アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

第四章 暗号の解読(2-2)

2014年10月28日 22時00分59秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第四章  暗号の解読(2-2)
 
 集中化
 市場が強大化するにつれて、第二の波の文明のもうひとつの原則、「集中化」が発生した。
 第一の波の社会は、さまざまなエネルギー源の上に成り立っていた社会であった。ところが、第二の波の社会はほとんど完全に、石油、石炭、天然ガスといった、きわめて限られた地価埋蔵物に、そのエネルギー源を依存するようになった。
 しかし、集中化が進んだのは、エネルギーだけではなかった。第二の波は、人間の集中化をも促進した。地方から人びとを狩り出し、巨大な都市圏へと移動させたのである。それだけではなく、労働まで集中化した。第一の波の社会では、労働は家庭でも、村でも、畑でも、どこでも行なわれたのに対し、第二の波の労働の大半は、工場で行なわれるようになった。何千という労働者が、ひとつ屋根の下に寄せ集められたのである。
 エネルギーと労働だけではない。イギリスの社会科学雑誌『ニュー・ソサエティ』のなかで、スターン・コーエンは次のような指摘をしている。産業革命以前の社会では、多少の例外はあるにせよ、「貧しい人びとは自分の家族か、親類縁者の世話になっていた。在任は罰金を科せられたり、鞭打ちの刑に処せられたり、あるいは施設から施設へとたらいまわしにされたりしていた。また、精神障害者は、家に閉じ込められ、家が貧しい場合には、地域社会が面倒をみていた」手短かに言えば、このような集団は特定の場所に集中することなく、地域社会に散在していたのである。
 産業主義は、こうした状況を根本的に変えた。19世紀初頭は、大投獄時代と言われている。罪人はつぎつぎに検挙され、牢獄に集められた。精神障害者は「精神病院」に、こどもは学校にと、それぞれ狩りたてるように寄せ集められたのであった。これはまさに、労働者が工場へ集められたのと同じ事であった。
 集中化は、資本の流れにもあらわれた。その結果、第二の波の文明は巨大企業を生み、さらに進んでトラストや独占を生み出した。1960年代の半ばには、ゼネラル・モーターズ、フォード、クライスラーというアメリカの三大自動車メーカーが、全米の車の94%を生産していた。西ドイツではフォルクスワーゲン、ダイムラー・ベンツ、オペル(GM)、フォード・ベルケの4社が91%の車を生産し、フランスでは事実上、ルノー、シトロエン、シムカ、プジョーの4社で100%、イタリアではフィアット1社で90%の車を生産していた。
 同様に、アメリカではアルミニウム、ビール、タバコ、朝食用食品といった商品の80%以上が、それぞれの分野の4社ないし5社によって生産されている。西ドイツでは、プラスターボードと染料の生産の92%、写真フィルムの98%、産業用ミシンの91%が、それぞれの分野の4社ないしはそれ以下の企業の手に握られているのだ。この種の高度に集中化の進んだ企業は、枚挙にいとまがない。
 社会主義の立場に立つ経営者も、生産の集中化が効率的であると認めていた。実を言うと、資本主義国に住むマルクス主義思想家も、資本主義国家で産業の集中化が進行することを、社会主義への移行に必要な過程として歓迎していた。完全に集中化した産業は、究極的には国家が管理することになる、と言うのである。レーニンは「すべての市民は、たったひとつの巨大な企業合同体、つまり国家という企業の労働者、国家の従業員に変貌する」と言っている。それから半世紀後、ソビエトの経済学者N・レリューキナは『ウォプロズィ・エコノミカ』誌に、「ソビエトは世界中でもっとも集中化の進んだ産業を所有している」と書くにいたった。
 第二の波の文明に見られる集中化という原則は、モスクワと西側諸国との間に横たわる、あらゆるイデオロギー上の対立を越えて、両方の社会の根底まで浸透していった。それはエネルギー源、人口の分布、労働形態、教育方法から、企業のような経済組織にまでおよんでいたのである。
 
 極大化
 生産と消費の間に亀裂が生じたことによって、第二の波の社会には、総じて「大きなことはよいことだ」という「極大化偏執狂」とも言うべき症状があらわれた。それは大きなことの好きなテキサス人のように、いたずらに大きさと成長とを追い求める傾向である。工場の作業時間が長く、したがって生産量が大きくなれば、単位原価は低廉になる。この考え方が正しいとすれば、同様の論法で、規模を大きくすることによって節約が図れる、という考え方が生まれてくるのも無理かなぬところである。こうして、「大きい」という言葉が、「効率的」という言葉と同義語となり、「極大化」は、第二の波の社会を解く第五の鍵になったのだ。
 国や都市は、自分のところには世界最高の超高層ビルがある、世界最大のダムがあると誇るようになり、あげくの果ては世界大際のミニ・ゴルフコースがあると競い合う事態まで出現した。もともと、大きさは成長がもたらしたものである。そこで、産業化の進んだ国の大半は、政府も企業もそのほかの機関も、憑かれたように成長という理想を追求しはじめた。
 日本の松下電器では、毎朝、従業員と管理職がいっしょになって歌っている。-

   新日本の建設に   力をあわせ心を合せ  尽きざる生産勤しみ励み
     世界の人に我等は送らむ  泉の水の滾々と 絶え間なく出づる如く
      産業振興 産業振興  和親一致の松下電器
(訳者注-佐々木信網作詞、平井保喜作曲。昭和21年より49年まで社歌)

 1960年という年は、アメリカが従来の産業主義を完成の域に高めるとともに、変革を迫る第三の波の影響を最初に感じた年でもあった。この年の全米50位までの大企業は、平均従業員8万という規模に成長を遂げていた。ゼネラル・モーターズ1社だけで595,000人、先に触れたセオドア・ベイルの創立になる公益事業AT&Tは、男女合わせて736,000の従業員をかかえていた。この年のアメリカの平均世帯規模は3.3人だったから、優に200万以上のアメリカ人がAT&Tという一企業の支払う給与で生活していたことになる。言い換えると、ハミルトンや、ジョージ・ワシントンがアメリカをひとつの国家に仕立て上げようとしていた時代のアメリカの、全人口の半数に匹敵する集団がAT&T一社に依存していたことになる。(1960年以後も、AT&Tは吸収合併を続け、その大企業ぶりを物語る比率は、ますます高まっている。1970年には、同社は956,000人を雇用していた。わずかその1年で136,000人の増員を行なった。)
 AT&T社の例は特殊なケースだが、アメリカ人の専売特許というわけではない。1963年の数字だが、フランスでは、数の上では全企業のわずか0.25%に過ぎない1,400の企業が、全労働人口の39%を占める、という現象が起こっていた。西ドイツ、イギリス、そのほかの国ぐにでも、政府は積極的に企業合併を奨励した。それによって企業の規模が大きくなり、アメリカの巨大企業との競争力が強まると信じられていたからである。
 企業規模の極大化は、単に、利潤の極大化を反映したものではなかった。すでにマルクスは、「産業機構の規模拡大」を、産業機構の「世俗的な権力の拡張」と関連させて考えていた。これに対してレーニンは、「巨大企業、トラスト、企業合同は、大量生産の技術を最高レベルにまで引き上げた」と主張している。ロシア革命後、レーニンが経済活動に関してくだした最初の指令は、ロシア人の経済生活を整理統合して必要最小限の数にまとめ、できるだけ規模の大きい生産単位にする、というものであった。スターリンは、規模の極大化を、なおいっそう推進し、いくつかの大きな新しいプロジェクトをはじめた。マグニトゴルスクとザポロシュタールの鉄鋼関連施設、バルハシの精銅工場、ハリコフとスターリングラードのトラクター工場などがそれである。スターリンはよく、アメリカのあれこれの工場設備の大きさをたずねては、それ以上の規模のものをつくるよう命じたものだった。
 レオン・M・ハーマン博士は、その著書『ソビエト経済計画における巨大信仰』のなかで「ソビエト各地で、地方政治家が“世界最大の計画”を誘致する競争に巻き込まれていった」と書いている。すでに1939年、ソビエト共産党は、「巨大狂」に対して警告を発しているが、ほとんど効果はなかった。今日なお、ソビエトや東ヨーロッパ共産党の指導者たちは、ハーマン博士のいう「巨大化中毒」にかかっていると言ってよい。
 こうした大きさに対する単純な信仰は、「効率」というものを第二の波の狭い視野で考えていたためだと言ってよい。ところが、産業主義の極大化偏執狂は工場にとどまらなかった。たとえば、いわゆる国民総生産=GNPを統計指標とする考え方にも、そうした傾向があらわれている。GNPとは、一国の経済の中で生産された商品やサービスの価値を統計したもので、そこにはさまざまに異なった性質のデータが入っている。第二の波の社会の経済学者が使用したこの指標には、さまざまな欠点があった。たとえばGNPという観点から見る限り、経済活動の結果産み出されたものが食料品であろうと、教育や健康に関するサービスであろうと、あるいは軍需品であろうと、そんなことはまったく問題にならない。家の新築に職人を雇っても、反対に家の取り壊しに職人を雇っても、その両方がGNPに加算される。一方の行為は住宅のストックに寄与し、他方はストックを滅殺するのだが、それすら問題にされない。また、GNPは市場活動、商品取引だけを計測の対象としているため、たとえば、子育て、家事といった給与の対象になっていない生産を基盤とした、生命の維持に欠くことのできない部門をすべて軽視する結果になる。
 こうした欠点があるにもかかわらず、第二の波の時代の政府は、世界中いたるところで、なんとしてもGNPを上昇させようと競争に血まなこになった。そのためにはすべてが犠牲にされ、高度成長のために生態系の破壊や社会的災厄もいとわない風潮を生んだ。極大化をよしとする偏執狂的原則は、産業主義時代の人びとの精神に深く浸透し、これほど理にかなった原則はないとされるようになった。強大化は、規格化、分業化、そのほか産業社会を支える基本的ないくつかの原則とともに進行していったのである。

 中央集権化
 産業化が進むといずれの国でも、中央集権化は芸術作品の域にまで達した。教会をはじめとする第一の波の支配者も、権力を中心に集中する方法をわきまえていた。しかしかれらが対処したのは現代と比較すれば、はるかに単純素朴な社会であった。また、今日の産業社会を根底から中央集権によって支えている人間にくらべれば、第一の波の支配者たちは未熟な、アマチュア同然の存在だった。
 複雑な社会は例外なく、中央集権的機能と地方分権的機能の共存を必要とする。第一の波の経済は基本的に地方分権的であり、自給自足を原則とする、地方色のはっきりした経済であった。こうした特長を備えた経済が、統合の進んだ国家経済を単位とする第二の波の経済へと移行した結果、権力を中心に集中する方法も、まったく面目を一新することとなった。この新しい型の中央集権への移行は個人企業、大企業、それに一国の経済と、さまざまなレベルで具体化していった。
 この間の移行を典型的に物語っているのが、初期の鉄道会社の例である。当時、鉄道は他企業とくらべて巨大な存在であった。1850年のアメリカで、資本金25万ドル以上の工場は、わずか41に過ぎなかった。それと対照的に、ニューヨーク・セントラル鉄道会社は、すでに1860年、3000万ドルの資本金を誇っていた。このような巨大企業を運営するために、新しいマネージメント手法が必要とされたのである。
 したがって初期の鉄道経営者は、今日で言えば宇宙開発プログラムにたずさわるマネージャーのようなもので、新しい経営上の手法を開発する必要にせまられた。かれらは技術、運賃、運行スケジュールを規格化し、何百マイルにも.およぶ列車の運行を同時化し、新しい業務を部署別に分業化した。資本、エネルギー、人員の集中化が行なわれ、路線網の極大化へ向けて努力を重ねた。そして、以上すべてをうまくまとめるためにかれらが着手したのが、情報と命令の中央集権化に基盤を置いた、新しい組織をつくり出すことであった。
 従業員は「ライン」と「スタッフ」に分けられた。車輌の運行、積載量、損害、遺失貨物、修理、運行距離などに関してデータの提出が求められるようになった。これらの情報はすべて、中央集権化された命令系統を通じて上部へ流れ、総支配人に達し、そこで決定がくだされ、下部へ命令を伝える仕組みになっていた。
 鉄道産業は、ビジネス史家のアルフレッド・D・チャンドラーが指摘したように、ほどなく、ほかの大企業のモデルとなった。そして、中央集権的マネジメントは、第二の波の諸国家を通じて、先進的な、洗練された経営手法と考えられるようになったのである。
 政治の分野でも、第二の波は中央集権化を推進した。アメリカでは、すでに1780年代後半、ゆるやかで地方分権的な連合規約(独立戦争直後にできた13州間の規約)を廃して、新たに中央集権的な合衆国憲法をつくろうとした闘争のなかで、こうした動きがはっきりあらわれている。概して言えば、第一の波の色彩を残す地方勢力は、かれらの機関紙『フェデラリスト』などを通じて、強力な中央政府というものが、軍事、外交上の理由ばかりでなく、経済成長の面からも欠かせない存在である、と論陣をはった。
 その結果として、1787年に合衆国憲法が生まれたが、それは巧みな妥協の産物であった。第一の波を代表する勢力も依然として強かったので、憲法は重要な諸権限を中央政府に与えず、従来どおり州にのこす形をとっていた。過度に強力な中央政府の出現を防ぐため、立法、行政、司法の三権分立というユニークな制度を取り入れた。しかし、憲法のなかにはどうにでも解釈できる文言が含まれており、それによって連邦政府は、ことごとに権限を拡張していったのである。
 合衆国の産業化によって政治のシステムがいっそう中央集権色を強めるにつれて、ワシントンの連邦政府が持つ権限と責任は次第に大きくなり、意志決定はますます中央政府の独占物になっていった。一方、連邦の政治機構の内部でも、権力は議会や裁判所から、三権のなかでももっとも中央集権機能の強い行政府へと移行するようになった。ニクソン大統領の時代になると、かつて熱心な中央集権主義者だった歴史家アーサー・シュレジンジャーのような人まで、「帝王のような大統領の地位」に攻撃を加えるほどになっていた。
 政治の中央集権化を促す力は、アメリカ以外の国ぐにでいっそう強く働いた。スウェーデン、日本、イギリス、あるいはフランスを一瞥すれば、これらの諸国よりアメリカの制度の方が、はるかに地方分権的だということがすぐ理解できよう。『マルクスかキリストがいなかったら』の著者ジャン=フランソワ・ルベルはこの点について、政治的抗議行動に対する各国政府の反応の仕方の相違を例にあげて、次のように説明している。「フランスでデモ行進が禁止された場合、だれがそれを禁止したかについて疑問をさしはさむ余地はまったくない。もし、それが政治問題に関するデモであれば、デモを禁止したのは中央政府にきまっている。」「アメリカでもデモが禁止されたとしよう。こんな場合、アメリカ人がまず発する疑問は、だれがデモを禁止したのか、ということである。」彼はアメリカの場合、デモを禁止するのは自治権を持った地方の行政当局であることが多い、と述べている。
 極端に政治の中央集権化が進められたのは、もちろんマルクス主義の立場に立つ工業国であった。1850年、マルクスは「国家の手に権力を決定的に集中すること」の必要性を説いている。エンゲルスも、ハミルトン同様、地方分権的な色彩を持つ連邦制による政治形態を、「おそろしく時代おくれなやり方だ」と批判している。後年、ソビエトは、産業化の促進に熱心なあまり、政治、経済の両面で極端に中央集権的な構造を持った国家を建設するようになり、生産に関する決定はどんなに小さなことでも、中央の計画立案者の手をわずらわすことになった。
 かつては分権的であった経済の段階的中央集権化は、中央銀行という、その名称からも中央集権的意図の明白な機関の出現によって、決定的に促進されることになった。
 1694年といえば、まだ産業化の黎明の時代で、ニューコメンが、蒸気機関をいじくりまわしていた頃だが、この年にウィリアム・パターソンは、バンク・オブ・イングランドを創設した。そしてこの銀行がすべての第二の波に属する諸国において、中央集権機能を持つ同じような機関の原型となったのである。通貨と信用の中央支配を目的とした中央銀行という機関を持つことによって、はじめて一国の第二の波的特性は完全なものになったと言ってよい。
 パターソンの設立した中央銀行は政府発行の国債を売り、政府保証の通貨を発行した。のちには、ほかの市中銀行の貸付業務を規制するようにもなった。やがて、通貨供給の中央支配という、今日のあらゆる中央銀行が持つ本質的機能を備えるようになったのである。1800年には、同じ目的を持ったフランス中央銀行が設立され、1875年には、ドイツ連邦銀行ライヒスバンクが設立された。
アメリカでは、第一の波の勢力と第二の波の勢力の間の衝突は、憲法制定直後の中央銀行設置をめぐる大規模な対立となってあらわれた。第二の波的政策を掲げる論客のなかで、もっとも舌鋒するどかったハミルトンは、イギリスにモデルをとった中央銀行の設立を熱心に説いた。南部と、まだフロンティアであった西部は、農業中心の立場を離れられず、ハミルトンに反対した。だが、産業化の進んだ北東部の支持を得たハミルトンは、アメリカ合衆国連邦銀行を設立する法律の制定に成功した。これが今日の連邦準備制度の前身である。
その役割は、政府の指示を受けて市場活動の水準や公定歩合を規制することであった。こうして中央銀行は、資本主義経済のなかに、一定限度内でいわば非公式に、短期計画経済を導入したのである。資本主義、社会主義を問わず、第二の波の社会のあらゆる動脈に、通貨という血液が流れることになった。両者とも、通貨を吸い上げる中央機能を必要とし、その結果、中央銀行という組織がつくられた。中央銀行と中央政府は、相互に手をとりあって進むことにあった。中央集権化もまた、第二の波の文明の支配的原則のひとつだったのである。
 
われわれの眼前に明らかになっているのは、程度の差こそあれ、すべての第二の波の国ぐにで機能してきた、支配的な六つの原則である。「規格化」、「分業化」、「同時化」、「集中化」、「極大化」、それに「中央集権化」という六原則は、工業化の進んだ社会であれば、資本主義国にも社会主義国にもあてはまる原則であった。なぜなら、これらの六原則は、生産者と消費者が決定的に分離し、市場の役割がますます拡大することによって、必然的に発生したものだったからである。
一方、これらの六原則は相互に強化作用を続け、その結果生まれたのが、非人間的な官僚機構であった。人類がいまだかつて体験したことのない、巨大で硬直化した、強力な官僚組織が出現したのである。ひとりひとりの市民は、巨大組織の立ちはだかるカフカ的世界のなかにとり残され、途方にくれてさまよい続ける存在になってしまった。もし今日、われわれがこれら六原則のもとにひっ息し、耐え切れなくなっているという実感を持つならば、この問題は、第二の波の文明のプログラムを決めている「暗号」に端を発しているということになるだろう。
この暗号を形成している六原則は、第二の波の文明に鮮明な特徴を与えてきた。だが、以下の章までもなく明らかになるように、これら六原則は、いずれも第三の波の攻撃にさらされているのである。
同じ危機は、ビジネス、銀行経営、労使関係、政治、教育、それにマスコミなどの分野で、今日なおこれら六原則を有効に考え、それらを自分の行動原理として適用している第二の波の社会のエリートについても言える。新しく生まれた文明は、過去のあらゆる既得権に挑戦しようとしているのである。
ルールをつくることに慣れきっていた産業社会のエリートは、混乱を目前にして、過去の封建貴族がたどったと同じ道をたどることになるだろう。ある者は黙殺され、ある者は権力の座から追放される。権力を奪われ、社会の片すみに追いやられる者も出てくるだろう。そして、とくに知力に富み、適応能力を備えた人びとだけが変貌をとげ、第三の波の文明の指導者として再登場してくることになる。
第三の波の文明が支配的になる近い将来、だれが支配者の座につくのだろうか。それを知るためには、まず今日の社会をだれが支配しているのか、それについて正確な知識を持たなければならない。

第四章 暗号の解読(2-1)

2014年10月22日 22時30分46秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第四章  暗号の解読(2-1)

 いかなる文明にも、表面にはあらわれない、その文明固有の暗号がある。ここで言う暗号とは、ひとつの文明のあらゆる活動の底に流れているいくつかの法則、あるいは原則を集大成したもの、と言ってよい。それは、さまざまなケースに姿をあらわすその文明の、基本的構図のようなものである。産業主義が地球上を席巻していくにつれ、それまで表面にあらわれなかった、この文明特有の基本的構図が、次第に明らかになってきた。それは、相互に密接な関連性を持つ六つの原則から成り立っており、この六原則が今日まで、何百万、何千万という人間の行動を規制してきたのである。この原則は、前の章で述べた生産と消費との決定的な分離から派生したものであり、われわれの生活に見受けられる、あらゆる亀裂にかかわってきた。その影響は性やスポーツから、労働、戦争などにまでおよんでいる。
今日、学園、企業、あるいは政府部内で、激しい闘争が続出しているが、その多くは、この六つの原則をめぐっての闘いである。第二の波の人間は、本能的にこの六原則を適用し、自分たちの文明を支えているこの原則を守ろうとするし、第三の波の人間は、それに挑戦し、原則自体に攻撃を加えているのだ。そのことは、本書で次第に明らかにされるであろう。

規格化
第二の波を支えている六原則のなかで、もっともわかりやすいのは、「規格化」である。産業社会が無数の規格品を生産することは、だれもが知っている。しかし、ほとんどの人が見過ごしているのだが、いったん市場の果たす役割が大きくなると、規格化されるのは、コカコーラのびん、白熱球、自動車のトランスミッションといった類だけではなかった。人間は、規格化の原則を、そのほか多くの事物に適用したのだ。このことの重要性を最初に理解したひとりが、セオドア・ベイルであった。彼は今世紀のはじめ、アメリカ電信電話会社(AT&T)を設立し、巨大企業にまで成長させた人物である。
 1860年代の末、鉄道郵便の事務員をしていたベイルは、郵便物の宛先が同一の場合でも、配達ルートは必ずしも同一ではない、という事実に着目した。郵便袋は目的地へ着くまでにあちこちを行ったり来たりして、目的地へ着くのに数週間かかることもあれば、数ヶ月かかることもあった。そこで彼は、配達ルートの規格化という考えを導入した。宛先が同一の手紙はすべて同一の経路で配達される、という考え方で、これによって、彼は郵便事業の革命をなし遂げたのである。その後、彼はAT&Tを創立した際に、今度は、アメリカ中の家庭用電話機を全部黒の規格品に統一してしまった。
ベイルは受話器をはじめ、すべての部品を規格化したばかりでなく、AT&Tの業務の手順、管理体系まで規格化した。彼は1908年に中小電話会社をいくつか吸収合併したが、その正当性を主張して、次の点を強調した。「規格化の進んだ工場を中央で管理することによって、交換業務、法律問題の処理といった分野で経費の節約が可能であると同時に、電線、電線管そのほか施設の建設費の節減も見込まれる。さらに交換業務と料金計算が一本化されることによる経費の削減については、言うまでもない。」第二の波の世界で成功するためには、ハードウェアに合わせて業務の手順とか管理上の日常業務など、ソフトウェアをすべて規格化しなければならないということを、彼はよく理解していたのである。
ベイル以外にも、産業社会を育成した「偉大な規格化推進者」は大勢いる。もうひとりの例は、アメリカの発明家フレデリック・ウインスロー・テイラーである。もともと機械修理工で、のちに機械礼讃者となった彼は、労働者ひとりひとりが従事する仕事の段取りを規格化することによって、労働は「科学的」に行なわれる、と確信していた。今世紀初頭、テイラーは、ひとつの仕事に対して最良の方法はただひとつしかなく、その仕事をするのに最適な道具もただひとつしかない、という結論をくだした。仕事の手順や道具はそれに合わせて規格化すべきであり、さらにまた、その仕事を完成するのに必要な時間についても、規格化された作業時間を設定すべきだ、というのが彼の主張であった。
こうした哲学で理論武装したテイラーは、世界有数のマネジメントの教祖となり、生前没後を通じて、フロイト、マルクス、フランクリンなどと並び称された。「高能率熟練工」「出来高払い制度」「超高能率労働者」といった言葉に彩られたテイラー主義を礼讃したのは、しぼれるだけしぼったはずの労働者の生産性をなおも高めることに熱意を燃やしていた、当時の資本主義社会の雇用主だけではなかった。賞賛主義の立場に立つ人びとも同じようにテイラーに夢中だったのである。レーニンは、彼の方法を社会主義にもとづく生産の場にも、活用すべきだと主張した。レーニンはロシアを工業化することを第一の目的として共産主義者になったような人だが、規格化の熱心な信望者という点では人後におちなかったのである。
第二の波の社会では、労働そのものの規格化とともに、雇用手続きまで、次第に規格化が進んでいった。規格化された試験によって、仕事に向かないと思われる人間を見きわめ、排除した。これは行政事務の分野で、とくに著しかった。全産業を通じて、基準賃金が決められるようになり、賃金以外の福利厚生、昼食時間、休日、苦情申し立て手続きなどに関しても、同じように規格化が進んだ。若年層を労働市場へ送り込むために、教育関係者は規格化されたカリキュラムを立てるようになった。ターマンや、ビネのような人びとが、規格化された知能テストを考案した。学校の採点法、入学試験のやり方、卒業資格についての規定なども、同じように規格化された。〇×式試験もすっかり一般化した。
一方、マスメディアも規格化されたイメージを普及させた。何百万、何千万という人びとが同じ広告、同じニュース、同じ短編小説を読むようになったのだ。中央政府による少数民族の言語の抑圧、それにマスコミの影響も加わって、次第に方言は姿を消すようになった。なかにはウエールズ語やアルザス語のように、一地域の言語がそっくり姿を消しそうになった例もある。米語、英語、フランス語という標準的な言語が、標準からはみ出た言語にとって代わってしまった。この点、ロシア語にも同じことが言える。かつては、さまざまに異なった顔を持っていたはずの地域が、どこへ行っても同じようなガソリンスタンド、広告板、ありふれた住宅などしか見当たらなくなり、地方色がすっかり失ってしまった。「規格化」の原則は、日常生活のあらゆる面で進行していたのである。
さらに詳しく、この点を見てみよう。産業革命後の文明は、重量や長さの測り方の規格化を必要とした。前産業時代のヨーロッパでは、どこでも度量衡ばらばらだった。フランスの産業主義時代の幕開けになった大革命の直後、各地でばらばらだった度量衡が統一され、新たにメートル法と太陽暦を採用する法律が公布されたことは、けっして偶然ではなかった。場所が変わっても一律な度量衡は、第二の波によってほとんど全世界に普及したのである。
さらに、大量生産方式が機械、製品、作業工程の規格化を必要とするようになると、肥大化を続けてやまない市場もそれに対応して、貨幣の規格化と価格の規格化まで要求するようになった。歴史的にみると、もともと貨幣は、国王はもちろん、銀行や個人によっても発行されていた。アメリカでは、地方によっては、19世紀に入ってからでさえ個人が鋳造した貨幣が流通していたし、カナダでは1935年まで、そういう状態が続いていた。しかし、産業化の進んだ国は、次第に政府以外の貨幣発行を禁止するようになり、そういう状態が続いていた。しかし、産業化の進んだ国は、次第に政府以外の貨幣発行を禁止するようになり、単一の、規格化した通貨が国内を流通するように努めたのである。
ほかにも例がある。産業化の進んだ国ぐにでも、19世紀以前は、売り手と買い手が取り引きごとに価格をめぐってかけひきすることが、まだ普通であった。ちょうど古代エジプトのカイロのバザールのようなやり方である。1825年のこと、A・T・スチュアートと名乗る北アイルランドからの移民青年が、ニューヨークに織物店を開き、ひとつひとつの商品に定価をつけるという方程式を採用して、顧客と同業者の双方を驚かせた。この「定価商法」は価格の規格化にほかならず、この商法のおかげで、スチュアートは、当時の商業界のプリンスのひとりとなった。同時に彼の方式は、大量流通の発展を妨げていた、主要な障害のひとつを除去したのである。
第二の波の先端を行く思想家たちは、いろいろ考え方のちがいはあるにせよ、規格化が能率的であるという点では、意見が一致していた。人間生活の実にさまざまなレベルで、第二の波は容赦なく、規格化の原則を適用した。その過程で、さまざまな特質や相違点が画一化されていった。
 
分業化
第二の波の社会に共通して流れているもうひとつの大原則は、「分業化」である。第二の波が進行するにつれて、言語、余暇、生活様式といった分野からは、多様性が失われていったが、それに反比例して、労働の領域では、多様性が求められるようになった。分業化を推し進めることによって、第二の波は、季節労働者のような、なんでも屋の農民に代わって、限られた分野にしか適用しない専門家と、テイラー流のやり方で、たったひとつの仕事をくる日もくる日もくりかえす労働者を登場させたのである。
1720年、あるイギリス人によって、『東インド貿易のすすめ』という報告書が公にされた。そのなかにはすでに、分業によって「労働時間と労働量の軽減」が可能になる、という指摘がある。続いて1776年には、アダム・スミスが『国富論』を公刊し、その冒頭で彼は自信をもってこう書いた。「生産力の最大の進歩は、分業がもたらした成果であったと言えよう。」
スミスは、いまでは古典的になった一節で、ピンの製造を例にとって説明している。彼の記述によれば、自分ひとりで必要な作業工程のすべてをやってのける昔流の職人が一日につくるピンの量は、せいぜいひと握り、数にして20を越えることはまず絶対にありえない、と言う。これと対照的に、スミスは自分がかつて訪ねたことのある「工場」の模様を次のように書いている。そこでは、一本のピンをつくるのに必要な工程を18の作業に分け、10人の専門の職工がいる。たったひとつの作業を受け持つ職工もいれば、二、三の作業を担当する者もいる。この方式によれば、1日に10人で48,000本、一人当たり4,800本のピンを製造できるというのである。
19世紀に入るころには、労働の場はつぎつぎと工場へ移るようになり、それにつれてピンの物語が次第に大規模に繰り広げられるようになった。さらに、分業化による人件費の節約もエスカレートする一方だった。産業主義に対する批判者の論点は、高度に分業化が進み、労働が単調な反復作業になると、やがて労働者の人間性が奪われてしまうというのであった。
1908年、ヘンリー・フォードがフォードT型の工場生産を開始した時には、一台の車を完成する作業は18どころではなく、7,882に分かれていた。後年、自叙伝のなかで、フォードはこの7,882に分割した作業について、次のような、注釈を加えている。全作業のうち、949は、「身体強健な熟練工、肉体的にこれといった障害のない人間」を必要とする。3,338は、「普通程度の体力のある男性」であればよく、残りの大半の作業は、「女性や、ある程度の年齢に達したこどもでも、作業可能」だという。そして、フォードの冷静な分析はさらに続く。「670は両足の無い労働者でも十分であり、2,637は片足の労働者でもやれる。両腕の無い職工でもできる作業が2つあり、715の作業は片腕の職工でもよい。盲目の職工でも作業可能な作業は10ある。」手短かに言えば、分業化された労働はトータルなひとりの人間を必要とせず、その人間の一部だけで十分なのである。フォードのやり方は、極端な分業化が人間性の冒涜につながる可能性を立証する、格好の事例であった。
資本主義に批判的な人びとは、分業化を資本主義に固有の現象と考えていたが、実際には、社会主義体制下の産業社会にも、はっきりとあらわれた。なぜなら、資本主義、社会主義を問わず、あらゆる第二の波の社会に共通してあらわれた労働の極端な分業化は、生産と消費の分離にその原因が求められるからである。徹底した分業化が進んでいるという点では、今日、ソビエト、ポーランド、東ドイツ、ハンガリーといった国ぐにの工場は、アメリカや日本のそれとまったく変わるところはない。アメリカ労働省の統計によれば、1960年の時点で、分類可能な職種は2万種類におよんでいる。
さらに、資本主義産業国でも、社会主義産業国でも、分業化と同時に、専門化の風潮が高まった。分業化された労働に携わる集団が、ある分野の難解な知識を独占し、新入者を排除できるチャンスを見出すと、かれらはきまって自分たちの仕事を専門的職業にしてしまった。第二の波がおしよせてくるとともに、知識の所有者と、その知識を求める顧客の間に市場が介在するようになった。前者が生産者であり、後者が消費者、と言うわけである。かくして、第二の波の社会では、健康とは自分自身の知識や注意の結果もたらされるもの(これは、自己消費の生産だが)というより、医師や、健康増進を司る一大医療官僚機構とも言うべきものによって供給される生産物という考え方が支配的になってきた。教育もさしずめ、学校という施設で教師という生産者によって「生産」され、生徒という消費者によって「消費」されるもの、ということになった。
図書館の司書からセールスマンにいたるまで、あらゆる種類の職業集団が、自分たちは、専門職業人と呼ばれる資格があり、自分たちの仕事の規準、価格、新規参加者の加入条件を決める力があるのだと、やかましく言い立てるようになった。アメリカ合衆国連邦貿易委員会議長マイケル・パーツチャックは、「現代文化はいまや、われわれ一般市民を“顧客”と呼び、われわれの“ニーズ”を開発する専門職業人によって支配されている」と言っている。
第二の波の社会では、政治的な扇動行為でさえ、ひとつの専門的職業と考えられていた。レーニンが、大衆は専門化の援助なしに革命を起こすことはできない、と説いたのもこの意味である。レーニンによれば、「必要なことは、数の限られていた職業的革命家を大衆にまでひろげて、かれらを職業的革命家に脱皮させ、かれらを組織すること」であった。
第二の波によって、共産主義者にも資本家にも、経営者、教育者、聖職者、政治家にも、共通の心情が生まれた。だれもが分業をいっそう完璧なものにしょうとしたのである。1851年、世界大博覧会が水晶宮で開かれた時、ビクトリア女王の夫君アルバート公は、「専門化こそ文明を推進していく力だ」といったが、その時代の人びとは、だれひとり、その言葉を疑わなかった。規格化と、分業化は、平行して進行していったのである。

同時化
生産と消費の間の亀裂がひろがるにつれて、第二に波の人間の時間に対する態度にも、必然的に変化が生じた。市場に依存する社会では、自由経済であろうと計画経済であろうと、時間は金に換算される。高額の機械は遊ばせておくことは許されない。機械は、それぞれのリズムで作動していく。こうして、産業文明の第三の原則、「同時化」が発生した。
人間社会のごく初期の段階でも、労働にあたって、時間は大切な問題であった。たとえば兵士が敵に奇襲をかける場合など、往々にして全員でいっせいにことにあたる必要があった。漁師が船を漕いだり、網をひいたりする場合も同様だった。だいぶ以前のことだが、ジョージ・トムソンは、労働上の必要からいかにさまざまな作業歌が生まれたかを明らかにした。船の漕ぎ手にとって、時間は「オー・オップ」という単純な二音節の音によって区切られていた。二音節目の「オップ」は力の出し方が頂点に達する瞬間を指しており、最初の音節「オー」は、準備の時間を意味していた。船を引っ張る作業は、船を漕ぐより重労働であった。そこで、トムソンは次のような説明を加えている。「力の引き出し方を頂点に持っていくかけ声は、比較的長い間隔を置いて発せられる。たとえば、アイルランドの船ひき歌では、“ホー・リー・ホー・ハップ”という具合で、最後の“ハップ”で力を結集するまでに、準備期間が多少長くとられている。」
第二の波によって機械が導入され、労働歌が歌われなくなった。もともと作業の同時化は、自然発生的であり、有機的なものであった。それは季節のリズム、生理的な反応、地球の自転、心臓の鼓動などに倣
ったものであった。ところが、第二の波の社会では、それとは対照的に、機械の鼓動に合わせるようになったのである。工業生産が一般化すると、機械そのものの高額なコストと、労働の高度の相互依存性という二つの要因によって、同時化がいっそう厳密に要求されるようになった。工場である作業工程を担当する労働者グループの作業がおくれると、それ以降の工程では、さらに遅れが大きくなる。こうして、農耕社会ではさほど重要でなかった時間厳守ということが社会的要請となり、各種の時計が普及するようになった。1790年代のイギリスでは、すでに時計は珍しいものではなくなっていた。イギリスの歴史家E・P・トンプソンの言によれば、時計は、「産業革命によって、いっそう大規模な労働の同時化が要求されるようになった、まさにその時点で普及したのである。」
 産業文化のなかで育ったこどもが、早い時期から時計の読み方を教えられるのは、けっして偶然ではない。学校の生徒が始業ベルに間に合うように登校する習慣を身につけさせるのは、始業のサイレンの鳴る時刻までに、確実に工場や事務所に出勤させるためである。仕事は時間で計られ、秒単位で細かく計測されるようになった。朝9時から午後5時までの勤務が、大多数の労働者の、勤務時間の原則になった。
 同時化が進んだのは、労働だけではなかった。第二の波の社会では、採算や政治的配慮を無視してまで、社会生活をすべて、時計で律し、機械の要求に合わせる必要が出てきた。余暇の時間まで、あらかじめ決められていた。労働のスケジュールのなかに、標準的な休暇や休日、休憩時間の長さが設定されるようになった。
 児童は一定の年齢でいっせいに就学し、卒業していく。病院も患者をいっせいに起床させて朝食をとらせる。こうしてラッシュアワーが発生し、交通体系が危なくなる。放送局は限られた時間帯に娯楽番組を編成し、ゴールデンアワーが生まれる。原料提供者や販売担当者の都合によって、あらゆる仕事に、その仕事特有のピーク時間やかきいれ時ができるようになった。さらに同時化の専門家まであらわれた。工場の作業促進課、線表作成者から交通巡査、はては標準作業時間の研究家まで、さまざまな人たちがそれである。
 反対に、新しい産業社会の時間体系に反逆する人びとも出てきた。そして、ここでも男女差が問題となった。第二の波のもとで労働に従事した人びとの大部分は男性で、かれらがいちばん従順に時計の動きにしたがった。
 第二の波の社会では、世の夫たちは常にこんな不満をもらしている。妻は平気でひとを待たせ、時間の感覚がない。いつまでも着替えに気を取られ、約束の時間にいつもおくれる、と言うのだ。大方の女性は、家事という相互依存を必要としない仕事をしているため、男性ほど機械的なリズムに支配されずに働いてきた。同じような理由で、都会人は田舎の人がのろまで、あてにならないと見下す傾向があった。
「奴らはいつも約束の時間にきやしない。どだい、約束を守る気があるのかどうかもわからんのだ」と言うわけである。こうした不満が出てくるのも、もとをただせば、高度に相互依存の必要な第二の波の労働と、畑や家で行なわれる第一の波の労働との差に帰着する。
 ひとたび第二の波が支配的になると、本来、もっとも個人の好みに合わせて行なわれるはずの、日常的なこまごましたことまでが、一定の歩調を持った産業社会のシステムに、しっかりと組み込まれてしまった。アメリカでもソビエトでも、シンガポールでもスウェーデンでも、フランスでもデンマークでも、あるいはドイツでも日本でも、大多数の家庭が同じような時刻に起き、同じような時刻に朝食をとって出勤する。就業時間も、帰宅時間も同じなら、寝室に入り、眠りにつくのも同じ、その上、愛を確かめ合うことさえ、程度の差こそあれ、時を同じくしているのだ。これは、文化全体が規格化、分業化という二つの原則に加えて、同時化という第三の原則を採用したためである。(続く)




第三章 見えない楔(くさび)

2014年10月17日 20時17分50秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第三章 見えない楔(くさび)

 第二の波は、ちょうど核分裂の際の反応のように、それまでずっとひとつの統合体であった人間の生活を、強引に二極に分裂させていった。その過程で、第二の波はわれわれの経済生活、精神構造、さらには男女の特性にまで、いわば、目に見えない巨大な楔を打ち込んでしまったのである。
 ある面から見ると、産業革命はきわめてみごとに統一された社会構造を作り出した。特有の科学技術や社会制度、あるいは情報伝達ルートをそなえ、しかも、それらが相互に密接なつながりを持っている社会である。しかし、他面、産業革命は社会の内面的な統一を破り、われわれの生活を経済的緊張、社会的対立、心理的不安に満ちたものにしてしまった。第二の波の時代を通じて、この目に見えない楔がわれわれの生活の型をどのようにつくりあげてきたかを知れば、今日、われわれの生活を再構築しようとしている第三の波の衝撃を、十分理解することができるであろう。
 第二の波はわれわれ人間の生活を、生産と消費という二極に、はっきりひき裂いてしまった。たとえば、われわれは現在、自分自身を「生産者」か「消費者」のどちらかである、と考えるのが普通である。しかし、こうした考え方は、いつの時代にもあてはまったわけではない。産業革命以前を考えれば、人類がみずからの手で作り出した食糧や日用品、あるいはさまざまなサービスの大部分は、生産者自身やその家族、それに、なんとか自分のために余剰物資を集めることができたごく少数のエリートによって消費されていたのである。
 農業社会の段階では、普通、人口の大部分は零細な農民であり、かれらはあまり外部との交流のない小さな共同体を形成して暮らしていた。農民は最低限の食事をとり、支配者が安穏に暮らすのに必要な生産をする以外は、自分たちがかろうじて生きていける程度の農作物をつくるだけで、精一杯だった。農民が農業技術を改善したり、生産を増やすことに積極的な意志を持たなかった理由としては、長期にわたって食糧を貯蔵できる手段を持たなかったこと、また遠方の市場に運搬するための、道路がなかったことがあげられる。もちろん、いくら生産を上げても、その分だけ奴隷所有者や封建領主に取り立てられてしまうことを、農民はよく知っていたのである。
 言うまでもなく、商業も存在した。ごく少数の恐れを知らぬ商人が、らくだや車、あるいは船に商品を乗せて、はるばる何千、何万キロを運んだことは、よく知られている。また、都市というものが、農村地帯から運ばれる食糧があって、はじめて発生しえたことも周知の事実である。1519年、メキシコに足を踏み入れたスペイン人は、トラテロコで多くの現地人が、さまざまな品物を売買しているのを見て驚いた。宝石、貴金属、奴隷、サンダル、布地、チョコレート、ロープ、獣皮、七面鳥、野菜、うさぎ、犬、あるいは各種の陶器類といった雑多なものが売買されていたのである。16世紀から17世紀にかけて、ドイツの銀行家のために発行された民間通信『フッガー・ニューズレター』を読むと、当時の貿易がどんなものであったかが手に取るようにわかる。たとえば、インドのコーチンからきた一通の手紙は、胡椒を買い入れてヨーロッパへ運ぶために、五隻の船団を組んでインドに乗り込んだ、ひとりのヨーロッパ商人の試みをくわしく伝えている。「胡椒の売買は利益の多い商売である。しかし、それをやるには、仕事に対する非常な熱意と辛抱とが要請される」と述べている。この商人は、胡椒のほかにも、丁子、にくずく、小麦粉、シナモン、多くの薬種などを、船でヨーロッパの市場へ持ち込んだ。
 しかし、このような貿易は歴史にわずかな痕跡をとどめるだけであって、当時の生産のほとんどは、土地を持たない奴隷や農奴が、直接自分で消費するためのものであった。16世紀になっても、この時代の歴史研究の第一人者であるフェルナンド・ブラウデルによると、西はフランス、スペインから東はトルコ国境にいたる地中海沿岸全域の人口は、6000万から7000万程度であり、その90%が農業を営んでいた。生産はほとんど自家消費のためであり、市場に売りに出す物は、ごくわずかであったという。ブラウデルは、「地中海沿岸地域の全生産物の60%、おそらく70%までは自家消費され、けっして市場経済に流れ込むことはなかった」と書いている。地中海沿岸地域でさえそうであったとすると、北ヨーロッパでは、とても市場どころではなかったであろうということは容易に想像がつく。と言うのは、土地がやせ、冬の長い北ヨーロッパでは、零細な農民が、自分たちが消費する以外の余分な生産物を生み出すことは、いっそう困難だったからである。
 第三の波をよく理解するためには、産業革命以前の第一の波の経済が、二つの部門から成り立っていたことを知っておくことがのぞましい。第一の部門では、生産活動は自分で消費するために行なわれる、ダニの部門では、売りに出したり交換したりするために、生産活動が行なわれる。第一の波の経済では、前者に占める割合がきわめて大きく、後者の占める割合は、ごく小さいなものであった。したがって、ほとんどの人にとって、生産と消費は渾然一体となって生活を支える機能を果たしていた。両者が完全に結合していたため、ギリシャ人もローマ人も、中世のヨーロッパ人も、生産と消費を区別しなかった。「消費者」という言葉さえ持たなかったのである。第一の時代を通じて、市場経済に生活の立脚点を持っていたのは、全人口のごくわずかな部分であり、たいていの人びとは、市場とは関係なしに生活していた。歴史家R・H・トーニーは、「金銭による取引は、自然経済の世界では、あまり重要でない二次的な行為であった」と述べている。
 第二の波は、こうした状況を一変させたのである。それまで、基本的には自給自足で過ごしてきた人びとや自給自足の社会に代わって、歴史上はじめて、きわめて大量の食糧、日用品、あるいはサービスといったものが、ほとんどすべて売買や物々交換を目的として生産され、提供されるようになった。第二の波によって、生産者自身とその家族が、自分で消費するためにだけものをつくるということは、事実上なくなってしまったのである。もはや、ほとんど自給自足で暮らす人のいない文明、農民ですら自給自足でなくなるような文明がつくり出されたのであった。だれもが、ほとんど全面的に自分以外の人によって生産される食料や日用品、自分以外の人によって提供されるサービスに依存して生活するようになった。
 要するに、産業主義は一体であった生産と消費を分裂させ、生産者と消費者とを切り離したのであった。こうして、第一の波の時代の、生産と消費が融合した経済は、両者が分離した第二の波の経済へと変貌したのである。

 市場の意味
 生産と消費との分離の結果はきわめて重要であったが、その意味は、今日でも十分理解されていない。まず第一に、市場というものは、生産と消費が分離する以前は、それほど重要な役割を果たしていなかったが、それ以後は、市場を中心にして生活が展開するようになったことである。つまり、経済が市場を中心に動くようになった。この現象は、産業化された社会なら、資本主義経済にも社会主義経済にも共通して起こったのである。
 西欧の経済学者は、市場を純粋に資本主義的事象としてとらえる傾向があり、市場という言葉を、「利潤追求型経済」といった意味に使うことも多い。しかし、歴史的に観ると、交易、あるいは市場は、利潤と言う考え方が生まれる以前に、利潤とは関係なしに発生したのである。なぜなら、市場とは正確に言えば、物々交換のネットワーク、または交換台とも言うべきものにほかならない。そこを通って、ちょうど情報のように、物資や労働がしかるべき目的地に流れるようになっている。市場とは、もともと資本主義的なものというわけではない。事実、この交換台は利潤追求型の産業主義にとってだけでなく、社会主義的産業社会にとっても、必要欠くべからざるものなのである。
 要するに、第二の波に襲われ、生産の目的が自家消費から交易へと変化した社会にあっては、その交易を行なう機構が存在しなければならなかった。つまり、市場の存在は不可欠だったわけである。しかし、市場とは受動的なものではなかった。経済史家カール・ポラニーは、初期の社会では、社会的、あるいは宗教文化的な目的に従属していた市場が、産業社会になると、逆に社会の目的を設定する存在に変貌した過程を説明している。産業社会では、人口のほとんどが貨幣経済のなかに組み込まれるようになった。商業的な価値が重んじられるようになり、市場の大きさで測られるような経済成長が、資本主義国であれ社会主義国であれ、政府の第一の目標となったのである。
 市場が大きくなっていった背景には、もともと市場の性格が拡大をめざし、たえずみずからを強化して行く傾向を持っていた、という事情がある。最初に分業が商業を発展させたのとちょうど同じように、今度は、市場という交換台の存在そのものが、さらに分業化を推し進め、その結果、生産性の急上昇をもたらすことになった。つまり、分業と市場が、相互に相手の活動を促しながら拡大して行くという、自己増幅の過程がはじまったのである。
 こうして市場の爆発的な拡大は、生活水準のかつてない飛躍的な上昇をもたらした。
 しかし、政治の分野では、第二の波に襲われた諸国の政府は、生産と消費の分離から生まれた新たな対立によって、次第に分裂を深めているという認識を持つようになった。マルクス主義者が重視する階級闘争という考え方は、高賃金、高利潤を求める生産者(労働者と経営者の双方を含む)の要求と、反対に低価格を求める消費者(同じく労働者と経営者の双方を含む)の要求との間に生じた、より大きな、より深い対立を、不明確にしてしまった。経済政策はこの対立を支点として、どちらの要求に力点を置くかによって、シーソーのように変動してきたのであった。
 アメリカにおける消費者運動の成長、ポーランドでの公定価格引き上げに反対する運動、物価と賃金政策をめぐってイギリスで休みなく闘わされている論争、また、ソビエトにおける重工業と消費物資のいずれを優先させるべきかについての際限のないイデオロギー論争、こういったものはすべて、資本主義、社会主義を問わず、生産と消費の分離が社会の中に引き起こした、深刻な対立の具体例である。
 政治だけでなく、文化もまた、生産と消費の分離によって形を変えた。というのは、この分離によって、金銭万能、利益追求型の商業本位な、きわめて打算的な文化が歴史に出現したからである。別にマルクス主義者でなくとも、新しい社会には「むき出しの私利、情容赦のない現金のやりとり以外に、人と人との結びつける絆がない」という、『共産党宣言』の有名な告発にはすべて商業主義に染まった利己的な色彩を帯び、堕落してしまった。
 このように、人と人との人間的なつながりが失われたという指摘は間違いないとしても、マルクスがその責任を資本主義に負わせたのは正しいとは言えない。もちろん、マルクスが『共産党宣言』を執筆した当時は、分析の対象となりえた産業社会は、資本主義社会以外にはありえなかった。社会主義、少なくとも国家社会主義に基盤を置く産業社会が成立して半世紀以上経過した現在、略奪的な利潤追求、商業主義の退廃、人間関係を冷たい経済用語に置き換えることなどは、なにも利益追求をめざす資本主義社会にのみ特有のものではない、ということははっきりした。
 金銭、物品、財産といったものにつきまとう根強い関心は、資本主義とか社会主義といった体制には関係なく、産業主義の反映である。生産と消費が分離している社会では、市場が中心的役割を果たす。そのために、こうした関心を持たざるをえなくなるのである。だれもが、生活必需品を手に入れるために、自分の生産技術よりは市場の存在に頼らざるをえないのである。
 市場が中心的役割を果たす産業社会では、政治体制には関わりなく、製品ばかりか労働、創意、芸術、精神活動といったものまで、すべて売買、交易、交換の対象となる。たとえば、欧米には不正なコミッションを着服する商売人がいるし、ソビエトには出版を引き受ける代わりに著者からリベートを受け取る編集者や、頼まれた仕事をするために、料金以外にウオッカを一瓶要求する鉛管工がいたりする。フランスやイギリス、アメリカには、金のためにだけ仕事をする作家や画家がいるし、ポーランド、チェコスロバキア、ソビエトには、別荘、特別報奨金、新車購入の権利といったもろもろの経済的恩典を得るために、創作上の自由を放棄するような作家や画家、劇作家がいるのである。
 このような腐敗、堕落は、生産と消費の分離に伴って、必ず発生する。消費者と生産者とをふたたび結びつけ、生産された商品を消費者のもとに届けるための交換台としての市場が、どうしても必要になる。
そうなると、市場を支配する人びとは、どのような論法でその権力を正当化しようとしているかは別として、不当に大きな権力を握るようになった。
 すべての産業社会、第二の波の社会の明確な特徴であるこの生産と消費の分離は、人間性についてのわれわれの潜在意識や前提にまで影響をおよぼした。人間の行動が、一連の「取引行為」とみられるようになったのである。友情、血族関係、あるいは部族の長や領主に対する忠誠にもとづく社会に代わって、第二の波の到来とともに、はっきり文書をとり交わしているかどうかは別としても、契約関係に基盤を置く、新しい文明が生まれのである。夫婦の間でさえ、今日では契約結婚などということが口にされる時代である。
 生産者と消費者という二つの役割の分離はまた、二つの相反する性格を備えた人間をつくり出した。同一人物が、生産者としては、家庭でも学校でも職場の上司からも、個人的な満足は後回しにして規律や統制に服し、すべてに控え目で、従順で、チームの一員としてふるまうように教えられる一方、消費者としては、常にその場で満足感をみたし、慎重に行動するよりは欲望に身を任せ、規律などにはかまわず、あくまで個人的な楽しみを追及するように教えられた。つまり、生産者とはまったく別の人間になることを求められたのである。とくに西欧では、消費者に対する宣伝技術が巧妙になり、消費者に衝動買いや借金をうながした。まさにパン・アメリカンのコマーシャルどおり「まず空の旅をお楽しみください。支払いは後で結構です」ということになる。経済の車輪はまわり続け、国の発展に貢献しようというわけである。

 男女の役割の分離
 生産者と消費者とを分離させた、第二の波の社会の巨大な楔はまた、労働を二つの種類にはっきりと分ける働きをした。このことは、家庭生活、男女の役割、および個人の内面生活に非常な衝撃を与えた。
 産業社会でもっとも一般的な男女差についてのきまり文句は、男性は自分の置かれている状況に対して「客観的」であり、女性は「主観的」であるという考え方である。もし、男女の違いについてこうした味方が核心をついているとすれば、それは生物学的に不変の事実ではなく、いま問題にしている、見えない楔による心理的な効果であろう。
 第一の波の社会では、労働のほとんどは田畑や家庭内で行なわれ、家族全体がひとつの経済単位としてこつこつ働き、生産された物品は大部分村や荘園のなかで消費されていた。職場生活と家庭生活とが、不可分に結びついていた。村ではどこでも自給自足が普通であったから、一定地域の農民が多くの収穫をあげるかどうかは、ほかの地域の豊作、不作とは無関係であった。ひとつの生産単位のなかでも、人びとは、季節や病気や好みによって自分の役割を変えたり、他人と仕事を交換しながら、いろいろな種類の仕事をした。産業主義以前の分業は、きわめて原始的なものであった。第一の波に属する農業社会では、人びとの労働相互の依存度が低いことが特徴であった。
 イギリス、フランス、ドイツそのほかの国ぐにに打ち寄せた第二の波は、労働の場を農場や家庭から工場へ移し、労働の相互依存度を飛躍的に高めた。労働はいまや集団作業となり、分業、調整、多くの異なった技術の統合を必要とするようになった。仕事がうまく行くためには、各地から集まった見ず知らずの多数の人びとが、慎重に計画されたスケジュールにもとづいて、共同作業をすることが必要になった。大手の製鉄所やガラス工場から自動車工場へ必要な製品がうまく流れて行かないと、場合によっては、産業界あるいは地域経済全体に影響をおよぼすことになったのである。
 相互依存度の高い労働と低い労働とがぶつかり合ったことから、仕事の分担、責任、あるいは報酬について、激しい紛争が生まれることになった。たとえば、初期の工場経営者は、従業員の責任感の欠如に悩まされた。工場全体の能率にはさっぱり関心がなく、もっとも忙しい時期に釣に出かけたり、バカ騒ぎにうつつをぬかして酒に酔いつぶれたりする、と言うのである。事実、初期の工場労働者のほとんどは農民の出で、相互依存度の低い仕事しかやってこなかったため、生産工程全体のなかでの自分の役割については、きわめて認識が乏しく、自分たちの無責任な行動が工場の機能を停止させ、能率の低下や経営の破綻につながることを理解できなかった。そのうえ、賃金が情けないほど低かったため、働く励みが少なかったという面も無視できない。
 相互依存度の高い労働と低い労働という二つの労働形態がぶつかり合った結果、新しく生まれた労働形態が優位を占めることが明白になった。生産が次第に大規模な工場と事務所に集中するようになり、農村人口が吸収されていった。多くの労働者が高度に発達した、相互依存の網の目に組み込まれていった。第二の波が生み出した労働は、こうして第一の波に結びついていた過去の、古い労働形態の占める位置をすっかり低下させていまった。
 しかし、相互依存の労働が、自給自足の労働に完全にとって代わっただけではなかった。古い労働形態が、依然として残っている場もあった。それが家庭だったのである。
 家庭は依然として、こどもをつくるという生物学的な再生産をはじめ、育児や文化の伝承に従事する、独立したひとつの単位であった。ある家庭がこどもの育児に失敗したり、こどもを将来の労働形態にうまく適応させることができなかったとしても、その結果は必ずしも隣家の出産や育児などに、悪影響を与えるというわけではなかった。言い換えれば、家庭内の労働は、相互依存度が低いままだったのである。
 こうした状況下でも、主婦は相変わらず決定的な経済的機能を果たしてきた。出産と育児そのほかの家事労働である。主婦の仕事も「生産」であった。しかし、その生産は自分の家庭用であって、市場に出すようなものではなかった。
 一般的に言って、夫がどんどん直接的な経済活動に乗り出していったのに対し、妻は家庭内にとどまり、間接的な経済活動に従事する場合が多かった。男性は歴史的に見てより進んだ形態の労働を分担し、女性はそれ以外の、もっと古い遅れた形態の労働を引き受けた。男性は、いわば、未来へと前進したのに対し、女性は、過去にとどまったのである。
 こうした男女の役割分担は、人びとの人格と内面生活に、分裂を引き起こした。工場や事務所は本来、大勢の人間の集まる公共の場であり、調整や統合を必要とする性格を持っていた。そのため、工場労働やオフィスワークが一般化すると、客観的分析や客観的人間関係が一般化した。男性はこどもの時から、将来、相互依存の世界である企業内の役割を果たすように育てられ、「客観的」であることが期待された。これに対して、生まれた時から社会的にはかなり孤立した仕事である出産、育児、そのほかもろもろの単調な家事を分担するようしつけられた女性は、「主観的」たらざるをえなかった。したがって女性は、多くの場合、合理的、分析的な思考が苦手であると思われてきた。なぜなら、合理的思考や分析的思考は、本来、客観性がなくては不可能だと考えられていたからである。
 こう考えてみると、比較的孤立しがちな家庭を飛び出し、他人との関係が深い生産活動に従事する女性が、ともすると、女性らしさを失い、冷徹でしぶとくなったと非難されたのは、当然であった。要するにそういう女性は、「客観的」になるのである。
 男女の差、その役割についての固定概念は、実際は男性も消費活動を行なっており、女性も生産活動を行なっているにもかかわらず、男性は生産だけに従事し、女性は消費だけを行なうという誤った考えによって、いっそう協調されることになった。つまり、第二の波が地球上を席巻するはるか以前から、女性は抑圧された存在であったが、近代の「男女の闘争」は、巨視的に見れば、二つの労働形態の対立とともにはじまり、とくに生産と消費の分離と軌を一にしていた。生産と消費とが分離した経済は、男女の乖離にも拍車をかけたわけである。
 
 これまで明らかにしてきたことは、目に見えない楔が打ち込まれて生産者と消費者とが分離されると、そのあとに多くの重要な変化が続いて起こった、という事実である。たとえば、生産者と消費者を結びつける市場が形成され、拡大される必要性が出てきたり、これまでにない政治的、社会的な対立が生まれたり、男女別に新しい役割が決められたりした。しかし、生産と消費が分離したということの影響は、とうていこの程度ではとどまらなかった。第二の波の社会はすべて、同じようなやり方で運営され、一定の基本的要請に応えなければならなかった。生産の目的が利潤であろうとなかろうと、「生産手段」が公共のものであろうと私有であろうと、また、市場が「自由経済」であろうと、「計画経済」であろうと、資本主義であろうと社会主義であろうと、この点についてはまったく同じであった。
 生産が自給自足を目的とせず、交易のために行なわれ、生産物を経済的な交換台である市場を通して流通させるかぎり、一定の、第二の波特有の原則は遵守されなければならなかった。
 ひとたびこうした原則の存在が確認されると、あらゆる産業社会の、かくれた力学が明らかになってくる。第二の波の時代の人びとの典型的な考え方を知ることも可能になってくる。こうした原則が、第二の波の文明の基本的なルール、つまり人びとの行動を解読する暗号一覧表を形成しているからである。


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第二章 文明の構造(2-2)

2014年10月10日 19時17分00秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第二の波
第二章 文明の構造

(続き)
 かくれたカリキュラム
 労働の場が田畑や家庭から工場へ移行するにつれて、こどもたちは工場労働に適合する教育を受ける必要がでてきた。「いったん思春期を過ぎてしまった人間は、農業から転業した場合でも手工業から転業した場合でも、工場の有能な働き手になることは、むずかしい」と、1845年にアンドルー・ウールが書いているが、産業化したイギリスでは、初期の鉱山や工場経営者がまずそのことに気がついた。若年層があらかじめ産業のシステムに適合するように育っていれば、後年、産業社会で生きていくための訓練を受ける際に直面する困難は、大幅に軽減されるはずであった。その結果出現したのが、すべての第二の波の社会に共通な、もうひとつの主要な構造、大衆教育である。
 工場をモデルにして設立された大衆教育の場では、初歩的な読み書き、算術を主体にして、歴史やそのほかの課目もごく簡単に教えられた。これはしかし、表向きのカリキュラムだった。実はその背後に、眼に見えない、かくれたカリキュラムが存在し、この方が、はるかに産業社会の基盤として、重要だったのである。このカリキュラムは三つの徳目から成り立っていた、というより、大方の産業主義国家において、現在もこの三つの徳目が存在している。それは、まず第一に時間厳守ということである。そして、第二が服従、第三が機械的な反復作業に慣れる、ということである。工場労働者にまず要求されるのは、定められた時刻に出勤することであり、とくに流れ作業の要員の場合がそうである。そして上司である管理者の命令に、文句も言わずに従う労働者であること、また、男も女も機械あるいは事務机に向って、まったく機械的な反復作業を飽きもせずに、こつこつやっていける忍耐力の養成が必要とされたのである。
 こうして19世紀の半ば以降、第二の波が押し寄せた国では、教育制度が過酷なまでに次から次へと発達した。就学年齢はどんどん切り下げられ、在学年数は長くなる一方だった(アメリカでは1878年から1956年の間に、35%増になっている)。そして、義務教育年限も当然延長された。
 公立学校における大衆教育は、明らかに、人間らしく生きるための前向きのものを持っていた。1829年、ニューヨークのある機械工と職工のグループが宣言したように、「教育は生命と自由に次いで、人類に授けられた祝福である」と見做されてきた。しかし、第二の波が到来して以降の学校は、幾世代にもわたって若い人びとを規格化し、電動機械と流れ作業に都合のよい、画一的な労働者を育成してきた。
 核家族と工場労働者向けの教育は、若い人びとが産業社会で有能な役割を果たすための、総合的な準備体制の一環として機能した。この観点からも第二の波の社会は、資本主義社会であれ共産主義社会であれ、北であれ南であれ、すべて似たようなものであった。

 法人という名の不死鳥
 第二の波によって生まれた社会には、核家族、大衆教育とならんで、これらの社会的影響力をいっそう強力にする第三の制度が、例外なく台頭した。それは株式会社という組織の発明であった。それ以前の企業体は、普通、個人または家族の所有か、せいぜい少数の人間の共同経営であった。株式会社もあるにはあったが、きわめてめずらしい存在にすぎなかった。
 アメリカ独立革命の当時でさえ、共同経営や個人経営に代わって、株式会社が企業としての主要な組織になろうとは、経済史家アーサー・デューイングの言うように、「だれも明言できなかった」のである。1800年になっても、アメリカ全土で株式会社はわずか335社を数えるだけであった。しかもその大部分は、運河建設とか有料道路の経営などといった、公営に近い事業だったのである。
 大量生産の開始は、こうした状態を一変させてしまった。第二の波がもたらした科学技術は、膨大な資本の蓄積を必要とした。もはや、個人や、少数のグループが、出資できる限度を越えていた。投資のたびに、自分個人の全財産を失う危険があるのでは、企業の所有者、または共同経営者は、危険を伴う大事業への投資をためらってしまう。投資を奨励するために、有限責任という考え方が導入された。万一会社が倒産しても、投資者は投資した金を失うだけでそれ以上の損害は被らない、ということにしたわけである。こうした新機軸を打ち出すことによって、堰を切ったように投資がさかんになった。
 しかも、会社は司法機関によって、けっして「死亡することのない人間=法人」として扱われることになった。つまり、最初の投資者が死亡しても、法人は生き続けるわけである。このことは企業の立場から言えば、非常に長期にわたる計画を立てることができるようになったことを意味しており、かつては考えもしなかったような、壮大な事業を実行に移すことが可能になった。
 1901年には、すでに世界最初の10億ドル企業、ユナイテッド・ステーツ・スチールが登場した。産業社会以前には、想像もできなかった資本の集中である。1919年には、このような巨大企業は6社を数えた。まさに、巨大企業はあらゆる産業国家の経済生活に共通する特徴となったのである。この点は社会主義社会でも、共産主義社会でも同じことであった。企業の形態は資本主義社会のそれとは異なっていたが、組織として見た場合、その本質は非常によく似ていた。核家族、工場方式の大衆教育、そして巨大企業という三つが、第二の波によって生まれた社会に例外なく出現し、その社会を特徴づける制度になたのである。
 そして、日本でもスイス、イギリス、ポーランドでも、またアメリカやソビエトでも、第二の波の世界では、国民の大半が規格化した生活を送っていた。つまり、核家族の一員として成長し、工場労働に順応すべく集団で学校教育を受け、私企業にせよ公営企業にせよ、大企業に入って働くことになる。個々の人間のライフ・サイクルのあらゆる局面が、第二の波の社会を成立させている、重要な社会制度に支配されていたのである。

 音楽の製作工場
 これまで述べてきた家族、学校、企業という三つの中核をなす制度の周囲に、無数の組織が発達した。政府各省庁、スポーツクラブ、教会、商工会議所、労働組合、弁護士会や医師会などの職業別団体、政党、読書クラブ、移民の国アメリカで顕著な人種や文化、宗教などを共通にするエスニック・グループ、レクリエーションのためのグループ、そのほか何千、何万という団体が、第二の波の到来とともに出現した。各グループの間には援助したり援助されたという関係のほか、対等の関係、勢力の均衡関係など、実に複雑な組織のエコロジーが成り立っている。
 ちょっと見ただけでは、こうした多様なグループは、成り行きまかせの混沌状態に見える。しかし、もう少しくわしく見てみると、これら雑多なグループにも、表面には出ていないが、ひとつのパターンがあることがわかる。第二の波が押し寄せてくると、どの国においても、社会的な仕事をはじめようとする人は、みな、生産のためには工場がもっとも進んだ、有効な組織だと信じて、工場以外の組織にも、その原理を持ち込もうとした。学校、病院、刑務所、政府の官僚機構そのほかの組織が、分業、ピラミッド型のヒエラルキー、金属のように冷たい非人間性など、多くの点で、工場と共通する特徴を持つようになったのはこのためである。
 芸術の世界においてさえ、ある面では工場の原理が作用している。長かった農業文明の時代には、芸術家はパトロンのために仕事をするのが普通だったが、演奏家や作曲家、画家、作家たちも、次第に市場に左右されはじめたのである。芸術家といえども、名もなき消費者のための「製品」づくりに追われはじめたのだ。第二の波の国のあちこちでこうした変化が起こってくると、芸術作品の構造そのものまで変ってきた。
 音楽が格好の例である。ロンドン、パリ、ウィーンそのほかの都市にコンサートホールが出現したのは、第二の波が押し寄せた次代であった。コンサートホールにつきものなのが切符売場と興業主で、芸術の制作に投資して、文化の消費者に切符を売るという事業家があらわれたのである。
 切符が売れれば売れるだけ、当然興業主の手元には、より多額の金が集まることになった。そのため、ホールの客席数がどんどん増えていった。そうなるとコンサートホールが広くなるだけ、大きな音で演奏する必要がでてくる。とにかく、いちばん最後列の席でも、音楽ははっきり聞こえなければいけない。その結果、音楽は室内楽から交響曲へと、その形式が変った。
 ドイツに生まれ、のちにアメリカに帰化した高名な音楽学者クルト・ザックスは、彼の定評ある『楽器の歴史』のなかで、「18世紀における貴族的文化から民衆的文化への移行によって、音楽会場は小さなサロンから、さきを争って巨大なコンサートホールに変ってしまい、ホールが大きくなればなるだけ、いっそう音量を上げる必要があった」と書いている。当時はまだ、電気的に音量を上げる技術がなかったので、必要な音量を出すために、つぎつぎに楽器と演奏家の数をふやしていった。その結果生まれたのが近代の管弦楽団であり、ベートーベンやメンデルスゾーン、シューベルト、ブラームスなどが壮大な交響曲を書いたのも、こうした産業社会の仕組みのためであった。
 管弦楽団は、その内部構造にも、工場の特徴を反映している。最初、管弦楽団には指揮者はいなかった。演奏者の間で、時に応じてだれかがリーダーシップをとっていた。ところが、のちになると演奏家は、工場や官僚組織のがっちり整った事務所で働く勤労者とまったく同じ様に、部門別(楽器ごとのセクション)に分けられ、ひとりひとりが全体の生産(音楽)に寄与し、マネージャー(指揮者)や、時によっては、管理者のヒエラルキーから見ればもっとずっと下のレベルの長(コンサートマスターや楽器部の長)などによって調整されることになった。そして楽団という組織が、その製品を大衆市場に売ったのである。とどのつまり、音楽という生産にはれモードも加わることになった。かくして、音楽の製造工場が誕生したわけである。
 第二の波の社会体系は、家庭、学校、企業という三つの組織を中核にして、さまざまな分野の組織がいずれも産業の技術体系の必要に応じ、それに適応したスタイルで発生することによって成り立つ。オーケストラの歴史は、そのことをはっきりと示す、ほんの一例にすぎない。しかし、文明は単に技術体系と、それに対応する社会体系だけで成立するわけではない。あらゆる文明には、情報を生み出し、それを送りとどける「情報体系」が必要であり、この点でも、第二の波がもたらした変化は顕著であった。

 文書の洪水
 すべての人間集団は、未開時代から今日まで、一対一の、差し向かいのコミュニケーションに依存している。しかし、同時に、メッセージを時間と空間を越えて送る必要もあった。古代ペルシャ人は、「叫び屋の歩哨台」と呼ばれる塔を建て、そのてっぺんにかん高い大声の持主を立たせて、ひとつの塔から次の塔へ、必要なメッセージを叫び声で伝達させたと言われている。ローマ人は、クルスス・プブリクスと呼ばれる広範囲なメッセンジャー・サービス網を張り巡らしていた。1305年から1800年代のはじめまで、イタリアのタクシス家がヨーロッパ全体に、小馬を利用した一種の飛脚サービスを営んでいた。「タクシス郵便」というドイツ名で親しまれたこの飛脚便には、1628年当時、二万人にのぼる人間が雇われていた。この会社の飛脚は青と銀色の制服を着込み、皇太子、将軍、商人、金貸しなどの間でやりとりされるメッセージをたずさせて、ヨーロッパ大陸を縦横に走り回っていたのである。
 第一の波の文明時代には、こうした情報源の恩恵に浴することができるのは、富裕階級と権力者に限られていた。一般大衆は利用できなかったのである。歴史家ローラン・ジリアクスが言っているように「これ以外の方法を使って手紙を出そうとしただけでも、権力者から疑いの目で見られ、結局は禁止されるのがおちであった。」つまり、一対一の情報交換はすべての人に許されていたが、家族や村の範囲を越えた情報伝達のより新しいシステムは、本質的には公共的サービスだったわけではなく、社会的ないし政治的に大衆を管理する目的で利用されていたにすぎなかった。実際問題として、エリートの武器だったわけである。
 第二の波が国から国へと押し寄せていく過程で、コミュニケーションの占有体制はつぎつぎに打破されていった。これはべつに、富裕層や権力者が急に庶民の利益を考えるようになったためではなく、第二の波がもたらした科学技術と工場による大量生産が、もはや古い伝達手段だけではとうてい扱いきれない、情報の「大衆化」を必然にしたためである。
 未開社会と第一の波の社会では、生産という経済活動に必要な情報は比較的単純であり、通常、手近な人間から得られる情報でこと足りた。大部分は口頭ないし身ぶりによる情報であった。これに対して第二の波の経済は、多数の場で行なわれる労働の緊密な調整を前提とした。大量の情報を生み、原料と同じように、細心の注意を払ってその情報を各方面へ流す必要があった。
 こうした理由で第二の波が勢力を得ると、あらゆる国が競って郵便制度を確立した。郵便局というのは綿繰り機や紡績機と同じように、それ以前の人間から考えればまことに夢のような、社会的にも有益な発明であった。今日ではすっかり当たり前になってしまったが、当時は人びとを有頂天にさせる代物だったのである。アメリカの政治家で名演説家として有名だったエドワード・エバレットは「郵便局こそ、キリスト教とともに、われわれの近代文明を支える片腕だと考えざるをえない」と明言している。
 郵便局によってはじめて、広く大衆に解放された、産業時代にふさわしい、コミュニケーションの回路が開かれたのである。1837年には、イギリスの郵便局はエリートのメッセージばかりでなく、一年におよそ8800万通の手紙を扱った。当時の水準から考えれば、まさに情報のなだれ現象とも言うべき数である。産業時代がほぼそのピークに達し、第三の波が高まりはじめた1960年になると、この数字は100億通にのぼっている。同じ年、アメリカの郵便局は、こどもまで含めた男女すべての国民ひとり当り、355通の国内便を配達している。
 産業革命と同時に起こった郵便の洪水は、しかし、第二の波の高まりとともに流れはじめる膨大な情報の、ほんの前ぶりにすぎなかった。大企業内部では、郵便をはるかに上回る情報が、小規模な郵便制度ともいうべきものをとおしてどんどん流れていた。社内文書は、公けのコミュニケーションの回路にはけっしてあらわれないが、手紙の一種である。第二の波がアメリカで絶頂期に達した1955年、フーバー委員会が三大企業の書類簿の内容を監査した。その結果、三社はそれぞれ年間従業員ひとり当たり、実に34,000枚、56,000枚、64,000枚の書類、連絡文書などを出していることが明らかになったのである。
 しかも、産業社会が直面している急激な情報に対するニーズの増大は、文書だけではとうてい対処できなかった。そのため、常にふくれ上っていくコミュニケーションの一部を分担するために、19世紀になると、電話と電報が発明された。1960年には、アメリカにおける一日の通話数は、およそ2億5,600万回、年間通話数は930億回にのぼり、世界でもっとも発達した電話網と最新式の装置でもなお、お手あげの状態が起こっている。
 以上挙げたシステムは、いずれも本質的には、一度にほとりの送り手が、ひとりの受け手に情報を伝えるシステムである。しかし、大量生産と大量消費が発達した社会では、大衆にメッセージを伝える手段も必要であった。ひとりの送り手から、同時に大勢の受け手に向けてのコミュニケーションである。少数の使用人しかかかえておらず、必要があればその自宅を訪ねることもできた産業革命以前の雇い主とはちがって、産業社会における雇用者は、何千という勤労者と一対一の方式でコミュニケーションを持つことは不可能だった。ましてや、大衆を相手に商売をいとなむ販売業者ともなると、客のひとりひとりと意志の疎通をはかるなどということは、なおさらむずかしい。第二の波の社会は、同じメッセージを同時に安く、しかも短時間のうちに間違いなく伝えられる強力な手段を必要とし、当然のことながら、実際にそうした手段を発明した。
 郵便は同じメッセージを.何百万という人間に運ぶことはできた。しかし時間がかかった。電話はメッセージを短時間のうちに伝えることはできた。しかし、同時に何百万という人間に伝えることは不可能だった。この隙間をうめることになったのが、マスメディアである。
 言うまでもないことだが、今日産業国家では例外なく、大量の発行部数を誇る新聞や雑誌がすっかり日常生活の一部として定着しており、大新聞の存在は当たり前のことと考えれている。しかし、これら国内全域を対象とした印刷物の発行がさかんになったのは、さまざまな新しい産業文明的技術と社会形態の、急激な発達の結果である。こうした印刷物を可能にした原因として、ジャン=ルイ・セルバン=シュライバーば次のような要因が重なったのだと説明している。「発行された印刷物を一日で(ヨーロッパ程度の広さの)国中に運搬できる鉄道、数時間で1,000万部を越える印刷を可能にした輪転機、電報と電話のネットワーク、そしてなにより、義務教育によって文字が読めるようになった大衆と製品の大量販売をせまられる産業」である。
 新聞、ラジオから映画やテレビまで、マスメディアにもまた、工場の基本的な原理が体現されているのに気がつく。こうしたメディアはすべて、ちょうど工場が何百万という人びとの頭脳に、同じメッセージを送り込むのである。規格化され、大量生産された製品に対応して、規格化され、大量生産された「事実」が、集中化した少数のイメージ工場から、何百万という消費者に送り出される。この途方もなく強大な情報経路の体系がなければ、産業文明は形成されなかったであろうし、確実に機能することもなかったであろう。

 このようにして、すべての産業社会では、資本主義社会であれ社会主義社会であれ、綿密周到な「情報体系」、つまりコミュニケーション・ルートが発生し、個人的なメッセージも大衆相手のメッセージも、このルートによって商品や原料と同じように効率よく分配されるようになった。この情報体系は技術体系、社会体系とからみあい、それらに情報を提供し、経済的製品と個人の消費行動とを結びつけるのに役立った。
 これら三つの体系は、それらを統合した、より大きな体系のなかで、それぞれ主要な機能を果たした。どれも、ほかの二つの体系なしには存在しえない性格のものであった。技術体系は富を生み、それを個人に分配した。社会体系は、互いに関連を持つ無数の組織によって、個人にシステムのなかでの役割を割り振った。そして情報体系は、システム全体が作動するのに必要な情報を分配した。これら三つの体系が一体となって、社会の基本構造を形成したのである。
 以上が、第二の波によってもたらされた、すべての社会に共通する構造の輪郭である。それは文化的、あるいは風土的な差を越えており、人種的、宗教的遺産を越えている。みずから資本主義を名乗ろうと社会主義を名乗ろうと、それには関係ない、共通の構造である。
 これらの類似した構造は、ソビエトやハンガリーの基本構造であるとともに、西ドイツやフランス、カナダの基本構造でもあって、一定の限度内で、政治的、社会的ちがいがあらわれるにすぎなかった。いずれの国においても、古い、第一の波の構造を守ろうとする人びとと、古い文明の苦悩に満ちた問題を解決できるのは新しい文明だけであるという認識を持った人びととの間の、政治的、文化的、経済的なきびしい闘争を経過して、はじめてこうした共通の社会構造が出現したのであった。
 第二の波の到来とともに、人類の希望は想像を越えるほどひろがった。男も女もはじめて貧困や飢餓、病気や専制政治を追放できるものだと考えるようになった。18世紀のイギリスの平等思想家アベ・モレリーや空想社会主義者ロバート・オーエン、フランスの社会科学者サン=シモン、社会改革家フーリエ、社会主義者プルードン、ルイ・ブラン、アメリカの小説家エドワード・ベラミーそのほか大勢のユートピア作家や哲学者は、眼前に展開しはじめた産業文明のなかに、平和と調和の到来、失業問題の解消、富と機会の均等、家柄による特権の終焉、そのほか何千年何万年におよぶ原始生活、数千年におよぶ農耕文明の間、けっして変ることなく、永遠に続くものと考えられていた一連の状況に終止符を打つ可能性を見てとったのである。
 今日、もし産業文明がユートピアとはほど遠いものとしか思えないとしたら、もし産業文明が、実際は苛酷で荒涼とした、生態学的に危険な、戦争に結びやすい、人間の心理を抑圧するものとしか思えないならば、われわれはその理由を究明する必要がある。第二の波を生きる人間の原動力としての精神構造を、互いに相争う二つの部分に裂いてしまう巨大な楔を見つめる時、われわれははじめてこの問題に解答を与えることが可能になるであろう。

 

第二章 文明の構造(2-1)

2014年10月07日 23時37分26秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第二の波
第二章 文明の構造

300年ほど前、地球上で大爆発が起こり、地域によって半世紀前後の時間的ずれがあったが、衝撃的な破壊力を持った変動が全世界に波及していった。古い社会は崩壊し、まったく新しい文明がつくられていったのである。この大爆発こそ、いうまでもなく産業革命である。そして、この革命に起因する津波、つまり第二の波は猛烈な勢いで世界中を襲い、過去のあらゆる制度、慣習と衝突して、何百万という人間の生活のあり方を変えてしまった。
第一の波の文明がさかえていた何千年という長い間、地球に住む人間は二つの範疇、つまり「未開人」と「文明人」に分けることも可能だったと言ってよい。少人数の集団や部族単位で採集、狩猟または漁労によって暮らしていたいわゆる未開民族は、農業革命とは関係なく生き続けていた人びとであった。
これとは対照的に、「文明」世界とは、大部分の人びとが、文字どおり大地を耕して生活している地域だった。というのは、農業がはじまった地域では、どこでも文明が根付いたからである。中国、インドからアフリカの旧土候国ベニンやメキシコまで、またギリシャやローマで、文明は興亡と相克を繰り返し、異質な文明が次から次へと溶け合って、多彩な融合文明をつくりあげてきた。
しかし、表面上の差はあっても、こうした文明圏には、根底では本質的類似性があった。いずれの地域においても、土地が経済、生活、文化、家族構造、政治の基礎になっていた。生活は村の周辺で営まれた。例外なく、素朴な分業が行なわれており、二、三の明白に定義できるカーストまたは階級が出現していた。これは貴族、僧侶、武士、農民、農奴または奴隷である。いずれの国においても、政治権力はきびしい独裁主義であった。家柄でその人間の一生の地位が決まっていた。そしえ、経済は地方分権的で、それぞれの共同体が、生活必需品の大部分を自給自足していた。
歴史は単純ではないから、例外もあった。大洋を縦横に活躍した船乗りに支えられた、商業を衷心とした文化圏もあったし、巨大な灌漑用水網をめぐらした、高度に中央集権化した王国が組織されることもあった。しかし、こうした相違にもかかわらず、これらの一見まったく種類が異なるかのように見える文明も、同じひとつの社会現象、つまり第一の波によって一般化した農業文明の、特殊なケースと見なして誤りではない。
農業文明が支配的だった時代でも、まれには、将来を予測させるような現象が起こることもあった。古代ギリシャ、ローマには、石油を求めてボーリングが行われていた。バビロニアやエジプトでは、きわめて広範囲にわたって官僚主義が風靡した。アジアや南アメリカでは、壮大な大都市が成立している。貨幣が存在し、交易も行なわれた。中国からドーバー海峡をのぞむカレーまで、通商の道は砂漠と海洋と山やまを越えて、縦横に交叉していた。会社や、むろん成熟したものではないが、国家という概念まで存在した。アレキサンドリアでは、驚くべきことに、先駆的な蒸気機関まであった。
にもかかわらず、産業文明といってよいものは、地球上のどこにも存在しなかったのである。いま挙げた未来を瞥見させるような現象は、時代的にも場所的にも散見されるにすぎず、いってみれば、歴史の気まぐれにすぎない。これらの例は、けっして首尾一貫した体系にはならなかったし、そうなるはずもなかった。したがって、1650年までは完全に第一の波の時代であり、見方によっては1750年頃まで、第一の波の世界であったと言うこともできる。ところどころに未開社会や、やがて到来する産業社会を予見させる現象は見られたが、農業文明が地球上を支配しており、そののちまで当然この状態が永続する、と考えられていたのである。
産業革命はこの農業文明の世界ではじまり、第二の波を巻き起こし、まったく未知の、強力な、熱狂的とも言えるほどエネルギーにあふれた文明、それまでの文明とは対照的な文明をつくり出した。産業主義とは、単に煙突と流れ作業だけの問題ではなかった。それは強力な、多方面にわたる社会体系であり、人間生活のすべての面に関係し、それまで支配的だった第一の波のあらゆる特質にいどんでいったのである。
産業主義はデトロイト郊外のウィローランに巨大な工業群をつくり出しただけでなく、農場にはトラクターを、事務所にはタイプライターを、台所には冷蔵庫を出現させた。日刊新聞や映画、地下鉄、航空機DC3を世の中に送り出した。絵画の世界にはキュービズムを、音楽には十二音階をもたらした。工業技術と芸術との結合を目標とする総合造形学校バウハウスの建築、バルセロナ様式の椅子、座り込みストライキ、ビタミン剤、平均寿命の伸び-これらはみな産業主義の産物であった。腕時計と選挙を普及させたのも産業主義である。しかし、より重要なことは、産業主義がこうした個別の現象をすべて寄せ集め、さたかも部品から機械を組み立てるようにこれらの現象を組み立てて、それまでになかった非常に強力な、首尾一貫した、広範な社会体系をつくり上げた点である。これこそ、第二の波の文明である。

 暴力的な解決
 第二の波がさまざまな社会に押し寄せるについて、過去の農業社会を守ろうとする人びとと、未来の産業社会のパルチザンとも言うべき人びととの間で、血みどろの、長い戦いがはじまった。第一の波と第二の波は正面衝突を起こし、両者の激突の途上にいた旧時代の人びとは、駆逐され、しばしば大がかりな殺戮の対象となった。
 アメリカでは、この衝突は農業による第一の波の文明を確立しようとするヨーロッパ人が入植してきたことによってはじまった。白人による農業文明の潮流は、情容赦なく西へ西へと押し寄せ、インディアンを追い立て、遠く太平洋岸まで、つぎつぎと農場と農村を生み出していった。
 しかし、農民のすぐ後に続いて、来るべき第二の波の時代の先兵とも言うべき初期産業人たちがやってきた。ニューイングランドと大西洋の中部諸州に、工場や都市が急激に出現するようになった。19世紀半ばまでに、東北部は工業地帯として急速な発展を続け、銃器、時計、農機具、繊維製品、ミシンなどの製品をつくり出した。反面、そのほかの地域では、まだ、農業の勢力が支配的だった。第一の波と第二の波との間で、経済的、社会的緊張が高まり、1861年には、ついに武力闘争にまで発展したのである。
 南北戦争は、多くの人が考えているように奴隷制度をめぐる道徳的論争や関税問題といった、狭い経済的対立だけが原因だったわけではない。あの戦いが決着をつけようとしたのは、もっとはるかに大きな問題であった。つまり、豊かなこの新大陸を支配するのは農民なのか、それとも産業主義を支配する人びとなのか、第一の波の勢力に屈服するのか、それとも第二の波の勢力が勝利を収めるのか、それが戦いの新の原因だったのである。未来のアメリカ社会が、基本的に農業型社会になるか産業型社会になるかの分かれ道であった。北軍の勝利によって、際は投げられた。アメリカの産業化が確定したのである。その時以来、経済の面でも政治の面でも、あるいは社会生活、文化生活の面でも、農業は後退を続け、産業は興隆への道をたどることになった。第一の波は後退し、第二の波が鳴り物入りで押し寄せてくることになった。
 同じような二つの文明の衝突は、ほかの国にも起こっている。日本では、1868年にはじまった明治維新がそれで、過去の農業時代と、未来の産業時代との間の相克の、まぎれもない日本版であった。1876年に実施された士族の家禄の廃止による封建制の終焉、1877年の薩摩藩の反乱による西南の役、1889年の西欧型憲法の公布、これらはすべて日本における第一の波と第二の波の衝突を反映する出来事であり、日本が世界の第一級産業国へと進んでいく、第一歩だったのである。
 ロシアにおいても、第一の波と第二の波の勢力の間で、同じような衝突が起こった。1917年のロシア革命は、南北戦争のロシア版であった。一見、主要な争点は共産主義体制をとるかどうかにあったように見えるが、実は、ここでも問題の中心は産業化であった。ボルシェビキは、最後の最後までしぶとく残っていた農奴制と封建領主の先生にとどめをさすと、農業を背後に押しやって、意識的に産業化を推進した。ボルシェビキもまた、第二の波にくみする政党になったわけである。
 さまざまな国で、第一の波と第二の波の勢力がつぎつぎに衝突し、政治危機、動乱、ストライキ、反乱、クーデター、戦争などが起こった。しかし、二十世紀の半ばまでに第一の波の勢力は粉砕されてしまい、第二の波の文明が、地球上を制覇したのである。
 今日、産業主義に立脚する社会は、地球上の北緯25度線と65度線の間のベルト状をなしている。北アメリカ大陸では、およそ2億5000万人の人間が産業社会的生活様式にしたがって暮らしている。西ヨーロッパでは、スカンジナビアの南からイタリアにかけて、やはり2億5000万ほどの人間が産業主義にもとづく社会を形成している。東に向うと、「ユーラシア」工業地帯、つまり東ヨーロッパとソビエト西部が産業主義文明圏であり、ここでも2億5000万の人間が産業社会特有の生活を送っている。そして、最後にあげなければならないのがアジアの産業地域で、日本、香港、シンガポール、台湾、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、中国本土の一部の地域を含み、ここにもまた、2億5000万の産業社会人口がある。総計すると、産業文明に属する人間はおよそ10億にのぼり、地球全体の人口の約四分の一に相当する。
 たしかにこれらの国は異なった言語、文化、歴史、政治形態を持ち、その根深い相違が戦争にまで発展しているのも事実だが、第二の波に属する社会には、共通の特徴がある。だれでも知っているような相違の背後に、実は、共通の基盤とも言うべき類似性がひそんでいるのだ。
 そして、現在の体制と衝突をくりかえしている今日の変革の波を理解するためには、われわれは、これら社会に共通な構造、表面からは見えない、第二の波の文明の骨組みを、はっきりと見きわめなければならない。なぜなら、ほかならぬこの産業社会の基本構造そのものが、いま粉砕されようとしているからだ。

 肉体労働に頼っていた動力
 新しい文明にせよ古い文明にせよ、あらゆる文明の前提条件はエネルギーである。第一の波が生み出した社会では、エネルギー源は、人間や動物の筋力という「生物による動力源」か、または太陽熱、風力、水力といった自然の力に頼っていた。炊事や暖房のために、森林が伐採された。水車がひき臼をまわした。なかには潮の干満を利用した水車もあった。田畑では、灌漑用の水車がギシギシと音をたててまわっていた。家畜はすきを引っぱっていた。フランス革命の頃でさえ、ヨーロッパでは、エネルギー源として1400万頭の馬と2400万頭の牛がいたと推定されている。このことは、第一の波の社会で利用されていたエネルギー源が、すべて再生可能だったということを意味する。伐採した森林はいつかは自然が回復してくれたし、帆をはらませる風も汽船の外輪を回す川の流れも、自然のなかで循環した。エネルギー源として酷使された家畜や人間も、交代要員にはこと欠かなかった。
 これに対して第二の波が生み出した社会はすべて、石炭やガス、石油といった、一度消費してしまえば再生不可能な化石燃料にエネルギー源を頼るようになったのである。1712年、イギリスの技術者トマス・ニューコメンによって実用にたえる蒸気機関が発明されて以来、革命的変化が起こった。有史以来はじめて、文明が単に自然の生み出す利子で生きていくだけでなく、自然が貯えてきた資本を食いつぶしはじめたのである。
 地球が貯えてきたエネルギーを少しずつ食いつぶすことは、産業文明を成立させるにあたって、眼に見えない補助金の役割を果たした。これによって産業文明は、非常に急速な経済成長を実現した。第二の波が押し寄せた国は、古今東西を問わず、いずれも安い化石燃料が際限なく手に入るという想定のもとに、壮大な科学技術の体系と経済機構を打ち立てた。資本主義社会であろうと社会主義社会であろうと、また東洋であろうと西洋であろうと、明らかに同じ転換が起こったのである。つまり、どこにでもあるエネルギーから特定の場所に集中しているエネルギーへ、再生可能なものから不可能なものへ、種種雑多な種類の資源や燃料からほんの数種のエネルギーへという変化が起きたのである。化石燃料は、第二の波に属するあらゆる社会の、基礎エネルギーとなった。
 
 子宮の役割まで果たす科学技術
 新しいエネルギー体系への飛躍は、科学技術の大幅な進歩と平行していた。第一の波がもたらした社会は、2000年前、ローマの建築家ビトルビウスが言った「文明の発達に必要不可欠な発明」に依存していた。しかし、クランク、楔、弩砲、ぶどうしぼり器、槓杆、起重機といった初期の機械は、主として人間ないし動物の筋肉の力を増幅するために用いられたにすぎない。
 第二の波は、科学技術をまったく新しい次元に押し上げた。モーター、ベルト、ホース、 ベアリング、ボルトなどが一体となって、規則正しい運行を続ける巨大な電力機械が生れた。そして、これらの新しい機械は、単に筋肉の力を増強するだけにとどまらない威力を発揮した。産業文明は人間以上に正確無比な視覚、聴覚、触覚を持った機械を生み出し、科学技術に感覚器官の代行をさせることになったのである。
産業文明はまた、つぎつぎと際限なく連鎖して、工作機械類のように、新しい機械をつくるための機械を生み出した。こうして科学技術は子宮の役割まで果たすことになったのである。さらに重要なことは産業文明がさまざまな機械をひとつ屋根の下に集めて、相互に関連するシステムをつくり出したことである。こうして、工場ができあがり、究極的には、工場の内部に流れ作業体制が確立した。
 この技術的基盤の上に立って、多くの産業が急激に起こり、第二の波のもたらす文明の特質を明確にした。最初に発達したのが石炭産業、繊維産業、鉄道で、鉄鋼、自動車産業、アルミニウム、化学製品、航空機産業がそれに続いた。巨大な工場都市が各地に出現する。繊維産業が栄えたフランス北部のリール、イングランド北西部のマンチェスター、アメリカでは自動車産業に支えられたミシガン州デトロイト、鉄鋼の町としてはドイツ西部のエッセン、のちにはソビエト西部のマグニトゴルスク、そのほか100にあまる諸都市である。
 これら産業の中心地から、シャツ、靴、自動車、時計、玩具、石けん、シャンプー、カメラ、機関銃、モーターなど、何百万、何千万という製品が生み出されていった。新しいエネルギー体系によって稼動しはじめた新しい科学技術が、大量生産を可能にしたのである。
 
 深紅の仏塔
 しかし、大量生産はできても、流通制度の変化と平行しなければ、意味がなかった。なぜなら第一の波の社会では、商品は通常、手仕事によってつくられた。製品は注文に応じて、ひとつずつつくられていたのである。これとほとんど同じことは、流通についても言えた。
 古い、封建的秩序の亀裂がひろがるにつれて、西欧では、商人によって規模の大きい、複雑な仕組みを持った貿易会社がつくられたのは事実である。こうした会社によって、商船隊やらくだの隊商が組織され、世界中に貿易ルートが開設された。そして、ガラス、紙、絹、ナツメグ、茶、ぶどう酒、羊毛、インジゴ、めースなどが販売された。
 しかし、こうした製品の大部分は、小規模な店舗、あるいは、いなかの果てまで荷をかついだり車をひいたりしてまわっていた行商人によって、消費者の手にとどいた。劣悪な通信事情と交通機関の未発達のために、市場は決定的に限定されていたのである。これら小規模店舗の経営者と、行商人の提供する商品の種類は、きわめて限られており、しかも商品の品切れ状態が、何か月間あるいは何年間にもわたることすらめずらしくなかった。
 第二の波は、この時代おくれになって、需要に応じれなくなっていた流通体系に変革をもたらした。流通上の変革は生産面の変革ほどに広く知られていないが、根本的な変革であったことに変わりはない。鉄道や高速道路、運河によって奥地まで開発が進み、産業主義とともに商業の殿堂が出現した。最初のデパートである。仲買人、卸売業者、代理店、それに製造業者の代表の間に、複雑なネットワークが出来上がり、1871年には、ジョージ・ハンティントン・ハートフォードが大量販売のシステムを確立した。後にヘンリー・フォードが工場で実現する大量生産を、彼は流通面で、早くも実現していたわけである。ニューヨークに進出したハートフォードの最初の店は、深紅の建物と中国の仏塔を型どったレジのボックスとで有名になった。彼は世界最初の.巨大なチェーンストアー組織ザ・グレート・アトランティック・アンド・パシフィック・ティー・カンパニーを創立して、この大量販売をまったく新しい次元に推し進めた。
 特定の得意先だけを相手にしていた商売は、大量販売、不特定の大衆相手の商売にとって代わられた。新しく登場した大量販売方式は、機械とならんで、あらゆる産業社会に共通するシステムとなり、社会を支える中心的な機構となった。

 これまで検討してきたような変化を、もし一括して表現するとすれば、「技術体系」とでも言うべきものの変容である。未開社会にせよ、農業社会にせよ、あるいは産業社会にせよ、あらゆる社会はエネルギーを消費する。社会はものをつくり、それを流通させる。どのような社会でも、エネルギーのシステムと生産のシステム、流通のシステムは、相互に密接な関係を保ちながら、ひとつの、より全体的なシステムをつくりあげている。このより全体的なシステムが技術体系であって、技術体系は社会の発展段階に応じて、それぞれ特徴的な形態を持っている。
 地球上に第二の波が波及するにつれて、農業社会の技術体系は、産業社会の技術体系にとって代えられた。再生不可能なエネルギーが大量生産のシステムに直結し、その大量生産のシステムが、高度に発達した合い大量販売のシステムに対して商品を吐き出していくことになった。

 効率化された家族
 だが、第二の波の技術体系には、この体系にふさわしい、同じ様に画期的な社会体系が必要だった。つまり、技術が、産業社会というまったく新しい形の社会組織を要求したのであった。
 産業革命以前、たとえば家族形態は、地域によってさまざまに異なっていた。しかし、農業を主体とする地域ならどこでも、おじ、おば、義父、義母、祖父母、いとこなど、幾世代もの家族がひとつ屋根の下に暮らし、経済的にも、みんながひとつの生産単位としていっしょに働く大家族主義が一般的だった。インドの家父長制による大家族、バルカン半島諸国家に見られた家族共同体ザドルーガ、西ヨーロッパで一般的だった数世代を含む縦の複合家族である拡大家族などの例をあげることができる。そして家族は移動せず、土地に根を張っていたのである。
 第二の波が第一の波の社会を席巻するようになると、家族は変容を迫れられることになった。各家庭の内部で第一の波と第二の波が衝突し、家庭内の紛争、家父長の権威への挑戦がはじまった。こどもたちと両親の関係が変わり、礼儀作法についての新しい考え方が生れた。経済的な生産の場が田畑から工場に移ると、家族はもはや、ひとつの生産単位として、いっしょに労働するということがなくなってしまった。働き手を工場労働に送り出してしまうことによって、家族が持っていた重要な機能は、それぞれ専門的な機関に分割されたのである。こどもの教育は学校にまかされた。老人の世話は救貧施設や老人ホーム、養護施設などにまかされた。そして、なにより特徴的なことは、新しい社会が働く者に移動することを要求したことである。この新しい社会では、仕事の必要に応じて、点々と移動する働き手が不可欠だったのである。
 年老いた近親者、病人、障害者、そして大勢のこどもをかかえ込んだ拡大家族は、とても移動どころではなかった。そこで、さまざまな家庭悲劇をくりひろげながら、家族構造が次第に変化しはじめた。都市への移住によって別れ別れになったり、経済的な嵐にもまれたりしながら、家族は負担になっていた親族を切り捨て、小規模になり、移動性を獲得し、新しい技術体系に適応していったのである。
 わずらわしい親族を切り離して、両親と二、三人のこどもだけで構成される、いわゆる核家族が、資本主義社会、社会主義社会を問わず、あらゆる産業社会において、標準的な「近代的」家族のモデルとして、社会に是認された。祖先崇拝によって、家父長が異常なほど重要な役割を果たしていた日本ですら、親子が三代も四代もいっしょに暮らしていた団結心の強い大家族が、第二の波の到来とともに崩壊していった。次第に核家族が多くなっていったのである。要するに、石炭や石油といった化石燃料や製鉄所、チェーンストアーが第二の波の社会を第一の波の社会からはっきり切り離したと同じように、核家族は第二の波によってもたらされた社会に共通する、まぎれもない特徴となったのである。(続く)