アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

アルビン・トフラー ハイジ・トフラー共著 富の未来(上)007

2012年01月27日 23時26分55秒 | 富の未来(上)
2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)
第6部  生産消費者P.320~376
第26章 来るべき爆発的成長
 今後予想される生産消費の爆発的成長は、経営・金融関係のマスコミで過小評価されているし、学者や研究者、政府にも過小評価されている。生産消費者が世界を支配するようになるわけではない。だが、新しい経済がどのようなものになるかに、大きな影響を与えるだろう。そして、世界の巨大企業や巨大産業に挑戦することになろう。実際のところ、その動きはすでにはじまっている。
 これまでの章では、生産消費者の「第三の仕事」が銀行や航空会社など、無数の企業にとって「タダ飯」になっていることをみてきた。また、医療と保健の面で生産消費者が生み出す経済的価値が高まっていることをみてきた。だが、以上はほんの出発点にすぎない。

ギターとゴルフ・クラブ
 生産消費者はいま、さまざまな道具や機器を買って健康と医療の「産出」を増やしているといえるするなら、他の分野でも同じような動きをとっている。
(中略)
 男女を問わず、もっとむずかしいDIYに挑戦したい生産消費者のために、電気ギターやパソコン、ゴルフ・クラブ、ヨット、四寝室のログ・ハウスなどを自作できるキットが売られており、航空ショーに参加できるほどの飛行機すら自作できる。

際限のない消費癖なのか
 経済学では通常、これらの購入を消費だとみている。しかし、まったく違った見方をとることができる。実際には生産消費者が資本財に大規模に投資しており、その結果、いまのところほとんど統計がないが、生産消費で産出される価値が増加しているのである。
(中略)
 これらの機器が売れている現状を「際限のない消費癖」だと批判する人は、自分でも多数の機器をもっているはずだが、その点はさておいても、機器を買うことの意味を理解できていない。貪欲さを示すこれ見よがしの消費ではない。生産消費の能力を高めるための投資である。自分自身と家族のために生産消費を行う能力を高め、少なくとも部分的に市場から撤退している。そのような意味で、消費癖とは反対の動きなのだ。普通なら人を雇って金銭を支払わなければならないか、金では買えないことを、市場の外で行えるようにしているのだから。
(中略)
 有給の仕事と無給の仕事の境界線、生産者が産出する統計対象の価値と生産者が産出して大部分が統計対象にならない価値の境界線は、定義が生み出した虚構にすぎず、誤解を招くものである。一方に金銭経済があり、他方に非金銭経済がある。この二つがあってこそ、現在の富の体制は機能しているのである。将来を計画しようとするものは誰でも、この富の体制の全体像を理解しなければならない。
クッキーとシュミレーション
 生産消費者はこの虚構の境界線など端から無視して、自由に移動している。世界各地で無数の小企業が、それまで趣味の生産消費活動として、自分のため、友人や隣人のために作ってものを売るようになって生まれている。
(中略)
 生産消費者が技術と関心を磨き、試した後、小さな企業を作って販売するようになり、金銭経済の生産に寄与するようになっている。
 生産消費者がはじめた事業は、小規模で専門的なものだとはかぎらない。ハリウッドのエージェント、ウォリー・エイモスの例をみてみよう。高校を中退し、後に俳優のエージェントになり、1960年代にはサイモン&ガーファンクルを売り出し、ダイアナ・ロスやマービン・ゲイらの有名な歌手のエージェントとして活躍するようになった。
 叔母のデラに教えられて、趣味としてクッキーを焼き、友人や家族に配るようになった。
「そのうち、知人にあうと、こんにちはでもこんばんはでもなく、『クッキーをもらえるかい』と挨拶されるようになった」とエイモスは語る。
「クッキーを事業にすればいいのにとみなにいわれたが、そのころは真剣に考えることはなかった」
 ついに事業化を真剣に考えるようになったとき、ウォリー・エイモスはフェイマス・エイモス・チョコレート・チップ・クッキーを発売した。いまではこれがアメリカでもとくに有名なクッキーのブランドになり、グルメ・クッキーという新しい分野を切り開くまでになった。だがこれすら、小さな事業にすぎない。

ハリウッドを超える
 生産消費者は趣味を活かして企業を作るだけではない。大きな産業を生み出すか、その一助になることもある。(中略)
 要するに、市販のゲームは生産消費者にソフトを自在に変更し、複雑にし、豊かにするよう促しているのである。その結果、「技術革新という点で、民間のゲーム産業は軍よりはるかに進んでいる。・・・・何百万人ものゲームの愛好者がきわめて熱心で、世界的なネットワークで結ばれ、自由に組織を作って、みな、自分が一番になろうと必死になっているからだ」。
 このように、非金銭経済での生産消費者の技術革新が一因になって、コンピューター・ゲーム産業はいまでは200億ドルの規模にまで成長している。はじめて聞いたときの驚いた人が多いはずだが、いまではハリウッドの映画産業よりも規模が大きくなっているのだ。
 
集団的な生産消費
 だが、現代の生産消費活動のなかで、21歳の大学生が楽しみではじめたプロジェクトほど、産業界と国際関係に爆発的な影響を与えたものはない。ソフトウェアの世界に衝撃を与えており、資本主義そのものを揺るがしていると考える人すらいる。
 ヘルシンキ大学の学生だった21歳のとき、リーナス・トーバルズは大型コンピュータ用のUNIXをパソコン用にしたミニックスを使っていた。だが満足できず、パソコン用の新しいOS(基本ソフト)を開発しようと考えた。これを長期の目標にして無給で取り組んだ結果、三年後の1994年、今のリナックスの主要部分が発表されるまでになった。
(中略)
 したがって、トーバルズらのプログラマーによる生産消費活動は、金銭経済に大きな影響を与えたのである。リナックスは資本主義の終わりを意味するわけではない。(熱心な支持者はそう主張しているが)。それでも生産消費活動が金銭経済にいかに大きな影響を与えるかを示す好例になっている。
 そして、リナックスもはるかに大きな動きの一部でしかない。

階層組織をぶち壊す
 知識が確かに、富の体制を支える基礎的条件の深部の要因として一層重要になってきているのであれば、知識をどのように入手し、どのように整理するかは、目に見える経済の成長に直接に関係する要因だといえる。いまでは、インターネットのない世界は考えられないし、ワールド・ワイド・ウェイブ(WWW)のないインターネットは考えられない。
インターネットとWWWは、人類が発明した思考のツールのなかでも最強のものである。
(中略)
 インターネットは、基礎的条件の深部にある空間と知識との関係に革命を起こしており、(以下略)拡大を続けるインターネットの情報内容のうち一部は、人類の歴史でも最大級のボランティア活動によって作られている。(中略)
 目に見える経済と、目に見えない経済という二つの経済の全体をあわせたときにはじめて、本書でいう「富を生み出す体制」になる。このような視点をもつと、新しい事実が明らかになる。金銭経済は劇的に拡大する勢いにある。そして、非金銭経済での活動が金銭経済に与える影響は、ますます大きくなっていく。生産消費者は功績を認められていないが、今後の経済に貢献する英雄なのである。





 
第27章 さらにあるタダ飯
(略)
 日本には地域のボランティア組織である消防団があり、2000年には95万1069人が所属していた。同様の組織はオーストリア、カナダ、フィンランド、ドイツ、イタリア、ポルトガル、南アフリカなどの世界各国にもある。隊員は命懸けの仕事をしており、実際に命を失うことも少なくない。
 経済的には、ボランティアは生産消費者であり、時間、スキル、リスクに対する報酬を受けることなく、貴重なサービスを提供している。(中略)
 日本では、国内の緊急時に対応する組織が極端に不足していたが、1995年1月17日に阪神・淡路大震災が起こって、大きく変わった。この大災害に全国から延べ135万人のボランティアが駆けつけ、建設、医療、食料と水の供給、カウンセリングなどの活動を行った。この活動が日本経済にもたらした価値を金銭に換算すれば、いくらになるのだろうか。こうした活動の価値は日本のGDPを算出する際に考慮されているのだろうか。もっと重要な点として、こうした活動の人間的な価値はどれくらいあるのだろうか。
(中略)
 これらの活動はすべて、各国の富の体制のうち、隠れた半分であり、大部分が「簿外」扱いになっている部分である。この部分の価値がすべて適切に算出されていれば、企業経営者や政治家が下す決定の多くが違ったものになるだろう。
 
教師と看護師と馬
(略)
 国際的なボランティア活動の例はいくらでもある。1989年、サンフランシスコ地震が起こったとき、日本緊急援助隊が大学生を太平洋の対岸に派遣して、救援活動にあたった。2002年にジンバブエ政府が農民に立ち退きを命じ、多数の馬が飢え死にしそうになったとき、隣国の南アフリカや遠くはスコットランド、スイスなどからボランティアが駆けつけて、やせさらばえた馬を救っている。
 はるかに大きな活動としては、赤十字社と赤新月社が世界各国で活躍している。世界178ヵ国に1億5百万人のボランティアが登録されており、医師、監護師、教師、農業技術者などの専門家を世界中に派遣し、専門サービスを提供している。(中略)
 要するに、金銭の寄付以外に、目に見えない富がひとつの国から他の国に、地球のある部分から別の部分に移転されているのである。

素人は重要
 現在の世界では専門化が高度になっているので、「素人」が活躍しているというと、経営者や経済専門家に無視されかねない。だが、人類の歴史を通じて、無給の素人が自分のため、家族のため、地域社会のために行ったことから、科学技術などの広範囲は分野で素晴らしい成果が多数生まれている。
(中略)
 研究用の機器が小さく、安く、精密で、強力になっており、基礎的条件の深部にある知識との関係がさらに変化しうるようになっているので、素人が新たな分野に進出するようになるのは疑う余地がない。この点を考えると、生産消費者の貢献のうち、もうひとつ見逃されてきたことに注目したくなる。

経済学の問題を暴く
 (略)
 生産消費者は無給の仕事に時間を費やすことで金銭経済にタダ飯を提供しているだけでなく、「生産消費の資本財」といえる自動車を提供して、他人のために価値を作りだせるようにするか、価値を高めているのである。これもタダ飯である(なお、アメリカではボランティア活動に参加した人は、少し手間をかければ、経費を申告してその一部を税額控除という形で取り戻せる場合がある。だが現実の問題として、ほとんどの人はそのような手間をかけていないとみられる)。
(中略)
 多忙な生産消費者が労働ではなく、機器を無料で提供する動きがあらわれているのだ。こうした動きを考慮にいれてはじめて、経済学の問題を明らかにすることができる。

実際的な動き
 なかでも有名なのはSETI(地球外知的生命体探査)だ。地球外の生命を見つけ出せる可能性は低く、まして「知的」な生命体を見つけられる可能性はきわめて低いが、そうした発見があれば、科学、哲学、文化に与える影響は予想がつかないほど大きくなりうる。そこで、ボランティアが協力することになった。
 この探査では、電波望遠鏡で集めた大量のデータを解析する必要がある。だが解析にはどれほどの能力をもったスーパーコンピューターでも追いつかないほどの演算が必要になる。そこでシアトルのコンピューター科学者、クレイグ・カスノフとデービッド・ゲディは、何台のスーパーコンピューターが使えないのなら、仮想スーパーコンピューターを構築すればいいと考えた。
(以下略)

炭疽菌と戦う
 このSETTの方式がその後、他の分野でも使われるようになった。オックスフォード大学の科学者は天然痘、癌、エイズ、地球環境の変化の研究のために、世界各地のインターネット・ユーザーから協力を得ている。
(中略)
 マイクロソフトとインテルという巨大企業の支援があっても、生産消費者のボランティアが貢献していなければ、ここまで画期的なプロジェクトは成り立たなかっただろう。炭疽菌に関する研究で利用したのは、それ以前から続けられてきた癌研究のために募ったコンピューターであり、そのネットワークを追加の研究に利用した。全体で135万人を超えるボランティアが参加している。
(中略)
 この変化の背景には、社会的要因、文化的要因、人口動態要因がそれぞれ相互に補強し、あう形で変化している事実であり、その結果、新しい生産消費技術が爆発的に発展しようとしている。アメリカでは社会の高齢化とともに、これまでとは違った種類の引退者が生まれている。
(中略)
 さらに、インターネットによって、いままでまったく知られていなかった各種生産消費活動のために、一時的なグループが多数作られていく。それとともに、新しい技術製品の市場など、新しい市場が一時的にできることが少なくない。こうした新技術によって、生産消費活動がさらに多角化し、力をつけていく。この好循環がまさにはじまろうとしている。この好循環の勢いが強まっていけば、新しい富の体制の隠れた半分を認識せざるを得なくなる。そして、新しい富の体制に伴う深刻なリスクと素晴らしい機会とを認識せざるを得なくなる。怪しいものだと思うのなら、つぎに音楽の世界で起こっている変化をみてみるべきだ。

第28章 音楽の嵐
 
 アメリカでドラッグと長髪のヒッピーの全盛期だった1970年、アビー・ホフマンの『この本を盗め』が多数の書店の店頭に並んだ。なかには腹を立てて、扱わなかった書店もある。この挑発的な題名は、財産や所有はそもそも邪悪だという考え方を伝えており、19世紀の無政府主義の表現を盗んだものだ。それでも、一部の読者に熱狂的に支持された。
 当時、『未来の衝撃』も書店に並んでいた。ある日の午前、ヒッピーの聖地だったグリニッチ・ビレッジの書店を訪れたとき、ひとりの若者が『未来の衝撃』を手にとって、やはり若い店員に値段を聞いた。「8ドル95セント」と。店員が答えた。
 若者はうなだれて本を棚に戻し、金が足りないといった。
 店員は明るい声でこう応じた。「この先にもうひとつ本屋があるから、そこに行ってこの本を盗め」。この話を聞けば、ホフマンは喜んだだろう。だがこれは、知的所有権絡みの盗みという点では、旧石器時代の話だ。アビー・ホフマンがいま生きていれば、本の題名は『この本を盗み、インターネットで8千万人に無料でばらまけ』になっていたはずだ。
 現在、知的所有権の将来をめぐって、世界的な論争が起こっている。着実に給与が支払われる仕事を何とか続け、子供が社会にでて苦労しないように教育しておこうと考えている庶民にとって、何とも抽象的で小さな問題だと思えるかもしれない。だが、この問題にはすでに何十億ドルもの金がかかっているのであり、多数の職ととくに重要な産業の将来がこれに左右されるのである。こうした問題については、以下でくわしく検討していく。
 だが、もっと重要な点がある。それは生産消費者と生産消費活動がこの世界的な戦いで決定的な役割を果たすことである。この点を理解すれば、富の創出について、驚くような未来像が浮かび上がってくる。

エストニアのオタク
 音楽が大好きで、丸い頭に野球帽を乗せた18歳の少年が新しいコンピューター・ソフトを作りはじめたとき、本人も周囲の人も、大嵐が起こるなどとは考えていなかった。
(中略)
 ~オタクが開発したナップスター、カザー、スカイプというソフトというソフトを開発し、パソコンを使った無料電話が可能になった。(略)
 基礎的条件の深部にある各種要因の変化が重なり、時間的要因では変化が加速し、空間要因ではグローバル化が進み、知識要因では技術知識がすぐに広まって、若者すら強い力をもつようになった。これを「市場破壊兵器」と呼ぶ人もいる。これらの動きはまだ前兆にすぎず、今後、さらに独創的な方法があらわれて、財やサービスが金銭経済の市場から引き揚げられるようになるだろう。(以下略)

生産消費電力
 この点を考えていけば、他の分野にははるかに大きな可能性があることがみえてくる。パソコンの演算能力を少なくとも理屈のうえでは顧客が企業に販売できるのであれば、電力を電力会社に販売することも可能ではないだろうか。
(中略)
 ここで、将来の先端技術によって、無数の家庭が生産消費にも生産にも使える機器を購入するようになると想定してみよう。どのような機器ならそうなるだろうか。安くて強力な太陽電池ならそうなりうる。だが、多数のエネルギー専門家の予想が正しければ、次の大きな飛躍をもたらすのは燃料電池であろう。燃料電池を備えた自動車や住宅から、余った電力が電力会社に販売されるようになる。大手の自動車会社はすでに20億ドルを燃料電池の研究開発に投じている。(中略)このシナリオでは、駐車中の車は建物への電力供給に使われる。車が発電する電力は電力需要のピーク時に電力会社に販売する。いずれ、ガソリンをがぶ飲みする重い車が燃料電池で動く軽量の車に置き換えられれば、アメリカ全体の発電所の「五倍から六倍」にのぼる発電能力をもつようになる可能性があるとロビンスは指摘する。(以下略)

幼児の生産消費者
 以下に論じる点は馬鹿げた話だと思えるかもしれない。そしていまの段階では確かに馬鹿げている。だが、現在では生産消費活動によって、各人の好みにしたがって、多様な素材を組み合わせて音楽や映画、年賀状やカード、デジタル写真など、大量のものを制作できるのだし、自分で電力を生産消費し生産することすら考えられるのだから、それ以上のことができるようになると考えていけない理由があるだろうか。
(中略)
 ~3Dシステムズのマービン・ラジェリーは語る。「孫の代になれば、自分のおもちゃを自分で作るようになる」デスクトップ製造はそれに止まらない意味をもっているという。
(中略)
 デスクトップ製造機が家庭に普及するようになる前に、写真の現像と焼き付けと同様の動きが起こると予想できる。コダックや富士写真フィルムの工場で集中的に行われていた処理が、街の写真屋で一時間以内に行われるようになり、最後にはデジタル・カメラの普及で、生産消費者が行うようになった。自宅で自作できるようになる前に、街にワークショップができ、街角の店でコピーをとるように、DIYを楽しむ人たちが製造機を使うようになるだろう。

手術不要の脂肪吸引
 いまはこの技術が一歩ずつ開発されているが、今後、ナノテクノロジーの進歩と組み合わせるようになって、大きく飛躍する可能性がある。
(中略)
 ナノテクが発達してもしなくても、将来の経済が劇的に変化し、はるかに分散型になって、無数の人たちがファイルを交換し、自分のための生産消費活動と、他人のための生産を行うようになる可能性がある。先進的な機器を使って特注品の生産と生産消費を行う小企業が無数にできるだろう。(略)
 将来の歴史は驚くようなものになる。世界の貧困層のうち金銭経済に引き寄せられていく人がますます増えているので、第一の波の貧困に基づく生産消費は重要性が低下していくだろう。だが、第三の波のハイテク型生産消費は増加していくだろう。強力で用途の広い新たな機器が、先進国の庶民に普及していくからだ。経済専門家の多くはこの歴史的な変化をまだ認識できていないために、富の将来とそれがいまの世代に、そして子供たちの世代に与える影響を理解しようと最善をつくしても、失敗を重ねる結果になっている。

第29章 「生産消費性」ホルモン

 生産能力性は、生産消費者による生産性への寄与と定義する。
 生産消費者の力を示す例には、現代の歴史でもとりわけ驚くべき動きであり、この動きは世界全体の人たちの仕事と遊び、生活、思考のあり方を文字通り変えている。そして、そのことに、ほとんど誰も気づいていない。
 前章まででは、生産消費者が非金銭経済で富を生み出し、金銭経済に「タダ飯」を提供してきたことを示してきた。だが生産消費者はときに、それ以上のことをしている。金銭経済に成長ホルモンを注入して、速く成長できるようにしている。もっと正式な表現を使うなら、生産を増やしているだけでなく、生産性を高めているのである。
 主流派の経済学者のなかで、生産性の向上が経済のほとんどの問題を解決する良薬になることを否定する人はまずいない。しかし、生産消費が生産性に与える影響を検討した経済専門家はほとんどいない。
 実のところ、この点にはほとんど誰も関心をもっていないので、どの分野とくらべても専門用語が多い経済学に、この現象を表現する適切な用語がない。このため新しい用語を作り、これを「生産能力性」と呼ぶことにする。生産消費者が支払いの対象にならない価値を生み出し、それを金銭経済に振り向けるに止まらず、金銭経済の成長率を高めているとき、この刺激を「生産能力性」と呼ぶ。

教育を超えて
 現在、企業経営者と経済専門家のほとんどは、労働者の教育を改善すれば生産性が向上するとの見方に賛成する。だがほとんどの先進国では、「近代的」制度のうち公教育と呼ばれているものほど時代後れで、機能不全に陥っている部分はない。
(中略)
このパソコン学習の過程は、誰も管理していない。誰も指導していない。誰も組織していない。ほとんど誰も報酬を得ないまま、巨大な学習運動が起こり、教育者も経済専門家もほとんど気づかない間にアメリカ金銭経済を変え、企業組織を根本から変え、言葉から生活スタイルまで、ありとあらゆることに影響を与えていった。企業が多数のユーザーを教育するようになったのは、かなり後のことだ。グルという生産消費者は、パソコン革命の隠れた英雄であった。

ラジェンダーのゲーム
 この学習運動はいまでも続いており、インターネットの利用者とそのグルの間で行われている学習によって加速し、はるかに大規模になっている。(中略)
 これはインドのニューデリーで、ソフトウェアを開発しコンピューター学校を経営するNIIT社の科学者、スガタ・ミトラが実際に行ったことである。使い方は書かれておらず、教える大人もいない。
(中略)
 ミトラによれば、子供たちの好奇心と学習能力をうまく利用すれば、いわゆる情報格差を解消するためのコストを劇的に引き下げられる。そうできれば、数千万人、数億人が悲惨な貧困から抜け出す一助となり、生産能力性の原則によって、インド経済の成長率と可能性が劇的に高まる。
(中略)
 この大学習運動によって、富の基礎的条件の深部にある多数の要因との関係が変化した。時間を使う方法と時が変わった。仕事をする場所が変わり、空間との関係が変わった。社会のなかの共通知識の性格が変わった。
 生産消費者は生産を行うだけではない。生産能力を高めてもいる。そして、明日の革命的な富の体制を成長させる一助になっているのである。

第30章 結論 - みえない経路

ここでふたたび、これまでに解きほぐしてきた多数の要素を総合して、一貫した全体像を確認しておくべきだろう。以上では三つの主要な考えを示してきた。

第一に、世界ではいま、富を生み出す方法の歴史的な変化が起こっている。
これは新しい生活様式、新しい文明の誕生という大きな動きの一部であり、いまのところ、アメリカがこの動きの最先端に位置している。
 第二に、企業や投資家、経済専門家が詳細にわたって検討している「基礎的条件」は表面に近い部分にあるものであり、そのはるかに下に「基礎的条件の深部」がある。
 そして、時間、空間、知識を中心に、基礎的条件の深部にある要因との関係をわれわれは革命的に変化させている。
 今日では変化が加速していることから、経済のなかで「同時性のズレ」が起こる部分が増え続けている。経済ではグローバル化の時代が終わる可能性がある一方で、他の分野で再グローバル化が進む状況になっている。そして何よりも、富の創出の基礎にある知識基盤が急速に変化し、知識の多くが「死知識」になって重要性を失う一方、科学に挑戦し、さらには真実の定義と基準に挑戦する動きすら起こっている。
 第三に、金銭経済はもっと大きな富の体制の一部でしかなく、ほとんど注目されていないが、「生産消費活動」と呼ぶものに基づく世界的で巨大な非金銭経済から提供される価値に依存している。
(中略)
 このため本書では、いくつかの間違った想定を捨てるよう主張してきた。経済統計の対象になっているものだけから富が生み出されているという想定、「価値」が生み出されるのは金銭のやりとりがあったときだとする想定などである。これらの想定を捨てて、もっと大きな「富の体制」に注意を向けるべきである。金銭経済が生産消費者の提供する「タダ飯」に支えられて存続しており、生産消費者には金銭経済に挑戦する力すらあることに注目すべきだ。
生産消費の影響
 これまでにみてきたように、実際には少なくとも12の重要な経路があって、生産消費者と生産消費活動が金銭経済と影響を与えあい、価値を移行しあっている。これらの経路は今後、ますます重要になるだろう。このため、とくに単純なものから順に、これらの経路をまとめておく意味があるだろう。
 第一に、生産消費者は「第三の仕事」とセルフ・サービスの活動によって、無報酬の仕事を行っている。ATMを使い、スーパーでセルフ・レジを使って、金銭経済の労働コストを削減し、単純労働の職を減らしている。(以下略)
 第二に、生産消費者は金銭経済から「資本財」を購入している。(以下略)
 第三に、生産消費者は自分の機器や資本財を金銭経済のユーザーに貸している。(以下略)
 第四に、生産消費者は住宅を改良している。(以下略)
 第五に、生産消費者は製品やサービス、スキルを「市場化」している。(以下略)
 第六に、生産消費者はさらに、製品やサービスを「非市場化」している。(以下略)
 第七に、生産消費者はボランティアとして価値を生み出している。(以下略)
 第八に、生産消費者は貴重な情報を無料で営利企業に提供している。(以下略)
 第九に、生産消費者は金銭経済で消費者の力を強めている。(以下略)
 第十に、生産消費者はイノベーションを加速している。(以下略)
 第十一に、生産消費者はインターネットで急速に知識を生み出し、広め、蓄積して、知識経済が利用できるようにしている。(以下略)
 第十二に、生産消費者は子供を育て、労働力を再生産している。(以下略)

気づかれていない治療
 以上に指摘してのは、富の体制を構成する二つの部分の相互作用のうちごく一部にすぎない。以上にあげた十二の経路だけでも、それぞれが相互に影響を与えあうことを考えれば、今後の革命的な富について、新たな疑問が生まれてくる。(中略)
 職のない人は非生産的なのだろうか。福祉に頼っている人は非生産的なのだろうか。四肢が麻痺した人が電話で友人に貴重な助言を与えたとき、報酬を受け取らなくても、精神科医が一時間百ドルで行う治療と変わらない価値をもつのではないだろうか。その友人が自殺を思い止まったとしれば、電話での助言で救った命の価値をどう考えるべきなのか。助言には一時間二百ドルの価値があったのだろうか。
 革命的な富は金銭だけではないのだ。


 
(上巻終了 下巻につづく)


アルビントフラー・ハイジトフラー共著 富の未来(上)006

2012年01月22日 09時22分14秒 | 富の未来(上)
富の未来(上巻)の最終章、第6部「生産消費者」を文字数が多くなるために、2回に分けて抜粋紹介します。
まずは、第23章「隠れた半分」~第25章「第三の仕事」まで、最新事例の比較は、その後にまとめます。


2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)
第6部  生産消費者P.279~376
第23章 隠れた半分
 一人一日当たりの所得が一ドル以下の人が十億人を超えるという話をよく聞く。一日一ドルを大きく下回る所得でようやく生き延びている人が何億人もいるのだ。それどころか実際には、金銭をまったく使わない人がいまだにかなり多い。世界の金銭経済制度にまったく参加していない。はるか昔の祖先のほとんどがそうしていたように、基本的に自分たちで生産できるものだけを消費して生きているわけだ。これらの貧しい人の多くは、金銭経済に参加するためなら、ほとんどどんなことでもしょうとする。
 金銭経済に入るには、「金銭経済への七つのドア」とも呼べるもののうちどれかを通らなければならない。(以下略)
第一のドア
「何か売れるものを作る」。穀物の生産を増やす。似顔絵を描く。サンダルを作る。買い手を見つけ出せば、カギは開く。
第二のドア
「職につく」。働く。その報酬として金銭を得る。これで金銭経済に入れる。目に見える経済に参加できる。
第三のドア
「相続する」。親か親戚から金銭を相続すれば、このドアは開く。金銭経済に入れる。職を探す必要はなくなるかもしれない。
第四のドア
「貰う」。誰でもいいから、誰かから金銭を貰うか、売れば金銭を得られるものを貰う。どのような形でもそうしたものを貰えば、金銭経済に入れる。
第五のドア
「結婚する」。再婚でもいい。七つのドアのどれかを通ってすでに金銭経済に入っている相手を見つけて結婚し、相手がもっている金銭を夫婦で使えるようにする。そうすれば中に入れる。
第六のドア
「福祉の世話になる」。政府がしぶしぶながら給付金を支払ってくれる。金額はわずかだろうが、その分、金銭経済に入れる。
第七のドア
「盗む」。最後に、どの社会、どの時代にも盗むという手がある。犯罪者にとって最初の手段、自暴自棄になった貧乏人にとって最後の手段が盗みである。  
 もちろん、いくつかの小さな変形がある。たとえば賄賂があり、たまたま見つけた金銭を拾う場合もある。だが以上の七つが過去何世紀にもわたって、金銭経済に入るのに使われてきた主な入口である。
 本書で「目に見える経済」と呼ぶ金銭経済は、現在、世界全体で年間の総生産がほぼ五十兆ドルである。この金銭が、地球上で年間に生み出されている経済的価値の総額だとされている。だが、人類が年間に生み出している財とサービスの総額が五十億ドルではなく、百兆ドルに近いとすればどうだろう。五十兆ドル以外に、いうならば「簿外」の五十兆ドルがあるとすればどうだろう。あと五十兆ドルがあると信ずる理由が十分にあり、この見失われている五十兆ドルが次章以降のいくつかの章のテーマである。(以下略)

生産消費者の経済
 金銭経済に入るためのドアは七つだが、隠れた経済、「簿外」の経済へのドアは無数にある。そして以下で説明するように、このドアは金銭をもっていようがいまいが、誰に対しても開かれている。この経済に入るのに必要な条件はない。人は誰でも、生まれたときにすでに、この経済に入る資格を与えられている。
 目に見えない経済を、いわゆる「地下経済」「ヤミ経済」と混同してはならない。
(中略)
 実際には、これ以外に巨大な「隠れた経済」があり、ほとんど調査されず、統計の対象にならず、支払いの対象にならない経済活動が大規模に行なわれている。それは非金銭の生産消費者経済である。
(中略)
 人は誰でも生産消費活動に時間を使っており、どの経済にもかならず生産消費部門がある。きわめて個人的なニーズや欲求の多くはそれを満たす財やサービスが市場で供給されていないか、供給できないか、高すぎるからであり、あるいは、生産消費活動がほんとうに楽しいからか、必要不可欠だからである。
 金銭経済からいったん目を移し、経済のおしゃべりをあまり聞かないようにすると、驚くべきことが分かる。第一に、生産消費経済は巨大である。第二に、とりわけ重要な点の一部が生産消費経済で行なわれている。第三に、生産消費経済は、大部分の経済専門家にほとんど無視されているが、それがなくなれば十分後には、年に五十兆ドルの金銭経済が機能しなくなる。(中略)~とくに重要な問題である。

最高の母親
 生産消費にはフリーウェアの作成、電灯の修理、学校の資金集めのためのクッキー作りなど無数の形態がある。(中略)
 家族が行なうこれらの活動は通常、統計の対象にならないが、「同様の活動が市場で行なわれた場合と変わらない」生産活動だとリンジェンは論じる。いいかえれば、「生産消費活動」であり、非金銭活動である。これらの活動のために人を雇えば、請求金額の多さに仰天することになるだろう。
おまるテスト(略)
社会の分裂のコストは
 何人もの部外者が過去数十年に、富の創出にあたって生産消費活動が果たす決定的な役割を適切に評価していないと、経済学者を繰り返し非難してきた。(中略)
 活動家にも、『地球市民の条件』などのヘイゼル・ヘンダーソン、~主流派経済学がみずから視野を狭めていることを批判してきた人は少なくない。最後におそらくもっとも重要な動きとして、多数の国で無数の非政府組織が同じ批判を行なっている。
 だが現在でも、金銭経済とその巨大な影とをつなぐ決定的な相互関係を組織的に調査する努力はほとんど進んでいない。(中略)
 生産消費者が家族、地域社会、社会の結合を強める動きをとるとき、それは日常生活の一部なのであって、経済専門家がドル、円、元、ウォン、ユーロー、ボンドなどの単位で社会の結合の価値を示してくれれば。では、無給の労働は全体としてどれだけの価値があるのだろうか。

極度偏向生産統計
 1965年に早くも、34歳だったゲーリー・ベッカーが画期的な論文を発表し、こう指摘した。「いまでは、働いていない時間の方が、働いている時間よりも経済的厚生に重要かもしれない。だが経済学者が働いている時間に向ける関心は、働いていない時間に向ける関心とは比較にならないほど大きい」
 両者への時間配分を分析するために、学習などの労働以外の活動の価値を計算した。教室で学ぶ時間は有給の労働にあてることができたと想定し、失われた所得の総額を算出した。
 ベッカーの論文はこの単純化した紹介から予想されるものよりはるかに複雑であり、経済専門家が敬意を払う数式で表現されていて、経済理論の進歩をもたらす素晴らしい業績である。だが、ベッカーがこの論文を理由の一つとしてノーベル賞を受賞したのは、二十七年後の1992年であった。
(中略)
 このように経済専門家は、基礎的条件の深部にある時間、空間、知識という先進国経済にとって決定的に重要な要因をほとんど研究していないだけでなく、「経済的価値」の常識的な定義に固執しているために、急速に迫ってきた根本的な変化に目をつぶる結果となっている。
 経済専門家が常識的な定義に固執する一因は、金銭なら簡単に算出でき、数式化とモデル化が容易な点にある。無給の活動ではそうはいかない。このため統計にこだわる経済学の世界では、生産消費は中心的な関心の領域から外れることになる。金銭経済の分析に使われているものに対応する統計を、生産消費を対象に作成する動きはほとんどない。金銭が支払われる経済と支払われない経済とが影響を与えあう多様な経路を組織的に解明しようとする努力は、ほとんど支払われていない。
 例外のひとつに、オランダのマーストリヒト大学のリシャブ・アイヤー・ゴッシュによる素晴らしい研究がある。「価値の尺度になる金銭が使われない場合、価値を計測する別の方法を見つけ出す必要があり、価値を根拠づける各種の方法と各方法で表示された価値の交換比率を見つけ出す必要がある」と論じている。しかしゴッシュは全体として、多数の分野でみられる無給の貢献のうち、ソフトウェア生産消費者による無給の仕事に研究対象を絞り込んでいる。
 生産消費が確かにごく小さいのであれば、あるいは金銭経済にはほとんど影響を与えないのであれば、生産消費について無知でも問題はないかもしれない。だが、この二つの想定はどちらも違っている。そのため、たとえば国内総生産(GDP)のように、企業や政府が方針や政策の決定の基礎として頻繁に使っている統計が歪んでおり、極度偏向生統計と名付けるのが適切だといえるほどになっている。
(中略)
 これらの点がきわめて重要なのは、知識革命がつぎの段階に入るとともに、経済のうち生産消費セクターが目ざましく変化し、歴史的な大転換が起ころうとしているからである。
 貧しい国で大量の農民が徐々に金銭経済に組み込まれていく一方、豊かな国では大量の人がまさに逆の動きをしている。世界経済のうち非金銭的な部分、生産消費の部分での活動を急速に拡大しているのである。
 (以下略)

第24章 健康の生産消費
 今後あらわれる生産消費経済の爆発的成長で、多数の新たな億万長者が生まれるだろう。そうなってはじめて、生産消費経済は株式市場、投資家、経済専門家に「発見」され、「目に見えない経済」ではなくなる。日本、韓国、インド、中国、アメリカなど、先端的な製造業とニッチ・マーケッティングが発達している国、技術力の高い知識労働者が多い国が、真っ先にこの動きを追い風にできるだろう。だがそれだけではない。
 生産消費活動によって市場は大変動し、社会のなかの役割分担が変わり、富についての考え方が変化する。健康と医療のあり方も変わるだろう。その理由を理解するには、人口動態、医療コスト、知識と技術がいずれも急速に変化して、一点に収斂していくことをざっとみておく必要がある。
 医療の分野は、とくに目ざましく新技術が開発されている一方、医療機関がとりわけ時代遅れで、組織が混乱し、逆効果で、ときには致命的ですらある状況になっている。「致命的」という言葉は大げさすぎると思うのであれば、いくつかの事実をみてみるべきだ。
(中略)
 現在では豊かな国で死因の上位を占めるものはもはや、肺炎や結核、インフルエンザといった感染症ではない。心臓病、肺がんなど、食事や運動、アルコール、ドラッグ、喫煙、ストレス、性行動、海外旅行などの生活習慣から大きな影響を受ける病気である。
 だがこのような変化が起こったなかでも、医者が「健康の供給者」で患者が「顧客」だという基本的な見方は変わっていない。社会の高齢化によって、この見方を見直す必要に迫られる可能性がある。

百歳まで生きる確率は
 人口動態は必然だとする見方もある。そうだとするなら、必然も他のものと同じように変化している。現在、歴史上はじめて、六十歳以上の人口が十億人を超える時期が急速に近づいている。
(中略)
 どの国の医療制度も、生活習慣病の増加と社会の高齢化という組み合わせに対応できるようには設計されていない。~ いま必要なのは単なる改革ではない。はるかに劇的な動きである。

パニック状態
 ~前述のように、GDPは生産消費活動を考慮していないので、極端に歪んでいる。経済専門家が生産消費活動の価値を算出すれば、医療費の総額ははるかに大きくなるだろう。
(中略)
 だが、この全体像にはいくつもの欠陥がある。第一にこれらの数値の多くは、これまでの動きを直線的に延ばして予想されている。危機や革命の時期には、この種の予想は誤解を招くものになる場合がある。(略)残念なことに、工業時代の想定に基づいて改革を行なっていけば、意図は正しくても、問題が悪化するだけになる。政治家はコスト削減のために通常、「効率性」を高めようとして、組み立てライン型の医療、標準化された画一的な治療を行う「管理型」システムを追求する。
(中略)
 医療制度では今後もコストと非効率性が膨らんでいく。第二の波の方法を超えて、知識経済の到来によって開かれた大きな機会と生産消費型医療の新たな可能性を利用するようになるまで、この危機は解決できない。

画期的な進歩の大波
 医療の革命をもたらしうるのは、過去数十年に医療の知識(そして死知識)がすさまじく増加してきた事実だけではない。同時に、知識を管理する方法が変化してきた事実も重要である。
 世の中には、過去には入手できなかった医療情報があふれている。患者は医療情報をインターネットで即座に入手できるし、医師が司会をつとめる医療コーナーを設けているニュース番組が多い。
(中略)
 処方薬のテレビ広告解禁が間違いなく背景になって、ケーブル・テレビに二十四時間の健康番組専門局、ディスカバリー・ヘルス・チャンネルが生まれた。
(中略)
 患者がインターネットで探した論文のプリントアウトや、「医師薬年鑑」の関連ページのコピー、医学雑誌や健康雑誌の切り抜きをもって病院を訪れるようになった。鋭い質問をし、医師の白衣に敬意を払ったりしない。
 この点で、基礎的条件の深部にある時間と知識との関係が変わって、医療の現実が抜本的に変化しているのである。
 医師は医療サービスを売っており、経済的にみれば「生産者」であることに変わりはない。これに対して患者は「消費者」の立場を超えて積極的な「生産消費者」になり、健康という面での経済の生産にもっと寄与する能力をもつようになった。ときには生産者と生産消費者が協力して働くこともある。ときにはそれぞれが単独で働くこともある。そしてときには、両者が対立することもある。だが、健康と医療に関する一般的な統計と予想はほとんどの場合、医者と患者の役割と関係の急速な変化を無視している。
(中略)
 現在、実際の比率がどうなっているかは分からないが、社会の高齢化、医療費の圧力、知識の普及という要因の組み合わせによって、生産消費の比率が劇的に上昇する状況にある。だが、以上ではもっとも重要な変化になりうる点、すなわち将来の技術は考慮していない。この点を考慮するとどうなるかをみていこう。

糖尿病ゲーム
 患者の生産消費活動は、運動を増やしたり、タバコを止めたりすることには止まらない。自分の資金を投資して機器を買い、自分や家族の健康をもっと管理できるようにしてもいる。(中略)
 いまではインターネットで、アレルギーからエイズ、前立腺ガン、肝炎まで、あらゆる病気を発見するための自己検査用製品を見つけて、購入できるようになった。
(中略)
 こうした予想ではつねにそうだが、これらの機器のすべてが日の目を見るわけではなく、安くて実用的で安全な製品が開発できるわけでもない。だが、これらは今後あらわれる技術革新の第一波でしかない。今後の技術革新によって、家庭医療と医療機関の医療双方で経済性が変わるだろう。そして、ほとんど統計のない生産消費経済が金銭経済と関連しあうもうひとつの道になる。
 生産消費者は自分の金を投資して資本財を買い、非金銭経済での能力を高められるようにしている。それによって、金銭経済でのコストを引き下げることになる。
 生産消費の重要な役割を認識し、医師による産出と患者による産出の比率の変化を認識すれば、医療と健康の「産出高」が全体として増加するのではないだろうか。
 人口動態、コスト、知識の量と入手可能性の変化、今後予想される画期的な技術革新のどれをみても、生産消費者が今後の巨大な医療経済でさらに大きな役割を果たすことははっきりしている。 
 したがって、経済専門家にとって、非金銭経済を重要性が低いものだと片付けるのではなく、金銭経済と非金銭経済が互いに強化しあい、関連しあって富を創出し、健康を維持する全体的な体制を形成していく道筋のうち、とくに重要な部分を組織的に調査すべき時期がきている。
(中略)
 ~政府が医療に関して行える投資のうちとくに効果が高いもののひとつに、健康の生産消費者としての能力を高めるための知識を学校で教えることがあるとみている。
(中略)
 問題はこうだ。相互の結びつきがきわめて密接な知識経済で、医療危機と教育危機を関連したものとみるのではなく、それぞれ独立した問題だとする見方を維持する理由があるのだろうか。両方の分野で考え方と制度を革命的に変えるために想像力を使えないのだろうか。無数の生産消費者がすぐにも力を貸してくれるのだから。



第25章 第三の仕事
 ストレス過剰になっていないだろうか。忙しすぎるのではないだろうか。どうしてこれほど時間が不足するのだろうか。金銭経済が超高速で動いているので、「忙しすぎて時間がない」というのがほぼすべての人に共通の怒りのネタになっている。
(中略)
 熾烈な競争に急かされて活動が加速し、いくつもの活動を逐次処理していく方法から同時に処理する方法に変化しているのは、基礎的条件の深部にある時間との関係が大きく変化していることを意味し、同時に仕事、友人、家族との関係が大きく変化していることを意味する。
(中略)
 だがいまでは、さらに新しい負担がくわわっている。第一の仕事(有給の仕事)と第二の仕事(無給の家庭の仕事)にくわえて、第三の仕事(やはり無給の仕事)までかかえている人が多い。(以下略)

ビュッフェを超えて
 これはひとつの銀行だけの動きではない。アメリカでは2002年に、銀行の顧客がATMを140億回近く使っている。これは世界全体の3分の1にあたる。顧客にとって、ATMは窓口で順番を待つ時間を省けるので便利だ。急げ急げのいまの経済では、1分たりとも無駄にできない。
 窓口で銀行員が対応すれば、一人平均2分かかると想定しよう。その場合、顧客は合計280億分、つまり約4億7000万時間の仕事をタダでしたことになり、銀行はフルタイムで20万人分の仕事を節約できたことになる。
 だが、顧客の側は合計280億分を節約できたわけではない。ATMでもやはり、2~3分かかる。違いは顧客みずからキーをたたき、以前なら銀行の従業員がやっていた仕事の一部を引き受け、そうさせていただくために、往々にして追加手数料まで支払っていることだけである。皮肉なもので、銀行業界の専門家によれば、顧客はキーを叩くなど、何かやっていれば、待ち時間が短いと感じるものなのだという。
(中略)
 答えはこうだ。銀行の窓口係の仕事と同じように、有給の従業員から無給の生産消費者に移されるのである。
 あらゆる面で、世界各地の抜け目のない企業は「外部化」する巧みな方法をつぎつぎに編み出している。この点で最優秀賞を贈るべきは、貪欲で巨大なアメリカ企業ではなく、お好み焼きチェーンの「道とん掘」かもしれない。ビュッフェ・スタイルで盛り付けを客に任せる方法からはるかに飛躍して、テーブルにある鉄板で客が料理までする仕組みにしているのだから。(以下略)

スーパーの押し付け
 顧客に仕事を押し付けるのは新しい現象ではない。以前には、近くの食品店に行くと、商品はカウンターの中にあって、客が頼んだ商品を店員が棚から探し出すようになっていた。セルフ・サービスのスーパーマーケットは1916年、クラレンス・ソーンダーズがこの仕事を客がやってくれるはずだと考え、その仕組みで特許をとったときにはじまった。
 新技術によって、外部化を一層進めることで利益を増やせるようになった。何年か前のスーパーの様子をソーンダースがみれば、スキャナーを理解できなかっただろう。だが、当時はまだレジ係が必要だった。いまではいくつかのスーパー・チェーンの店舗で、顧客がハンドヘルドの機械を使って自分が買う缶や箱のバーコードを読み込ませ、クレジット・カードで支払いをする仕組みがとられている。ねえママ、このお店のレジには店員さんがいないよ・・・・。
(中略)
 いまの時代に登場してきた新しい現象は、情報技術の発達によって、驚くほど広範囲な活動で消費者を生産消費者にすることが可能になった点だ。その結果、あらゆる種類の企業が美味しいタダ飯の可能性を見つけだしている。
(中略)
 もちろん、他人に無給の仕事をする責任を負わせて経費を削減する点で、厚顔無恥大賞を贈られるべきは税務当局である。複雑な簿記と計算の責任をすべて納税者に負わせており、納税者は税金を納めさせていただくために、大量の仕事を無給で行っている。
 以上のように、人はみな、金を稼ぐための第一の仕事、生産消費者としての第二の無給の仕事にくわえて。やはり無給の第三の仕事までこなしているのだから、いつも時間に追われているにも不思議ではない。
 人びとは、生産、消費、生産消費の間で時間を再配分している。時間との関係が、この点でも変化しているのである。
 金銭経済での競争圧力を、社会の高齢化などの人口動態の圧力、知識の進歩と普及、生産消費に使える技術の急激な拡大という要因にくわえれば、今後、生産消費が爆発的に増えると予想する理由は十分にある。
 生産消費を増やして労働を外部化しようとする動きはきわめて強く、最近、新聞漫画の『ディルパート』に、経営者が「運が良ければ、顧客を訓練して製造と出荷までやってもらえる日はくるさ」とうそぶいている場面が出てきたほどである。以下でみていくように、これは法螺話ではないのかもしれない。




















アルビン・トフラー ハイジ・トフラー共著 富の未来(上)005

2012年01月01日 10時50分09秒 | 富の未来(上)
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)
第5部 知識への信頼 P.190~278
第15章 知識の先端
 グエン・ティ・ビンはベトナムの五十代の女性であり、ハノイから百キロほど南にある農村の小さな水田で米を生産している。ビンが水田で米を生産しているとき、他の人が同じ水田で米を作ることはできない。
 タチアナ・ラセイキナは二十代の女性で、モスクワの南にあるトリアッティのアフトワズ自動車組み立てラインで、ドア・ハンドルを取り付ける仕事をしている。ベトナムの水田と同様に、ラセイキナが働く組み立てラインが騒音をたてて操業しているとき、他の人が同じ組み立てラインを使うことはできない。
 二人の生活と文化は大きく違っている。一方は農業生産を象徴し、他方は工業生産を象徴している。だが共通点もある。農業でも工業でも、主要な資産、資源、製品は経済学でいう「競合財」である。つまり、ある人が使っているときに他の人が使えない性格をもっている。
 ほとんどの国は農業か工業を中心にしていたし、いまでもそうした国が多いので、経済学者のほとんどが富の創出の手段のうち競合財に関するデータを集め、分析し、理論化することでキャリアを築いてきたのは、以外だとはいえない。
 ところが思いがけず、これまでとは性格が違う富の体制が登場した。この制度では時間と空間との関係が劇的に変化したうえ、基礎的条件の深部にある第三の要因、知識との関係も劇的に変化している。
 時代に取り残された経済学者は、新しい富の体制の重要性を無視して何も変わってないかのように研究を続けるか、不適切な方法を使って新しい制度に探りをいれている。そうなる一因はこうだ。米や自動車のドア・ハンドルとは違って、知識は無形であり、知識とは何かを考えていくと、出口のない迷路に迷い込むのが普通なのだ。
 幸い、本書の目的には、対立しあう無数の定義をすべて検討していく退屈な作業は不要である。また、きわめて厳密で明確な定義も必要としない。頼りないように思えるかもしれないが、世界の知識基盤がどのように変化しているのか、いまの変化が将来の富にどのように影響を与えるかを明らかにするうえで役立つ実用的な定義があれば十分だ。
(中略)
 本書ではこれらの言葉を以上のようにつかうが、「データ、情報、知識」と何度も繰り返せばくどくなるので、この三つを区別する必要がない場合には、「情報」か「知識」という言葉で三つの概念の全体か一部を指すことにする。
 以上の区別ではせいぜいのところ、知識の大まかな定義にしかならない。だがこの段階では、新しい富の体制での「知識供給」とでも呼べるものを描いていくには、これで十分である。
 これまでに「知識経済」に関して、地球上のあらゆる言語で、無数の文章が書かれ、デジタル化され、無数の発言がなされ、議論されてきた。だが、富の創出に使われる資源や資産のなかで、知識にどれほど大きな性格の違いがあるのかを明確にしたものはほとんどない。そこで、まずは知識の性格がどれほど違うかを、いくつかの点でみていくことにしょう。
 第一に、知識はその性格上、非競合財である。(以下略)
 第二に、知識は無限である。(以下略)
 第三に、知識は線型ではない。(以下略)
 第四に、知識は関係性という性格をもっている。(以下略)
 第五に、知識は他の知識と関連をもっている。(以下略)
 第六に、知識はどの製品よりも移動が簡単である。(以下略)
 第七に、知識はシンボルや抽象的な概念に圧縮できる。(以下略)
 第八に、知識は蓄積に必要な空間が縮小しつづけている。(以下略)
 第九に、知識には、明確に表現されたものも、されないものもある。(以下略)
 第十に、知識は秘密にしておくのがむずかしい。かならず広まっていく。 

 これらを総合すると、経済専門家が扱いなれてきた有形の財とは性格がまるで違うことが明確になる。そこで、経済専門家のほとんどは、たいていの人がそうするように、首をふって自分が知っている世界に安らぎを求める。慣れ親しんだ有形の競合財の世界に戻ろうとする。
 だが以上にあげたのは一部でしかない。知識には、有形の財に基づく経済学の既成の概念でとらえきれない性格がまだまだある。
 
タイヤを蹴ってみる
 知識資産には奇妙で逆説的な性格がある。(以下略)

第16章 明日の「石油」
 不思議に思えるかもしれないが、「知識経済」がはじまってたっぷり半世紀が経過した現在でも、新しい経済の背景にある「知」については、赤面するほどわずかな点しか分かっていない。知識は明日の経済の「石油」だと主張する人が多いが~(以下略)

使えば使うほど
 だが、その際に出発点となるのは、中心的で単純な事実だ。富の基礎的条件の深部にある要因のひとつである知識も、現在の社会環境でとくに急速に変化する部分になっているという事実である。だからこそ、知識は石油にたとえることができない。
(以下略)
経済学は希少な資源の配分に関する科学だといわれてきたが、いまやこの定義は通用しなくなった。知識は無尽蔵なのだから。
(中略)
 あらゆる産業、あらゆるセクターが大量生産、大量消費から脱却し、さらに高付加価値で、さらに個々人のニーズにあわせた製品、サービス、体験を提供せざるをえなくなっている。そして何よりも、無秩序とはいえないまでも、複雑さを増していく状況で、はるかに速く、はるかに賢明に意思決定を行う必要に迫られている。
 だが、新興の知識経済に関して無数の分析と研究が行なわれてきたにもかかわらず、知識が富の創出に与える影響は過小評価されてきたし、いまでも過小評価されている。
 
製鉄所と製靴工場
 アメリカはいまでも製造業大国だが、製造業で働く人はいまや、労働人口の20パーセント以下になった。~(中略)
~こうした人は「知識労働者」に分類されていないだろうが、やはり知識か、その基礎になるデータと情報を生み出し、加工し、伝えている。事実上、就業時間の一部で知識労働者として働いているのだが、知識労働者には数えられていない。~
 要するに、以上をはじめさまざまな理由から、知識は経済専門家に長く軽視されてきた。いまでもそうだ。過去になかったほど軽視されている。このため、明日の経済の核心を見通すには、まず知識に関する知識不足を補う必要がある。

われわれの内部「倉庫」
 人はみな、どの時点でも仕事や富に関する知識を個々人でもっている。
 これらの知識は基本的に違う二つの方法で蓄積される。知識供給の一部は頭脳に蓄積される。人はみな、知識とその前段階にあたるデータや情報が一杯につまった目に見えない倉庫をもっている。だが、普通の倉庫とは違って脳は作業場であり、人は(もっと正確に言うなら、人の脳にある電気化学反応は)、数やシンボル、言葉、イメージ、記憶をたえず移動し、くわえ、差し引き、まとめ、整理しなおし、感情と組み合わせて新しい考えを生み出している。

総知識供給
 だが、世界の知識供給の大部分は、脳以外の場所に蓄積されている。これは人類の長い歴史のなかで、そして現代に積み重ねられてきた知識であり、大昔の洞穴の壁から最新のハードディスクやDVDまで、さまざまなものに蓄積されている。
 人類の当初数百年にわたって、知識をひとつの世代からつぎの世代に伝える方法は、ほぼ言い伝えだけにかぎられていた(そして、繰り返し語られるたびに不正確になっていった)。
 この「外部頭脳」は信じがたい速度で拡大している。~(略)
 この世界的な外部頭脳はまだ幼く、不安定であり、結合がまだ成熟していない。だが人類の歴史には決定的な臨界点があり、それがいつだったかは分からないが、知識の総量のうち、脳の外部に蓄積されている部分の量が、脳の内部に蓄積されている部分の量を上回った。われわれが知識についていかに無知なのかを証明するものがあるとするなら、それは、人類の歴史のなかできわめて重要なこの変化が知られていないか気づかれていない事実である。
(中略) 
 外部に蓄積され、急増している知識を、65億の脳に蓄積されている知識にくわえてはじめて、人類の知識供給の総量、総知識供給(ASK)とでも呼べるものを算出できる。これが汲めども尽きぬ源泉になっており、革命的な富はこれを活用できる。
 ASKが拡大しているだけでなく、それをまとめ、利用し、配付する方法が変わっている。インターネットの検索エンジンは検索の条件を細かく指定できるようになり、さまざまな方法で情報内容を組み合わせ、操作できるようになってきた。また、いままでのところ、欧米流の論理や考え方が知識の圧倒的な部分を占めているが、今後は世界的な知識のメタ・システムが発達し、欧米流以外の論理や多様な体系化の方法がくわわって、知識が豊かになるだろう。
 いま、あらゆる種類の富とその基礎的条件の深部にある知識との関係の全体が、過去に例のないほど急速に激烈に根本から変化しており、しかも、やはり基礎的条件の深部にある時間と空間との関係が同時に変化しているのである。この点を認識してはじめて、現在、富の創出をめぐって起こっている激変がどこまでの深さをもつものなのかを理解できる。
 
アルツハイマー病なんか怖くない
 (中略)
 実際のところ、人類の歴史のなかで、世界の知識の仕組みが現在ほど根本から変化したことはなかった。この点を理解しないかぎり、将来に関する最善の計画でも失敗するだろう。
 この点から、トマトには毒があるとの見方について、子供の頭が埋められているとの見方について考えていきたい。

第17章 死知識の罠
 考えることは重要だ。だが、われわれが考えている点の多くは間違っている。われわれが信じている点のうちかなりの部分は、まず確実に馬鹿げている。
(中略)
 現在では、仕事に必要な知識は急速に変化しているので、職場内と職場外で新しい知識を学ぶ必要が高まりつづけている。学習は終わりのない継続的な過程となった。このため、考えている点の一部が馬鹿げていても、困惑する必要はないといえる。馬鹿げたことを信じているのは自分だけではないのだ。
 その理由はこうだ。知識のすべての部分に結局のところ、賞味期限がある。ある時点で、知識は古くなり、「死知識」とでも呼べるものになる。

過去の真実
 プラトンの『国家』やアリストテレスの『詩学』は「知識」の一部なのだろうか。孔子やカントの思想はどうだろう。もちろん、これらの思想を「知恵」と呼ぶことはできる。だが、これらの著書や哲学者の知恵は、それぞれの人が知っていたこと、各人の知識基盤に基づいており、その多くは実際には間違いであった。
(中略)
エミリーおばさんの屋根裏部屋
(中略)
 皮肉なもので、先進諸国の企業は自社の「知識管理」「知識資産」「知的財産権」を誇っている。だが、金融工学専門家、エコノミスト、企業、政府は大量の統計を分析しているのに、意思決定の質の低下という形で、死知識のコストがどれほどになっているかは誰も考えていない。個人の投資、企業の利益、経済開発、貧困撲滅計画、そして富の創出の全体に、どれほどの障害になっているのかを考えてみるべきだろう。
(中略)
 こうした「思考の道具」のうちとくに重要なものに類推があり、これにある程度まで匹敵するほど重要なものはほとんどない。複数の現象が類似していることを見つけ出し、ひとつの現象について得た結論を他の現象に適用するのが類推である。
 人は類推という手段を使わなければ、考えることも話すこともほとんどできなくなる。
(中略)
 だが、類推という思考の道具は、使うのがむずかしくなっている。類推はいつの時代にも一筋縄ではいかないものだったが、いまでもますます使いにくくなった。世界は変化しており、以前に似ていたものが似ても似つかぬものになり得る。以前なら適切な類推になったものが、いまではこじつけになる。過去との類似が断ち切られていき、しかも気づかない間に断ち切られていくことが少なくないので、それに基づく結論は誤解を招きかねないものになる。変化が速いほど、類推が役立つ期間が短くなる。
 こうして、基礎的条件の深部にある要因のひとつ、時間の変化が、別の要因である知識を得るために使う基礎的な手段に影響を与えている。
 要するに、知識経済の専門家の間ですら、「死知識の法則」とでも呼べるmの、「変化が加速すれば、死知識の蓄積も加速する」事実について考え抜いている人はほとんどいない。現代に生きる人たちには、ゆっくりとしか変化しない昨日の社会に生きていた祖先よりも、死知識の負担が重くなっているのである。
 このため、いまの時代に生きるわれわれがとくに重視している考えの多くは、何世代かの後には笑いのタネになっているはずだ。
 


第18章 ケネー要因
 現在ではかつてなかったほど、経済学を学んだ人たちの力が世界全体で強まっている。
(中略)ところが、学生のころに学んだ考え方の多くは、「死知識の屋根裏部屋」に納めるか、それよりも死んだ考えの墓地に埋葬すべきものなのだ。

経済学の失敗
(略)
推定の推定
 もちろん、エコノミストの失敗は簡単に見つかるが、それをいいたてるのは公平な態度だとはいえない。人間が関係することにはかならず偶然がつきまとうので、意思決定者が要求するほどの確実性をもって将来を予想できる人は誰もいない。
(中略)
 それらにこれらの点では、経済学の考え方のうちかなりの部分が意味をもたなくなっているか、誤解を招くものになっている根深い理由を説明できない。
 第一に、いまの経済専門家が理解しようと努力している経済は、過去の偉大な経済学者が理解しようとしたものより、はるかに複雑だ。(以下略)
 第二に、さらに重要な点だが、いまの経済専門家が理解しようと努力している経済は、過去には考えられなかったほど、取引と変化のペースが速い。(以下略)
 第三に、それ以上に大きな問題がある。産業革命初期の経済学者は農業時代の考え方を超えなければならず、通用しなくなった考え方を捨てなければならなかったのだが、いまの経済専門家も同じ課題に直面している。工業時代の考え方を超えて、最新の革命的な富の波がどのように経済を変えているのかを理解しなければならない。
(中略)
 二十世紀には経済理論が大きく前進したが、その多くは現実の問題に高等数学を適用した結果である。つまり、ものを計測する点で前進してきた。ここで重視されてきたのは「もの」、それも有形のものである。
 しかし革命的な富は無形のものによって生み出され、無形のものを生産するという性格を強めている。革命的な富を理解するには、あらゆる資源のなかでもとくにとらえどころがなく、とくに計測しにくい知識をうまく扱わなければならない。
 過去の偉大な経済学者も、無形のものの重要性に気づかなかったわけではない。だが、経済がいまでは、過去になかったほど知識集約型になっているのである。

個別の研究
 経済学者が過去半世紀にいくつもの成果を上げてきたことは、認めておかなければならない。
たとえばゲーム論理が生まれた。また、過去には経済システム外とされてきたいわゆる外生要因と、経済システム内とされてきたいわゆる内生要因との間のフィードバックの関係についても理解が深まった。資本資産、オプション、企業負債の価格決定に関するモデルが発達した。これらの強力な分析ツールを開発した経済学者にノーベル経済学賞が与えられた。
(中略)
 過去五十年に四つの点で基本的な変化が起こって、経済学専門家と経済分析の新たな課題になり、いまでも課題となっているとアイゼナックは指摘する。
 第一は「ネットワーク産業」の成長だ。(以下略)
 第二は、前述のように、知識製品に「非競合性」という性格、使っても減らないという性格があることだ。(以下略)
 第三は、非マス化と製品のカスタム化が急速に進んでおり、いずれひとつずつ違った製品が作られるようになるとみられることだ。(以下略)
 第四は、資本が世界的に移動するようになったことだ。(以下略)
(中略)

未整備の枠組み
 このように複雑さを増している新しい問題に対応するために、経済専門家は遅まきながら、心理学、人類学、社会学など、かつて客観性に欠ける(つまり数量化が不十分だ)と切り捨てていた分野の専門家の協力を得るようになっている。(以下略)
 知識のうち、他の知識と組み合わせたときにはじめて価値が証明される部分の価値について、非同時化の効果について、富の波がぶつかりあったときに貿易のパターンがどうなっているかについてなど、まだ結論がだされていない問題は多いし、まだまったく研究されていない問題すら残されている。
 革命がはじまってから半世紀を経たいまでも、経済発展の現段階の全体像を一貫してとらえる理論は、構築されておらず、人類の歴史がいまどのような段階にあり、今後どの方向に進もうとしているのかを理解するのに、役に立つ理論は生まれていない。

愛人の侍医
 現在の革命的な変化の深さを理解できていない経済専門家が多いのは皮肉なことだ。優秀な人が同時に近視眼的であるのは、これがはじめてではない。
(中略)
 だが、ケネーの見方はひとつの点で決定的に間違っていた。農業が唯一の富の源泉だと主張した点である。(以下略)
 今日でも、優秀な経済学者がケネーと同様に視野の狭い考え方にとらわれている。問題の一部について素晴らしい研究を行いながら、もっと大きな構図を検討しておらず、革命的な富が社会や文化、政治に与える影響を無視している。ケネー要因にとらわれないよう、予防措置を講じておくべき時期がきているのだ。
 そのためには、真実と間違いとを見分けられるようにならなければならない。
第19章 真実の見分け方
 ~知識は富の創出の基礎的条件のなかでも深部の要因のひとつだといえるはずだが、死知識を除外したとしても、金や事業、富についてわれわれが知っている点のうち、さらにいうなら、われわれが知っていることすべてのうち、どれだけがまったく馬鹿げたことなのだろうか。あるいは完全な作り話なのだろうか。教えられたことのうち、どれだけを信用できるのだろうか。どうすれば信用できるかどうかが分かるのだろうか。

真実の試練
(略)
六つのフィルター
  企業の生死を左右しかねないほどの決定が、人命を左右しかねないほどの決定すら、時代後れの知識や、誤解を招く知識、不正確な知識、まったく間違った知識に基づいて下されている。
(中略)
 何かが真実かどうかを判断する際には、少なくとも六つの競合する基準が使われている。
(中略)

常識
 一般に「真実」とされているもののうちかなりの部分は、それが常識だからという理由で正しいとされている。(以下略)
一貫性
 この基準は、ある点が真実とみられる事実との間で一貫性がとれていれば、その点も真実であるはずだという想定に基づいている。(以下略)
権威
 日常生活で受け入れられている「真実」のかなりの部分は、権威がその根拠になっている。(以下略)
啓示
 なかには、神秘的な啓示と考えるものを「真実」の基準とする人もいる。(以下略)
時の試練
 この場合、真実かどうかの基準になるのは年数である。(以下略)
自然科学
 自然科学は他の五つの基準と違っている。真実の六つの基準のなかで唯一、厳密な検証に基づいている。(以下略)
 このような性格から、科学は六つの基準のうち、宗教や政治、民族や人種などに基づく狂信的な熱狂に反対する性格をもっている。迫害、テロ、異端審問、自爆攻撃などを生み出すのは、狂信的な信念である。そして科学は狂信的な信念を否定し、とくにしっかりと確立した科学研究の成果ですら、せいぜいのところ部分的で一時的な真実でしかないという認識を育む。
この考え方、つまり科学的な知識は改善でき否定できるものでなければならず、改善されるか否定されていくべきものだという考え方のために、科学は一頭地を抜くものになっている。この考え方のために、常識、一貫性、権威、啓示、時の試練などの他の基準とは違って、科学だけは自ら誤りを修正できる。
 他の五つの基準は有史以来使われており、静的で変化に抵抗する農業社会の性格を反映したものだが、科学は変化への道を切り開くものである。 
(中略)
 科学的方法が発明されて、人類は真実かどうかを判断する新しい基準、未知のものを調べるためのツールを開発する強力なツールを手に入れ、これがやがて、技術の変化と経済の進歩のための強力なツールにもなった。
 前述のように、ある一日に経済で下される決定のうち、「科学的」に下されたといえる部分はごくわずかしかない。だがこのわずかな部分によって、富を生み出し増やす世界の能力が様変わりしてきた。今後もそうなるだろう。自然科学の発展が妨害されなければ、そうなる。

真実の変化
 現実にはもちろん、人は誰でも真実かどうかを判断する際に、二つ以上の基準を使い分けている。病気になれば自然科学に頼り、道徳に関する助言では啓示に基づく宗教に頼り、その他の問題では身近な権威や著名な権威に頼る。これらの基準のどれを使うかで揺れ動き、いくつかの基準を組み合わせて使っている。
(中略)
 だが、何が真実で何が真実ではないのかについて考えが揺れ動くのは、個人の水準だけではない。文化や社会には「真実輪郭」とでも呼べるものがあり、真実の基準のなかでどれを好むのか、どの組み合わせを好むのかで、それぞれ性格が違っている。
(中略)
 将来の経済の姿は、どの真実のフィルターを使うのか、どの真実をみることを選ぶのかに大きく左右される。この点でもわれわれは、富の基礎的条件の深部にある要因との関係を、その結果を予想することなく変化させているのである。その結果、経済の発展をもたらす主要な源泉のひとつが危機に直面している。
 科学の将来が危うくなっているのだ。

第20章 研究室の破壊
 生きている知識と死んだ知識(死知識)をあわせた人類の知識基盤全体のなかで、自然科学と呼ぶ小さな部分ほど、過去数世紀に人類の平均寿命、食物、健康、富の向上に大きく寄与したものはない。ところが、富の基礎的条件の変化を示す事実の中に、自然科学に対するゲリラ戦の激化がある。(以下略)

剃刀の刃と権利
 科学者はこのように社会に寄与しているのだから、アメリカでも世界全体でも尊敬されていると思うかもしれない。過去には確かに尊敬されていたのだから。(中略)
 自然科学に反対する運動には、動物の権利を主張する狂信派以外にも、女性解放派、環境保護派、マルクス主義など、進歩的とされる運動のなかの異端派がくわわっている。学界や政界、マスコミでもてはやされる著名人のなかにいる支持者に支えられて、偽善的と考える点から冷酷で犯罪的と考える点まで、じつにさまざまな点で自然科学と科学者に非難を浴びせている。
(中略)
 以上から、多様でまとまりのない反科学のゲリラ運動が展開されていることが分かる。その周辺部分には、心霊現象や宇宙人の存在を信ずる人もおり、いうまでもなく、「代替」医療を自称する怪しげな療法を行なう人や、空中浮揚ができると主張する法輪功の信徒もいる。
(以下略)

政治の転換
 過去にはヨーロッパでもアメリカでも、自然科学に敵意をもつ人たちは通常、古くからの「右派」か、ときにはファシズムに近い勢力、さらにはナチズムですらあった。これに対して「左派」は通常、科学を支持してきた。マルクス主義は「科学的社会主義」だと主張してきたほどである。
 現在ではヘーゲルの弁証法ではないが、反科学の旗印をとくに熱心に掲げているのは「左派」である。(以下略)

男社会と占い
 自然科学に対する批判の大部分は、その核心である科学的方法に真正面から挑戦しようとはしていない。(以下略)

模範としてのラスベガス
 真実のフィルターとしての自然科学を攻撃する別の勢力に、ポストモダン思想がある。
(中略)
 ポストモダン思想はその核心部分で、自然科学の信頼性を否定しようとしているだけではない。その主張を極端にまで推し進めたとき、真実の基準のすべてに打撃を与えるものになる。真実という概念自体に疑問を投げかけるからである。そこまで極端になると、ポストモダンの思想家は紛い物を言葉巧みに売るセールスマンやカルト教団の教祖や詐欺師など、人間のだまされやすさを最大限に利用する人、「そんな話を信ずる理由がどこにあるのか」と聞かされたときにまともに答えられない人と変わらなくなる。 

環境の伝道師
 科学は前述のように、環境保護運動の一部からも攻撃を受けており、この運動は宗教に近い性格をもつようになっている。
 メリーランド大学のロバート・N・ネルソン教授はこう論じている。「20世紀末が近づいた時期、欧米社会では宗教の面で空白状態が生まれていた。・・・こうしたなか、環境運動がこの空白を埋めるようになった。・・・環境保護運動の参加者の多くにとって、魅力を失ったキリスト教の主流や革新主義に代わるものになった」
(中略)
 ネルソンによれば、「環境保護運動のメッセージの核心は、人類の幸せで、自然で、罪のない生活から転落した物語であり、エデンの園からの追放の世俗版である」。
 ネルソンはこうまとめている。「環境保護運動は外見こそ現代的だが、その内実は原理主義宗教に近い」。

秘密の科学
 知識経済の大黒柱である自然科学を脅かしているのが以上だけだとしても、懸念をもつのが当然であろう。
(中略)
 だが、真実をめぐる戦いの対象は自然科学だけにかぎられているわけではない。社会のなかのさまざまな集団がさまざまな理由で、人びとの心を操作し、人びとが世界を見る際に使っている真実のフィルター、つまり真実と嘘を見分けるために使っている基準を変えようと試みている。
 この戦いは名前がついていない。だが、工業時代の富の体制に代わっていま確立しようとしている革命的な富の体制に、大きな影響を与えるだろう。

第21章 真実の管理者
 ~洗脳にあたっては、何を考えるかを変えるより、なぜそのように考えるのか、その理由を変える方が効果的である。これは真実かどうかを判断するときに使うフィルターを変えることを意味する。個人の洗脳だけでなく、社会と文化の洗脳の場合にも同じことがいえる。
(中略)
  これらの変化のなかでもっとも重要な点は、自然科学の勃興の後、宗教的な権威の地位が低下したことである。宗教的な権威に簡単に無条件にしたがう姿勢は薄れた。新たな問題にぶつかったとき、宗教指導者以外に答えを求める傾向が強まった。神父や牧師は知識を授けてくれる唯一の源泉ではなくなり、最善の源泉でもなくなった。(以下略)

上司を説得する
 いままた、真実をめぐって、静かな戦いが繰り広げられている。二十一世紀には、考え方や文化に基づき、富に関する知識に基づいて経済の開発を進める国が増えていくので、信ずる点をなぜ信じているのか、その根拠がこれまでにもまして決定的な意味をもつようになるだろう。
(中略)
 だが、自然科学に制限をくわえるか沈黙を強いるようにすれば、未来の富が縮小して貧困の軽減が遅れるだけでなく、人類が身体と精神の両面で暗黒時代に逆戻りすることになろう。
 啓蒙の時代が終わった後に暗黒時代がくるようであってはならない。
 
第22章 結論 - 収斂
 過去が過ぎ去っていくペースが加速している。たとえば二十世紀の後半を振り返ったとき、時代を画した出来事の多くが、いまではかつてほどの衝撃力をもたなくなっている。
(中略)
 だが、今後数十年に起こるのは主に、半世紀前にはじまった革命、少なくとも十八世紀以降では最大の革命を定着させ、さらに発展させる動きになる。
 だから、ここで一息ついて、これまでの章で取り上げてきた主要なテーマをまとめておこう。
 第一に、富の革命は技術、株式市場、インフレとデフレと言った点だけにかかわるものではない。社会、文化、政治、さらには国際政治にかかわる動きでもある。これらの幅広い動きと経済の関係を、見落としていると、今後ぶつかる問題をまったく過小評価することになる。
 第二に、経済に関する議論や報道ではつねに「基礎的条件」の変動が注目されるが、こうした変動の大部分は、はるかに重要な変化への反応、つまり本書で「基礎的条件の深部」と呼ぶ要因の変化への対応が表面にあらわれたものにすぎない。基礎的条件の深部にある要因は、狩猟採取民族だった太古の時代から、あらゆる経済活動を規定してきた。
(中略)
 だが、現在の富の原動力となっている三つの主要な要因、つまり時間、空間、そして何よりも知識という三つの要因との関係でいま起こっている劇的な変化を無視していれば、経営のグルが行なう助言や、提案する戦略が役立つものになりうるだろうか。本書でここまで論じてきたように、これらの富の原動力が中心的な役割を果たしている事実を認識してはじめて、明日に備えることができるのである。
 
亀の時間
 このような理由から、本書では基礎的条件の深部にある三つの要因とそれらが富に与える影響をくわしくみてきた。
 たとえば、「非同時化効果」を例にとろう。(以下略)
 同時に、時代遅れの亀のように歩みの遅い公共セクターが、やはり内部に非同時性の深刻な問題をかかえながら、裁判や購買手続き、規制上の決定、許認可手続きなど、さまざまな点での遅れによって、企業に巨額の「時間税」をかけている。要するに、システムの一方がアクセルを目一杯踏み込んでいるときに、他方がブレーキを踏んでいるのである。
(中略)
 人類が時間と空間の使い方が変化していることを認識するのはむずかしくないが、基礎的条件の深部の要因のうち、いまの時代に決定的な影響を与えている知識が革命的に変化していることは、認識するのがはるかにむずかしい。知識はその性格上、無形で目に見えず、抽象的で、難解で、日常生活からは遠いことだと思える。だが、知識の役割を十分に認識しなければ、富の将来を正しく予想することはできない。
 そのため、いくつもの章にわたって、簡略にではあるが、先進国にとって最大の資源である知識の範囲、性格、役割を紹介した。だが、この点でも分析を行なうだけでなく、総合が必要だ。基礎的条件の深部の変化が、それぞれどのように影響しあうのかをみていく必要がある。
 たとえば、変化を加速して時間との関係を変えていくとき、知識の一部が時代後れになっていくのは避けられない。そのため、われわれが引きずっている死知識の量が増えていく。
 
かつては正しかった類推
 動きの加速によって時代後れになっていく事実があるだけでなく、考える際に使う主要なツールの一部が役立たなくなる。その好例は類推である。類推に頼らずに考えることは事実上不可能だ。この「思考ツール」では前述のように、複数の現象の間に類推を見つけ出し、ひとつの現象について得られた結論を他の現象にあてはめていく。
(中略)
 経済学が現在、破綻していることのほんとうの意味は、自然科学の危機が近づいている点と、あわせて考えたときにはじめて把握できるようになる。この二つの分野は、人類が富を生み出す方法にとくに大きな影響(少なくとも、とくに直接的な影響)を与えている。そしてこの二つの分野がともに、変化しようとしているのである。

知識の地図
 しかしこれらの危機すらも、はるかに大きな知識のドラマの一部にすぎない。経済学と自然科学は確かに重要だが、はるかに大きな世界の知識体系のなかの一部にすぎない。そして知識体系全体が、歴史的な大激変の時期に入っている。
 知識を新しい方法で切り分け、工業時代の専門分野の壁をぶち壊し、知識体系の深部の構造を再編する動きが進んでいる。知識は構造のなかに位置づけられていなければ、必要な部分を取り出して利用することができなくなり、関連性をもたないばらばらなものになる。このため、どの時代にも、学者は知識を分類してきた。
(中略)
 やがて、専門知識が求められる分野の数がどんどん増えていくのは明らかなように思える。知識がそのときの必要に応じて一時的で非階層型の形態へと組織化される結果、永久に続くとも思えた専門分野と階層構造すら消える可能性がある。そうなったとき、「知りうることの地図」は、いくつものパターンがたえず変化しながら点滅しているものになる。
(中略)
 強力な新技術を使えば、一時的な課題に取り組む人が、脱着可能で新鮮なモジュールとモデルを利用するのが容易になる。すでにそういう動きがはじまっている。ますます巨大になり、ますます多様になる各種のデータベースを調査し、比較して、これまで分からなかったパターンと関連を探るようになっている。これがいわゆるデータ・マイニングであり、(以下略)
 データ・マイニングによって、考えられもしなかった驚くべき発見も生まれている。
(中略)
 創造性には無関係だとみられてきた事実、考え方、知識を新鮮な形で組み合わせる必要があるとするなら、データベースの調査と比較は、技術革新の過程の基礎的な部分といえる。
(中略)
 成長する有機体としての知識が今後、どのような変わった近道や曲がり道を通っていくのか、最終的にわれわれをどこに導いていくのかは分からない。
 時間、空間、知識との関係、さらには基礎的条件の深部にあるその他の要因との関係でいま起こっている変化をすべて認識したとしても、いま起こっている世界的な革命がいかに大きなものなのか、その概要をおおまかにつかむことができるにすぎない。このおおまかな概要を超えて現在の革命を理解するには、目に見える経済だけでなく、いま登場している富の体制の「隠れた半分」に起ころうとしているとてつもない変化を検討する必要がある。

 探究をつぎの段階に進めなければ、われわれは個人としても社会としても、いまわれわれがつかんでいる驚くほどの可能性に気づかないまま、 今後の世界で右往左往することになろう。
(第5部 終了)