March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第七章 国家に対する熱狂
アバコ島は人口6,500、フロリダ海岸沖の、バハマ諸島のひとつである。数年前、アメリカ人実業家、武器商人、政府の規制を最小限にすべきだとする「自由企業」論者、それに黒人情報工作員とイギリス上院議員といった人びとからなるグループが、いまこそ、アバコは独立を宣言すべき時だ、という断定をくだした。
かれらは原住民に、革命が成功すれば、ひとり当たり1エーカーの土地を無償で与えると約束し、バハマ当局の支配を排して、島を接収しようともくろんだのである。(実現すれば、島の住人に1ケーカーずつ与えても、なお、陰謀を背後で操った不動産業者や出資者に、25万エーカー以上の土地が残るはずであった。)かれらの最終的な夢は、アバコ島に税金のないユートピアを建設することであった。そうすれば、社会主義が蔓延して自分たちの存立基盤を失うという終末論的恐怖心にかられた富裕な実業家連中が、このユートピアに逃げ込んでくる、と考えたのである。
残念ながら、アバコ島民は束縛をたち切ろうとせず、新しい国家をつくるという計画は流産に終わった。
しかし、世界各地で独立運動があいつぎ、国家間の同業組合とも言うべき国連に152ヵ国が加盟しているといった現状では、こうした独立運動の茶番劇も、きわめて重要な問題を含んでいる。つまり、国家とはいったいなにかという本質的な問題を、われわれに提起しているのである。
アバコ島6,500の住民は、奇特な実業家から資金援助を受けるかどうかはともかく、国家をつくりえたのだろうか。シンガポールが人口230万で国家なら、なぜニューヨーク市は、800万の人口がありながら国家ではないのか。ニューヨークのブルックリン区は、ジェット爆撃機さえ持てば国家と言えるのであろうか。ばかげた話だと一笑に付されるかもしれないが、いまや第三の波が第二の波の文明をその根底から揺り動かしているとき、この問いはけっして無意味ではないだろう。というのは、第二の波の文明の基礎のひとつが、ほかならぬこの国民国家だったからである。
第三の波が第一の波と第二の波の双方にはげしく打撃を加えている現在、我々は民族主義の問題をめぐるあいまいな論議に決着をつけないかぎり、新聞紙上をにぎわしている出来事を理解することもできないし、第一の波と第二の波とのぶつかりあいを理解することすらできない。
馬を乗り代える
第二の波がヨーロッパ全土に打ち寄せる以前、世界のほとんどの地域は、まだ国家というものに整理統合されていなかった。当時の世界は、部族、氏族、公爵領、公国、王国など、多かれ少なかれ特定の地方に限られた単位に分かれ、それらが混在していたにすぎない。「国王や属国の君主は、ほんのわずかな権限しか持っていなかった。」と、政治学者のS・F・ファイナー教授は書いている。国境は明確になっていなかったし、政府の権利も、はっきりしなかった。一国の支配力にもまだ基準がなく、地方によってばらばらだった。ファイナー教授によれば、ある村では風車の使用料を徴収するのがせいぜいで、ほかの村では農民から税金をとりたて、また別のところでは修道院の院長を任命する、といった程度であった。ひとりの個人が各地に資産を持っていれば、何人もの国王に忠誠を捧げることになったろう。もっとも偉大な皇帝でさえ、ちっぽけな地方自治体の寄せ集めを統治していたにすぎない。政治的な支配力は、まだ場所によって一様ではなかった。「ヨーロッパを旅行するときは、馬をしばしば乗り代えるように、法律まで乗り代えなければならない」と言うヴォルテールの嘆きは、この状態を端的に要約している。
もちろん、この警句にはさらに深い意味があった。馬を頻繁に乗り代えなければならないということは、輸送力と通信手段が原始的な水準にとどまっていたということであり、君主がどんなに権力を持っていようと、その支配力を効果的におよぼしうる範囲は、それによって限られてしまう。首府から遠ざかれば遠ざかるほど、国の権威は弱まっていった。
政治的統合がなければ、経済的統合も不可能であった。多額の資金を必要とする第二の波の新しいテクノロジーは、地方市場の範囲を越えた、より大きな市場に向けて商品を生産することによって、はじめて採算がとれた。しかし、企業家が自分たちの所属する共同体を一歩踏みだすと、さまざまな関税や、税金、労働条件があり、また通貨も異なっているとしたら、とても広域にわたる売買などできるはずがなかった。新しいテクノロジーが利益を生むためには、各地の経済が、全国的なひとつの経済に統合されていなければならなかった。つまり、全国的見地から見て分業が成立し、商品と資本のための全国的な市場が開かれなければならなかった、ということである。そのためには、結局、政治的にも、全国的な統合が必要になった。
簡単に言えば、第二の波の経済単位の規模が拡張していくにつれ、第二の波の政治単位も、その規模を拡大していかざるをえなかった、ということである。
当然のことながら、第二の波の社会が全国的な経済圏を確立すると、明らかに大衆の意識にも根本的な変化がもたらされた。第一の波の社会における小規模な、特定の地域に限られた生産形態は、地方色豊かな人間を育てあげた。かれらの多くは、もっぱら近隣や自分たちの村にしか関心を持たなかった。例外はごく少数で、二、三の貴族や僧侶、各地に散在していた商人、それに社会の片隅で生きていた芸術家や学者、傭兵、こういった人びとだけが、村の外にまで関心を払っていたにすぎない。
ところが、第二の波が到来すると、たちまちのうちに、より広い世界に利害関係を持つ人間がふえていった。蒸気や石炭を基礎にするテクノロジーと、そののちの電気の出現によって、フランクフルトの衣類、ジュネーブの時計、マンチェスターの織物などの製造業者なら、だれでも、地方の限られた市場ではさばききれないほど、生産量を上げることができた。かれらはまた、遠方からの原料を必要とした。工場労働者でさえ、何千マイルも離れた遠隔地の、金融の成り行きに影響を受けるようになった。つまり、仕事が遠隔地の市場に左右されることになったのである。
こうして心理的な地平線が、少しずつひろがっていった。新しいマスメディアが、遠方からの情報やイメージを増加させた。これらの変化が刺激になって地元偏重の考え方は後退し、国民意識が芽生えた。
アメリカの独立とフランス大革命に端を発し、19世紀を通じて高揚し続けた国家というものに対する熱狂は、世界の産業化地域を席巻していった。ドイツの350にのぼる小規模で多様な、互いに反目し合っていた小国が、連合して、ただひとつの国民的な市場をつくりあげる必要がでてきた。これが「祖国ドイツ」である。当時のイタリアは、サヴォイ家、教皇、オーストリアのハプスブルグ家、スペインのブルボン家によって、分割統治されていたが、これも統一の必要があった。ハンガリー人、セルビア人、クロアチア人、フランス人、そのほかすべての民族が、にわかに自分たちの同胞に対して、神秘的ともいうべき親近感を抱くようになった。詩人は愛国心を謳いあげた。歴史家は、長い間忘れられていた国民的英雄や、文学、民間伝承を再発見した。作曲家は民族への頌歌を書いた。それらの現象はすべて、まさに工業化がそれを必要とした時点で起こったのである。
統合が産業の面から必要だったということさえ理解すれば、国民国家とはなんであるかが明らかになる。国家は、シュペングラーの言うように「精神的な統一体」でもなければ、「心の共同体」あるいは「魂を共有する社会」でもない。また国家は、ルナンの言葉のように「記憶の豊かな伝承」でもなく、オルテガが主張するように「未来についての共有のイメージ」でもない。
われわれが近代国家と呼ぶものは、第二の波に特有なひとつの現象である。統合された唯一の政治的権威は、統合された単一の経済と表裏一体をなし、不可分に結びついている。地域ごとに自給自足し、相互の関連が稀薄な経済がいくら寄り集まっても、国家とはなりえない。地域経済の雑多な集積の上に、かりにゆるぎない統一的政治制度が成立したとしても、それは近代国家ではない。統一された政治制度と統一された経済、この二つの融合こそが、近代国家をつくり上げたのである。
アメリカ、フランス、ドイツ、そのほかのヨーロッパの国ぐににおいて、産業革命が引き金となって起きた民族主義者の蜂起は、政治的統合の水準を、第二の波がもたらした、急速な経済的統合の高まりにまで引き上げようとする努力であったと見ることもできよう。世界が特徴のはっきりした国家の国境線で区分されるようになったのは、詩などの持っている神秘的な影響力によるものではなく、こうした努力の結果であった。
黄金の大釘
各国の政府が、みずからの市場と政治的権威を拡張していこうとすると、すぐに限界につき当った。言語のちがいや、文化的、.社会的、地理的、戦略的な障害にぶつかったのである。ひとつの政治組織によって効果的に統治しうる領域をいかにひろげようとしても、輸送力や通信手段が整備されているか、エネルギー供給や技術的生産力が見合っているかどうかといった、もろもろの事業が制約として働いたのである。さらに会計手続き、予算管理、行政手段などがどれほど洗練されているかによっても、政治的統合のおよぶ範囲は限定された。
これらの制約のなかでまとめ役をつとめたエリートは、企業のエリートも政府のエリートも同じように、規模の拡大をめざして闘ったのである。支配下の地域がひろがればひろがるほど、また、経済市場が拡大すればするほど、富と権力は増大した。各国が経済的、政治的フロンティアを極限まで押しひろげていけば、その国固有の限界にぶつかるだけではなく、競争相手の国家とも衝突することになった。
こうした限界を打ち破るために、まとめ役をつとめたエリートたちは、高度なテクノロジーを利用した。かれらがとびついたのは、たとえば19世紀の「宇宙開発競争」、つまり鉄道の建設であった。
1825年9月、イギリスでストックトンとダーリントン間に、鉄道が敷設された。ヨーロッパ大陸では、1835年5月、ベルギーでブリュッセルがマリーヌと結ばれた。その年の9月、ドイツのババリア地方でニュールンベルクとフュルト間に、翌年、フランスでパリとサンジェルマン間に鉄道が開通した。ずっと東では、1838年4月、ロシアでツァースコエ・セロがペテルスブルクと結ばれた。その後30年あまりの間、鉄道労働者たちはつぎつぎに鉄路を開き、地域と地域を結んでいった。
フランスの歴史家シャルル・モラゼは、こう説明している。「1830年にほぼ統一を終わっていた国ぐにには、鉄道の出現によって、結束を強固にした・・・だが、まだ統一の気運が熟していなかった国ぐににとっては、鉄道は新たな鋼鉄のたがであり、・・・この鋼鉄のたがが、未統一の国ぐにを外側から締めつけた・・・やがて近代国家としてまとまる可能性のある国ぐにには、輸送体系を確立することによって国家として認知されるために、鉄道が建設される以前から、あわてて国家としての存立権を宣言している観があった。事実、その後1世紀以上にわたって、ヨーロッパの政治的境界線を確定したのは、輸送体系であった。
アメリカでは、歴史家ブルース・マズリッシュが書いているように、政府は「大陸横断鉄道が大西洋岸と太平洋岸の連帯の絆を強めるであろうと確信し」、広大な土地を民間の鉄道会社に譲渡した。最初の大陸横断鉄道の完成を記念して打ち込まれた黄金の大釘は、まさに、アメリカ合衆国が全大陸的な規模で統合された象徴である。それはまさに全国的な市場への門戸が開かれたことを意味したのだ。これによって、政府の全国に対する支配権のどこへでも、すみやかに軍隊を送りこみ、その権威に従わせることができるようになった。
このように各地でつぎつぎに国家という新しい強力な実体の発生するという事態が起こったのである。世界知事は、赤、ピンク、オレンジ、黄、緑といった色によって、整然と、しかも重なり合うことなく色分けされるようになった。そして国民国家(ネーション・ステート)という体系は、第二の波の文明を支える主要な基本構造のひとつとなったのである。
国家成立のかげには、統合を促進しようという、産業主義のきわめて強い要請がかくされていた。
しかし、統合は、国民国家それぞれの国境ではとどまらなかった。産業文明は、その強大な力にもかかわらず、外部から栄養をとらなければ存続しえなかったのである。産業文明は、世界のほかの地域を貨幣経済に巻き込み、貨幣経済というシステムを、おのれの利益のために支配しないかぎり、生き延びるすべがなかった。
それがどのようになされたかは、第三の波がつくる世界を理解するうえでも、きわめて重要である。
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第七章 国家に対する熱狂
アバコ島は人口6,500、フロリダ海岸沖の、バハマ諸島のひとつである。数年前、アメリカ人実業家、武器商人、政府の規制を最小限にすべきだとする「自由企業」論者、それに黒人情報工作員とイギリス上院議員といった人びとからなるグループが、いまこそ、アバコは独立を宣言すべき時だ、という断定をくだした。
かれらは原住民に、革命が成功すれば、ひとり当たり1エーカーの土地を無償で与えると約束し、バハマ当局の支配を排して、島を接収しようともくろんだのである。(実現すれば、島の住人に1ケーカーずつ与えても、なお、陰謀を背後で操った不動産業者や出資者に、25万エーカー以上の土地が残るはずであった。)かれらの最終的な夢は、アバコ島に税金のないユートピアを建設することであった。そうすれば、社会主義が蔓延して自分たちの存立基盤を失うという終末論的恐怖心にかられた富裕な実業家連中が、このユートピアに逃げ込んでくる、と考えたのである。
残念ながら、アバコ島民は束縛をたち切ろうとせず、新しい国家をつくるという計画は流産に終わった。
しかし、世界各地で独立運動があいつぎ、国家間の同業組合とも言うべき国連に152ヵ国が加盟しているといった現状では、こうした独立運動の茶番劇も、きわめて重要な問題を含んでいる。つまり、国家とはいったいなにかという本質的な問題を、われわれに提起しているのである。
アバコ島6,500の住民は、奇特な実業家から資金援助を受けるかどうかはともかく、国家をつくりえたのだろうか。シンガポールが人口230万で国家なら、なぜニューヨーク市は、800万の人口がありながら国家ではないのか。ニューヨークのブルックリン区は、ジェット爆撃機さえ持てば国家と言えるのであろうか。ばかげた話だと一笑に付されるかもしれないが、いまや第三の波が第二の波の文明をその根底から揺り動かしているとき、この問いはけっして無意味ではないだろう。というのは、第二の波の文明の基礎のひとつが、ほかならぬこの国民国家だったからである。
第三の波が第一の波と第二の波の双方にはげしく打撃を加えている現在、我々は民族主義の問題をめぐるあいまいな論議に決着をつけないかぎり、新聞紙上をにぎわしている出来事を理解することもできないし、第一の波と第二の波とのぶつかりあいを理解することすらできない。
馬を乗り代える
第二の波がヨーロッパ全土に打ち寄せる以前、世界のほとんどの地域は、まだ国家というものに整理統合されていなかった。当時の世界は、部族、氏族、公爵領、公国、王国など、多かれ少なかれ特定の地方に限られた単位に分かれ、それらが混在していたにすぎない。「国王や属国の君主は、ほんのわずかな権限しか持っていなかった。」と、政治学者のS・F・ファイナー教授は書いている。国境は明確になっていなかったし、政府の権利も、はっきりしなかった。一国の支配力にもまだ基準がなく、地方によってばらばらだった。ファイナー教授によれば、ある村では風車の使用料を徴収するのがせいぜいで、ほかの村では農民から税金をとりたて、また別のところでは修道院の院長を任命する、といった程度であった。ひとりの個人が各地に資産を持っていれば、何人もの国王に忠誠を捧げることになったろう。もっとも偉大な皇帝でさえ、ちっぽけな地方自治体の寄せ集めを統治していたにすぎない。政治的な支配力は、まだ場所によって一様ではなかった。「ヨーロッパを旅行するときは、馬をしばしば乗り代えるように、法律まで乗り代えなければならない」と言うヴォルテールの嘆きは、この状態を端的に要約している。
もちろん、この警句にはさらに深い意味があった。馬を頻繁に乗り代えなければならないということは、輸送力と通信手段が原始的な水準にとどまっていたということであり、君主がどんなに権力を持っていようと、その支配力を効果的におよぼしうる範囲は、それによって限られてしまう。首府から遠ざかれば遠ざかるほど、国の権威は弱まっていった。
政治的統合がなければ、経済的統合も不可能であった。多額の資金を必要とする第二の波の新しいテクノロジーは、地方市場の範囲を越えた、より大きな市場に向けて商品を生産することによって、はじめて採算がとれた。しかし、企業家が自分たちの所属する共同体を一歩踏みだすと、さまざまな関税や、税金、労働条件があり、また通貨も異なっているとしたら、とても広域にわたる売買などできるはずがなかった。新しいテクノロジーが利益を生むためには、各地の経済が、全国的なひとつの経済に統合されていなければならなかった。つまり、全国的見地から見て分業が成立し、商品と資本のための全国的な市場が開かれなければならなかった、ということである。そのためには、結局、政治的にも、全国的な統合が必要になった。
簡単に言えば、第二の波の経済単位の規模が拡張していくにつれ、第二の波の政治単位も、その規模を拡大していかざるをえなかった、ということである。
当然のことながら、第二の波の社会が全国的な経済圏を確立すると、明らかに大衆の意識にも根本的な変化がもたらされた。第一の波の社会における小規模な、特定の地域に限られた生産形態は、地方色豊かな人間を育てあげた。かれらの多くは、もっぱら近隣や自分たちの村にしか関心を持たなかった。例外はごく少数で、二、三の貴族や僧侶、各地に散在していた商人、それに社会の片隅で生きていた芸術家や学者、傭兵、こういった人びとだけが、村の外にまで関心を払っていたにすぎない。
ところが、第二の波が到来すると、たちまちのうちに、より広い世界に利害関係を持つ人間がふえていった。蒸気や石炭を基礎にするテクノロジーと、そののちの電気の出現によって、フランクフルトの衣類、ジュネーブの時計、マンチェスターの織物などの製造業者なら、だれでも、地方の限られた市場ではさばききれないほど、生産量を上げることができた。かれらはまた、遠方からの原料を必要とした。工場労働者でさえ、何千マイルも離れた遠隔地の、金融の成り行きに影響を受けるようになった。つまり、仕事が遠隔地の市場に左右されることになったのである。
こうして心理的な地平線が、少しずつひろがっていった。新しいマスメディアが、遠方からの情報やイメージを増加させた。これらの変化が刺激になって地元偏重の考え方は後退し、国民意識が芽生えた。
アメリカの独立とフランス大革命に端を発し、19世紀を通じて高揚し続けた国家というものに対する熱狂は、世界の産業化地域を席巻していった。ドイツの350にのぼる小規模で多様な、互いに反目し合っていた小国が、連合して、ただひとつの国民的な市場をつくりあげる必要がでてきた。これが「祖国ドイツ」である。当時のイタリアは、サヴォイ家、教皇、オーストリアのハプスブルグ家、スペインのブルボン家によって、分割統治されていたが、これも統一の必要があった。ハンガリー人、セルビア人、クロアチア人、フランス人、そのほかすべての民族が、にわかに自分たちの同胞に対して、神秘的ともいうべき親近感を抱くようになった。詩人は愛国心を謳いあげた。歴史家は、長い間忘れられていた国民的英雄や、文学、民間伝承を再発見した。作曲家は民族への頌歌を書いた。それらの現象はすべて、まさに工業化がそれを必要とした時点で起こったのである。
統合が産業の面から必要だったということさえ理解すれば、国民国家とはなんであるかが明らかになる。国家は、シュペングラーの言うように「精神的な統一体」でもなければ、「心の共同体」あるいは「魂を共有する社会」でもない。また国家は、ルナンの言葉のように「記憶の豊かな伝承」でもなく、オルテガが主張するように「未来についての共有のイメージ」でもない。
われわれが近代国家と呼ぶものは、第二の波に特有なひとつの現象である。統合された唯一の政治的権威は、統合された単一の経済と表裏一体をなし、不可分に結びついている。地域ごとに自給自足し、相互の関連が稀薄な経済がいくら寄り集まっても、国家とはなりえない。地域経済の雑多な集積の上に、かりにゆるぎない統一的政治制度が成立したとしても、それは近代国家ではない。統一された政治制度と統一された経済、この二つの融合こそが、近代国家をつくり上げたのである。
アメリカ、フランス、ドイツ、そのほかのヨーロッパの国ぐににおいて、産業革命が引き金となって起きた民族主義者の蜂起は、政治的統合の水準を、第二の波がもたらした、急速な経済的統合の高まりにまで引き上げようとする努力であったと見ることもできよう。世界が特徴のはっきりした国家の国境線で区分されるようになったのは、詩などの持っている神秘的な影響力によるものではなく、こうした努力の結果であった。
黄金の大釘
各国の政府が、みずからの市場と政治的権威を拡張していこうとすると、すぐに限界につき当った。言語のちがいや、文化的、.社会的、地理的、戦略的な障害にぶつかったのである。ひとつの政治組織によって効果的に統治しうる領域をいかにひろげようとしても、輸送力や通信手段が整備されているか、エネルギー供給や技術的生産力が見合っているかどうかといった、もろもろの事業が制約として働いたのである。さらに会計手続き、予算管理、行政手段などがどれほど洗練されているかによっても、政治的統合のおよぶ範囲は限定された。
これらの制約のなかでまとめ役をつとめたエリートは、企業のエリートも政府のエリートも同じように、規模の拡大をめざして闘ったのである。支配下の地域がひろがればひろがるほど、また、経済市場が拡大すればするほど、富と権力は増大した。各国が経済的、政治的フロンティアを極限まで押しひろげていけば、その国固有の限界にぶつかるだけではなく、競争相手の国家とも衝突することになった。
こうした限界を打ち破るために、まとめ役をつとめたエリートたちは、高度なテクノロジーを利用した。かれらがとびついたのは、たとえば19世紀の「宇宙開発競争」、つまり鉄道の建設であった。
1825年9月、イギリスでストックトンとダーリントン間に、鉄道が敷設された。ヨーロッパ大陸では、1835年5月、ベルギーでブリュッセルがマリーヌと結ばれた。その年の9月、ドイツのババリア地方でニュールンベルクとフュルト間に、翌年、フランスでパリとサンジェルマン間に鉄道が開通した。ずっと東では、1838年4月、ロシアでツァースコエ・セロがペテルスブルクと結ばれた。その後30年あまりの間、鉄道労働者たちはつぎつぎに鉄路を開き、地域と地域を結んでいった。
フランスの歴史家シャルル・モラゼは、こう説明している。「1830年にほぼ統一を終わっていた国ぐにには、鉄道の出現によって、結束を強固にした・・・だが、まだ統一の気運が熟していなかった国ぐににとっては、鉄道は新たな鋼鉄のたがであり、・・・この鋼鉄のたがが、未統一の国ぐにを外側から締めつけた・・・やがて近代国家としてまとまる可能性のある国ぐにには、輸送体系を確立することによって国家として認知されるために、鉄道が建設される以前から、あわてて国家としての存立権を宣言している観があった。事実、その後1世紀以上にわたって、ヨーロッパの政治的境界線を確定したのは、輸送体系であった。
アメリカでは、歴史家ブルース・マズリッシュが書いているように、政府は「大陸横断鉄道が大西洋岸と太平洋岸の連帯の絆を強めるであろうと確信し」、広大な土地を民間の鉄道会社に譲渡した。最初の大陸横断鉄道の完成を記念して打ち込まれた黄金の大釘は、まさに、アメリカ合衆国が全大陸的な規模で統合された象徴である。それはまさに全国的な市場への門戸が開かれたことを意味したのだ。これによって、政府の全国に対する支配権のどこへでも、すみやかに軍隊を送りこみ、その権威に従わせることができるようになった。
このように各地でつぎつぎに国家という新しい強力な実体の発生するという事態が起こったのである。世界知事は、赤、ピンク、オレンジ、黄、緑といった色によって、整然と、しかも重なり合うことなく色分けされるようになった。そして国民国家(ネーション・ステート)という体系は、第二の波の文明を支える主要な基本構造のひとつとなったのである。
国家成立のかげには、統合を促進しようという、産業主義のきわめて強い要請がかくされていた。
しかし、統合は、国民国家それぞれの国境ではとどまらなかった。産業文明は、その強大な力にもかかわらず、外部から栄養をとらなければ存続しえなかったのである。産業文明は、世界のほかの地域を貨幣経済に巻き込み、貨幣経済というシステムを、おのれの利益のために支配しないかぎり、生き延びるすべがなかった。
それがどのようになされたかは、第三の波がつくる世界を理解するうえでも、きわめて重要である。