、島の住人に1ケーカーずつ与えても、なお、陰謀を背後で操った不動産業者や出資者に、25万エーカー以上の土地が残るはずであった。)かれらの最終的な夢は、アバコ島に税金のないユートピアを建設することであった。そうすれば、社会主義が蔓延して自分たちの存立基盤を失うという終末論的恐怖心にかられた富裕な実業家連中が、このユートピアに逃げ込んでくる、と考えたのである。
 残念ながら、アバコ島民は束縛をたち切ろうとせず、新しい国家をつくるという計画は流産に終わった。
 しかし、世界各地で独立運動があいつぎ、国家間の同業組合とも言うべき国連に152ヵ国が加盟しているといった現状では、こうした独立運動の茶番劇も、きわめて重要な問題を含んでいる。つまり、国家とはいったいなにかという本質的な問題を、われわれに提起しているのである。
 アバコ島6,500の住民は、奇特な実業家から資金援助を受けるかどうかはともかく、国家をつくりえたのだろうか。シンガポールが人口230万で国家なら、なぜニューヨーク市は、800万の人口がありながら国家ではないのか。ニューヨークのブルックリン区は、ジェット爆撃機さえ持てば国家と言えるのであろうか。ばかげた話だと一笑に付されるかもしれないが、いまや第三の波が第二の波の文明をその根底から揺り動かしているとき、この問いはけっして無意味ではないだろう。というのは、第二の波の文明の基礎のひとつが、ほかならぬこの国民国家だったからである。
 第三の波が第一の波と第二の波の双方にはげしく打撃を加えている現在、我々は民族主義の問題をめぐるあいまいな論議に決着をつけないかぎり、新聞紙上をにぎわしている出来事を理解することもできないし、第一の波と第二の波とのぶつかりあいを理解することすらできない。

 馬を乗り代える
 第二の波がヨーロッパ全土に打ち寄せる以前、世界のほとんどの地域は、まだ国家というものに整理統合されていなかった。当時の世界は、部族、氏族、公爵領、公国、王国など、多かれ少なかれ特定の地方に限られた単位に分かれ、それらが混在していたにすぎない。「国王や属国の君主は、ほんのわずかな権限しか持っていなかった。」と、政治学者のS・F・ファイナー教授は書いている。国境は明確になっていなかったし、政府の権利も、はっきりしなかった。一国の支配力にもまだ基準がなく、地方によってばらばらだった。ファイナー教授によれば、ある村では風車の使用料を徴収するのがせいぜいで、ほかの村では農民から税金をとりたて、また別のところでは修道院の院長を任命する、といった程度であった。ひとりの個人が各地に資産を持っていれば、何人もの国王に忠誠を捧げることになったろう。もっとも偉大な皇帝でさえ、ちっぽけな地方自治体の寄せ集めを統治していたにすぎない。政治的な支配力は、まだ場所によって一様ではなかった。「ヨーロッパを旅行するときは、馬をしばしば乗り代えるように、法律まで乗り代えなければならない」と言うヴォルテールの嘆きは、この状態を端的に要約している。
 もちろん、この警句にはさらに深い意味があった。馬を頻繁に乗り代えなければならないということは、輸送力と通信手段が原始的な水準にとどまっていたということであり、君主がどんなに権力を持っていようと、その支配力を効果的におよぼしうる範囲は、それによって限られてしまう。首府から遠ざかれば遠ざかるほど、国の権威は弱まっていった。
 政治的統合がなければ、経済的統合も不可能であった。多額の資金を必要とする第二の波の新しいテクノロジーは、地方市場の範囲を越えた、より大きな市場に向けて商品を生産することによって、はじめて採算がとれた。しかし、企業家が自分たちの所属する共同体を一歩踏みだすと、さまざまな関税や、税金、労働条件があり、また通貨も異なっているとしたら、とても広域にわたる売買などできるはずがなかった。新しいテクノロジーが利益を生むためには、各地の経済が、全国的なひとつの経済に統合されていなければならなかった。つまり、全国的見地から見て分業が成立し、商品と資本のための全国的な市場が開かれなければならなかった、ということである。そのためには、結局、政治的にも、全国的な統合が必要になった。
 簡単に言えば、第二の波の経済単位の規模が拡張していくにつれ、第二の波の政治単位も、その規模を拡大していかざるをえなかった、ということである。
 当然のことながら、第二の波の社会が全国的な経済圏を確立すると、明らかに大衆の意識にも根本的な変化がもたらされた。第一の波の社会における小規模な、特定の地域に限られた生産形態は、地方色豊かな人間を育てあげた。かれらの多くは、もっぱら近隣や自分たちの村にしか関心を持たなかった。例外はごく少数で、二、三の貴族や僧侶、各地に散在していた商人、それに社会の片隅で生きていた芸術家や学者、傭兵、こういった人びとだけが、村の外にまで関心を払っていたにすぎない。
 ところが、第二の波が到来すると、たちまちのうちに、より広い世界に利害関係を持つ人間がふえていった。蒸気や石炭を基礎にするテクノロジーと、そののちの電気の出現によって、フランクフルトの衣類、ジュネーブの時計、マンチェスターの織物などの製造業者なら、だれでも、地方の限られた市場ではさばききれないほど、生産量を上げることができた。かれらはまた、遠方からの原料を必要とした。工場労働者でさえ、何千マイルも離れた遠隔地の、金融の成り行きに影響を受けるようになった。つまり、仕事が遠隔地の市場に左右されることになったのである。
 こうして心理的な地平線が、少しずつひろがっていった。新しいマスメディアが、遠方からの情報やイメージを増加させた。これらの変化が刺激になって地元偏重の考え方は後退し、国民意識が芽生えた。
 アメリカの独立とフランス大革命に端を発し、19世紀を通じて高揚し続けた国家というものに対する熱狂は、世界の産業化地域を席巻していった。ドイツの350にのぼる小規模で多様な、互いに反目し合っていた小国が、連合して、ただひとつの国民的な市場をつくりあげる必要がでてきた。これが「祖国ドイツ」である。当時のイタリアは、サヴォイ家、教皇、オーストリアのハプスブルグ家、スペインのブルボン家によって、分割統治されていたが、これも統一の必要があった。ハンガリー人、セルビア人、クロアチア人、フランス人、そのほかすべての民族が、にわかに自分たちの同胞に対して、神秘的ともいうべき親近感を抱くようになった。詩人は愛国心を謳いあげた。歴史家は、長い間忘れられていた国民的英雄や、文学、民間伝承を再発見した。作曲家は民族への頌歌を書いた。それらの現象はすべて、まさに工業化がそれを必要とした時点で起こったのである。
 統合が産業の面から必要だったということさえ理解すれば、国民国家とはなんであるかが明らかになる。国家は、シュペングラーの言うように「精神的な統一体」でもなければ、「心の共同体」あるいは「魂を共有する社会」でもない。また国家は、ルナンの言葉のように「記憶の豊かな伝承」でもなく、オルテガが主張するように「未来についての共有のイメージ」でもない。
 われわれが近代国家と呼ぶものは、第二の波に特有なひとつの現象である。統合された唯一の政治的権威は、統合された単一の経済と表裏一体をなし、不可分に結びついている。地域ごとに自給自足し、相互の関連が稀薄な経済がいくら寄り集まっても、国家とはなりえない。地域経済の雑多な集積の上に、かりにゆるぎない統一的政治制度が成立したとしても、それは近代国家ではない。統一された政治制度と統一された経済、この二つの融合こそが、近代国家をつくり上げたのである。
 アメリカ、フランス、ドイツ、そのほかのヨーロッパの国ぐににおいて、産業革命が引き金となって起きた民族主義者の蜂起は、政治的統合の水準を、第二の波がもたらした、急速な経済的統合の高まりにまで引き上げようとする努力であったと見ることもできよう。世界が特徴のはっきりした国家の国境線で区分されるようになったのは、詩などの持っている神秘的な影響力によるものではなく、こうした努力の結果であった。

 黄金の大釘
 各国の政府が、みずからの市場と政治的権威を拡張していこうとすると、すぐに限界につき当った。言語のちがいや、文化的、.社会的、地理的、戦略的な障害にぶつかったのである。ひとつの政治組織によって効果的に統治しうる領域をいかにひろげようとしても、輸送力や通信手段が整備されているか、エネルギー供給や技術的生産力が見合っているかどうかといった、もろもろの事業が制約として働いたのである。さらに会計手続き、予算管理、行政手段などがどれほど洗練されているかによっても、政治的統合のおよぶ範囲は限定された。
 これらの制約のなかでまとめ役をつとめたエリートは、企業のエリートも政府のエリートも同じように、規模の拡大をめざして闘ったのである。支配下の地域がひろがればひろがるほど、また、経済市場が拡大すればするほど、富と権力は増大した。各国が経済的、政治的フロンティアを極限まで押しひろげていけば、その国固有の限界にぶつかるだけではなく、競争相手の国家とも衝突することになった。
 こうした限界を打ち破るために、まとめ役をつとめたエリートたちは、高度なテクノロジーを利用した。かれらがとびついたのは、たとえば19世紀の「宇宙開発競争」、つまり鉄道の建設であった。
 1825年9月、イギリスでストックトンとダーリントン間に、鉄道が敷設された。ヨーロッパ大陸では、1835年5月、ベルギーでブリュッセルがマリーヌと結ばれた。その年の9月、ドイツのババリア地方でニュールンベルクとフュルト間に、翌年、フランスでパリとサンジェルマン間に鉄道が開通した。ずっと東では、1838年4月、ロシアでツァースコエ・セロがペテルスブルクと結ばれた。その後30年あまりの間、鉄道労働者たちはつぎつぎに鉄路を開き、地域と地域を結んでいった。
 フランスの歴史家シャルル・モラゼは、こう説明している。「1830年にほぼ統一を終わっていた国ぐにには、鉄道の出現によって、結束を強固にした・・・だが、まだ統一の気運が熟していなかった国ぐににとっては、鉄道は新たな鋼鉄のたがであり、・・・この鋼鉄のたがが、未統一の国ぐにを外側から締めつけた・・・やがて近代国家としてまとまる可能性のある国ぐにには、輸送体系を確立することによって国家として認知されるために、鉄道が建設される以前から、あわてて国家としての存立権を宣言している観があった。事実、その後1世紀以上にわたって、ヨーロッパの政治的境界線を確定したのは、輸送体系であった。
 アメリカでは、歴史家ブルース・マズリッシュが書いているように、政府は「大陸横断鉄道が大西洋岸と太平洋岸の連帯の絆を強めるであろうと確信し」、広大な土地を民間の鉄道会社に譲渡した。最初の大陸横断鉄道の完成を記念して打ち込まれた黄金の大釘は、まさに、アメリカ合衆国が全大陸的な規模で統合された象徴である。それはまさに全国的な市場への門戸が開かれたことを意味したのだ。これによって、政府の全国に対する支配権のどこへでも、すみやかに軍隊を送りこみ、その権威に従わせることができるようになった。
 このように各地でつぎつぎに国家という新しい強力な実体の発生するという事態が起こったのである。世界知事は、赤、ピンク、オレンジ、黄、緑といった色によって、整然と、しかも重なり合うことなく色分けされるようになった。そして国民国家(ネーション・ステート)という体系は、第二の波の文明を支える主要な基本構造のひとつとなったのである。
 国家成立のかげには、統合を促進しようという、産業主義のきわめて強い要請がかくされていた。
 しかし、統合は、国民国家それぞれの国境ではとどまらなかった。産業文明は、その強大な力にもかかわらず、外部から栄養をとらなければ存続しえなかったのである。産業文明は、世界のほかの地域を貨幣経済に巻き込み、貨幣経済というシステムを、おのれの利益のために支配しないかぎり、生き延びるすべがなかった。
 それがどのようになされたかは、第三の波がつくる世界を理解するうえでも、きわめて重要である。

第六章 隠された青写真

2014年11月13日 20時20分23秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第六章 隠された青写真
 
 フランス人にとって、アメリカ大統領の選挙運動風景ほど、理解しがたいものはない。ホットドッグを頬ばり、肩をたたきあって親愛の情を示す。赤ん坊にまでキスをする。そうかと思うと、いかにも遠慮がちに出馬を辞退する者がでてきたりする。やがて予備選挙、党大会という段取りになり、熱狂的な資金集め、町から町への遊説、演説会、そしてテレビのコマーシャル・・・と続く。これらすべてが民主主義の名のもとに行なわれているのだから、不思議というほかはない。一方、アメリカ人はまた、フランス人の指導者の選び方が、素直には理解できない。さらにわかりにくいのが、イギリス式の旧態依然たる選挙、20を越える政党が思い思いに候補者を立てるオランダの選挙、何人もの候補者に順位をつけるオーストラリアの選択投票制度、それに、日本のような、派閥間でのたらいまわし的政権運営である。政治制度というものは、国によって、まったく違った様相を呈する。まして、ソビエトや東欧諸国で行なわれている一党独裁下での選挙となると、いっそう理解しがたい。選挙というより、むしろ擬似選挙なのだ。こと政治に関する限り、工業国と言われている国ぐにの間でも、同じ形態はないと言っても過言ではあるまい。
 ところが、ひとたびそうした地域差にまどわされず、表面上の差異の底に眼をつけると、そこには非常に共通な、一連の類似点があることに気がつく。実際、第二の波にもまれた国ぐにの政党制度は、実は、同じ一枚の、隠された青写真をもとに構築されたのではないか、と思えてくるのである。
 第二の波の時代を切り拓いた革命家は、フランスや、アメリカ、ソビエト、日本、そのほかの国ぐにで、第一の波の時代のエリートを、やっとのことで権力の座から引きずり降ろした。それから憲法を制定し、新しい政府をつくらなければならなかった。かれらは新しい政治制度を、ほとんどゼロからつくりなおさなければならなかったのである。創造の意気に燃えた人びとは、新しい思想を口にし、新しい政治機構について論議をかわした。いたるところで、代表制のあり方について論戦が展開された。議員とはなにか。
だれがだれを代表すればよいのか。議員に選ばれたら、議会における投票は選挙民の意志によって高速されるのだろうか。自分自身の判断で賛否を表明してよいのだろうか。任期は長い方がよいのか。短い方がよいのか。政党の役割はいかにあるべきか。
 新しい政治構造は、どこの国でも、このような意見の対立と、議論の積み重ねのうえに築きあげられていった。これらの政治機構を仔細に調べてみると、いずれも古い、第一の波の時代の考え方をもとにして、その組み合わせのうえに、産業時代の到来がもとらした、新しい思想を盛り込んで成り立っていることがわかる。
 農業の時代が1000年も続いたので、第二の波の時代の政治体制をつくりあげた人びとにとって、土地ではなく、労働力とか資本、エネルギー、原料といったものを基盤とした別種の経済を想定することは、はなはだ困難であった。したがって、土地を中心とした考え方が、さまざまな形で選挙制度のなかに残っているのも不思議ではない。アメリカでは、いまだに上院議員も下院議員も選挙区ごとに選出されている。イギリスそのほか多くの工業国でも、議員の選出方法は、ほぼ同じである。社会階層、職業、人種、性別、あるいは生活様式別のグループを代表して議員が選出方法されるというようなことはなく、一定の広さの土地の住民の代表として、地理的に定められた選挙区ごとに議員が選ばれる。
 第一の波に属する人びとの特徴は、定住性であった。したがって、産業化時代の政治体制の設計者も、一生涯同じ場所に住み続ける人びとを想定したのは、ごく自然なことであった。現在でも、選挙法が一般に選挙区内に居住している者に限って選挙権を与えているのは、こうした理由によるものである。
 第一の波の時代は、生活の店舗がゆるやかであった。アメリカでは通信がまだ発達していなったので、独立戦争の戦中戦後、フィラデルフィアで開かれた「大陸会議」のニュースがニューヨークに届くのは、一週間たってからだったはずである。ジョージ・ワシントンの演説がアメリカ全土に伝わるには、何週間も、何ヶ月もの月日を要した。1865年にリンカーンが暗殺された時ですら、ロンドンの市民がこのニュースを知ったのは、12日も経ってからのことであった。世の中の動きが緩やかであるという暗黙の了解があるから、アメリカの議会やイギリスの国会のような代表機関は、審議とは時間をかけて、ゆっくりと問題にとりくむことだと考えていた。
 第一の波の時代には、選挙民はほとんどが無知文盲であった。したがって世間一般では、議員というものは当然選挙民大衆より聡明で、立派な判断ができると考えられていた。とくに教育程度の高い階層から選出されていれば、なおさらのことだとされていたのである。
 しかし、第二の波とともにあらわれた革命家は、新しい政治体制をつくるにあたって第一の波の社会の常識を受け継いでいたとは言え、やはり未来にも目を向けていたのである。かれらのつくりあげた機構には、当時の科学技術の最先端を行く考え方も反映していた。

 機械信仰
 産業時代の初期には、企業家も、知識人も、革命家も、みんなが機械の魅力の虜になっていた。かれらは蒸気機関、時計、織機、ポンプ、ピストンなどに目を奪われ、どこまでも当時の単純な機械論的テクノロジーにもとづいた発想で物事を考えていった。ベンジャミン・フランクリンとか、トマス・ジェファソンといった人びとが、政治の改革者であったと同時に科学者でもあり、発明家でもあったと言うのも偶然
ではない。
 時はまさに、ニュートンの偉大な発見によって、新しい文化が花開こうとする激動の時代であった。ニュートンは天体を観測した結果、宇宙全体が巨大な時計のように、機械的正確さで規則正しく運行していることを発見した。フランスの医師であり哲学者でもあったラ・メトリーは、1748年に『人間機械論』を発表し、人間自体が機械であると言い切った。アダム・スミスはのちに、この機械論的な見方を経済の分野にも適用した。彼は経済もひとつの体系であり、しかもその体系は「多くの面で機械に酷似している」と述べている。
 アメリカの第四代大統領になったジェームズ・マディソンは、合衆国憲法をめぐる議論を記述するに際して、「システム」を「設計し直す」必要とか、政治権力の「構造を変える」とか、「何回もろ過装置をとおして」役人を選ぶなどというように、しばしば機械から発想された表現を使っている。実は、合衆国憲法自体、巨大な時計の内部のように、さまざまな部品のチェック・アンド・バランスで成り立っていた。
第三代大統領トマス・ジェファソンは、「政府という機関」という表現を使っており、政府を一種の機械に見立てているのである。
 アメリカ人の政治的発想は、いまだに機械の影響を多分に受け、はずみ車、チェーン、ギアー、チェック・アンド・バランスといった表現が、政治についても始終とび出している。第八代大統領マーチン・バン・ビューレンは、「政治機関」をつくりあげたし、ニューヨーク市では、実際に「フィード機関」と呼ばれる派閥組織ができて、市政を支配した。テネシー州では「クランプ機関」がエドワード・クランプのワンマン支配の基盤をつくり、ニュージャージー州ではフランク・ハーグが「ハーグ機関」を通じてボス支配をほしいままにした。以来、現在にいたるまで、歴代のアメリカの政治家は、政治の「青写真」をつくり、「選挙工作」をし、「強力な圧力をかけて」連邦議会や州議会で法案をとおしている。19世紀のイギリスでは、クローマー卿が「機械のさまざまな部品が調和のとれた働きをする」ような帝国政府というものを考えていた。
 このような機械を基盤とした発想は、なにも資本主義社会特有の産物ではない。たとえばレーニンは、「国家とは、資本家が労働者を抑圧するための機関に過ぎない」と言っている。トロツキーは、「ブルジョワ社会のすべての車輪やスクリューが一体となって・・」と言うような表現を使っているし、革命政党の役割についても、同じように機械に関する用語を使って論じている。革命政党を強力な「装置」になぞらえ、こう指摘しているのである。「この機械もほかの機械と同じで、機械自体は外力が働かないかぎり、
いつまでも静止している。大衆運動は、この死んだような静止状態を打ち破らなければならない。人間の生命という蒸気の力で、この静止状態を打ち破り、はずみ車をまわさなければならないのである。
 こうした機械的発想にどっぷりつかり、機械の力とその有効性をほとんど盲目的といってよいほど信じきっていた第二の波の社会の創始者たちが、資本主義社会でも社会主義社会でも、多くの点で初期の工業機械の特徴をそなえた政治制度をつくりあげたのは当然であった。

 議員代表制の標準モデル
 かれらがこつこつ組み立てた第二の波の政治機構は、議員代表制の考え方を基本にすえている。そして、どこの国の制度も、一定の標準的な部品を利用している。こうした部品は、「議員代表制標準モデル組み立て用セット」と呼んでもおかしくないようなものであった。
 そうした部品を列挙してみると次のようになる。

 1 選挙権という武器を手にした個人
 2 票をまとめる政党
 3 当選することによって自動的に有権者の代表になる候補者
 4 議員が投票によって法案を成立させる議会(イギリス型議会、日本型国会、アメリカ型議会、ドイツ連邦型議会、アメリカの州議会型など)
 5 政策という原料を法律製造機械にかけ、できあがった法律を施行する行政官(大統領、首相、党書記長など)

 政治の世界での票は、ニュートン物理学における「原子」に相当する。政党によって集められる票は議
員代表制政治体制のかなめとして機能した。党はさまざまな票田から票を集め、それを得票集計機にかけ
る。集計された票の数は党の勢力を示すと同時に、そのアウトプットが国民の意志をあらわしており、そ
の数字が、政府諸機関に原動力を与えるとされてきたのである。
 この議員代表制標準モデルの部品セットは、国によって、ちがった方法で、巧みに組み立てられた。2
1歳以上の成人にはだれでも投票権が与えられる国もあれば、白人の男性にしか投票権を与えない国もあ
った。選挙という手順が、実際には独裁者の専制をつくろうための、見せかけだけの国もあり、選ばれた
人間が、かなりの権力を行使する国もあった。政党についても、二党制の国あり、多党制の国あり、そう
かと思えば一党独裁の国もあった。にもかかわらず、いずれも歴史的にひとつの、はっきりしたパターン
がある。いかに一部の部品がとり換えられようと、配置を多少変えようと、すべての工業国の政治機関の
形式を決める基本的な部品のセットは、同じものであった。
 ブルジョア民主主義とか議会制は、しょせん特権階級の隠れ蓑に過ぎない、というのは、マルクス主義
者たちがよく口にする、資本主義への攻撃である。そうした政治機関は多くの場合、エリートによって巧
みに操作され、資本家の利益を守るために運用されているというのが彼等の主張だが、あらゆる社会主義
諸国も、工業化が始まるやいなや、慌てて同じような議会制度を導入した。
 社会主義諸国は、遠い将来においては「直接民主主義」に移行することを公約しながらも、当面は、「議
員代表制による社会主義」に大きく傾斜している。ハンガリーの共産主義者オットー・ビハーリは、社会
主義の政治制度に関する著書のなかで、「選挙という過程を経ることによって、労働者階級の意志は、政
府の組織に浸透し、投票という行為によって活性化される。」と書いている。また、『プラウダ』の編集者
であるV・G・アファナーシェフは、『科学的社会経営』という著書のなかで、民主的中央集権を定義し
て、「労働者階級が主権者であること。政府の指導者が選挙によって選ばれること。したがって、政府は
人民に対して責任を負うこと」という三つの内容を挙げている。
 工場が工業国の技術体系そのものの象徴になったように、議員代表制による政府を持つことは(その実
態はどうであれ)、「先進国」のステイタスシンボルと見られるようになった。そして、工業国とはほど遠
い国ぐにまで、ある場合には植民地建設に乗り出してきた帝国主義国の圧力によって、またある場合には
まったくの模倣から、競って同じ形式の政治機構を導入し、同じ議員代表制の標準モデル用部品セットを
使用するのが趨勢になった。

 全世界にひろがった法律製造工場
 民主主義の機関は、国政レベルだけにかぎって設けられたわけではない。州とか県のレベルでも、さら
には町議会とか村議会といった、市町村のレベルでもとり入れられていった。現在、アメリカだけでも、
選挙によって選ばれた議員の数は、およそ50万人にのぼる。都市部だけでも25,669の自治体があ
り、それぞれが選挙を行ない、議会を持ち、しかも、選挙について細かい手続きを定めている。
 都市部以外の地域でも、何千、何万という数の代表機関がひしめき合い、それぞれの活動を続けている。
世界中ということになると、その数はさらに天文学的になる。スイスの州で、フランスの県で、イギリス
の郡で、カナダの州で、ポーランドの地方区で、ソビエトの共和国で、シンガポールで、イスラエルの港
湾都市ハイファで、大坂やオスローで、候補者が立候補し、魔法にでもかけられたように、「議員」に変
身をとげる。第二の波に属する国ぐにだけでも、10万を越える法律製造工場があって、法律とか、法令、
規則、規程の製造に励んでいると言っても過言ではない。
 理論的には、ひとりひとりの人間、一票一票が独立した、原子になぞらえれる単位であるように、国と
か県単位、町村単位の地方自治体というものも、それぞれ、独立した原子的単位としてとらえられるべき
ものであった。それぞれの政治単位には、慎重に定められた守備範囲があり、その権限、権利、義務も周
到に規定されている。それぞれの政治単位は、国、州や県、市町村というように、段階に従って上から下
へと秩序正しく組織化されてきた。管轄も分かれている。しかし、産業主義が成熟し、経済の仕組みが次
第に複雑になってくると、これらの政治単位のある段階でくだした決定は、その感覚区域内にとどまらず、
管轄区域外にも影響を与えずにはおかなくなった。ほかの政治組織が、決定に呼応して行動を起こすよう
になったのである。
 日本の国会が繊維産業に関するなんらかの決定をすると、それはただちにノースカロライナ州の雇用問
題に影響を与え、さらにシカゴ市の社会福祉にまではねかえるようになった。アメリカの下院が外国製自
動車の輸入制限を決定すると、名古屋やトリノの地方自治体は、ただちに対応策の検討を迫られることに
なる。昔ならば、政治家ははっきり定まっている自分の管轄内のことにだけに目をくばっていれば、安心
して政治的判断を下すことができた。ところが現在では、次第にそれでは通用しなくなってきたのである。
 世界中の何万という、表向きは自治権を持つ独立した政治機関が、20世紀の中頃になると、経済流通
の網の目で相互に深く結び付けられるようになった。旅行する機会が大幅に増え、人口の移動が活発にな
り、通信が発達するに伴って、政治機関はたえず相互に刺激を与え、反応し合うようになった。
 議員代表制の標準モデルをもとにしてできあがった、世界中の何千、何万という機関が、こうして次第
に目には見えないひとつの超大機構となり、世界中が法律製造工場とでも言うべきものになった。そこで
われわれは、どのようにして、だれが、この超大機構のレバーを握り、ハンドルを操作しているのかとい
うことを考えてみなければならない。

 選挙は確認の儀式
 第二の波の革命家たちの、人類を圧制から解放しようという夢によってはぐくまれた議員代表制による
政府は、前の時代の権力者による支配とくらべれば、飛躍的な進歩であった。これはこれで、蒸気機関と
か飛行機にまさるとも劣らない、政治技術の勝利だった。
 議員代表制の導入によって、世襲によらないで、しかも秩序正しく政権を委譲することが可能になった。
社会の底辺にいる者が、トップと意志の疎通をはかるチャンネルが開かれた。そして、社会のなかで利害
の一致しないグループを、平和的に調停する土俵が築かれた。
 多数決と、一人一票という原則によって、貧しい者や弱い者も、社会を動かす権力を行使する統括者か
ら、利益を引き出すことができるようになった。したがって、議員代表制による政府が世界中にひろがる
ことは、人間尊重の時代を切り拓く、突破口ともなったわけである。
 しかし、最初から理想とはほど遠かった。いかに想像をたくましくしてみても、いかに細かい規定を設
けてみても、しょせん、人民によるコントロールはたてまえに終わりがちであった。現実には、工業国を
根底で支配しているサブ・エリート、スーパー・エリートという権力構造は、どこの国でも一向に変わら
なかった。実は、管理者であるエリートはコントロールを弱めるどころか、議員代表制という形式をとと
のえた管理機関によって、ますます自分たちの権力を安泰なものにする、統合手段の鍵を握ってしまった
のである。
 だれが当選するかにはまったく関係なく、選挙そのものが、エリートにとっては強力な文化的機能を果
たしているのである。だれもが一票を投ずる権利を与えられることによって、選挙は平等の幻想を醸成し
た。選択が組織的に、機械のように正確に行なわれるということは、選考が合理的に行なわれているとい
うことであり、この安心感が、選挙を大衆による確認の儀式にしてしまったのである。選挙は、象徴的に、
一般市民がやはり権力の所有者であることを保証してきた。指導者を選ぶということは、少なくとも論理
的には、指導者をその座から、ひき降ろすこともできる、ということである。資本主義国でも共産主義国
でも、こうした確認の儀式が行なわれることの方が、選挙の結果そのものよりはるかに重要な場合が多い。
 政治の仕組みは、場所によって少しずつちがっていた。まとめ役をするエリートは、政党の数を規制し
たり、選挙資格を操作することによって、少しずつちがった政治機関のプログラムを組み立てたのである。
しかし、選挙という儀式そのものは、たとえ茶番劇と言う人がいようと、どこの国でも取り入れられた。
ソビエトとか東欧諸国の選挙が、常に99%とか100%という驚異的な支持率を得るにもかかわらず、
やはり選挙が行なわれるという事実は、中央集権的な計画経済の社会でも、「自由世界」におけると同様
に、選挙による確認がどうしても必要だということを示している。選挙を行なうことによって、下からの
抗議がわきあがってくるのを、滅殺することができるのであった。
 それどころか、議員代表制による政治体系は、民主的改革の推進者や急進論者の意図とはうらはらに、
常に、統轄するエリートの手によって、実質的に牛耳られてきた。その理由についてはさまざまな説明が
試みられてきた。しかし、第二の波の政治体系が、機械に似た性格を持つという点を見逃してしまってい
る説明、大部分である。
 第二の波の政治体系を解明するには、政治学者の目ではなく、工業技術者の目で見てみると、いままで
見逃していた。重要な鍵に気がつく。
 工業技術者は、機械を通常、断続的に作動するものと連続的に作動するものという本質的差によって、
二種類に大別する。断続的に作動する機会というのは、原料一回分ごとに作業を中断する機械である。こ
れに対し、連続的に作動する機械は、流れ作業的機械のことである。前者の例としては、ごく普通の打ち
抜き穴あけ機のようなものがある。労働者は、せいぜい一度に二、三枚の金属板を穴あけ機の上にのせて、
必要な型に打ち抜く。一工程が終わると、次の原料がくるまで機械は止まる。後者の例には、石油精製装
置のようなものがあげられる。石油精製装置は、いったん作動しはじめたら休むことなく動き続ける。石
油は四六時中パイプのなかを流れ、パイプを通り、絶え間なく流れ続ける。
 全世界にひろがる法律製造工場を考えてみると、これは投票が断続的に行なわれる、典型的な断続的工
程である。大衆は決まった時期に候補者のなかから代表を選択することができるが、選挙が終わると、こ
の「民主主義を支える機械」は、またしばらく休止の状態に入る。
 選挙は断続的に行なわれるが、政治活動は連続的で、陳情とか圧力団体の活動も絶え間がない。大会社、
政府の各省庁から派遣された人びとが活発に動いて、一流識者からなる各種の委員会で証言したり、審議
会の委員として活躍する。同じような会合に出席し、宴会でも顔を合わせ、ワシントンではカクテルで乾
杯し、モスクワではウオッカで祝杯をあげる。常に情報を交換しながら、24時間体制で政策決定の過程
に影響をおよぼしているのである。
 エリートたちは、要するに、選挙という民主主義を支える断続的な機械のほかに、もうひとつ連続的な
機会をつくったのである。絶え間なく動き続けるこの強力な機械は、断続的な機械とともに、ある時はこ
れを補完し、またある時はまったく逆の方向に作動する。断続的な機械と連続的な機械を並べてみた時、
はじめて、全世界にひろがる法律製造工場で、国家の権力が、どのように行使されているかが理解できる
のである。
 選挙による代表制というゲームをやっているだけでは、国民はせいぜい何年かにいちど、政府やその政
策に賛否を表明することができるだけである。これに対して権力を行使する政府のわざ師たちは、こうし
た政策決定の過程に、継続的に参加しているのだ。
 結局、議員代表制の原則自体に、社会を支配するためのいっそう強力な装置が、巧みに組み込まれてい
るのである。一般の人を代表する人を何人か選ぶということだけでも、すでに新しいエリートの誕生を認
めることを意味する。
 たとえば、労働者が最初に組合を結成する権利を主張して闘争をはじめた時には、いやがらせをされ、
謀議のかどで起訴されたり、会社のスパイにつきまとわれたり、警察や雇われ暴力団に、散々なぐりつけ
られたりしたものだ。労働者はアウトサイダーであり、体制内に労働者の権利を代表する者はいなかった
か、いないに等しい状態だったわけである。
 ところが、いったん労働組合が結成されると、新しいまとめ役の集団が生まれてくる。労働貴族と呼ば
れる人びとである。かれらはたんに労働者を代表するばかりでなく、自分たちと経営のエリート、そして
政府のエリートとの間の調停役をつとめるようになった。先頃亡くなったAFL・CIO会長ジョージ・
ミーニーとか、フランスのCGF会長ジョルジュ・セギィというような人びとは、たてまえ上なんと言お
うとも、統轄エリートの重要な一員になってしまった。ソビエトや東欧諸国の労働組合の委員長なども、
労働者代表というのは見せかけだけで、権力の行使者以外のなにものでもない。
 議員は次の選挙で落選したくないから、理論的には、選挙民に対して常に誠実にふるまい、選挙民の利
益を代表する行動をとることが保障されているはずだ。しかし実際には、それだけでは議員が権力機構に
組み込まれてしまうのを、阻止することはできない。実例は枚挙にいとまがない。世界中のいたるところ
で、議員を選ぶ人と議員に選ばれる人との断絶は、ひろがるばかりである。
 議員代表制による政府、これをわれわれは民主主義と読んできたわけだが、それは要するに、不平等を
維持するために開発された、産業社会のテクノロジーであったとさえ言うことができる。銀代表制にもと
づく政府は、代表性の擬制にすぎないのである。
 これまでのところをざっとふりかえってまとめてみると、われわれが目にしている現代文明の主要な支
えになっているのは、石炭や石油などの化石燃料、工場生産、核家族、企業、大衆教育、マスコミといっ
たものである。その根底には、ますますひろがる生産と消費の分断があり、すべては、一握りの統轄エリ
ートによって管理されている。
 こうした体制にあっては、議員代表制による政府は、政治の世界における工場だと言ってよい。この工
場が生産してきたのは、集団がくだす総合判断であった。政府も工場と同じように、上下の関係で管理さ
れている。議員代表制による政府も工場と同じように、日に日に時代おくれのものになろうとしている。
第三の波が高まるにつれて、その波にのまれようとしているのだ。
 
 第二の波の時代の政治機構が日に日に時代遅れになって、今日の社会の複雑な問題に対応できないとす
れば、その原因の一端は次章で考察するように、第二の波の時代のもうひとつの重要な制度である、国民
国家(ネーション・ステート)に求めることができる。

(第六章 隠された青写真 完)

第五章 権力の技術者

2014年11月03日 23時30分00秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第五章  権力の技術者
 
  「世の中を支配しているのは、いったいだれなのか。」この疑問は、第二の波がもたらした社会特有のものである。産業革命が起こるまでは、こんな疑問は存在しなかった。支配者が国王であれ、シャーマンであれ、あるいは戦国領主であれ、太陽神や聖者であれ、民衆は、自分を支配しているのが何者であるかなど、疑う余地はなかった。畑で働く貧しい農夫にとって、目を上げれば、いやでも飛び込んでくるのは、はるかにそびえ立つ壮麗な宮殿であり、僧院であった。政治学者や消息通の新聞記者に、わざわざ権力の正体について謎解きをしてもらうまでもなく、支配者がだれなのかは、万人の目に明々白々だったのである。
 しかし、第二の波が押し寄せてくるにつれて、いたるところに、新しい権力が台頭した。それは捕えどころの無い、正体不明の権力であった。支配者は匿名の「かれら」になってしまった。「かれら」とは、いったいどういう人びとだったのだろうか。
 
 統合する人びと
 産業主義はすでに見てきたように、社会を工場、教会、学校、労働組合、刑務所、病院などという、無数の、相互に関連する部品に分解してしまった。教会や国家と、個人の間に合った命令系統を断ち切ってしまった。包括的な知識はいくつもの専門技能に分かれてしまった。仕事は細かい作業過程に分解された。大家族は分裂して核家族になった。こういう一連の破壊作用を通じて、産業主義は共同体の生活と文化を、こなごなに粉砕してしまったのである。
 すると今度は、だれかがこれらの部品を集めて、新しい型にまとめあげる必要が生じてきた。
 この要請によって、多数の新しい種類の専門家集団が誕生した。かれらの主要な任務は、「まとめる」ということであった。経営者、行政官、執行部、統括者、社長、副社長、官僚、部長などと名乗る新たな集団が、あらゆる企業に、政府に、あらゆる社会階層に出現し、やがてその存在は、社会にとって必要欠くべからざるものとなった。これが、まとめ役をする人びと(インテグレーター)、である。
 人びとの役割を決め、仕事の割り当てをしてきたのはこの人びとである。だれにどのくらい報酬を支払うかを決めてきたのも、かれらである。計画を立案し、判断基準を定め、人びとに資格を与えたり、また資格を停止したりしてきたのもかれらである。生産と流通、輸送、通信手段などを相互に連結させ、ある組織とほかの組織の関係を規定するルールをつくったのも、かれらであった。一言で言えば ばらばらになった社会をもう一度組み立てていったのが、この連中である。かれらの力を借りなければ、第二の波のシステムは、とうてい機能しなかったであろう。
 19世紀の中頃、マルクスは機械と技術、すなわち「生産手段」を所有する者が社会を支配するのだ、
と考えた。彼の主張は、労働というものはひとつひとつで完結するものではなく、ほかの労働と相互に9依存し合うものであるから、労働者は、ストライキによって生産を分断することができるし、雇用者から機械を奪い取ることもできる。そして、いったん機械を所有すれば、労働者が社会を支配することになる、というものであった。
 しかし、歴史はマルクスの予想を裏切ったと言ってよいであろう。というのは、彼がいみじくも指摘した労働の相互依存性のゆえに、現実には、システムを統括し統合する新しい人間集団に、いっそう大きな権力が集中してしまったのである。結局のところ、支配者の地位に昇ったのは資本家でもなければ、労働者でもなかった。資本主義国家、社会主義国家の別を問わず、トップの座についたのは、これらのまとめ役をする人びとだったのである。
 権力の源泉は「生産手段」の所有ではなく、「統合手段」の支配だったのである。このことの意味を、もう少し深く考えてみよう。
 初期の企業体でまとめ役を果たしたのは、工場の持ち主とか店の経営者、粉ひき場の主人、鉄工場の親方といった人びとであった。これら生産手段の所有者は、数人の助手を使えば、多数の未熟練工の労働をまとめあげ、ひとつの企業を大きな経済の流れのなかへ組み込んでいくことができたのである。
 この時代には、所有者すなわち統合者であったから、マルクスがこの二者を混同し、所有ということを過大視したのも無理はない。しかし、生産様式がさらに複雑になり、それにしたがって分業もより専門化していくにつれて、雇用者と労働者の間の中間的な存在として、驚くほど多種多様な管理者や専門職が、企業の中に続々と出現するようになった。デスクワークが急激に増加した。やがて大企業では、社長であれ大株主であれ、一個人ではとうてい事業の全貌を理解できなくなってしまった。企業の所有者の意思決定が、組織を運営するために導入された専門家集団に依存するようになり、結局、かれらの管理されるようになってしまった。かくして、所有によって権力を握るのではなく、統合手段を管理することによって権力を手中に収めた、新しい経営エリートが登場することになったのである。
 管理者の権力が増大するにつれ、株主の力は後退していった。会社の規模が大きくなるにつれ、親族間で所有していた株は、無数の株主に売却されて拡散してゆき、会社の実務を知っている株主など、ほとんどいなくなってしまった。こうなると、株主は、会社の日常業務ばかりでなく、会社の長期目標や経営戦略といったものまで、雇われ経営者に委ねざるをえない状況になった。理論上は会社の所有者を代表している重役会が、だんだんと会社の実務から遠ざかり、本来、みずから指揮しているはずの会社運営について、満足な情報を得られなくなってしまった。さらに、投資の面でも、個人の直接投資に代わって、年金の運用資金とか相互銀行、信託銀行などが行なう間接投資が幅を利かせるようになると、生産手段の実際の所有者は、いっそう企業経営から遠ざけられていったのである。
 まとめ役をする人びとの権力の新しさを、もっとも明確に表明したのは、アメリカの前財務長官マイケル・ブルメンソールである。ブルメンソールは財務長官になる以前、ベンディックス社の社長であったが、ベンディックス社の所有者になりたいかとたずねられて、こう答えたのである。「重要なのは会社を所有することではなく、会社を支配することだ。そして、私はすでに社長として完全な支配権を握っている。来週、株主総会があるが、すでに株主の97%の委任状を集めた。私自身の持株はわずか8,000株にすぎない。私にとって重要なのは会社の支配権だ。世間の人は私が会社の株を持ったらいいと思っているようだが、それはばかげたことである。私の願望は企業というこの巨大な動物を支配して、建設的に使いこなすことだ。
 こうして、企業の経営方針は、雇われ経営者や他人の金を投資する金融機関の経営者などの手で決定されるようになった。いずれにしても、決定権を持っているのは会社の実際の所有者(株主)ではなく、ましてや労働者でもなかった。まとめ役をする人びとが、会社を預かっていたのである。
 同じ現象は、社会主義国にも発生した。すでに1921年、レーニンは自分の手でつくったソビエトの官僚制度を非難する発言を行なっている。トロツキーは、亡命中の1930年ごろ、すでに5~600万の管理者階級が存在し、かれらは「生産労働に直接従事せず、もっぱら管理し、命令を下し、指揮をとり、人びとを処罰したり赦免したりしている」と批判している。彼によれば、生産手段を所有するのは国家であるが、「国家を所有しているのは官僚だ」と言うのである。1950年代には、ミロバン・ジラスがその著書『新しい階級』のなかで、ユーゴスラビアにおけるエリート管理集団の台頭を批判している。チトー大統領はジラスを投獄したが、大統領自身も「技術者(テクノクラシー)による支配と官僚(ビューロクラシー)による支配は労働者階級の敵だ」と不満をもらしている。毛沢東時代の中国においても、管理者集団による支配を未然に防ぐことが、常に中心課題であった。
 このように、資本主義社会ばかりでなく社会主義社会においても、まとめ役をする人びとが事実上の権力を掌握したのであった。かれらの存在なくしては、社会のシステムのそれぞれの部分が、まとまって機能することができなかった。社会という名の「機械」は、まとめ役なくして作動しえなかったのである。

 統合の原動力
 ひとつの企業を統轄すること、あるいは全産業を統轄することさえ、やるべきことのほんの手はじめにすぎなかった。現代の産業社会は労働組合や同業者組合から教会、診療所、レジャークラブにいたるまで、無数の団体や組織を生み出した。これらすべての団体は、あらかじめ定められたルールの枠内で活動しなくてはならなかった。そのため、法律をつくることが必要になった。なにより大切なことは、情報体系、社会体系、技術体系という三つの体系が、相互に密接な関係を保っていくことであった。
 第二の波の文明を統合しなければならないという強いあせりが、社会システムを統合するエンジンとも
言うべき最大のまとめ役、「大きな政府」を生み出した。第二の波の社会が、いずれも大きな政府を持つようになったのは、この社会のシステムが、統合を強く求めたからだったと言ってよい。
 行政府の縮小を主張する政治家はいくたびもあらわれたが、こういう政治家も、いったん当事者になると、行政府の縮小どころか逆に役所の数をふやすのが常である。しかし、第二の波のもとでの政府の第一目的が、産業文明を確立し、それを維持することにあることを考えれば、このような言行の不一致は、当然起こりうることだと納得できる。産業文明の確立と維持という大目的の前には、少々の立場の相違など、消し飛んでしまうのである。ほかの問題では互いに論戦を闘わす政党や政治家たちも、この点については、暗黙に了解しあっている。たとえ主義主張を異にしていても、大きな政府をつくることは、すべての政党や政治家の了解事項のひとつなのである。なぜかと言えば、産業社会では、まとめ役、即ち統合の仕事は、行政府に完全に委ねられているからである。
 政治評論家クレイトン・フリッチーも指摘しているが、アメリカ合衆国連邦政府は、このところ三期続いた共和党政権下ですら、たえず拡大の一途をたどってきた。フリッチーの言葉を借りれば、「その理由は至極単純なことで、重大な悪影響を残さずに連邦政府を解体することなど、大奇術師フーディーニの腕をもってしても不可能だからである。
 昔から、自由貿易論者たちは、政府の企業活動に対する干渉を批判してきた。しかし、私企業だけに任されていたら、工業化はもっと遅れたであろうし、果たして工業化が進行したかどうかさえ疑問である。政府は鉄道建設を促進し、港をつくり、道路、運河、ハイウェイを建設した。郵便制度を設け、電信、電話、放送の施設を開設し、それらを運用する規則をつくった。取り引きに関する法規を制定し、市場の標準化を行なった。自国の産業を育成するために、外交上の圧力を行使したり、関税を課したりした。産業労働力を供給するために、農民を農地から追い出した。しばしば国防のためと称してエネルギー資源を確保し、技術革新を進めた。数え切れないほど多くの分野で、政府は、ほかの何者にも成し得ないほど大きな統合的役割を果たしてきたのである。
 政府は本来、強大な工業化の推進役であった。行政的圧力と税収入を使って、私企業には成し得ない活動を行なうことが出来たからである。その段階では私企業が入り込めない分野、あるいは採算の取れない分野といったシステムの中の空白地帯へ乗り込んでいって、工業化の気運を高める役割を果たしてきた。政府は、言ってみれば「先取り統合」を行なうことが可能だったのである。
 義務教育制度を施行することによって、将来の産業労働力として期待できる青年を量産し、それによって、結果として産業界を援助するとともに、核家族という生活様式の普及にも寄与した。こどもの教育をはじめ伝統的な機能から家庭を解放して、家族構成を工場制度の必要に適応した形に変えてしまった。このように、政府は多方面で、複雑に入り組んだ第二の波の文明をまとめあげる役を演じたのである。
 統合の重要性が増すにつれて、当然のことながら、政府というものの本質も形態も変化した。たとえば、大統領や首相は、昔のように創造的な政治指導者、社会指導者ではなくなり、なによりもまず、管理者として登場するようになった。人格の面でも行動の面でも、大会社の社長とほとんど変わらない人間になったのである。ニクソン、カーター、サッチャー、ブレジネフ、ジスカールデスタン、大平といった先進工業国の首脳たちは、口でこそ民主主義とか社会正義などと言っているが、その地位に就くに当って実は能率よくマネジメントをやるということぐらいしか公約していないのである。
 したがって、資本主義、社会主義の別を問わず、産業社会には、おしなべてひとつのパターンが生まれるといってよいだろう。大会社あるいは大生産組織と巨大な行政機構がそれである。そして、マルクスが予言した「生産手段を奪取した労働者階級」でもなければ、アダム・スミス学派の好む「権力を保持する資本家階級」でもない、まったく新しい勢力が台頭する。この勢力は労働者にも資本家にも属さず、その両者に対抗する勢力である。権力を操る人びとは「統合手段」をまず手中に収め、それを使って、社会、
文化、政治、経済などを支配するのである。第二の波の社会を支配したのは、まとめ役をする人びとであった。

 権力構造のピラミッド
 権力を操る人びと自体、エリートとサブ・エリートというヒエラルキーを構成する。各企業にも政府の各部局にも、すぐに独自の体制ができあがり、そのなかに支配層、つまり、特権的な統合者が形成された。
 スポーツ、宗教、教育など、各界に固有の権力ピラミッドがあり、科学界の支配層、国防関係の有力者、文化界の支配層などが、つぎつぎに形づくられる。第二の波の文明における権力は、このように、幾十、幾百、幾千の専門分野のエリートに分散しているのである。
 しかし、専門分野のスペシャリスト・エリートを統合しているのは、ゼネラリスト・エリートである。この集団は各専門分野にメンバーを持つ、言わば横割りの集団である。ソビエトや東欧における共産党がその例で、航空界から音楽界、鉄鋼業界と、あらゆる分野に党員がいる。共産党員は、各界のサブ・エリートの間にはりめぐらされた重要な情報連絡網として機能してきた。共産党にはあらゆる情報が入ってくるので、巨大な権力を持ち、スペシャリストであるサブ・エリート群を統制することができたのである。資本主義国では、これほどはっきりした形ではないが、各種の民間委員会や役員会に名を連ねる指導的ビジネスマンや弁護士が、似たような役割を演じてきた。いずれにしても、明白なことは、第二の波の国家には官僚とか重役という名の統合スペシャリスト集団が存在し、それを、統合ゼネラリスト集団が支配している、という事実である。
 スーパー・エリート
 このピラミッドのさらに上層部で統合の任にあたってきたのが、投資計画を立案する「スーパー・エリート」である。金融界でも産業界でも国防省の内部でも、また、ソビエトの経済計画官僚でも、産業界への主要な資本投下の割当てを行なう人びとは、その下にいる統合者たちの機能すべき限界を定める。アメリカのミネアポリスでもソビエトのモスクワでも、非常に大規模な投資を行なうという決定が下されたとすると、その決定は、将来の方向に重大な限定を加えることになる。資金には限りがあるのだから、いったん投資してベッセマー鋼炉や石油の分解蒸留工場、組み立てラインといったものを建設してしまえば、償却が終わるまで撤去するわけにはいかない。したがって、こういう設備投資によってひとたびパラメーターが定められてしまうと、それが将来の管理者や統合者の行動を規定することになる。すべての産業社会では、こうした投資決定のレバーを握る匿名の決定権者集団が、スーパー・エリートを構成しているわけである。
 第二の波の社会には、したがって、どこでも相互に似かよったエリート構造が生まれた。社会危機や政治動乱が起こるために、地方や国によって多少形はちがったが、必ずこのようなひそかな権力ヒエラルキーが生まれた。登場人物の名前は変わり、スローガン、政党の名、候補者はそのたびごとに違っていた。革命の炎は燃え、やがて消えた。立派なマホガニーの机の前に座る顔ぶれも変わった。しかし、基本的な権力構造そのものは、一向に変わらなかったのである。
 過去三世紀にわたり、権力の壁をうち破り、社会正義と政治的平等にもとづく新しい社会を樹立しようとする反乱や改革が、いくたびもさまざまな国ぐにで試みられた。いっときの間、自由への希望が民衆の心をつかむこともあった。時には革命家たちが、首尾よく、ひとつの体制を覆すのに成功したこともあった。
 しかし、それでもなお、いつの場合にも最終結果は同じだった。反逆者たちが、自分たちの革命の旗のもとに、同じようなサブ・エリート、エリート、スーパー・エリートの構造を再構築したのである。なぜか、それは、統合機構とそれを支配する権力操作集団は、第二の波の文明にとって、工場や化石燃料や核家族と同様に、必要欠くべからざる存在だったからである。産業主義とそれが約束した完全な民主主義とは、実際には、両立しえないものだったのである。
 革命運動などによって、産業国家は、自由経済から中央統制経済にいたる経済スペクトルの上を、いかようにも、左右に揺れ動いた。資本主義国から社会主義国へ変わったり、また、その逆になったりすることがしばしば起こった。しかし、「三つ子の魂百まで」の譬えどおり、産業国の本質はなかなか変わらなかった。強大な統合機構なくしては、産業国家は機能することができなかったのである。
 変革の第三の波が経営管理権力の砦に激しく打ち寄せている現在、この権力システムにも、最初の亀裂が入りつつある。あちこちの国で、経営参加を求める声、決定への参加を求める声、労働者、消費者、市民による管理の要求、未来を先取りした民主主義の要求などがつぎつぎと噴出している。もっとも進んだ産業においては、従来より階級職のうすい、臨機応変な組織づくりがはじまっている。権力の分散を求める声が高まり、管理者たちは下からの情報に耳を傾けるようになった。必然的に、エリートの地位は不安定なものになった。これらのいささか先走った警告は、やがて来るべき政治体制の激変を予告しているのである。
 現在すでに第二の波の文明の産業機構を洗いはじめた第三の波は、想像もつかないほど大きな社会的、政治的革新をもたらすであろう。時代おくれでうまく作用せず、人びとを圧迫しているばかばかしい統合機構に代わって、目を見張るような新しい制度が生まれる日が、もうすぐそこへきているのである。
 しかし、こうした新たな可能性へ目を転じる前に、われわれは滅びつつあるシステムの分析を行なう必要がある。この時代おくれのシステムにX線を照射し、このシステムが第二の波の文明にいかに適合していたか、産業社会の秩序を保ち、いかにエリートに奉仕してきたかを見てみなければならない。それによって、このシステムがもはや不適当で、我慢のならないものとなっている理由がはっきりと浮かび上がってくるだろう。