アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

アルビン・トフラー ハイジ・トフラー共著 富の未来(上)004

2015年01月31日 22時30分44秒 | 富の未来(上)
2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)
第4部 空間の拡張 第9章 大きな円
 人類の歴史の中でも最大級の富の移動がいま起こっている。地理という観点でみたとき、富がかつてなかったほどの規模で移動しているのだ。時間との関係が変化しているように、基礎的条件の深部にある別の要因、空間との関係も変化している。富を生み出す地域が変化し、そうした地域を結ぶ基準が変化し、そうした地域の間を結ぶ方法が変化している。
 その結果、空間との関係が激動する時期になった。「富の移動性」が高まっており、この点が世界のどの地域でも、将来の職や投資、事業機会、企業の構造、市場の場所、庶民の日常生活に影響を与える。都市、国、大陸の命運を決める。
 
アジアだ、アジア
 欧米が圧倒的な経済力を長期にわたって誇ってきたために忘れられていることが多いが、わずか五百年前、技術力がもっと高かったのはヨーロッパではなく中国であり、当時は世界の経済生産の65%をアジアが生み出していた。(中略)それから250年を経てようやく、啓蒙主義と初期の産業革命によって第二の波の大変革が起こり、経済力、政治力、軍事力の中心がまずはヨーロッパに徐々に移るようになった。だが、そこに止まってはいなかった。十九世紀末には、世界の富の創出の中心がふたたび移動し、さらに西のアメリカに移りはじめていた。二回の世界大戦によって、ヨーロッパは経済的な支配力を失った。(中略)そして確かにこのとき以来、とくに1950年代半ばに第三の波と知識経済への移行がはじまって以来、アメリカは世界経済で圧倒的な地位を占めてきた。だが富の中心はアジアに移ろうとしており、まずは日本が豊かになり、つぎに韓国などのいわゆる新興工業経済群(NIES)に波及し、その後の数十年を通じてアジアが力をつけてきた。
 
水門を開ける
 水門が開きはじめてアジアへの富の移動が本格化したのは、1980年代に中国政府が共産主義者らしからぬ富の追及を認め、奨励する政策をとるようになってからである。90年代には水門は全開となり、海外からの直接投資が大量に流入するようになった。過去25年には、直接投資の総額が570億ドルに達したと推定される。2002年、中国国営の新華社は、対内直接投資の奔流について、「まさに奇跡的だ」と伝えた。2003年には対内直接投資が535億ドルに達し、アメリカすら追い抜いて、世界一になった。2005年には700億ドルに達したと推定される。中国がめざましい勃興を遂げたのは、共産主義のきびしい制約から解き放たれたとき、国民の勤勉さ、頭脳、イノベーションが花開いた結果である。~中国の勃興はアメリカの支援がなければ起こりえなかった。(中略)日本とインドを加えると、アジア6ヵ国で、欧州連合(EU)に加盟する25ヵ国の合計より、そしてアメリカより、購買力平価で換算したGDPが3兆ドル多くなった。
 つまり、世界的にみて、富の中心が、そして富の創出の中心が大きく移動してきたのである。経済力の中心がまずは中国から西ヨーロッパに移動し、つぎにアメリカに移動し、いまでは歴史の大きな円運動が完成して、数世紀ぶりにアジアに戻ろうとしているのである。(中略)革命的な富とともに、これ以外にも驚くべき変化が空間に関して起こっているからだ。



第10章 高付加価値地域
 空間のない場所を創造してみよう。われわれがみなそこで生活し、世界のすべての富がそこで作られているが、実際にはどこにもない場所である。(中略)電脳空間は、「物理的な世界に『場所』をもたない地域」であり、「はじめて登場した並行世界だ」という見方すらあった。電脳の世界、仮想の世界があるのは、電子的なビット情報すら、実際にはどこかの場所に蓄積されていて、無空間ではなく、物理的な空間を通して送られる。
 要するに、デジタル化で空間がなくなるわけではないのだ。現実の空間に代えて「仮想空間」が使われるようになるわけではない。だが、デジタル化によって、富とそれを創出する場所の移動が容易となり、加速する。「大きな円」を描く世界的な移動だけではない。地域社会の水準での移動もそうなる。
 仮想空間ではなく、現実の空間をみていくと、富がある場所を示す世界地図は描き換えられている。変化の波が世界各地に押し寄せ、急速に未来に向かっている都市や地域もあれば、経済の発展に取り残されていく都市や地域もあるからだ。世界各地に、明日の「高付加価値地域」があらわれてきている。 

過去に取り残された地域
 オハイオ州クリーブランドはかつて、製鉄、鋳造、自動車といった重工業の中心地であった。しかし、~アメリカの大都市のなかで、所得水準がもっとも低い。工業時代には成功を収めたものの、アメリカの他の都市が第三の波に乗って未来へと進むなかで、過去に取り残されている。クリーブランドはとくに目立った例だというにすぎない。世界各地で重化学工業の中心地だった都市、工業時代の富を生み出す原動力になっていた都市の多くが同じ状況に陥っている。多数の地域が経済的な重要性を失う一方で、新たに経済力をつけてきた地域があらわれている。(中略)クリーブランドでは、ケース・ウェスタン・リザーブ大学で研究が行なわれているだけで、これら分野の企業は少ない。アメリカの斜陽工業地帯にある他の都市でもそうだ。これらの都市は、生き残りのために新たな戦略を必要としている。そして、富の地図を描き換える必要もある。

国境の消滅
新たな戦略を必要としているのは主に、新しい経済の現実が既存の国境や政治的な関係とはかならずしも一致しなくなっているからである。(中略)ここでも過去の地図が塗り替えられ、基礎的条件の深部にある空間と富の関係がさまざまな点で変化しているのである。しかし、変化が加速しているので、新しい地図は一時的なものという性格を強めていき、現実の反転や変化をいつでも反映できるようになっていくだろう。革命的な富の体制には、恒久的といえる部分がほとんどないからである。

低賃金競争 
 ~低賃金国に職を移す外注の動きに、最グローバル化に批判的な論者は憤慨している。これでは「最低を目指す競争」に歯止めがきかなくなり、非情なものになっていくと主張する。企業は労働コストが最低のところに向かい、そういう場所が見つかればすぐに移転すると非難している。これが正しければ、つぎに富が移動する先を予想することは簡単だろう。アフリカにとって朗報である。世界最低の賃金で雇用できる労働者が大量にいるのだから。アジアの労働者が労働組合を結成して賃金を上昇させるたびに、アフリカの人びとは歓声を上げるべきだ。労働コストだけを考えるのであれば、いま中国にある工場がすべてアフリカに移転していないのはなぜだろう。
 実際にはローテクの仕事ですら、企業が工場の移転を考えるとき、労働コストが唯一の根拠になることはまずない。アフリカは暴力と戦争が続いており、インフラが十分には整備されておらず、政治腐敗が極端だし、エイズが蔓延し、政治体制が悲惨な状況であるので、賃金水準がどうであろうと、企業が大規模な投資を検討するはずがないともいえる。さらに、「最低を目指す競争」という見方では、労働者が基本的に取り替えがきくと想定されている。単純な作業を繰り返す組み立てラインの仕事であれば、確かにそういう面がかなりある。しかし知識経済では、必要なスキルが高い仕事ほど、この想定は成り立たなくなる。
 富の創出のうち知識による部分、たとえばマーケティング、金融、研究、経営、通信、情報技術、流通企業管理、法令順守、法務などの無形の部分の複雑さと重要性が高まっている。これら部門の労働者は、仕事の性格上、簡単には取り替えがきかなくなり、必要なスキルも一時的なものになってきている。
 このため、どの都市、どの地域、あるいはどの国がつぎに広東省になるのかを考えるとき、現在と将来の賃金水準だけに基づいて明日の経済を単純に予想したのでは、間違った結論を導き出すことになる。
 こうした単純な分析はいまではますます疑わしくなっている。煙突と組み立てラインに象徴されるものから知識に基づく生産を中心とするものへと経済が変化するとともに、ある場所、都市、地域が「高付加価値地域」になる際の基準が、根本的に変化しているからである。ここでみられるのは「最低を目指す競争」よりも「最高を目指す競争」である。

不動産の今後
 今後の地理的条件の驚くべき変化、たとえば高給の職や一等地、事業機会、富、権力の所在地の変化を予想するには、もうひとつ、カギになる点を理解しなければならない。富のある場所が変わるだけでなく、その理由、つまり場所を評価する基準も変化するのである。そしてその結果、富の場所がさらに変化する。(中略)以上をまとめるなら、歴史を変える富のアジアへの移動、経済活動の多くにみられるデジタル化、国境を越える地域の勃興、場所や立地を評価する基準の変化はすべて、基礎的条件の深部にある空間との関係の変化という大きな流れの一部なのだ。そうした流れを背景に、一層大きな変化が起ころうとしている。

第11章 活動空間
~約二千四百年前の古代中国で、農民が土地に根づいていたころ、旅をするものは、「厄介で、不誠実で、落ち着きがなく、陰謀をたくらむ」ことが多いと荘子が論じた。いまでは一年に、世界の人口の八パーセントにあたる約五億人が国外に旅行すると推定されている。五億人というのは、工業時代がはじまろうとしていた1650年の世界人口に匹敵する人数である。厄介だろうがなかろうが、陰謀をたくらんでいようがいなかろうが、仕事を探すために旅行する人もいれば、顧客を訪問するためにミルウォーキーに出張する人もおり、人はつねに旅するようになっている。

個人の地図
~現在の各人の活動空間を、たとえば十二世紀ヨーロッパの農民の活動空間と比較してみるといい。当時、ごく普通の農民なら、一生の間に自分の村から二十五キロ以上離れたところに旅行することはまずなかった。キリスト教の教えが何世紀もかけて、はるか遠方のローマからもたらされたのを除けば、生活圏がほぼ二十五キロの範囲内にかぎられていた。当時、農民が地球上に残した足跡はこの程度であった。(中略)国によっては、活動空間を世界全体に広げる必要はなく、近隣の数カ国だけで十分という場合もある。しかし、現在の日本では、不況のなかですら、経済が必要としているものはきわめて多様で複雑であり、単なる地域大国では繁栄できない。投入の面では中東から原油を、アメリカからソフトウェアを、中国から自動車部品を輸入する必要がある。産出の面では、日産の四輪駆動車、ソニーのプレイステーション、松下電器のフラット・パネル・テレビ、NECのコンピュータなどを世界中に販売している。日本企業は世界の事実上すべての大陸に生産拠点を設けている。
 好むと好まざるとにかかわらず、日本は資源、市場機会、エネルギー、アイデア、情報をアジアだけでなく、世界全体で獲得する必要がある。日本の活動空間は全世界にわたる。アジア地域で圧倒的な力をもっているかどうかはともかく、日本の空間的な足跡は世界全体にわたっている。だが、日本は一例にすぎない。いまではすべての人、すべての企業、すべての国で活動空間が大きく変化している。
 だが、これは人と物だけではない。金(マネー)も動いている。通貨にも「活動空間」がある。そして、通貨の活動空間も急速に変化しており、世界経済に深い影響を与えている。
 
移動する通貨
 何兆ドルもの資金が国から国へ、銀行から銀行へ、個人から個人へ、電子的な経路を通って猛烈な勢いで動いており、止まることのない金融のダンスが続いていることはよく知られている。そして、通貨の国際取引が世界的なカジノにすぎないことは、ほとんどの人が気づいているし、いまでは気づいているべきである。だがほとんどの人が気づいていない点もある。ドルがいまや、アメリカの通貨というだけではなくなっている事実だ。(中略)いいかえるなら、どの通貨にも人と同様に「活動空間」があり、それがつねに変化しているのである。たとえばドルは現在、活動空間がもっとも広く、いくつかの国が自国通貨の発行を止めて、「ドル化政策」をとっているほどだ。これらの国はドルを法貨とし、自国の公式の通貨として使っている。それ以外にも、いくつかの分野では非公式な形で、ドルが自国通貨よりも使われるようになった国がある。(中略)要するに、通貨は以前にあった空間の制約から解き放たれたのである。

侵略通貨と侵略された国
 この変化によって、国の権力に大きな影響が出ている。
(中略)以上では、アジアへの富の移動、仮想空間の誕生、場所や立地を評価する基準の変化、活動空間の拡大、現時点では不安定なドルの地理的な拡大などを取り上げてきたが、これらはいずれも、基礎的条件の深部にある空間との関係で起こっている変化の一部でしかない。
 次章では空間に関する現在の変化のなかでもっとも激しい議論を巻き起こしている点を扱う。反対派が世界各地でデモ行進をし、ブラジルのポルトアレグレで文字通り、ドラムを叩いて抗議しているときに、賛成派はスイスのダボスで年に一回のパーティを開き、反対派に笑顔をふりまいている。議論を巻き起こしているのはもちろん、経済用語のなかでも、とくに誤解され、誤用されているもの、グローバル化である。グローバル化に未来はあるのだろうか。

第12章 準備が整っていない世界
 1900年、新世紀を祝って進歩をテーマとする万国博覧会がパリで開かれたとき、フィガロ紙は興奮を隠しきれないように、こう論じた。「二十世紀の初日をこうして迎えることができたわれわれは、何と幸運なのだろう」。この底抜けの熱狂の一因として、当時の豊かな国には、世界的な経済統合に向けた動きが続いているとの見方があった。この合理的な動きによって、地域間の関係、政治的な関係が変化し、経済がさらに繁栄するとされていた。(中略)この万国博覧会から14年後には、縫い目は綻び、ボルトは折れ第一次世界大戦の嵐によって貿易と資本の流れが大混乱した。1917年にはロシア革命が起こり、30年代の大恐慌があり、1939年から45年までの第二次世界大戦があり、1949年には中国で共産党政権が成立し、1940年代から60年代にかけて、インドをはじめ、アジアとアフリカの植民地が相次いで独立した。
 これらの動きと、もっと小さく、目立たない無数の動きによって、長年の貿易関係が揺さぶられ、保護貿易の報復合戦が起こり、暴力と混乱が起こって、国境を越える貿易、投資、経済統合がむずかしくなった。要するに、半世紀にわたって、世界的にグローバル化が逆転する時期が続いたのである。

ウォール街より資本主義的
 ~中国だけでも、人口が十億を超えており、いまでは「社会主義市場経済」を掲げて(おそらく「社会資本主義」と呼ぶ方が適切だろうが)、外国企業による工場進出、製品輸出、投資に門戸を開放している。ロシアも共産党政権が崩壊して後、外国からの投資を歓迎するようになった。東ヨーロッパ諸国と、カフカスや中央アジアの旧ソ連共和国もこれにならった。南アメリカのほとんどの国も、アメリカの主張を受け入れ、チリとアルゼンチンが先頭に立って規制緩和と民営化を進め、ウォール街の資本を招き入れ、一時は「ウォール街より資本主義的」になった。 通貨は前述のように、発行国の束縛から離れて、他国でも使われるようになってきた。(中略) 再グローバル化の唱道者は我が世の春を謳歌している。

エビアン・テストとケチャップ・テスト
 再グローバル化の動きは実際には、その賛成派や反対派の多くが想定するほど進んでいるわけではない。(中略)2003年の調査では、ミネラル・ウォーターのエビアンの同じボトルが、フランスでは0.44ユーローだが、フィンランドでは1.89ユーローもしている。同じハインツ・ケチャップがドイツでは0.66ユーローだが、イタリアでは1.38ユーローである。ブリュッセルのEU官僚にとって腹立たしい状況になっている。(中略)

黄砂
 皮肉な話だが、アメリカ国際開発庁の元副長官、ハリエット・バビットはグローバル化がさらに進展すると予想する別の理由を明らかにしている。「悪徳は美徳よりもはるかにグローバル化が進んでいる」というのだ。(中略)違った例をあげるなら、中国の砂漠から飛んでくる「黄砂」で、韓国のソウルに毎年、被害がでている。インドネシアの森林火災では、マレーシアとシンガポールに煙が押し寄せ、多数の人が息苦しくなり、咳に苦しんでいる。ルーマニアが排出するシアン化物で、ハンガリーとセルビアの河川が汚染されている。地球温暖化、大気汚染、オゾン層破壊、砂漠化、水不足も、ドラッグや性の奴隷の取引と同様に、地域的か世界的な取り組みを必要としている。それを望んでいてもいなくても、グローバル化が不可欠になっているのである。

真の信望者
 現在、国境を超える統合をさらに進めたときの費用と便益をめぐって、広範囲な、まさにグローバルな論争が吹き荒れている。はっきりしている点がひとつある。人生は不公平だ。経済統合によって各地域にもたらされているものは、「平等な競争条件」ではまったくない。「平等な競争条件」は理論のなかにしか存在しない。(中略)グローバル化の真の信望者はこう主張する。第一に、グローバル化には生活水準を高める素晴らしい可能性があり、どの国もいつまでもこの可能性に背を向けているわけにはいかない。第二に、グローバル化によってしか解決できない新しい問題にぶつかっている。第三に、技術が進歩して、グローバル化が容易になっていく。これに対して、懐疑的な人はこう反論する。第一に、平和がもたらす利益もやはり素晴らしいが、その利益に背を向ける国がたえない。第二に、グローバル化ですべての問題が解決できるわけではない。第三に、技術の歴史をみると、過去の技術で容易になった点が、新しい技術で逆にむずかしくなる例がいくらでもある。(中略)今後ほんとうに問題になる点はこうだ。数十年にわたる再グローバル化の動きがいま、踊り場にさしかかっているのだろうか。あるいは、急激に反転しようとしているのだろうか。工場と直接投資の移動性が高まり、インターネットと仮想空間が登場し、人びとが大量に移動するようになったにもかかわらず、グローバル化の流れがふたたび逆転する時期がきているのだろうか。だが、これはすべてではないし、現実ですらない。

第13章 逆噴射
 「グローバル化」ほど、世界中で憎しみと議論の的になる言葉は少ない。そして、これほど偽善的に使われている言葉は少ない。これほど幼稚な使われ方をしている言葉も少ない。反グローバル化の論者の多くにとって、ほんとうの憎しみの対象は、世界全体の自由主義経済の総本山、アメリカである。
(中略)
  
新タイタニック号
 再グローバル化の時期に、世界経済では地域や国の深刻な危機が何度も起こっている。アジア危機があり、ロシア危機があり、メキシコ危機があり、アルゼンチン危機があった。どの危機でも、世界各国の投資家、企業経営者、政府は、金融危機の「伝染」を心配した。(中略)ところが、グローバル化の推進者は熱心さが行き過ぎており、金融の巨大な客船を建造し、タイタニック号にすらあった水密区画を設けていない。(中略)伝染を防ぐための予防策をとるよりも速く経済の統合が急速に進んでいるのであり、この二つの過程の歩調があわなくなっている。この結果、世界的に危機が伝染し、各国が必死になって自国の殻のなかに閉じこもろうとすることになりかねない。(中略)

輸出過多
 これら以外にも、再グローバル化の動きを制約し、逆転させかねない要因があるのだろうか。いくつもある。輸出過多の時代がはじまっている。「時代」ではなくとも、少なくとも「時期」がはじまっている。~(中略)南アフリカの南部共同市場(メルコスル)からアジアに登場した自由貿易地域まで、こうした経済ブロックは国際的な市場を作り出すので、世界的な経済統合と自由貿易の拡大に向けた半歩前進だとみることができる。これがいまの常識だ。だが、その主張とは裏腹に、深刻な事態にぶつかったとき、経済ブロックは保護貿易主義にスイッチを切り替え、自由化とグローバル化を妨げるものにもなりうる。そして現にそうなっている。世界的な経済統合という観点からは、地域経済ブロックは諸刃の剣になりうる。

スプーン一杯のナノテク製品
 科学技術とバイオ技術が融合して、原材料や製品を輸入する必要が、これまでより低下する可能性がある。(中略)そして戦争もテロも、知識集約型経済で決定的な意味をもつ情報インフラを破壊の目標にする。そして今後、地政学的な不安定さが高まり、軍事衝突が頻発する時期になる可能性が高い。そうなれば、戦場で大量の死傷者が出るだけでなく、過去の戦争でもそうなったように、これまでの統合の動きが逆転する。

マッドマックス・シナリオ
 グローバル化の逆転をもたらす要因には、以上よりも実際に起こる可能性ははるかに低いが、その可能性を完全に否定するわけにはいかないもの、未来学者がいう「ワイルド・カード」がある。新奇な感染症の発生とそれに伴う隔離措置、小惑星の衝突、破局的な環境問題によって経済活動の全体が大混乱に陥り、映画『マッドマックス』のような状況に陥る可能性を否定しきることはできない。(中略)
 実現する可能性が高いシナリオはこうだ。経済統合は減速し、その一方でテロや犯罪、環境問題、人権、人身売買、ジェノサイドなどで世界的な協調行動を求める圧力が強まっていく。
 以上の点を考えれば、完全に統合され、真の意味でグローバル化した経済の実現に向けて、世界が直線的に進んでゆくとする夢、「世界政府」が近く実現するとの夢は消えるはずである。そして今後、地球全体で労働市場、技術、金、人に空間要因が与える衝撃が少なくなるのではなく多くなり、遅くなるのではなく速くなり、小さくなるのではなく大きくなるはずである。

 以上では、アジアに向けた富の大規模な移転、「地域国家」の勃興、先進経済国で場所に関する基準の変化が起こってくるだけでなく、はるかに巨大な再グローバル化の流れが、逆転の可能性を秘めながらも起こってくることをみてきた。いずれも個々にみれば、基礎的条件の深部にある空間と革命的な富との関係の変化としては、極端に重要だとはいえない。だが、次章でみていくように、もうひとつの空間の変化は、遠い将来に以上すべてを合計したものよりはるかに重大になる可能性がある。

第14章 宇宙への進出
 いまの文明では歴史上はじめて、地表からはるかに離れた宇宙空間に人工のものを配置し、富を生み出すために使うようになった。この一点だけでも、いまの時代は人類の歴史の中で革命的な時期にあたるといえる。(中略)基礎的条件の深部にある空間と富との関係が変化していることを、これほど象徴的に示すものは他にない。(中略)巨大なテレビ業界、医療機器業界、スポーツ産業、広告産業、電話業界とインターネット業界、金融サービス業界をはじめ、じつに多数の産業が宇宙インフラを利用しているのである。
人工透析から人工心臓まで (略)
操縦士、航空機、パッケージ(略)
未開拓の富のフロンティア 
 富の「場所」に関して、他の変化がまったくなかったとしても、つまり、アジアに向けた富の大規模な移転や「地域国家」の勃興がなく、「高付加価値地域」を探す動きがなく、世界経済の再グローバル化の動きやグローバル化の逆転の動きがなかったとしても、宇宙への進出だけで、革命的な転換点だといえるはずである。したがって、さまざまな事実が示すものはきわめてはっきりしている。富と時間の関係と、富と空間の関係が同時に変化しているのである。時間と空間は人類が狩猟と採取で生活していた時代から、あらゆる経済活動の基礎的条件の深部にある要因である。富の革命がいま起こっており、今後さらに革命が進む状況にある。そして、これは技術の問題だけではない。以下で明らかにするように、心にも革命が起こっている。われわれの心に、読者すべての心に。

アルビン・トフラー ハイジ・トフラー共著 富の未来(上)003

2015年01月30日 21時44分00秒 | 富の未来(上)
2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)
第3部 時間の再編 
第5章 速度の違い
今日の世界の主要な経済国、アメリカ、日本、中国、そして欧州連合(EU)はいずれも危機に向かっている。どの国も望んでいない危機、政治指導者に備えがない危機、今後の経済の発展を制約する危機だ。危機が迫っているのは、「非同時化効果」の直接の結果であり、基礎的条件の深部でもとくに根本的な要因のひとつ、時間を不注意に扱っていることによるものである。世界各国はいま、それぞれ速度には違いがあるが、いずれも先進的な経済を築くために苦闘している、だが、経済や政治、社会の指導者のほとんどが明確には理解していない単純な事実がある。それは、先進的な経済が先進的な社会を必要とするという事実だ。どのような経済も、それを取り巻く社会の産物であり、社会の主要な制度に依存しているのだから。
ある国が経済発展の速度を速めることができたとしても、社会の主要な制度が時代遅れになるのを放置していれば、富を生み出す能力がいずれ低下する。これを「速度一致の法則」と呼ぼう。封建的な制度は世界のどこでも、工業化の進展を妨げた。いまでは工業時代の官僚組織が、知識に基づいて富を生み出す先進的制度への動きを遅らせている。
たとえば日本では財務省など、政府の官僚組織が障害となっている。中国では国営企業が障害となっている。フランスでは内向きでエリート主義の政府省庁と大学が障害になっている。アメリカも例外ではない。どの国でも、主要な公的制度は周囲の旋風のような変化に歩調をあわせることができていない。この点がとくに目立つのは、アメリカの金融制度が猛烈な速度で変化し、複雑化するなか、それを規制する証券取引委員会(SEC)が対応できていないことである。エンロンの大スキャンダルでも、時間と時期の問題が直接に絡んだ投資信託の不法な取引でも、何件もあった創造的会計の行き過ぎでも、不埒な企業がつぎつぎに起こすごまかしや操作に、SECはまったく追いつけていない。アメリカの情報機関が冷戦時代の目標からテロとの戦いに素早く重点を移すことができず、9・11の同時多発テロをやすやすと実行させてしまった失敗に似ている。最近の例をあげれば、2005年のハリケーン「カトリーナ」が上陸したとき、政府が危機に適応できず、非難を浴びたことに、非同時化の影響が劇的な形であらわれている。どの国でも、工業時代の政府機関を改編しようとすると、既得権益の受益者とその味方が激しく抵抗する。この抵抗によって、あるいは少なくともそれが一因になって、変化の速度に劇的な違いが生まれる。この点から、主要な制度の多くが機能不全に陥っている理由、知識経済が要求するペースに歩調をあわせることができない理由をかなり説明できる。要するに、今日の政府は「時間」に関して深刻な問題をかかえているのである。

列車は定時に運行しているか
同時性を完全に達成した機械のような社会の実現が、工業時代に影響を与えた「近代主義者」の多くにとって夢であった。テイラーが工場で実現しようとした夢は、レーニンがソ連で実現しようとした夢でもある。機械のように効率的に動く国と社会を実現しようとしたのだ。すべての官僚機構が一体になって動く。すべての人が歩調をあわせて踊る。
 しかし、人間も人間の社会も実際には開いた糸である。混乱しており、不完全だ。人間と社会の動きでは、混乱と偶然の領域と一時的な安定の領域とが交互に起こり、一方が他方を生み出す関係になっている。人間にはどちらも必要である。
 安定性と同時性によって、社会集団のなかで、とくに経済のなかで、各人が活動するのに必要な程度の予測可能性が確保できる。ある程度の安定性と同時性がなければ、生活は混乱と偶然におしつぶされる。だが、安定性と同時性が崩れたとき、いったい何が起こるのだろうか。ソ連は何十年にもわたって流血と国内の抑圧を続けたが、それでも1917年の建国にあたって約束した工業化を完成させることができないまま、91年に崩壊した。ソ連共産党が理想とした同時性と効率性は、公式の経済では実現しなかった。経済が機能したのは、腐敗した地下勢力が非公式の経済を動かし、十分な報酬が得られれば、約束した時間に商品をどこからか届けてきたからである。レーニンの革命から60年近くたった1976年、筆者がモスクワを訪問したとき、泊まったホテルにはコーヒーがなく、オレンジは貴重品だった。パンは重量をはかって、グラムいくらで売られていた。十年後に訪問したとき、優遇されているモスクワの中流階級すら、ジャガイモとキャベツしか手に入らなくなることが少なくなかった。そしてソ連の体制と経済が崩壊した。1991年にモスクワを訪問したとき、人影もまばらなスーパーで目にしたのは、ほとんど商品のない棚の列であった。カビがはえた灰色のパスタがごくわずかだけ売られていた光景をいまでも思い出す。寒空のもと、何人かの老女が公共の建物の前で、一本のボールペンや一枚の鍋つかみなど、残り少ない持ち物を売ろうと懸命になっていた。ロシア経済が全面崩壊に近づいていただけでなく、経済の基盤になる社会の秩序すら解体し、それとともに同時性と効率性の見せかけすらなくなった。約束された商品がいつ届くのか、そもそも届くのかどうかすら、誰も分からなくなった。ロシア企業はジャスト・イン・タイムの効率性を追求するどころか、あらゆるものが遅れる状況に陥った。筆者はモスクワからキエフまで航空便で移動することになっていたが、夜行列車に変更になった。航空燃料が届くかどうかが分からないからだと説明された。ロシア国民は、秩序の回復と予測可能性を求め、イタリアの独裁者、ムッソリーニの言葉を借りるなら、「列車を定時に運行させる」ことができる指導者を求めた。そして、ウラジミール・プーチンに希望を託した。
だが、社会が必要としているのは定時運行の列車だけではない。定時に運行する制度を必要としている。だが、ひとつの制度が超高速で走っているために社会の他の重要な制度がはるかに遅れることになれば、どうなるだろうか。
 
レーダーで速度をはかると
 この問いに「科学的」に答えられる人はいない。しっかりしたデータはない。とはいえ、アメリカで主要な制度がどうなっているかをみれば、ヒントが得られるだろう。アメリカは少なくとも、いまのところ、21世紀経済に向けた競争の先頭を走っているからだ。
 以下に示すのは初歩的な見取り図であり、印象をまとめたにすぎず、間違いなく問題も多いだろうが、それでも企業の指導者や政府の政策責任者だけでなく、変化に対応しようとしているすべての人にとって役立つものになるだろう。以下ではアメリカを例に使ったが、どの国にも同じような状況がある。しばらく、変化の速度に注目しよう。広い道路を思い描いてみよう。道路脇には白バイにまたがった警察官がおり、レーダーで車のスピードをはかっている。道路には9台の車が走っており、それぞれがアメリカの主要な制度を代表している(どこの国も同じだといえるだろう)。それぞれの車は、各制度の実際の変化のペースに見合ったスピードで走っている。もっとも速く走っている車から順にみていくことにしよう。

速い車と遅い車
時速100キロ
時速百キロの高速で突っ走っているのは、アメリカの主要な制度のなかで変化がもっとも速いもの、企業である。企業は、社会の他の部分で起こる変化の多くをもたらす原動力になっている。各企業はそれぞれ急速に変化しているだけでなく、仕入先や販売会社にも変化を強いており、その背景には熾烈な競争がある。このため、企業は自社の使命、役割、資産、製品、規模、技術、従業員の性格、顧客との関係、社内の文化など、あらゆるものを変えている。そしてこれらの分野ごとに、変化のペースに違いがある。企業内では、いうまでもなく、技術がさらに猛烈な勢いで変化している。ときには経営者や従業員が対応しきれなくなるほどの勢いだ。金融と財務も、それよりわずかに遅いが、やはり目もくらむペースで変化して、新しい技術、新たなスキャンダル、規制の改定、市場の多角化、金融市場の変動に対応している。会計などの分野も必死に追いつこうとしている。

時速90キロ
企業とあまり変わらないほどの高速で走る車があり、その車に乗っている人たちをみて、驚く人もいるだろう。筆者も驚いたのだから。変化の二番目に速いのは、全体的にみたときに社会団体だというのが筆者の結論であり、サーカスのピエロのように、二番目に速い車にぎゅう詰めになっている。社会団体は活気にあふれ、変化する無数の草の根非政府組織で構成されている。反企業や親企業の連合、職業団体、スポーツ団体、カソリック教会、仏教寺院、プラスティック製造業協会、反プラスティック活動家団体、新興宗教団体、税金嫌いの団体、クジラ愛好家組織などなどである。こうした団体のほとんどは、変化を求めることを仕事にしている。環境、政府規制、防衛支出、用途地域規制、疾病研究費、食品基準、人権など、多種多様な課題で変化を求めているのである。だが、なかにはある問題での変化に頑強に反対し、変化を妨げるか、少なくとも遅らせるためにあらゆる手段を講じている団体もある。環境保護派は訴訟、ピケなど、あらゆる手段を使い、アメリカで原子力発電所の建設を遅らせている。そして電力会社にとって、工事の遅れと訴訟費用の負担で、原発建設では採算がとれない状態を作り出した。反原発運動については賛否両論があるだろうが、この例をみると、時間と時期が経済的な武器になることが分かる。
 非政府組織による運動は、小さく敏捷で柔軟な団体のネットワークで進められることが多いので、巨大な企業や政府機関に打撃を与えることができる。全体的に見て社会の主要な制度のうち、企業と社会団体に匹敵するほど変化が速いものはないと結論づけることができる。
 
時速60キロ
 三番目の車にも、意外な人たちが乗っている。アメリカの家族が乗っているのだ。 
 数千年にわたって、世界のほとんどの地域で、多世代の大家族が家族の典型であった。大きな変化がはじまったのは工業化と都市化が進んでからであり、そのときから家族の規模が縮小するようになった。工業と都市の条件には核家族の方が適しており、これが支配的な形態になった。1960年代後半になっても、核家族の優位は将来にわたって揺るがないと専門家は主張していた。政府の定義では、夫が働き、妻が専業主婦で、十八歳以下の子供が二人いるのが標準世帯とされている。現在では、この定義に基づく「核家族」はアメリカの全世帯の25パーセントにも満たない。片親の世帯、結婚していないカップル、再婚や再々婚(ときには結婚が四回以上)の夫婦と連れ子の世帯、高齢者の結婚、最近では法的権利を認められた同性結婚などが登場するか、隠さなくとも良くなった。こうして、以前には社会制度のなかで変化がもっとも遅かった家族制度が、わずか数十年で様変わりした。そして、今後さらに急速に変化しようとしている。
 何千年にもわたる農業時代には、家族はいくつもの重要な機能を担ってきた。農作業や家内作業で生産チームになっていた。子供を教育し、病人を看護し、老人を介護した。だが、各国で工業化が進むとともに、仕事は自宅から切り離されて、工場に移された。教育は学校に外注されるようになった。医療は医師か病院に移された。老人介護は政府の責任になった。現在、企業は機能の外注(アウトソーイング)を進めているが、アメリカの家族は逆に機能の「内製化(インソーイング)」を進めている。数千万人がすでに、フルタイムかパートタイムで自宅で働くようになった。在宅勤務が容易になったのは、デジタル革命のためだが、同じ要因で、買い物、投資、株式売買など多数の機能が自宅に戻っている。 教育はいまだに学校の校舎から抜け出していないが、インターネット、無線LAN、携帯電話が社会全体に普及しているので、少なくとも一部が家庭などに戻る可能性が高い。高齢者の介護も家庭に戻ってくるだろう。政府と民間の健康保険が高コストの入院を減らす努力を続けているからである。家族の形態、離婚の頻度、性、世代間の関係、異性との出会い、子育てなど、家族に関するさまざまな側面が急速に変化している。

時速30キロ
 企業や社会団体、家族が急速に変化しているとき、労働組合はどうしているだろう。
 前述のようにアメリカでは肉体労働から頭脳労働に、取り替えがきく技能から取り替えがきかない技能に、単純な反復作業から創造的な作業に移行しはじめて、もう半世紀近くになる。仕事は場所を問わないものになり、航空機や自動車、ホテル、レストランでもできるようになってきた。ひとつの組織で何年にもわたって同じ仲間と働くのではなく、プロジェクト・チームやタスク・フォース、小グループの間を移動するようになり、短期間で仲間と別れ、新たな仲間とと協力するようになった。従業員としてではなく、「フリー・エージェント」として会社と契約して働く人も増えてきている。企業は時速100キロで動いている。だが労働組合は、1930年代と大量生産の時代から引き継いだ組織、方法、モデルにしばられている。1955年、アメリカの労働組合は雇用者の33パーセントを組織化していた。いまでは、これが12.5パーセントにすぎなくなった。
 非政府組織は時速90キロで急速に増加しており、新しい第三の波の社会で分散性が高まっている事実を反映している。これに対して労働組合が社会的な力を失ってきたのは、大規模化を特徴とする第二の波の工業社会が衰退している事実を反映している。労働組合にはいまでも果たすべき役割があるが、生き残るためには新しい道路地図と高速の車が必要である。

巨像が立ち止まるとき
時速25キロ
 政府の官僚機構と規制機関はさらに動きが遅い。世界のどの国でも、階層型の官僚組織が政府の日常業務を担っており、批判をうまくそらし、ひとつの変化を数十年も遅らせる術を心得ている。政治家は、新たな官僚組織を作る方が、どれほど古くなり、どれほど無意味になっていても、既存の組織を解体するよりはるかに簡単であることを知っている。官僚機構はそれ自体の変化が遅いだけでなく、時速100キロで疾走する企業が市場環境の急速な変化に対応するのを遅らせている。たとえば、食品医薬品局は新薬の試験と承認にいやというほど時間をかけている。その間、新薬があれば助かる患者が待たされており、ときには死んでいく。政府は意思決定が極端に遅く、空港に新たな滑走路を建設する許可を得るまでに十年以上かかり、高速道路の建設が決まるまでに七年以上もかかるのが一般的である。

時速10キロ
 だが、官僚機構の車ですら、バックミラーには、さらに遅い車の姿が写っている。
 タイヤはパンクし、ラジエーターからは蒸気が吹き出し、後ろから来る車に迷惑をかけている。このポンコツを維持するのに、4千億ドルの経費がかかるなどということが有り得るのだろうか。信じ難いだろうが、年にそれだけの経費がかかっているのである。この車に乗っているのは、アメリカの公教育制度である。
 アメリカの教育制度は、大量生産用に設計され、工場のように運営され、官僚的に管理され、強力な労働組合と教員票に依存する政治家に守られており、20世紀初めの経済を完全に反映している。せいぜいのところ、ほとんどの国の教育制度がアメリカのものより良いわけではないといえるだけである。民間セクターでは、企業は新たな形の競争、形が変化していく競争によって変化を迫られる。これに対して公教育制度は保護された独占体である。親や創造力のある教師、メディアは変化を強く求めている。そして実験的な試みが増えているが、アメリカの公教育の核はいまだに、工業時代にその時代の要求にあわせて設計された工場型の学校である。時速10キロで動く教育制度は、その十倍の速度で変化する企業での仕事をこなせるように、生徒を教育できるのだろうか。

時速5キロ
 世界の経済に影響を与えている機能不全の制度は国内のものだけではない。世界のすべての国の経済は、直接間接に世界的な統治機関から大きな影響を受ける。これには国際連合、国際通貨基金(IMF)、世界貿易機関(WTO)や、もっと知名度が低い多数の国際機関があり、国境を超える活動の規則を制定している。なかには万国郵便連合のように、一世紀を超える歴史のある機関もある。ほぼ75年前、国際連盟の時代に作られた機関もある。残りのほとんどは、世界貿易機関と世界知的所有権機関を除いて、半世紀前、第二次世界大戦の後に設立されている。現在、国家主権は、新たな勢力からの挑戦を受けている。新たな参加者、新たな問題が国際舞台にあらわれている。しかし、国際機関の官僚的な構造と慣行はほぼ変わっていない。国際通貨基金で百八十を超える加盟国が新たな専務理事を選任しようとしたとき、アメリカとドイツが候補者をめぐって鋭く対立した。結局はドイツ人の候補者が選ばれたが、これはニューヨーク・タイムズ紙によれば、クリントン大統領とサマーズ財務長官が「ヨーロッパがIMF専務理事を選ぶという50年前からの了解を破ることはできない」と判断したためだという。

時速3キロ
 だが、国際機関よりも変化の遅い制度がある。それは豊かな国の政治構造だ。
アメリカの政治制度は連邦議会と大統領から政党まで、多数の集団から大量の要求を受けるようになっており、これらの集団はいずれも対応をもっと速くするよう求めていて、のんびりした議論と怠惰な官僚機構のために作られた制度では処理しきれなくなっている。連邦議会上院の有力議員だったコニー・マックがかつて、こう話してくれた。「議会ではどんなことにも、連続して使える時間は二分半までだ。ゆっくり考える時間はないし、知的といえそうな会話に使える時間もない。時間の三分の二は広報や選挙運動、資金集めに使わなければならない。わたしはこの委員会、あの専門部会、別の作業部会、その他もろもろに属している。わたしが知っておかなければならないことのすべてに、しっかりした判断を下せるほどの知識が得られると思えるだろうか。そんなことは不可能だ。時間がないのだ。だから、実際にはスタッフが判断するケースが増えつづけている」筆者は率直な話に感謝し、こう質問した。「では、スタッフを選ぶときには、誰が判断するのですか」
 いまの政治制度は、知識経済の複雑さと猛烈なペースを扱えるようには設計されていない。政党や選挙は移ろいやすいといえるかもしれない。資金集めや選挙運動に新しい方法が使われるようになった。だが、知識経済がもっとも発達したアメリカでは、巨大な企業が合併と部門売却を短期間に繰り返し、インターネットを使って新たな有権者組織がほとんど瞬時に形成されるようになったなか、政治の基本構造は変化のペースが極端に遅く、動いていないのではないかと思えるほどである。経済にとって政治の安定性が重要であることは、いうまでもない。しかし、動かないとなると、話は違ってくる。アメリカの政治制度は二百年を超える歴史のなかで、1861年から1865年までの南北戦争の後に基本的に変化し、1930年代には大恐慌の後に、工業時代にもっと十分に適応するためにふたたび基本的に変化した。その後、政府は確かに成長した。だが基本構造にかかわる部分では、アメリカの政治構造は時速3キロで這うような歩みを続けており、路肩に止まって休んでいて、重大な危機にぶつからないかぎりは動こうとしない。そして、重大な危機が意外に早く起こる可能性もある。2000年の大統領選挙では、大統領が最終的に、最高裁判所での一票差で選出される事態になり、あと一歩で危機に陥りかねない状況になった。

時速1キロ
 この点を考えたときにようやく、動きの遅い制度のなかでも、とりわけ遅いものが視野に入ってくる。それは法律である。法律には二つの側面がある。第一は組織という側面であり、裁判所、法曹協会、法科大学院、法律事務所などがある。第二はこれらの組織が解釈し守っている法律そのものである。アメリカの法律事務所は急速に変化しており、事務所間の合併、広告の利用、知的財産権法などの新分野の開拓、テレビ会議の利用、事業のグローバル化、競争環境の変化への対応を進めているが、アメリカの裁判所と法科大学院は基本的に変わっていない。裁判制度の運営のペースも変わっていない。重要な裁判が何年にもわたって延々と続いている。マイクロソフトに対する画期的な反トラスト法訴訟が続いてきたとき、連邦政府が同社の分割を求めるとの見方が一般的になっていた。しかし、それには何年もの時間がかかり、分割が決まった時点では技術が進歩していて、訴訟の意味がなくなっていると予想された。シリコン・バレーのコラムニストとして有名なロバート・Ⅹ・クリンジリーはこれを、「超高速のインターネット時間」と「法律時間」の衝突だと論じている。法律は生きているといわれる。何とか生きているといえるにすぎない。議会が新しい法律を作り、裁判所が既存の法律に新たな解釈をくわえることで、法律は毎日のように変化する。だが、変わる部分は法律全体のうち、微小とはいわないまでも、ごく一部にすぎない。そして、法律の数と総量は膨らんでいくが、法体系が全体として大幅に改定されたり、再編されたりすることはない。もちろん、法律は急激に変化するようであってはならない。ゆっくりとしか変化しないからこそ、社会と経済に必要な程度に予測可能性が確保され、経済と社会の変化が急激すぎるときには、ブレーキをかけてくれる。だが、どの程度の変化ならゆっくりとした変化だといえるのだろうか。
 2000年まで、アメリカの社会保障制度では65歳から69歳までの受給者に所得がある場合、ある金額を超える部分の三分の一が支給額から差し引かれていた。この規定は大量失業の時代につくられたものであり、当初は老人に引退を促し、若者の就業機会を増やすことを目的にしていた。その後70年近くたって、この規定がようやく法律から削除されることになり、フォーブス誌はこの改定を伝える記事に皮肉たっぷりの見出しをつけた 「ニュース速報 - 大恐慌は終わった」 。
  アメリカ連邦議会はまた、数十年にわたる議論の後にようやく、知識経済を規定する基本的な法律のうち二本を改定した。1996年まで、世界でも、とくに変化の速い電気通信産業は、62年前の1934年に制定された法律によって管理されていた。金融では、アメリカの銀行業界を規制していたグラス・スティーガル法が、60年たって、ようやく改定された。現在でもアメリカで株式などの証券を発行する際には、1933年制定の法律に規定された基本的な規則が適用される。現在、8,300を超える投資信託があり、2億5千万近い口座をもち、7兆ドル近い資産を運用している。だが、ここまで巨大な投資信託産業はいまでも、1940年制定の法律で規制されている。当時、口座数は30万に満たず、ファンド数は68にすぎず、運用資産は現在の14万6千分の1に過ぎなかった。別の分野の例をあげれば、2003年にアメリカ北東部で大停電が起こったとき、復旧作業にあたった技術者は思うように動けなかった。トロント大学のトーマス・ホーマーディクソンによれば「数十年前、電力のほとんどが消費地の近くで発電されていたころに作られた規則」にしばられていたからだ。著作権、特許権、個人情報など、経済の先端部分に直接に影響を与える分野の法律も、絶望的なほど時代遅れになっている。知識経済はこれらの法律があったから成長してきたのではない。時代遅れの法律という障害を跳ね除けて成長してきたのである。これは安定性の問題ではないし、動かないという問題でもない。法律は死後硬直を起こしているのだ。法律家は仕事の方法を変えている。だが法律自体はほとんど動いていない。

惰性と超高速
 以上の制度を検討し、それらの相互作用をみていくと、アメリカが現在ぶつかっている問題が、変化の猛烈な加速だけにとどまらないことが明らかになる。急成長する新しい経済の要求と、古い社会制度の構造の惰性との間に大きなズレがあるという問題にもぶつかっているのである。二十一世紀の情報バイオ経済は、今後も超高速の成長を続けられるのだろうか。低速で、機能不全で、時代遅れになった社会制度のために、その成長が止まることになるのだろうか。官僚制度、動きがとれない裁判制度、近視眼的な議会、麻痺状態の規制、病的なほどの漸進主義が影響を与えないわけがない。この状態を放置しておくわけにはいかないと思える。多数の制度が関連しあっていながら同時性を維持できなくなり、社会全体に機能不全が拡大している。これほど解決がむずかしい問題はめったにない。世界最先端の経済が生み出す莫大な富を獲得したいと望むのであれば、アメリカは古くからの制度のうち、新しい経済の障害になるものを廃止するか、取り替えるか、抜本的に再編しなければならない。変化はさらに加速するので、このような制度の危機はアメリカだけの問題ではなくなる。中国、日本、EU各国など、二十一世紀の世界経済で競争にくわわろうとしている国はいずれも、新しい形態の制度を考え出し、同時化と非同時化の間の均衡を調整しなければならない。なかには、アメリカより危機の解決がむずかしい国もあるだろう。アメリカには少なくとも、変革者に好意的な文化という強みがある。いずれにせよ、この章で冗談めいた形で紹介した速度ランキングにはもちろん、異論の余地があるだろうが、それで伝えようとした現実には異論の余地はない。その現実はこうまとめられる。企業、産業、国民経済、世界システムというどの水準でみても、富の創出と基礎的条件の深部にある時間との関係が、きわめて広範囲に変化しているのである。

第6章 同時化産業
 完全な同時化が達成できなかったとき、とくに大きな嘆きのタネになるものといえば、すぐに思いつくのは寝室でのものだが、それ以上に嘆きの声があがるのは、アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)や日本銀行が政策金利を引き上げるか引き下げて、タイミングを狂わせた場合だろう。コメディアンなら誰でもそういうように、タイミングはこの世でいちばん大切である。だが人びとは、ほとんどの場合に無意識のうちに時間との関連を変えており、これは冗談めいた話ではない。投資家やエコノミストが金融に関して正確なタイミングに強い関心をもっているとしても、富と貧困を作り出す際に、同時化を果たす役割については驚くほど無知だし、非同時化が果たす役割は一層知られていない。だが、これらを理解すれば、富の創出についてまったく新しい考え方を身につけられる。

生産性を高める踊り
 ある程度の同時化は、狩猟・採取民族が集団で動くようになって以来、いつも必要であった。歴史家のウィリアム・マクニールは、リズムにあわせた集団の活動がどの時代にも
同時化のために使われ、それによって経済の生産性が向上してきたと論じている。狩猟部族の踊りは、チームワークを強化し、狩猟の効率を高めたという。漁師は何千年もの昔から、網を引くときにみなで歌を歌っており、そのリズムにあわせて網を引き、呼吸するようにしてきた。農業経済では季節の移り変わりも重要だ。(中略)
 工業社会の初期には時間をめぐる状況が一変した。組み立てラインでは、まったく違うリズムが必要となった。そこで、工場のサイレンとタイム・レコーダで作業時間を調整する仕組みが作られた。これに対して現在では、事業活動がリアル・タイムに向けて加速している。しかし、それだけでなく、時間の使い方がでたらめとはいわないまでも不規則になり、個々人で違うようになってきた。(中略)生まれた直後の時期がすぎれば、人はみな、経済の音楽にくわわる。バイオリズムすらも、驚くほど複雑で調整された動きが周囲で鼓動している点に影響を受け、そして影響を与えてもいる。この鼓動は、人びとが働いている結果、つまり、物を生産し、サービスを提供し、他人を管理し、互いに世話をしあい、企業に資金を提供し、データや情報を処理して知識を生産している結果、起こっているのである。(略)


冷えた料理をなくす
 完璧に同時化された世界では、友人が待ち合わせに遅れてくることはない。朝食の卵料理が冷えていることはない。生徒が遅刻することもない。もっとありがたいのは、在庫は不要になり、保管、維持、管理、倉庫などの費用を負担する必要がなくなることだ。そして、もっともありがたいのは、会議がいつも定刻にはじまり、定刻に終わることだ。
 だが、その場合に経済はどうなるだろうか。経済学で「均衡的成長」という言葉が、いくつもの違った意味で曖昧に使われてきた。(中略)
 こう主張した人は重要な点を見落としていた。完璧に同時化して主要な要素の関係を固定した場合、どのようなシステムでも柔軟性が失われ、活力がなくなり、革新の動きが遅くなる。すべてか無かになり、すべてを一斉に変えるのは、まったく変えないかのどちらかを選ぶしかなくなる。そしてすべてを一斉に変えるには、まして同じ率で変えるのは、極端にむずかしい。~したがって、どの企業も、どの金融制度も、どの国の経済も、同時化の活動とともに、ある程度の非同時化を必要としている。~まだ初歩的な段階にある。

土壇場の突貫工事をなくす
 それでも、明らかな点がある。いまでは時間の調整がきわめて複雑になり、重要にもなっているため、これを扱う「同時化産業」が成長し、大規模になっていることだ。この産業は1980年代半ばから二十一世紀初めまでに、三回にわたって「大躍進」を遂げた。いまでは巨大産業になっている。今後、さらに大きくなるだろう。(中略)
~経営者に「主要な競争相手が開発サイクルの大幅短縮を達成している」とき、市場への反応が遅すぎる状況に組織が陥っているとき、納期遅れがでているとき、仕事がいつも「土壇場の突貫工事」になっているときには、「リエンジニアリング」に取り組むよう推奨した。
(中略)同時化産業はまだまだ改良の余地があり、成長の余地がある。第一に、多数の中小企業はまだ供給連鎖や付加価値連鎖を再構築しておらず、今後、再構築を迫られるようになる。第二に、供給連鎖と流通連鎖の同時化は第一歩にすぎず、今後、時間統合の動きがさらに深化し、さらに幅広くなる。同時化産業の企業はソフトウェアを顧客企業に売るだけでは満足しなくなっている。直接の顧客だけでなく、顧客企業の顧客、さらにその顧客へと供給連鎖の下流に進んでいき、最終ユーザーまで事業が拡大していくことを望んでいる。いずれ、その先にまで事業が拡大していく可能性がある。リサイクルのために最終ユーザーからメーカ-に戻される製品が増えており、ヨーロッパでは自動車が、アメリカではプリンター用のインク・カートリッジがそうなっているからである。こうした変化によって、製造・販売・サービスにあたる企業からユーザーまで、同時化を必要とする層が増え続けている。最後に、競争の激化によって革新につぐ革新が必要になっており、そのたびにタイミングの要求が変化して、再同時化が必要となるので、同時化産業は拡大していくだろう。しかし、非同時化の法則には隠れた逆説があり、システムのあるレベルで同時化を進めるほど、別のレベルで非同時化が進む結果になる。


第7章 リズムが乱れた経済
 ごく最近まで、アメリカには何人もの「経営のグル」が率いるスピード教団があって、「一番乗りを目指せ、俊敏になれ、まずは撃て、その後で狙え」と主張していた。
 この単純で愚かな助言のために、ろくに試験をされていない低品質の製品が大量に発売され、顧客は怒り、投資家は失望し、経営戦略は焦点を見失い、最高経営者(CEO)がつぎつぎに替わる事態になった。この主張は、同時化と非同時化の問題を無視するものであった。基礎的条件の深部にある「時間」という要素を扱う方法として、表面的で稚拙であった。タイミングが狂えば、企業は打撃を受け、ときには倒産することすらある。だが、これは個別の企業だけの問題ではない。いくつもの企業の間の関係を混乱させかねない。それだけでなく、少なくともいくつかの事例を見るかぎり、産業全体、国内経済のセクター全体、さらには世界経済にすら影響を与えかねない。

時間の生態系
 小さな湖か池を観察すると、生物の多数の種が相互に影響しあっていて、宿主と寄生種があり、急速に繁殖する種もあればゆっくり繁殖する種もあり、すべての種が関係しあいながらそれぞれ違う速度で変化していくことに気づくだろう。生態系がダンスを踊っているのである。(中略)見逃されることが多いコストのひとつに、時間が駆け引きに使われる傾向が強まっているために、ほんとうに必要な点からエネルギーと関心がそらされることがあげられる。組織内で幹部同士がスケジュールの衝突や計画期間の違いをめぐって、激しく対立することが少なくない。そして、情報技術(IT)部門が対立の焦点になる。
 
時間の犠牲者
 ソフトウェアの開発や大幅な改定に必要な時間は、見積もりがむずかしいことで有名だ。ときには、見積もりにかかる時間すら見積もるのがむずかしい。だが、IT部門の幹部は見積もりをだすよう求められることが多い。(中略)
 急速に変化する企業の内部では、時間をめぐる戦いは他にもさまざまな形をとる。その結果、重要な案件を取り逃がすこともあるし、皮肉なもので、経営陣の関心とエネルギーが浪費され、企業全体としてみれば、変化への対応が遅くなることもある。

合併後の憂鬱
 問題がさらに複雑になるのは、二社以上の企業が関係していて、それぞれが社内に独自の時間の生態系をもっている場合である。同時化をめぐる対立のために、合併などによる提携は一筋縄ではいかなくなるし、とくに合併の前後にはストレスが多くなる。
(中略)個別企業の問題からもっと大きな問題に目を移すと、産業全体の水準には非同時化のコストがはるかに大きい例がある。なかには、同期のズレが大きな問題になっている例もある。

時間税
 誰でもいいから、アメリカで建築会社と契約して自宅を新築か改築した人に聞いてみるといい。当初の完成予定日がまったくの作り話のようだったと話してくれる可能性が高い。工期の遅れが何ヶ月にもなることがあるし、水洗トイレから引き出しの金具まで、必要な資材が予定通りに届くことはめったにないようだ。これ以上に苛立ちが募るのは、さまざまな許可や認可を得るために自治体の都市計画部門や建築部門の役人と交渉するときぐらいだろう。(中略)アメリカ全体では、住宅の新築に年に五千四百四十億ドルが支出されている。工事の各部分で同期がとれておらず、予定がいつも遅れて無駄がでることで、三パーセントから五パーセントの「時間税」がかかるとすると、年に百六十億ドルから二百七十億ドルが浪費されていることになる。低所得者向けの一戸建てや集合住宅が一戸当たり十五万ドルで建つとすると、この無駄を省けば、十年間に百四十万戸以上を建設できる計算になる。ホームレスの問題は解消する。(中略)
 以上では、同時性の欠如の問題を個々の企業、複数の企業、産業全体の水準で見てきた。
だが、二つの関連しあう産業で発展の速度に違いがある場合には、もっと大きな水準で同時性の欠如の問題が起こる。

情報技術のダンス
 1970年代以降のパソコン業界の成長では、情報技術のデュエットともいうべきものが特徴になった。マイクロソフトがパソコン用のウィンドウズでさらに大型で強力なバージョンを発売すると、インテルがそれに対応して、さらに高速で強力なチップを発売したからだ。~これに対して通信産業は、身動きがとれないほどきびしく複雑な規制にしばられていて、その動きの遅さにコンピュータ会社が苛立つことが少なくなかった。~同時性の欠如のコストが、企業と産業の水準でどれほどに達するのかはまったく分からない。そして、経済のすべてのセクターを対象としたとき、同時性の欠如がどれだけの影響を与えているかは、想像することしかできない。

寿司屋に行けない
 ~日本でも、ある人にとっての同時化は、他の人にとっての非同時化を意味する。
 さらに、変化の速度に違いがあれば、同時化に取り組む起業家にとって無数の機会が生まれ、こうして、ある部門かある組織で同時化が達成されれば、別の部門、別の組織で非同時化が起こるといえる。同時性の問題は、今後解決が容易になっていくのではなく、困難になっていくだろう。産業革命の際にそうしたように、われわれはいま、仕事、遊び、思考の方法を時間という側面でもう一度変えようとしているからである。基礎的条件の深部にある時間を扱う方法を根本的に変えようとしている。時間と富の生成の関係を理解するまで、時間の圧力がきわめて重く、不必要なコストが膨大になる状況から逃れられないだろう。

第8章 時間の新たな景観
 ~心臓と同じように、社会と経済も不整脈、部分的な頻脈、細動や粗動、さらには不規則な動悸や痙攣を起こすことがある。これは以前からあったことだが、いまでは変化のペースが不均一なうえに加速しており、それに伴って非同時化がたえず起こることから、一時的にペースの乱れが極端になる可能性がある。除細動器を用意しておかなければならない。制度、企業、産業、経済がそれぞれ同期のとれない状況になっているとするなら、最後にはどうなるのだろうか。われわれはそもそもどうして時間と速度にしばられるようになったのだろうか。
 
時間の鎖
 この点を考える出発点として、前述のように、たとえば古代の中国や封建時代のヨーロッパなど、第一の波の農業社会では一般に、時間給で働くことがなかった点を再確認しておこう。奴隷や農奴、小作人は、自分で実際に生産したものの一部を受け取るか、とっておくのが通常だった。このため、労働時間が直接に金銭に結びつくことはなかった。
 さらに、収穫は気象条件に左右され、人間と家畜の働きには限度があり、技術水準がきわめて低かったので、農民が一家でどれほど長時間働いても、人間の生産性には限界があった。その結果、当時は時間との関係がいまとはまったく違っていた。フランスの著名な歴史家、ジャック・ル・コッフによれば、ヨーロッパでは十五世紀になっても、時間は神に属するものであって、売買してはならないと聖職者が教えていた。時間で労働を売るのは、利息をとって金銭を貸す高利貸しと変わらないほどの悪徳であった。そして十五世紀のフランシスコ会修道士、聖ベルナルディーノは、時刻をはかる方法すら人間は知るべきでないと教えていた。産業革命によって時間との関係は様変わりした。~第二の波の雇い主は、~労働者から最大限に肉体労働を引き出そうとした。(中略)近代化の先駆者はそれに止まらず、時間の鎖にもうひとつの輪をつくり、それによって、富を時間にしっかりと結びつけた。~こうして、労働の価格、金銭貸借の価格が時間を基準に決められるようになった。この二つの変化はそれぞれ独立して徐々に起こったものだが、その結果はきわめて大きかった。各人が労働者として、消費者として、借り手として、貸し手として、投資家として、かつてなかったほど、時間に結びつけられるようになったのだ。(中略)
 ~現在、何千万、何億もの人が時間の短縮によって苦しめられ、ストレスを感じ、「未来の衝撃」を受けていると感じている。意外だとはいえないことだが、ロンドンのイブニング・スタンダード紙は、減速を望む「猛進中毒者」への支援を専門とするセラピストが登場したと伝えた。人はみな、待たされるのを嫌う。子供にみられる注意欠陥障害(ADD)は文化ではなく、化学物質に原因があるのかもしれない。だが、未来が加速しているために、満足が得られるまで待つのを嫌う傾向が強まっている現状をまさに象徴している。
 
高速の愛好
 世界のどこでも、文化と経済がいわば逐次処理から同時処理に移行してきたことから、そのなかで育った世代はひとつのことに集中するのではなく、ながら族になり、多重焦点型になってきており、いくつものことを一度に行なっている。~(中略)

時間のカスタム化
 ひとつ前の時代には、仕事の世界での時間は標準的な長さにまとめられていた。「九時から五時まで」がアメリカの数千万人の労働者にとって標準だった。そのなかで、昼食に三十分か一時間があてられた。休暇の日数も決まっていた。労働協約と連邦法によって時間外労働は雇い主にとって高くつくようになっていて、標準的な労働時間をなるべく崩さないようにする仕組みがとられた。(中略)これに対して、いま急成長している新しい経済は、いまの学校教育では対応できないものであり、時間に関してまったく違う原則に基づいて動いている。集団的な時間から個別の時間へと移行し、過去の標準的な時間枠を解体している。いいかえれば、個人による違いのない時間から個人的な時間に移行しており、製品と市場の個人化と同様の動きが、時間についても起こっているのである。
(中略)
家族、親友とあう機会
 こうした変化は家族生活にもあらわれている。(中略)要するに、新たな富の体制では、ペースが加速しているだけでなく、時間との関係で不規則性が強まっているのである。その結果、工業時代に作られた牢獄のような硬直性と規則性から個人が解放されている。だが同時に予測不可能性が高まり、人間関係と富の創出を調整する方法、仕事を進めていく方法を、根本から変えなければならなくなっている。(略)
高速で向かう先は
 これらの変化によって、アドホクラシーへの動きがさらに進むだろう。(中略)
 これらの変化が社会、文化、経済に与える影響を本書で論じつくすことはできない。しかし、いまでは明らかになった点もある。主要な制度がそれぞれ歩調をあわせられなくなっている。同時化と非同時化の間の緊張が高まっている。変化はますます加速している。時間が不規則になってきた。生産性と時間との関係は薄れ、ある長さの価値が時間の経過とともに上昇している。計測し、利用し、管理できる時間枠がますます短くなると同時に、ますます長くなっている。要するに、まさに歴史的な動きが起こっているのである。 

アルビン・トフラー ハイジ・トフラー共著 富の未来(上)001

2015年01月29日 20時17分14秒 | 富の未来(上)
2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)

日本語版に寄せて
 最近、皇太子家の長女、愛子さまがご夫婦とともに幼稚園の入園式に出席されたと報じられた。この明るいニュースと並んで、全国各地で暴力団事務所などの家宅捜索が行われ、ロシアやフィリピンから密輸した武器が押収されたと報じられている。この二つのニュースは、日本の未来の対照的な動きを象徴しているかもしれない。一方は愛と学習を、他方は犯罪と対立を示している。
 いまの日本のニュースをつぎつぎに読んでいくと、不思議な組み合わせや矛盾がいくつも目につく。たとえば、教育水準の高い労働力の必要が叫ばれる一方、日本の学校は危機的状況にあり、今後五年に私立大学四十八校が倒産すると予想されている。外交でもそうだ。日本は中国との間で強固な経済関係を築いているが、政府関係は危険なほど悪化しており、両国でナショナリズムが強まっている。
 これらのいくつかの例は、革命的な富の波がアメリカ、アジアをはじめ、世界各地に広がっているなか、日本がはるかに深い水準で課題に直面していることを示すものだとみられる。
 さまざまな変化が奔流のように押し寄せる混乱した現状で、日本は今後、どうなるのだろうか。穏やかな成長だろうか。長期の停滞だろうか。勃興する中国に圧倒された没落なのだろうか。日本が過去三十年に指導的な地位を確立したのはなぜで、いまはそれを失おうとしているのはなぜなのか。日本はどのような手段をとれば、あらゆる形の富を変えている革命にふたたび参加できるようになるのだろうか。
 本書では、経済だけでなく、企業や文化、制度、社会で変化の必要をもたらしている新しい力を描いていく。日本の各界の指導者がこの力を理解しなければ、日本は今後、繁栄していくことができない。
 いま、日本の未来がどうなるよう期待するかと問われれば、1970年代と80年代の成功を再現を期待すると答える日本人もいるはずだ。しかし、昔に戻ることはできない。そして、小さな改革を積み重ねて既存の制度を変えていっても、いま、さまざまな分野で勃興している新しい富の制度の要求にはこたえられない。(以下略)
 

はじめに(抜粋)
~何よりも重要な動きが、富の歴史的変化という動きが、それほど重要ではないニュースの氾濫の中で見失われているか、目立たなくなっている。本書はこの見失われた動きを描くことを目標にしている。
(中略)
 富の創出に当たって知識の重要性が着実に高まっており、いまではこれがはるかに高い水準に飛躍し、多数の境界を越える段階に達している。世界の頭脳バンクが成長を続け、変化を続け、利用しやすくなりつづけており、これに接続する地域が世界の中で増え続けているからである。この結果、人類は豊かな人も貧しい人もみな、革命的な富の体制の中で、少なくともその影響を受けて生活し、働いている。
 いまでは「革命」という言葉はじつは気楽に使われるようになった。新しいダイエットも「革命」と呼ばれ、政治的な激変も「革命」とされて、本来の意味が失われている。
 本書では「革命的」という言葉を、影響の及ぶ範囲をもっとも広くとったときの意味で使っている。いま起こっている革命の規模と比較すれば、株式市場の暴落、政権の交代、新技術の導入、さらには戦争や国の解体すら、「革命的」とはいえない。
 本書で取り上げる革命的な変化は、産業革命に匹敵するか、それを上回るほど大規模な激変である。相互に関係がないように思える何千、何万もの変化が積み重なって、新しい経済体制になり、産業革命によって「近代」が生まれたように、まったく新しい生活様式と文明が生まれる、そういう激変である。
(中略)もうひとつ、「富」という言葉について。
 いま、ほとんどの人は金銭経済のもとで生活しているが、本書でいう「富」は金銭だけを意味するわけではない。生活を支えているものにはもうひとつ、ほとんど探求されていないが、じつに魅力的な並行経済がある。この並行経済でわれわれは、金銭を使わないまま、多数の必要や欲求を満たしている。この二つの経済、金銭経済と非金銭経済を組み合わせたものが、本書にいう「富の体制」である。
相互に関係するこの二つの経済で同時に革命が起こっており、過去に例のない強力な富の体制がいま、生まれようとしているのである。
この革命がいかに重要なのか理解するには、どの富の体制も単独で存続しているわけではない事実を認識しなければならない。富の体制は確かに強力だが、もっと大きな体制を構成するひとつの部分にすぎない。社会、文化、宗教、政治など、大きな体制を構成する他の部分とともに、常に互いに、そして大きな体制との間で、フィードバックを繰り返している。この全体の文明、生活様式になっていて、その時代の富の体制にほぼ見合ったものになっている。
このため、本書で革命的な富の体制について論じるとき、それが他の部分のすべてと関連していることをかならず考慮している。いまの時代にそうなっているように、富の体制で革命が起こるときにはかならず、前述の面など、生活のさまざまな面に変化が起こり、それに伴って既得権益集団の抵抗にぶつかることになる。本書は以上のような基本的な見方に基づいており、この見方を理解すれば、何の意味もないようにみえる無数の変化と衝突、いま荒れ狂っている変化と衝突に一貫した意味があることが分かるようになる。(中略)
 だが経済学はどの学問にもまして、現実の生活に根ざしていなければならない。二人の筆者のどちらにとっても、若いころの「現実の生活」には、工場で働いた忘れがたい五年間がある。押し抜き機や組み立てラインで働き、自動車や航空機エンジン、電球、エンジン・ブロックなどの製造にくわわり、鋳物工場のダクトのなかをはいまわり、大ハンマーを振るうといった肉体労働を行った。こうして、製造業が底辺からどうみえるかを学んだ。失業がどういうものかも、実感している。(中略)
 もちろん、未来を知ることは誰にもできない。とくに、何かがいつ起こるのか、確実なことは誰にも分からない。このため、本書で未来について論じている点はすべて「おそらくそうなるだろう」「筆者の意見ではそうなるだろう」という意味であることをここでお断りしておく。何度も同じ言葉を使えば読者の眠気を誘うことになるので、そのたびに但し書きを繰り返すことはしない。~もうひとつ、避けがたい現実を忘れないようお願いしたい。すべての説明は単純化である。

本書の執筆の過程について、重要な事実を二つ記しておきたい。
本書の執筆には十二年かかったが、運良くスティーブ・クリステンセンの支援が得られなければ、もっと長くかかっていたはずだ。あるとき、筆者はクリステンセンに本書の仕上げを手伝ってくれる編集者を推薦するよう依頼した。ありがたいことに、それなら自分が引き受けようといってくれた。大手通信社のUPIで西部地区編集者をつとめた後、ロサンゼルス・タイムズ・シンジケートの編集長兼ゼネラルマネジャーだった経験豊かなジャーナリストであり、三年前に本書の執筆に参加した。まさに一流の編集者だといえる仕事ぶりだった。そして、それ以上に、規律、頭脳、温かさ、優しさ、明るく皮肉っぽいユーモアのセンスを持ち込んだ。執筆の作業が楽しくなり、友情を深めることができた。
最後に、筆者夫婦の一人っ子、カレンの病気が長引き、ついに死亡したために本書に集中できなくなり、執筆が長引くことになった。妻のハイジは何年にもわたって昼夜を問わずカレンの病床に付き添い、病気と闘い、病院の官僚制度と闘い、医療の無知と戦ってきた。このため当然ながら、本書の執筆にはときおり参加できるにすぎなかった。それでも、本書の基礎にある想定、考え、モデルは夫婦で旅行し、インタビューを行い、長年にわたって議論し、建設的な論争を進めてきた結果である。
過去にはハイジはさまざまな理由で共著者として名前をだすことを望まなかった。それに同意してくれたのは1993年出版の『戦争と平和』、そして95年出版の『第三の波の政治』のときだけである。それでも、トフラーの著書はすべて、夫婦が協力した結果だと考えるよう、読者にお願いしたい。
                              アルビン・トフラー
     

第一部 革命
第一章 富の最先端
 本書のテーマは富の未来である。目に見える富と見えない富、急速に近づいてくる未来に生活や企業、世界のあり方を根底から変える革命的な形態の富、これが本書のテーマだ。これが何を意味するのかを説明するために、家族や職から、日常生活にあらわれている時間の圧力や複雑さの増大まで、あらゆる点を以下で取り上げる。真実と嘘、市場と通貨について考えていく。われわれを取り巻く世界にあり、われわれ自身の内部にある変化と抵抗の衝突について、意外な事実をあきらかにする。
 現在の富の革命によって、ビジネスの世界の創造的起業家だけでなく、社会、文化、教育の世界の社会起業家にも無数の機会が開かれ、新しい生き方が可能になるだろう。国内でも世界全体でも、貧困を撲滅する新たな可能性が生まれてくるだろう。だがこの豊かな未来への招待状には警告が書かれている。リスクが増えていくうえ、増え方が加速していくという警告が。未来は気の弱い人には向いていない。
 (中略)
 混乱としか思えない現実から、少なくとも現実を忘れようと、テレビに安らぎを求める人が多く、そこでは「リアリティ番組」が現実と称する芝居を見せている。~非現実性が広まっている。もっと重要な点を指摘するなら、かつて社会に統一性、秩序、安定をもたらしていた学校、病院、家族、裁判所、規制機関、労働組合などの制度が危機に直面して、無様に失敗している。~経済が綱渡り状態にあるうえ、いくつもの制度が破綻していることで、庶民は悲惨な結果になりうる問題に直面している。(中略)

今月の流行
 これらの疑問に答えるのがむずかしいと感じているのは庶民だけではない。専門家もそう感じている。企業の経営者はラッシュ時の改札を通る通勤客のようにつぎつぎに交代しており、~経済専門家の多くも死知識の墓地をさまよっていて、混乱状態にあるのが現実だ。~本書では、未開拓の「基礎的条件の深部」、いわゆる基礎的条件を動かしている要因に注目する。
 基礎的条件の深部に注目すると、意味を成さない混乱状態だと思えたいまの世界が違ってみえてくる。混乱ばかりが目につくことはなくなり、以前にはみえなかった機会があることが分かるようになる。混乱はものごとの一面でしかなかったのだ。そして混乱があるからこそ、あたらしいアイデアが生まれる。
 たとえば今後の経済では、さまざまな分野に大きな事業機会が生まれる。超農業、神経刺激療法、カスタム・メードの療法、ナノ薬学、まったく新しいエネルギー源、連続支払い制度、スマート輸送システム、瞬間市場、新しい形態の教育、敵を殺さない武器、デスクトップ製造、プログラム可能な通貨、リスク管理、監視されているときに警告してくれるプライバシーセンサー、それにかぎらず、あらゆる種類のセンサー、そして当惑するほど多種多様な財とサービスと体験などである。
 これらがいつ利益を生むようになるのか、あるいは利益を生むようにならないのか、これらがどのように収斂していくのか、確実なことは何もいえない。だが、基礎的条件の深部を理解すれば、いまですら、新しいニーズがあり、気づかなかった産業があることが分かる。たとえば「同時化産業」があり、「孤独産業」がある。
 富の未来を予想するには、金銭を得るために行っている仕事だけでなく、「生産消費者」として誰でも行っている無報酬の仕事にも注目する必要がある(後に説明するが、個々人が生産消費者として日常的に行っている仕事がいかに多いか気づけば、たいていの人は衝撃を受けるのではないだろうか)。本章ではさらに、多くの人がそうとは気づかないまま、目に見えない「第三の職」についていることも論じていく。
 生産消費は爆発的に増える状況にあるので、生産消費経済の未来と切り離していては、金銭経済の未来はもはや理解できないし、ましてや予測などできない。金銭経済と生産消費経済は切り離せないものなのである。この二つによって「富の体制」が形成されている。この点を理解すれば、そして両者が支えあっている経路を理解すれば、われわれの生活の現在と未来を深く見通す手掛かりが得られるだろう。(中略)
収斂の可能性
 ~航空機が飛ぶはずがないと主張した専門家が多かったことを思い出すべきだ。ロンドン・タイムズ紙が「電話」と呼ばれる機器が発明されたという報道について、「アメリカ流馬鹿話の最新例」だと伝えたことも。強力な知識工作機器とインターネットを使った科学者の協力に、変化を加速する別の要因がくわわっている。科学技術の発達をそれぞれ独立した動きとしてとらえるのは間違っている。知識の面でも、経済的利益の面でも、ほんとうに大きな成果が得られるのは、二つ以上の飛躍的な前進が収斂するか、組み合わされたときだ。多様な研究が行なわれ、科学者が増え、多数の分野で科学技術が発達するほど、大きな成果を生み出す斬新な組み合わせができる可能性が高くなる。今後何年かに、そうした収斂が多数あらわれるだろう。知識を拡大するための機器の開発は、燃料注入段階のロケットのようなものであり、富の創出の次の段階に向けて前進を準備しているのである。次の段階には、新しい富の体制が世界全体にさらに広まるだろう。いま、革命が起こっている。いまの革命で生まれる新しい文明では、富についての常識のすべてが疑問とされるようになるだろう。
 
第二章 欲求が生み出すもの
 富の未来は明るい。いまの世界には確かに深刻な混乱があり逆流があるが、将来、世界で生産される富が減っていくのではなく、増えていく可能性が高い。しかし、富が増えるのは良いことだと誰もがみているわけではない。古代のアリストテレスらが、最低限の必要を満たせるもの以上に富を追い求めるのは不自然だと考えた。十九世紀には社会主義者や無政府主義者が、富とは不当に収奪されたものだと考えた。現在でも環境原理主義者が「簡素な生活の選択」を呼びかけ、大量消費を悪の元凶とみている。このように、富は悪評を受けてきた。~富とはカネを言い換えた言葉ではない。一般にはそう誤解されていることがあるが、実際にはカネは富を象徴するもののひとつでしかない。富で手に入るもののなかから、金で買えないものもある。自分自身の富であれ、他人の富であれ、富の将来を最大限に幅広い角度から理解するためには、富の源泉に遡って考えていかなければならない。富の源泉は、欲求である。
 


富の意味
 欲求にはなくてはならない必要によるものから、気まぐれな欲望によるものまで、さまざまな種類がある。どのような種類の欲求であっても、それを満たすのが富だ。~富とは、おおまかに定義するなら、経済学で「効用」と呼ばれるものがある何かを、単独でか共有の形で所有していることである。つまり、何らかの形の満足を与えるか、あるいは何らかの形の満足を与える別の形態の富と交換できるものである。いずれの場合にも、富は欲求が生み出すものだ。この点も理由になって、富について考えること自体を嫌う人がいるのである。

欲求を管理する人たち
 たとえばある種の宗教は、欲求は悪だと教える。禁欲的な宗教は貧困の中で忍耐を教え、欲求を満たすのではなく抑制すれば幸せになれると説く。物欲を抑え、何も持たずに生きていくよう教える。インドの宗教は何千年も前からまさにそう教えてきた。それも信じがたいほどの貧困と惨状の中で。
 これに対してプロテスタンティズムはヨーロッパで生まれたとき、まったく逆の教えを説いた。物欲を抑えるのではなく、勤勉に働き、倹約し、高潔に生きるよう教え、この教えに従えば、神の恩寵によって、自分で自分の欲求を満たせるようになると説いた。欧米では広範囲な人たちがこの価値観を受け入れ、豊かになった。欧米ではさらに、欲求をつぎつぎ生み出していく永久機関、広告が生まれた。
 もっと最近ではアジアで、中国のしたたかで老練な共産主義者、小平が1970年代に「金持ちになるのは良いことだ」と語ったと伝えられた。これによって世界人口が五分の一を占める中国で鬱積していた欲求が解き放たれ、時代を超えて続いてきた貧困から抜け出す動きが起こった。(中略)どの社会でも指導者層が欲求を管理している。富の創出の出発点にあたる欲求の管理をしているのである。
 当然のことながら、欲求の水準を高めても、あるいは富や欲求からは少しずれるが、貪欲を奨励しても、それだけで金持ちになる人がでてくるとはかぎらない。欲求を強め、富を追求する文化であっても、富が獲得できるとはかぎらない。だが、貧しさの美徳を教える文化は、まさに求める通りのものを達成するのが普通だ。

富の未来(上)補足について 

2015年01月29日 20時10分41秒 | 富の未来(上)
過去の掲載で、コメントと本文引用が同一であったために削除していた箇所が
ありましたので、以後、以下のとおり掲載します。

富の未来(上) 001  第一章~第二章
富の未来(上) 003  第五章~第八章
富の未来(上) 004  第九章~第十四章

第三の波を現在展開していますが、引用・注釈で富の未来との整合性を確認する
ために途中でブログ内に挿入しますのでご了承ください。

第12章 変貌する主要産業(2-1)

2015年01月04日 21時00分43秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第12章 変貌する主要産業(2-1)
 1960年8月8日、ウエストバージニア州生まれの化学技師モンロー・ラスボーンは、ニューヨークのマンハッタン、ロックフェラープラザを見おろすオフィスで、ひとつの決定をくだした。後世の歴史家たちは、この決定こそ、第二の波の時代の終焉を象徴するものだったと言うかもしれない。
 巨大石油会社エクソンの筆頭重役ラスボーンは、この日、エクソンが産油国政府に支払っていた税金を削減するための行動を起こしたのだ。当時、そのことに注目した者はほとんどいなかった。西側のマスコミはこれを取り上げもしなかった。しかし、彼の行動は産油国政府に電撃的な衝撃を与えた。これらの国の財政は、事実上、全面的に石油社会から取り立てる税金でまかなわれていたからである。
 数日のうちに、ほかのメジャー国際石油会社がそろって、エクソンにならって税金削減を働きかけた。そして一ヶ月後の9月9日、もっともひどい痛手をこうむったいくつかの産油国の代表が、アラビアンナイトの都バグダッドに集まって、緊急評議会を開くにいたった。追いつめられて会議に集まったかれらは、ここで石油輸出国政府による、ひとつの委員会を結成したのである。しかしその後13年間、この委員会の活動はむろんのこと、その名称すら、完全に黙殺されたままだった。わずかな例外は、一部の石油業界誌だった。13年後の1973年ユダヤ暦1月10日、第四次中東戦争の勃発とともに、石油輸出国機構(OPEC)は、突如、暗闇からその姿をあわらし、世界への原油供給を停止するという手段に訴えて、第二の波の経済をいっきょに転落の恐怖へつき落としたのであった。
 OPECは産油国の歳入を4倍に増大させたばかりではない。第二の波の技術体系にくすぶりはじめていた革命の火に、油をそそぐ結果となったのだった。

 太陽エネルギー、そのほかの代替エネルギー
 石油ショックによってエネルギー危機が起きたが、それをめぐって侃々諤々の大騒ぎとなった。その騒ぎのなかで、数多くの計画、提案、意見、それに対する反論などが飛び交った。あまりにも多種多様な議論が起こり、どれが正しいのか選択に困るほどであった。政府の混乱ぶりも、一介の市民となんら変わるところはなかったのである。
 こうした混沌を突き破るひとつの方法は、個々の技術や政策にとらわれず、それらの根底にある、いくつかの基本問題を把握することである。そうすれば、現在行なわれている議論の中には、第二の波の時代のエネルギー体系を前提にして、それを継続、維持しようとする立場と、まったく新しい原則を見出そうとする立場の、二つの考え方があることに気がつくだろう。それを理解すれば、エネルギー問題の全貌が、根本から明快になる。
 さきに述べたとおり、第二の波のエネルギー体系は、再生不可能な資源を前提にしている。エネルギー源は高度に集中化した有限の鉱床から、同じく集中化したカネのかかる技術によって掘り出されている。その種類は限られていて、採掘方法も、採掘場所も、限定されている。これが、産業時代を通じて第二の波の国家が使っていたエネルギー源の特徴である。
 こうした特長を考えた上で、石油危機が生んだいろいろな計画や提案を検討してみれば、どれが古い体系の延長線上にあるか、どれが根本的に新しいエネルギーの先駆となるかは、一目瞭然であろう。石油を1バーレル40ドルで売るべきか否か、原子力発電所をシーブルックにつくるべきかグロンデにつくるべきか、などといったことは基本的な問題ではないのである。産業社会のために開発され、第二の波の特性を前提としている古いエネルギー体系が、はたして将来も通用するかどうかということが、もっと大事な問題なのである。こうした形で問題が投げかけられれば、それに対する答えを考えざるをえない。
 過去50年間、全世界のエネルギー供給源の3分の2は石油とガスであった。しかし、地下に眠る化石燃料に依存する状態が、今後多少の油田が発見されたところで、永久に続くはずがない。これは衆目の一致するところである。この点では、狂信的な天然資源保護論者や追放されたイラン国王まで、太陽熱利用を熱心に唱える人やサウジアラビアの王族から、スマートななりをして書類鞄をかかえた諸国政府の高官にいたるまで、意見は同じであろう。
 統計が示す数字は、まちまちである。世界が暗礁にのりあげるまであと何年もつのか、さまざまな論議が行なわれている。予測は複雑をきわめているし、過去の予言の多くはいまでも馬鹿げて見えるが、ただひとつだけ確かなことがある。もはや石油やガスを油田に新しく補給することはできないということだ。
 結局はどのような形で到来するのか。急激な噴出の後に石油がぱったり止まってしまうのか、何度か石油不足によるひどい社会不安が続いたのちに終局がくるのか、短期間の石油過剰状態と深刻な石油不足の連続の末に終わるのか。いずれにせよ石油時代は終末に近づいているのである。イラン人もクウェート人もそれを知っている。ナイジェリア人もベネゼイラ人サウジアラビア人もこのことに気づいている。だからこそ、石油収入以外の経済基盤を固めようと競い合っているのである。一方、石油会社も石油時代が終わりに近づいていることを知っている。だからこそかれらは石油以外の投資対象に殺到するのである。
(つい先頃、東京である石油会社の社長と会食した際、彼は大石油会社は、ちょうど鉄道会社が現在そうであるように、死滅した恐竜のような存在になるだろうと語った。しかも、それが何十年後というわけではなく、数年のうちにそうなるだろう、と予測していた。)
 しかし、物理的な意味でのみ石油の枯渇を論じるのは、ピントはずれであると言ってよい。なぜかと言えば、今日の世界では、石油の供給量よりも石油の価格の方が、直接的な強いインパクトを持っているからである。しかし、この点から考えても、結論は同じことである。
 このさき何十年間かの間には、ひょっとすると、驚異的な技術革新とか経済変動が起こって、ふたたびエネルギーが豊富に、しかも廉価で入手できる事態が生ずるかもしれない。しかしたとえ、何事が起ころうとも、相対的な石油価格は上昇の一途をたどるであろう。採掘パイプはますます深く掘り下げなければならなくなるし、油田の開発はますます辺境の地へ移り、また石油の買い手が増加して競争が激化するからである。OPECは別として、この5年間にもうひとつの歴史的変化が起こっている。メキシコなどに新たな大型油田が発見されたり、石油の価格がうなぎのぼりに上がったりしているにもかかわらず、確認された、商業的に採算のとれる原油保有量は、増加するどころか減少していることである。こんなことは、過去数十年間見られなかった。この事実が、石油時代にブレーキがかかっていることを示すもうひとつの証拠である。
 一方、世界の全エネルギー源の3分の1は石炭である。石炭も、いつかは、必ず掘りつくされてしまうことに変わりは無いが、現在のところまだかなりの埋蔵量がある。しかし、石炭の大量消費は、大気汚染をもたらし、(空気中の炭酸ガスの増大によって)世界の気候を悪化させ、結局は地球を荒廃させることになるだろう。今後十数年間、これらの弊害を必要として許容したとしても、石炭を自動車のガソリンタンクに入れるわけにはいかないし、現在石油やガスを使っているすべての分野で、すぐ石炭に代役をつとめさせることもできない。一方、石炭をガス化したりするための工程は、莫大な資本と、農業用水が不足するほどの大量の水を必要とするので、結局、経費がかさむ割には効率が悪いということになる。石炭のガス化や液化は、不経済で、非能率であり、一時の便法にしかならないのである。
 原子力技術も、現在の開発段階では、よりいっそうむずかしい問題をかかえている。現在使われている原子炉はウラニウムを利用しているが、ウラニウムそのものが限りある資源である。また、安全性にも問題があり、たとえこの問題を完全に克服できるとしても、そのためには極端な経費がかかる。核燃料廃棄物の処理の問題も、完全に解決されてはいない。いまのところ、原子力は非常に高価なものであり、他のエネルギー源と競争していくためには、政府の補助金が不可欠である。
 高速増殖炉は、それ自体としては、非常にすぐれた技術である。核反応によって出てくるプルトニウムがそのまま燃料として使えるという話をはじめて聞いた人は、永久に運動を続ける機械だと思い込んでしまう。しかし、これも所詮は世界でほんの少量しか埋蔵されていない、再生不可能な資源、ウラニウムに依存しているのである。高速増殖炉は高度に集中管理された、おそろしく経費のかかるしろもので、危険物質がもれる恐れもある。その上、核戦争の可能性、テロリストによる核物質の盗難の危険性をもはらんでいる。
 エネルギ-問題が困難な状況にあるからといって、ふたたび中世の生活に戻らねばならないとか、経済進歩がこれ以上望めないなどと考える必要はない。ただ、人類がひとつの発展路線の終点に到達してしまっており、これまでとは違う、新しい路線で出直さなければならないことは確かである。第二の波のエネルギー体系を維持することができなくなったということである。
 世界が、まったく新しいエネルギー体系へ移行する必要性は、もっと根本的な原因によっても明らかである。エネルギーというものは、農村経済であれ産業経済であれ、その社会の技術水準や生産様式、市場や人口の分布、そのほかいくつかの条件に見合ったものでなければならない、というのがその理由である。
 第二の波のエネルギー体系は、技術上のまったく新しい発展段階に即してでき上がったものである。石炭や石油という化石燃料が技術発展を促進させたのは事実だが、その逆もまた真なり、ということが言える。産業時代に開発された、常に大量のエネルギー源を必要とする貪欲なテクノロジーが、急ピッチで石炭や石油を採掘させたのである。たとえば、石油を例にとると、石油企業が急速に成長したのはまったく自動車産業の発展の影響であり、一時は、石油会社はデトロイトの付属品のようなものだった。かつてある石油会社の調査部長だったドナルド・E・カーは、その著書『エネルギーと地球の仕組み』のなかで、「石油産業は、“ある種の内燃機関の奴隷”になった」と述べている。
 われわれは、いま、ふたたびテクノロジーの歴史的飛躍を迎えようとしている。来るべき新しい生産システムは、全エネルギー産業の抜本的な再構成を必要とするであろう。OPECがテントをたたんで、静かに歴史の舞台から退場することを余儀なくされる、といった事態も予想されるのだ。
 なぜならわれわれが見落としている重大な事実は、エネルギー問題は量の問題だけではなく、エネルギー体系の構造の問題であるということである。われわれが必要としているのは、一定量のエネルギーだけではない。いま、必要とされているのは、もっと多様な形で、さまざまな場所(あるいは変化する地点)で、昼夜を分かたず、一年をとおしてさまざまな時刻に、思いもよらぬ目的のために入手できるエネルギーである。
 世界中の人びとが従来のエネルギー体系にとって代わるエネルギーを探し求めているのは、まさにこういう理由からであった、OPECの価格決定がすべてではないのである。新しいエネルギーの探求は、巨額の金と想像力を駆使して休息に進められているが、その結果、多くの驚異的な可能性がつぎつぎと検討されるようになった。もちろん、経済変動そのほかの混乱が、エネルギー体系の移行をおくらせるマイナス要因になることも考えられるが、より大きなプラス要因も存在する。それは、歴史上かつてなかったほど多くの人びとがエネルギー探求に熱中しているということ、そしてかつてなかったほど多くの斬新で、関心をそそる可能性が眼前に開けているということである。
 現段階では、どんなテクノロジーを組み合わせればどの目的にもっとも効果的であるかを判断するのはどう見ても困難であるが、利用しうる道具立てと燃料は、膨大になるにちがいない。そして、石油の価格が上昇するにつれて、かなり風変わりなエネルギーでも十分商業的に成り立つ見込みが出てくる。
 現在、可能性のあるものとしては、太陽光線を電気に転換する光電池(テキサス・インスツルメンツ社、ソラレックス社、エネルギー・コンバージョン・デバイス社など多数の企業が研究開発中である)とか、ソ連で計画中の、対流圏と成層圏の境界に風車つきの風船を打ち上げて地上に向けてケーブルで電気を送る方法などがある。ニューヨーク市は町中から出るごみをある会社に燃料として売却しているし、フィリピンではヤシの殻で発電するプラントを建設中である。イタリア、アイスランド、ニュージーランドでは
地熱発電を行なっているし、日本では、本州の沖合いに500トンの箱舟を浮かべて、波力発電を実験中である。屋根に据えつける太陽熱温水器は全世界に普及しているが、南カリフォルニア・エジソン社では太陽熱をコンピュータで操作する多数の鏡で受け、それを蒸気ボイラーに送って発電して、同社と契約している家庭へ送電する計画を進めている。目下、「発電タワー」を建設中である。西ドイツのシュツットガルトでは、ダイムラー・ベンツ社が開発した水素を動力に使ったバスが街を走っている。ロッキード社のカリフォルニア工場では、水素燃料で飛ぶ航空機の研究が進められている。新しい手段がこのように、次から次へと開発されており、枚挙にいとまがない。
 これらの新しいエネルギーを開発する技術は、それを貯蔵し、輸送する新しい手段を開発することによって、さらに輝かしい将来を拓いてくれるだろう。ゼネラル・モーターズ社が最近発表したところによれば、同社は電気自動車用の高性能バッテリーを開発したと言う。NASAの研究所では、従来の鉛と硫酸を使ったバッテリーの3分の1のコストで製造できる「レドックス」という蓄電装置を完成した。さらに長期的な展望にたてば、超伝導の探究も行なわれているし、「まともな」科学の領域を超えたものと言われる、最小限のロスでエネルギーを伝導するテスラ波の研究も行なわれている。
 これらのテクノロジーは、大部分まだ初期の開発段階にあって、なかには実用化にほど遠いものも多い。しかし、いますぐにでも商業化できるものや、10年、20年先に商業ベースにのるものもある。この場合、飛躍的な進歩はひとつの独立した技術から生まれるというより、むしろ、いくつかの技術を併用したり組み合わせたりする、豊かな創造力によって生み出されるものだということを忘れてはならない。このことは、しばしば、見過ごされているようだ。たとえば、太陽光電池によって電気を起こし、その電気で水から水素を抽出し、それを自動車に使う、といった具合に考えねばならないであろう。残念ながら、われわれはまだ次の時代へ向かって離陸したとは言えない。しかし、以上述べたような多くの新しい技術を結合することによって、さらに多くの潜在的な可能性が陽の目を見ることとなり、第三の波のエネルギー体系の構築が急速に進展することになるであろう。
 第三の波のエネルギー体系は、第二の波のそれとはまったく異質な、いくつかの特徴を備えている。まず第一に、供給源は枯渇せず、再生可能なものが多くなる。また、高度に集中化された燃料にたよらず、広い範囲に散在する、バラエティに富んだエネルギーになるだろう。エネルギーの生産技術も、いまほど厳密に集中化されたものでなく、集中化した技術と拡散した技術とを、組み合わせたものになるだろう。
限られた生産方法と資源に過度に依存しているという危険な状態を脱して、エネルギー形態は極端なほど多様化するにちがいない。エネルギーの多様化によって、われわれは、ますます多様化する需要に合致した、エネルギーの種類と量を選択することができるようになり、その結果、エネルギーの浪費を防止することも可能になるだろう。
 一言で言えば、いまはじめて、過去300年間のエネルギー体系から180度転換した原則に立脚する体系が、われわれの眼前にその姿をあらわしはじめたのである。しかし、第三の波のエネルギー体系が確立するまでには、厳しい闘いが待っている。
 すでに高度の技術を持った国ぐにで、始まっているこの闘いは、アイデアと巨大な資本を要し、敵味方、二つの陣営で闘われているのではなく、まさに三つ巴の闘いとなっているようである。まず第一グループは、古い、第二の波のエネルギー体系に投資している人びとである。かれらは、石炭、石油、ガス、原子力、およびその代替品など、従来のエネルギー源と技術を支持しているから、第二の波の“現状維持”のために闘うのである。かれらは石油会社とか公共事業体、原子力委員会、鉱山会社、それにいま述べた組織、団体に働く労働組合のメンバーなどを砦として立て篭もっているので、第二の波の勢力は、難攻不落の陣をしいているように見える。
 これにくらべて、第三の波のエネルギー体系を推進しようとする勢力は、消費者グループ、環境保護運動家、科学者、産業界の最先端をゆく企業家やその同調者で構成されているが、かれらは散り散りばらばらで、資金も乏しく、政治的にも無力な場合が多い。第二の波のための宣伝に力を入れている人びとによれば、あまりに素朴で、経済観念が乏しく、空想的な技術に目がくらんでいるのがこの第三の波を支持する人びとだということになる。
 不幸なことに、第三の波の支持派は、第三の勢力の代弁者と誤解されがちである。第三の陣営とは、第一の波の支持者で、新しい高度の知識と科学にもとづく永続的なエネルギー体系を求めて前進しようとはせず、産業革命以前への回帰を主張する人びとである。その立場を極端におし進めれば、技術はほとんど排除され、人間の行動範囲は限定され、都市は縮小してやがて滅び、自然保護という名のもとに禁欲生活を強いられることになってしまう。つまり、第三の波の支持者たちはこのように誤解されがちなのだ。
 第二の波の陣営に属するロビイストや、広報担当者、政治家たちは、第三の波の勢力と第一の波の支持者とを意識的に同一視することによって世論を混乱させ、第三の波の勢力を不利な立場へ追い込んでいる。
 しかし、最後に勝利をおさめるのは、第一の波でもなければ第二の波でもない。前者は幻想を追い求め、後者は難問、というより解決方法のない問題をかかえた古いエネルギー体系にしがみついているのだ。
容赦なく上昇する第二の波のエネルギーのコストは、第二の波にはなはだしく不利に作用している。このほかにも第二の波の立場を不利にしている要素はたくさんある。たとえば第二の波のエネルギー技術の投資コストの急騰である。第二の波の技術では、ほんのすこしの「純」エネルギーをとり出すために、大量のエネルギーを消費するという事実がある。ますますエスカレートする公害問題も不利である。核利用
に伴う危険もある。多くの国で、自分たちの利益に反する原子炉、露天掘り鉱山、大発電所の建設に反対して、民衆は警察権力と闘うことも辞さない姿勢を示している。非産業世界に増大する自分自身のエネルギーを持ちたいという欲求、そして、自国の資源をより高く売りつけたいという欲求、これらのすべてが、第二の波のエネルギー体系にとって不利な要因となっているのである。
 要約すれば、原子炉とか石炭ガス化、石炭液化などの技術は、一見、「進んだ」「未来型」のものに見えるため、「革新的」な技術であると思われがちだが、実は、致命的な矛盾にしばられて身動きできなくなった、第二の波の過去の産物にすぎないのである。なかには、一時の便法として有用なものもあるだろうが、本質的には時代逆行の技術なのである。同様に、第二の波の勢力がいかに、強大に見え、それに対抗する第三の波の支持者が弱小に見えようとも、過去に多くを賭けるのは愚かなことである。問題は、第二の波のエネルギー体系が崩壊するか否か、新しい体系にとって代わられるかどうか、ということではなく、その時期がいつかということである。エネルギーをめぐる闘争は、それに劣らず重要なもうひとつの変革・・・第二の波のテクノロジーの崩壊・・・と複雑にからみ合っているからである。(2-1)