March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
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第四章 暗号の解読(2-2)
集中化
市場が強大化するにつれて、第二の波の文明のもうひとつの原則、「集中化」が発生した。
第一の波の社会は、さまざまなエネルギー源の上に成り立っていた社会であった。ところが、第二の波の社会はほとんど完全に、石油、石炭、天然ガスといった、きわめて限られた地価埋蔵物に、そのエネルギー源を依存するようになった。
しかし、集中化が進んだのは、エネルギーだけではなかった。第二の波は、人間の集中化をも促進した。地方から人びとを狩り出し、巨大な都市圏へと移動させたのである。それだけではなく、労働まで集中化した。第一の波の社会では、労働は家庭でも、村でも、畑でも、どこでも行なわれたのに対し、第二の波の労働の大半は、工場で行なわれるようになった。何千という労働者が、ひとつ屋根の下に寄せ集められたのである。
エネルギーと労働だけではない。イギリスの社会科学雑誌『ニュー・ソサエティ』のなかで、スターン・コーエンは次のような指摘をしている。産業革命以前の社会では、多少の例外はあるにせよ、「貧しい人びとは自分の家族か、親類縁者の世話になっていた。在任は罰金を科せられたり、鞭打ちの刑に処せられたり、あるいは施設から施設へとたらいまわしにされたりしていた。また、精神障害者は、家に閉じ込められ、家が貧しい場合には、地域社会が面倒をみていた」手短かに言えば、このような集団は特定の場所に集中することなく、地域社会に散在していたのである。
産業主義は、こうした状況を根本的に変えた。19世紀初頭は、大投獄時代と言われている。罪人はつぎつぎに検挙され、牢獄に集められた。精神障害者は「精神病院」に、こどもは学校にと、それぞれ狩りたてるように寄せ集められたのであった。これはまさに、労働者が工場へ集められたのと同じ事であった。
集中化は、資本の流れにもあらわれた。その結果、第二の波の文明は巨大企業を生み、さらに進んでトラストや独占を生み出した。1960年代の半ばには、ゼネラル・モーターズ、フォード、クライスラーというアメリカの三大自動車メーカーが、全米の車の94%を生産していた。西ドイツではフォルクスワーゲン、ダイムラー・ベンツ、オペル(GM)、フォード・ベルケの4社が91%の車を生産し、フランスでは事実上、ルノー、シトロエン、シムカ、プジョーの4社で100%、イタリアではフィアット1社で90%の車を生産していた。
同様に、アメリカではアルミニウム、ビール、タバコ、朝食用食品といった商品の80%以上が、それぞれの分野の4社ないし5社によって生産されている。西ドイツでは、プラスターボードと染料の生産の92%、写真フィルムの98%、産業用ミシンの91%が、それぞれの分野の4社ないしはそれ以下の企業の手に握られているのだ。この種の高度に集中化の進んだ企業は、枚挙にいとまがない。
社会主義の立場に立つ経営者も、生産の集中化が効率的であると認めていた。実を言うと、資本主義国に住むマルクス主義思想家も、資本主義国家で産業の集中化が進行することを、社会主義への移行に必要な過程として歓迎していた。完全に集中化した産業は、究極的には国家が管理することになる、と言うのである。レーニンは「すべての市民は、たったひとつの巨大な企業合同体、つまり国家という企業の労働者、国家の従業員に変貌する」と言っている。それから半世紀後、ソビエトの経済学者N・レリューキナは『ウォプロズィ・エコノミカ』誌に、「ソビエトは世界中でもっとも集中化の進んだ産業を所有している」と書くにいたった。
第二の波の文明に見られる集中化という原則は、モスクワと西側諸国との間に横たわる、あらゆるイデオロギー上の対立を越えて、両方の社会の根底まで浸透していった。それはエネルギー源、人口の分布、労働形態、教育方法から、企業のような経済組織にまでおよんでいたのである。
極大化
生産と消費の間に亀裂が生じたことによって、第二の波の社会には、総じて「大きなことはよいことだ」という「極大化偏執狂」とも言うべき症状があらわれた。それは大きなことの好きなテキサス人のように、いたずらに大きさと成長とを追い求める傾向である。工場の作業時間が長く、したがって生産量が大きくなれば、単位原価は低廉になる。この考え方が正しいとすれば、同様の論法で、規模を大きくすることによって節約が図れる、という考え方が生まれてくるのも無理かなぬところである。こうして、「大きい」という言葉が、「効率的」という言葉と同義語となり、「極大化」は、第二の波の社会を解く第五の鍵になったのだ。
国や都市は、自分のところには世界最高の超高層ビルがある、世界最大のダムがあると誇るようになり、あげくの果ては世界大際のミニ・ゴルフコースがあると競い合う事態まで出現した。もともと、大きさは成長がもたらしたものである。そこで、産業化の進んだ国の大半は、政府も企業もそのほかの機関も、憑かれたように成長という理想を追求しはじめた。
日本の松下電器では、毎朝、従業員と管理職がいっしょになって歌っている。-
新日本の建設に 力をあわせ心を合せ 尽きざる生産勤しみ励み
世界の人に我等は送らむ 泉の水の滾々と 絶え間なく出づる如く
産業振興 産業振興 和親一致の松下電器
(訳者注-佐々木信網作詞、平井保喜作曲。昭和21年より49年まで社歌)
1960年という年は、アメリカが従来の産業主義を完成の域に高めるとともに、変革を迫る第三の波の影響を最初に感じた年でもあった。この年の全米50位までの大企業は、平均従業員8万という規模に成長を遂げていた。ゼネラル・モーターズ1社だけで595,000人、先に触れたセオドア・ベイルの創立になる公益事業AT&Tは、男女合わせて736,000の従業員をかかえていた。この年のアメリカの平均世帯規模は3.3人だったから、優に200万以上のアメリカ人がAT&Tという一企業の支払う給与で生活していたことになる。言い換えると、ハミルトンや、ジョージ・ワシントンがアメリカをひとつの国家に仕立て上げようとしていた時代のアメリカの、全人口の半数に匹敵する集団がAT&T一社に依存していたことになる。(1960年以後も、AT&Tは吸収合併を続け、その大企業ぶりを物語る比率は、ますます高まっている。1970年には、同社は956,000人を雇用していた。わずかその1年で136,000人の増員を行なった。)
AT&T社の例は特殊なケースだが、アメリカ人の専売特許というわけではない。1963年の数字だが、フランスでは、数の上では全企業のわずか0.25%に過ぎない1,400の企業が、全労働人口の39%を占める、という現象が起こっていた。西ドイツ、イギリス、そのほかの国ぐにでも、政府は積極的に企業合併を奨励した。それによって企業の規模が大きくなり、アメリカの巨大企業との競争力が強まると信じられていたからである。
企業規模の極大化は、単に、利潤の極大化を反映したものではなかった。すでにマルクスは、「産業機構の規模拡大」を、産業機構の「世俗的な権力の拡張」と関連させて考えていた。これに対してレーニンは、「巨大企業、トラスト、企業合同は、大量生産の技術を最高レベルにまで引き上げた」と主張している。ロシア革命後、レーニンが経済活動に関してくだした最初の指令は、ロシア人の経済生活を整理統合して必要最小限の数にまとめ、できるだけ規模の大きい生産単位にする、というものであった。スターリンは、規模の極大化を、なおいっそう推進し、いくつかの大きな新しいプロジェクトをはじめた。マグニトゴルスクとザポロシュタールの鉄鋼関連施設、バルハシの精銅工場、ハリコフとスターリングラードのトラクター工場などがそれである。スターリンはよく、アメリカのあれこれの工場設備の大きさをたずねては、それ以上の規模のものをつくるよう命じたものだった。
レオン・M・ハーマン博士は、その著書『ソビエト経済計画における巨大信仰』のなかで「ソビエト各地で、地方政治家が“世界最大の計画”を誘致する競争に巻き込まれていった」と書いている。すでに1939年、ソビエト共産党は、「巨大狂」に対して警告を発しているが、ほとんど効果はなかった。今日なお、ソビエトや東ヨーロッパ共産党の指導者たちは、ハーマン博士のいう「巨大化中毒」にかかっていると言ってよい。
こうした大きさに対する単純な信仰は、「効率」というものを第二の波の狭い視野で考えていたためだと言ってよい。ところが、産業主義の極大化偏執狂は工場にとどまらなかった。たとえば、いわゆる国民総生産=GNPを統計指標とする考え方にも、そうした傾向があらわれている。GNPとは、一国の経済の中で生産された商品やサービスの価値を統計したもので、そこにはさまざまに異なった性質のデータが入っている。第二の波の社会の経済学者が使用したこの指標には、さまざまな欠点があった。たとえばGNPという観点から見る限り、経済活動の結果産み出されたものが食料品であろうと、教育や健康に関するサービスであろうと、あるいは軍需品であろうと、そんなことはまったく問題にならない。家の新築に職人を雇っても、反対に家の取り壊しに職人を雇っても、その両方がGNPに加算される。一方の行為は住宅のストックに寄与し、他方はストックを滅殺するのだが、それすら問題にされない。また、GNPは市場活動、商品取引だけを計測の対象としているため、たとえば、子育て、家事といった給与の対象になっていない生産を基盤とした、生命の維持に欠くことのできない部門をすべて軽視する結果になる。
こうした欠点があるにもかかわらず、第二の波の時代の政府は、世界中いたるところで、なんとしてもGNPを上昇させようと競争に血まなこになった。そのためにはすべてが犠牲にされ、高度成長のために生態系の破壊や社会的災厄もいとわない風潮を生んだ。極大化をよしとする偏執狂的原則は、産業主義時代の人びとの精神に深く浸透し、これほど理にかなった原則はないとされるようになった。強大化は、規格化、分業化、そのほか産業社会を支える基本的ないくつかの原則とともに進行していったのである。
中央集権化
産業化が進むといずれの国でも、中央集権化は芸術作品の域にまで達した。教会をはじめとする第一の波の支配者も、権力を中心に集中する方法をわきまえていた。しかしかれらが対処したのは現代と比較すれば、はるかに単純素朴な社会であった。また、今日の産業社会を根底から中央集権によって支えている人間にくらべれば、第一の波の支配者たちは未熟な、アマチュア同然の存在だった。
複雑な社会は例外なく、中央集権的機能と地方分権的機能の共存を必要とする。第一の波の経済は基本的に地方分権的であり、自給自足を原則とする、地方色のはっきりした経済であった。こうした特長を備えた経済が、統合の進んだ国家経済を単位とする第二の波の経済へと移行した結果、権力を中心に集中する方法も、まったく面目を一新することとなった。この新しい型の中央集権への移行は個人企業、大企業、それに一国の経済と、さまざまなレベルで具体化していった。
この間の移行を典型的に物語っているのが、初期の鉄道会社の例である。当時、鉄道は他企業とくらべて巨大な存在であった。1850年のアメリカで、資本金25万ドル以上の工場は、わずか41に過ぎなかった。それと対照的に、ニューヨーク・セントラル鉄道会社は、すでに1860年、3000万ドルの資本金を誇っていた。このような巨大企業を運営するために、新しいマネージメント手法が必要とされたのである。
したがって初期の鉄道経営者は、今日で言えば宇宙開発プログラムにたずさわるマネージャーのようなもので、新しい経営上の手法を開発する必要にせまられた。かれらは技術、運賃、運行スケジュールを規格化し、何百マイルにも.およぶ列車の運行を同時化し、新しい業務を部署別に分業化した。資本、エネルギー、人員の集中化が行なわれ、路線網の極大化へ向けて努力を重ねた。そして、以上すべてをうまくまとめるためにかれらが着手したのが、情報と命令の中央集権化に基盤を置いた、新しい組織をつくり出すことであった。
従業員は「ライン」と「スタッフ」に分けられた。車輌の運行、積載量、損害、遺失貨物、修理、運行距離などに関してデータの提出が求められるようになった。これらの情報はすべて、中央集権化された命令系統を通じて上部へ流れ、総支配人に達し、そこで決定がくだされ、下部へ命令を伝える仕組みになっていた。
鉄道産業は、ビジネス史家のアルフレッド・D・チャンドラーが指摘したように、ほどなく、ほかの大企業のモデルとなった。そして、中央集権的マネジメントは、第二の波の諸国家を通じて、先進的な、洗練された経営手法と考えられるようになったのである。
政治の分野でも、第二の波は中央集権化を推進した。アメリカでは、すでに1780年代後半、ゆるやかで地方分権的な連合規約(独立戦争直後にできた13州間の規約)を廃して、新たに中央集権的な合衆国憲法をつくろうとした闘争のなかで、こうした動きがはっきりあらわれている。概して言えば、第一の波の色彩を残す地方勢力は、かれらの機関紙『フェデラリスト』などを通じて、強力な中央政府というものが、軍事、外交上の理由ばかりでなく、経済成長の面からも欠かせない存在である、と論陣をはった。
その結果として、1787年に合衆国憲法が生まれたが、それは巧みな妥協の産物であった。第一の波を代表する勢力も依然として強かったので、憲法は重要な諸権限を中央政府に与えず、従来どおり州にのこす形をとっていた。過度に強力な中央政府の出現を防ぐため、立法、行政、司法の三権分立というユニークな制度を取り入れた。しかし、憲法のなかにはどうにでも解釈できる文言が含まれており、それによって連邦政府は、ことごとに権限を拡張していったのである。
合衆国の産業化によって政治のシステムがいっそう中央集権色を強めるにつれて、ワシントンの連邦政府が持つ権限と責任は次第に大きくなり、意志決定はますます中央政府の独占物になっていった。一方、連邦の政治機構の内部でも、権力は議会や裁判所から、三権のなかでももっとも中央集権機能の強い行政府へと移行するようになった。ニクソン大統領の時代になると、かつて熱心な中央集権主義者だった歴史家アーサー・シュレジンジャーのような人まで、「帝王のような大統領の地位」に攻撃を加えるほどになっていた。
政治の中央集権化を促す力は、アメリカ以外の国ぐにでいっそう強く働いた。スウェーデン、日本、イギリス、あるいはフランスを一瞥すれば、これらの諸国よりアメリカの制度の方が、はるかに地方分権的だということがすぐ理解できよう。『マルクスかキリストがいなかったら』の著者ジャン=フランソワ・ルベルはこの点について、政治的抗議行動に対する各国政府の反応の仕方の相違を例にあげて、次のように説明している。「フランスでデモ行進が禁止された場合、だれがそれを禁止したかについて疑問をさしはさむ余地はまったくない。もし、それが政治問題に関するデモであれば、デモを禁止したのは中央政府にきまっている。」「アメリカでもデモが禁止されたとしよう。こんな場合、アメリカ人がまず発する疑問は、だれがデモを禁止したのか、ということである。」彼はアメリカの場合、デモを禁止するのは自治権を持った地方の行政当局であることが多い、と述べている。
極端に政治の中央集権化が進められたのは、もちろんマルクス主義の立場に立つ工業国であった。1850年、マルクスは「国家の手に権力を決定的に集中すること」の必要性を説いている。エンゲルスも、ハミルトン同様、地方分権的な色彩を持つ連邦制による政治形態を、「おそろしく時代おくれなやり方だ」と批判している。後年、ソビエトは、産業化の促進に熱心なあまり、政治、経済の両面で極端に中央集権的な構造を持った国家を建設するようになり、生産に関する決定はどんなに小さなことでも、中央の計画立案者の手をわずらわすことになった。
かつては分権的であった経済の段階的中央集権化は、中央銀行という、その名称からも中央集権的意図の明白な機関の出現によって、決定的に促進されることになった。
1694年といえば、まだ産業化の黎明の時代で、ニューコメンが、蒸気機関をいじくりまわしていた頃だが、この年にウィリアム・パターソンは、バンク・オブ・イングランドを創設した。そしてこの銀行がすべての第二の波に属する諸国において、中央集権機能を持つ同じような機関の原型となったのである。通貨と信用の中央支配を目的とした中央銀行という機関を持つことによって、はじめて一国の第二の波的特性は完全なものになったと言ってよい。
パターソンの設立した中央銀行は政府発行の国債を売り、政府保証の通貨を発行した。のちには、ほかの市中銀行の貸付業務を規制するようにもなった。やがて、通貨供給の中央支配という、今日のあらゆる中央銀行が持つ本質的機能を備えるようになったのである。1800年には、同じ目的を持ったフランス中央銀行が設立され、1875年には、ドイツ連邦銀行ライヒスバンクが設立された。
アメリカでは、第一の波の勢力と第二の波の勢力の間の衝突は、憲法制定直後の中央銀行設置をめぐる大規模な対立となってあらわれた。第二の波的政策を掲げる論客のなかで、もっとも舌鋒するどかったハミルトンは、イギリスにモデルをとった中央銀行の設立を熱心に説いた。南部と、まだフロンティアであった西部は、農業中心の立場を離れられず、ハミルトンに反対した。だが、産業化の進んだ北東部の支持を得たハミルトンは、アメリカ合衆国連邦銀行を設立する法律の制定に成功した。これが今日の連邦準備制度の前身である。
その役割は、政府の指示を受けて市場活動の水準や公定歩合を規制することであった。こうして中央銀行は、資本主義経済のなかに、一定限度内でいわば非公式に、短期計画経済を導入したのである。資本主義、社会主義を問わず、第二の波の社会のあらゆる動脈に、通貨という血液が流れることになった。両者とも、通貨を吸い上げる中央機能を必要とし、その結果、中央銀行という組織がつくられた。中央銀行と中央政府は、相互に手をとりあって進むことにあった。中央集権化もまた、第二の波の文明の支配的原則のひとつだったのである。
われわれの眼前に明らかになっているのは、程度の差こそあれ、すべての第二の波の国ぐにで機能してきた、支配的な六つの原則である。「規格化」、「分業化」、「同時化」、「集中化」、「極大化」、それに「中央集権化」という六原則は、工業化の進んだ社会であれば、資本主義国にも社会主義国にもあてはまる原則であった。なぜなら、これらの六原則は、生産者と消費者が決定的に分離し、市場の役割がますます拡大することによって、必然的に発生したものだったからである。
一方、これらの六原則は相互に強化作用を続け、その結果生まれたのが、非人間的な官僚機構であった。人類がいまだかつて体験したことのない、巨大で硬直化した、強力な官僚組織が出現したのである。ひとりひとりの市民は、巨大組織の立ちはだかるカフカ的世界のなかにとり残され、途方にくれてさまよい続ける存在になってしまった。もし今日、われわれがこれら六原則のもとにひっ息し、耐え切れなくなっているという実感を持つならば、この問題は、第二の波の文明のプログラムを決めている「暗号」に端を発しているということになるだろう。
この暗号を形成している六原則は、第二の波の文明に鮮明な特徴を与えてきた。だが、以下の章までもなく明らかになるように、これら六原則は、いずれも第三の波の攻撃にさらされているのである。
同じ危機は、ビジネス、銀行経営、労使関係、政治、教育、それにマスコミなどの分野で、今日なおこれら六原則を有効に考え、それらを自分の行動原理として適用している第二の波の社会のエリートについても言える。新しく生まれた文明は、過去のあらゆる既得権に挑戦しようとしているのである。
ルールをつくることに慣れきっていた産業社会のエリートは、混乱を目前にして、過去の封建貴族がたどったと同じ道をたどることになるだろう。ある者は黙殺され、ある者は権力の座から追放される。権力を奪われ、社会の片すみに追いやられる者も出てくるだろう。そして、とくに知力に富み、適応能力を備えた人びとだけが変貌をとげ、第三の波の文明の指導者として再登場してくることになる。
第三の波の文明が支配的になる近い将来、だれが支配者の座につくのだろうか。それを知るためには、まず今日の社会をだれが支配しているのか、それについて正確な知識を持たなければならない。
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
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第四章 暗号の解読(2-2)
集中化
市場が強大化するにつれて、第二の波の文明のもうひとつの原則、「集中化」が発生した。
第一の波の社会は、さまざまなエネルギー源の上に成り立っていた社会であった。ところが、第二の波の社会はほとんど完全に、石油、石炭、天然ガスといった、きわめて限られた地価埋蔵物に、そのエネルギー源を依存するようになった。
しかし、集中化が進んだのは、エネルギーだけではなかった。第二の波は、人間の集中化をも促進した。地方から人びとを狩り出し、巨大な都市圏へと移動させたのである。それだけではなく、労働まで集中化した。第一の波の社会では、労働は家庭でも、村でも、畑でも、どこでも行なわれたのに対し、第二の波の労働の大半は、工場で行なわれるようになった。何千という労働者が、ひとつ屋根の下に寄せ集められたのである。
エネルギーと労働だけではない。イギリスの社会科学雑誌『ニュー・ソサエティ』のなかで、スターン・コーエンは次のような指摘をしている。産業革命以前の社会では、多少の例外はあるにせよ、「貧しい人びとは自分の家族か、親類縁者の世話になっていた。在任は罰金を科せられたり、鞭打ちの刑に処せられたり、あるいは施設から施設へとたらいまわしにされたりしていた。また、精神障害者は、家に閉じ込められ、家が貧しい場合には、地域社会が面倒をみていた」手短かに言えば、このような集団は特定の場所に集中することなく、地域社会に散在していたのである。
産業主義は、こうした状況を根本的に変えた。19世紀初頭は、大投獄時代と言われている。罪人はつぎつぎに検挙され、牢獄に集められた。精神障害者は「精神病院」に、こどもは学校にと、それぞれ狩りたてるように寄せ集められたのであった。これはまさに、労働者が工場へ集められたのと同じ事であった。
集中化は、資本の流れにもあらわれた。その結果、第二の波の文明は巨大企業を生み、さらに進んでトラストや独占を生み出した。1960年代の半ばには、ゼネラル・モーターズ、フォード、クライスラーというアメリカの三大自動車メーカーが、全米の車の94%を生産していた。西ドイツではフォルクスワーゲン、ダイムラー・ベンツ、オペル(GM)、フォード・ベルケの4社が91%の車を生産し、フランスでは事実上、ルノー、シトロエン、シムカ、プジョーの4社で100%、イタリアではフィアット1社で90%の車を生産していた。
同様に、アメリカではアルミニウム、ビール、タバコ、朝食用食品といった商品の80%以上が、それぞれの分野の4社ないし5社によって生産されている。西ドイツでは、プラスターボードと染料の生産の92%、写真フィルムの98%、産業用ミシンの91%が、それぞれの分野の4社ないしはそれ以下の企業の手に握られているのだ。この種の高度に集中化の進んだ企業は、枚挙にいとまがない。
社会主義の立場に立つ経営者も、生産の集中化が効率的であると認めていた。実を言うと、資本主義国に住むマルクス主義思想家も、資本主義国家で産業の集中化が進行することを、社会主義への移行に必要な過程として歓迎していた。完全に集中化した産業は、究極的には国家が管理することになる、と言うのである。レーニンは「すべての市民は、たったひとつの巨大な企業合同体、つまり国家という企業の労働者、国家の従業員に変貌する」と言っている。それから半世紀後、ソビエトの経済学者N・レリューキナは『ウォプロズィ・エコノミカ』誌に、「ソビエトは世界中でもっとも集中化の進んだ産業を所有している」と書くにいたった。
第二の波の文明に見られる集中化という原則は、モスクワと西側諸国との間に横たわる、あらゆるイデオロギー上の対立を越えて、両方の社会の根底まで浸透していった。それはエネルギー源、人口の分布、労働形態、教育方法から、企業のような経済組織にまでおよんでいたのである。
極大化
生産と消費の間に亀裂が生じたことによって、第二の波の社会には、総じて「大きなことはよいことだ」という「極大化偏執狂」とも言うべき症状があらわれた。それは大きなことの好きなテキサス人のように、いたずらに大きさと成長とを追い求める傾向である。工場の作業時間が長く、したがって生産量が大きくなれば、単位原価は低廉になる。この考え方が正しいとすれば、同様の論法で、規模を大きくすることによって節約が図れる、という考え方が生まれてくるのも無理かなぬところである。こうして、「大きい」という言葉が、「効率的」という言葉と同義語となり、「極大化」は、第二の波の社会を解く第五の鍵になったのだ。
国や都市は、自分のところには世界最高の超高層ビルがある、世界最大のダムがあると誇るようになり、あげくの果ては世界大際のミニ・ゴルフコースがあると競い合う事態まで出現した。もともと、大きさは成長がもたらしたものである。そこで、産業化の進んだ国の大半は、政府も企業もそのほかの機関も、憑かれたように成長という理想を追求しはじめた。
日本の松下電器では、毎朝、従業員と管理職がいっしょになって歌っている。-
新日本の建設に 力をあわせ心を合せ 尽きざる生産勤しみ励み
世界の人に我等は送らむ 泉の水の滾々と 絶え間なく出づる如く
産業振興 産業振興 和親一致の松下電器
(訳者注-佐々木信網作詞、平井保喜作曲。昭和21年より49年まで社歌)
1960年という年は、アメリカが従来の産業主義を完成の域に高めるとともに、変革を迫る第三の波の影響を最初に感じた年でもあった。この年の全米50位までの大企業は、平均従業員8万という規模に成長を遂げていた。ゼネラル・モーターズ1社だけで595,000人、先に触れたセオドア・ベイルの創立になる公益事業AT&Tは、男女合わせて736,000の従業員をかかえていた。この年のアメリカの平均世帯規模は3.3人だったから、優に200万以上のアメリカ人がAT&Tという一企業の支払う給与で生活していたことになる。言い換えると、ハミルトンや、ジョージ・ワシントンがアメリカをひとつの国家に仕立て上げようとしていた時代のアメリカの、全人口の半数に匹敵する集団がAT&T一社に依存していたことになる。(1960年以後も、AT&Tは吸収合併を続け、その大企業ぶりを物語る比率は、ますます高まっている。1970年には、同社は956,000人を雇用していた。わずかその1年で136,000人の増員を行なった。)
AT&T社の例は特殊なケースだが、アメリカ人の専売特許というわけではない。1963年の数字だが、フランスでは、数の上では全企業のわずか0.25%に過ぎない1,400の企業が、全労働人口の39%を占める、という現象が起こっていた。西ドイツ、イギリス、そのほかの国ぐにでも、政府は積極的に企業合併を奨励した。それによって企業の規模が大きくなり、アメリカの巨大企業との競争力が強まると信じられていたからである。
企業規模の極大化は、単に、利潤の極大化を反映したものではなかった。すでにマルクスは、「産業機構の規模拡大」を、産業機構の「世俗的な権力の拡張」と関連させて考えていた。これに対してレーニンは、「巨大企業、トラスト、企業合同は、大量生産の技術を最高レベルにまで引き上げた」と主張している。ロシア革命後、レーニンが経済活動に関してくだした最初の指令は、ロシア人の経済生活を整理統合して必要最小限の数にまとめ、できるだけ規模の大きい生産単位にする、というものであった。スターリンは、規模の極大化を、なおいっそう推進し、いくつかの大きな新しいプロジェクトをはじめた。マグニトゴルスクとザポロシュタールの鉄鋼関連施設、バルハシの精銅工場、ハリコフとスターリングラードのトラクター工場などがそれである。スターリンはよく、アメリカのあれこれの工場設備の大きさをたずねては、それ以上の規模のものをつくるよう命じたものだった。
レオン・M・ハーマン博士は、その著書『ソビエト経済計画における巨大信仰』のなかで「ソビエト各地で、地方政治家が“世界最大の計画”を誘致する競争に巻き込まれていった」と書いている。すでに1939年、ソビエト共産党は、「巨大狂」に対して警告を発しているが、ほとんど効果はなかった。今日なお、ソビエトや東ヨーロッパ共産党の指導者たちは、ハーマン博士のいう「巨大化中毒」にかかっていると言ってよい。
こうした大きさに対する単純な信仰は、「効率」というものを第二の波の狭い視野で考えていたためだと言ってよい。ところが、産業主義の極大化偏執狂は工場にとどまらなかった。たとえば、いわゆる国民総生産=GNPを統計指標とする考え方にも、そうした傾向があらわれている。GNPとは、一国の経済の中で生産された商品やサービスの価値を統計したもので、そこにはさまざまに異なった性質のデータが入っている。第二の波の社会の経済学者が使用したこの指標には、さまざまな欠点があった。たとえばGNPという観点から見る限り、経済活動の結果産み出されたものが食料品であろうと、教育や健康に関するサービスであろうと、あるいは軍需品であろうと、そんなことはまったく問題にならない。家の新築に職人を雇っても、反対に家の取り壊しに職人を雇っても、その両方がGNPに加算される。一方の行為は住宅のストックに寄与し、他方はストックを滅殺するのだが、それすら問題にされない。また、GNPは市場活動、商品取引だけを計測の対象としているため、たとえば、子育て、家事といった給与の対象になっていない生産を基盤とした、生命の維持に欠くことのできない部門をすべて軽視する結果になる。
こうした欠点があるにもかかわらず、第二の波の時代の政府は、世界中いたるところで、なんとしてもGNPを上昇させようと競争に血まなこになった。そのためにはすべてが犠牲にされ、高度成長のために生態系の破壊や社会的災厄もいとわない風潮を生んだ。極大化をよしとする偏執狂的原則は、産業主義時代の人びとの精神に深く浸透し、これほど理にかなった原則はないとされるようになった。強大化は、規格化、分業化、そのほか産業社会を支える基本的ないくつかの原則とともに進行していったのである。
中央集権化
産業化が進むといずれの国でも、中央集権化は芸術作品の域にまで達した。教会をはじめとする第一の波の支配者も、権力を中心に集中する方法をわきまえていた。しかしかれらが対処したのは現代と比較すれば、はるかに単純素朴な社会であった。また、今日の産業社会を根底から中央集権によって支えている人間にくらべれば、第一の波の支配者たちは未熟な、アマチュア同然の存在だった。
複雑な社会は例外なく、中央集権的機能と地方分権的機能の共存を必要とする。第一の波の経済は基本的に地方分権的であり、自給自足を原則とする、地方色のはっきりした経済であった。こうした特長を備えた経済が、統合の進んだ国家経済を単位とする第二の波の経済へと移行した結果、権力を中心に集中する方法も、まったく面目を一新することとなった。この新しい型の中央集権への移行は個人企業、大企業、それに一国の経済と、さまざまなレベルで具体化していった。
この間の移行を典型的に物語っているのが、初期の鉄道会社の例である。当時、鉄道は他企業とくらべて巨大な存在であった。1850年のアメリカで、資本金25万ドル以上の工場は、わずか41に過ぎなかった。それと対照的に、ニューヨーク・セントラル鉄道会社は、すでに1860年、3000万ドルの資本金を誇っていた。このような巨大企業を運営するために、新しいマネージメント手法が必要とされたのである。
したがって初期の鉄道経営者は、今日で言えば宇宙開発プログラムにたずさわるマネージャーのようなもので、新しい経営上の手法を開発する必要にせまられた。かれらは技術、運賃、運行スケジュールを規格化し、何百マイルにも.およぶ列車の運行を同時化し、新しい業務を部署別に分業化した。資本、エネルギー、人員の集中化が行なわれ、路線網の極大化へ向けて努力を重ねた。そして、以上すべてをうまくまとめるためにかれらが着手したのが、情報と命令の中央集権化に基盤を置いた、新しい組織をつくり出すことであった。
従業員は「ライン」と「スタッフ」に分けられた。車輌の運行、積載量、損害、遺失貨物、修理、運行距離などに関してデータの提出が求められるようになった。これらの情報はすべて、中央集権化された命令系統を通じて上部へ流れ、総支配人に達し、そこで決定がくだされ、下部へ命令を伝える仕組みになっていた。
鉄道産業は、ビジネス史家のアルフレッド・D・チャンドラーが指摘したように、ほどなく、ほかの大企業のモデルとなった。そして、中央集権的マネジメントは、第二の波の諸国家を通じて、先進的な、洗練された経営手法と考えられるようになったのである。
政治の分野でも、第二の波は中央集権化を推進した。アメリカでは、すでに1780年代後半、ゆるやかで地方分権的な連合規約(独立戦争直後にできた13州間の規約)を廃して、新たに中央集権的な合衆国憲法をつくろうとした闘争のなかで、こうした動きがはっきりあらわれている。概して言えば、第一の波の色彩を残す地方勢力は、かれらの機関紙『フェデラリスト』などを通じて、強力な中央政府というものが、軍事、外交上の理由ばかりでなく、経済成長の面からも欠かせない存在である、と論陣をはった。
その結果として、1787年に合衆国憲法が生まれたが、それは巧みな妥協の産物であった。第一の波を代表する勢力も依然として強かったので、憲法は重要な諸権限を中央政府に与えず、従来どおり州にのこす形をとっていた。過度に強力な中央政府の出現を防ぐため、立法、行政、司法の三権分立というユニークな制度を取り入れた。しかし、憲法のなかにはどうにでも解釈できる文言が含まれており、それによって連邦政府は、ことごとに権限を拡張していったのである。
合衆国の産業化によって政治のシステムがいっそう中央集権色を強めるにつれて、ワシントンの連邦政府が持つ権限と責任は次第に大きくなり、意志決定はますます中央政府の独占物になっていった。一方、連邦の政治機構の内部でも、権力は議会や裁判所から、三権のなかでももっとも中央集権機能の強い行政府へと移行するようになった。ニクソン大統領の時代になると、かつて熱心な中央集権主義者だった歴史家アーサー・シュレジンジャーのような人まで、「帝王のような大統領の地位」に攻撃を加えるほどになっていた。
政治の中央集権化を促す力は、アメリカ以外の国ぐにでいっそう強く働いた。スウェーデン、日本、イギリス、あるいはフランスを一瞥すれば、これらの諸国よりアメリカの制度の方が、はるかに地方分権的だということがすぐ理解できよう。『マルクスかキリストがいなかったら』の著者ジャン=フランソワ・ルベルはこの点について、政治的抗議行動に対する各国政府の反応の仕方の相違を例にあげて、次のように説明している。「フランスでデモ行進が禁止された場合、だれがそれを禁止したかについて疑問をさしはさむ余地はまったくない。もし、それが政治問題に関するデモであれば、デモを禁止したのは中央政府にきまっている。」「アメリカでもデモが禁止されたとしよう。こんな場合、アメリカ人がまず発する疑問は、だれがデモを禁止したのか、ということである。」彼はアメリカの場合、デモを禁止するのは自治権を持った地方の行政当局であることが多い、と述べている。
極端に政治の中央集権化が進められたのは、もちろんマルクス主義の立場に立つ工業国であった。1850年、マルクスは「国家の手に権力を決定的に集中すること」の必要性を説いている。エンゲルスも、ハミルトン同様、地方分権的な色彩を持つ連邦制による政治形態を、「おそろしく時代おくれなやり方だ」と批判している。後年、ソビエトは、産業化の促進に熱心なあまり、政治、経済の両面で極端に中央集権的な構造を持った国家を建設するようになり、生産に関する決定はどんなに小さなことでも、中央の計画立案者の手をわずらわすことになった。
かつては分権的であった経済の段階的中央集権化は、中央銀行という、その名称からも中央集権的意図の明白な機関の出現によって、決定的に促進されることになった。
1694年といえば、まだ産業化の黎明の時代で、ニューコメンが、蒸気機関をいじくりまわしていた頃だが、この年にウィリアム・パターソンは、バンク・オブ・イングランドを創設した。そしてこの銀行がすべての第二の波に属する諸国において、中央集権機能を持つ同じような機関の原型となったのである。通貨と信用の中央支配を目的とした中央銀行という機関を持つことによって、はじめて一国の第二の波的特性は完全なものになったと言ってよい。
パターソンの設立した中央銀行は政府発行の国債を売り、政府保証の通貨を発行した。のちには、ほかの市中銀行の貸付業務を規制するようにもなった。やがて、通貨供給の中央支配という、今日のあらゆる中央銀行が持つ本質的機能を備えるようになったのである。1800年には、同じ目的を持ったフランス中央銀行が設立され、1875年には、ドイツ連邦銀行ライヒスバンクが設立された。
アメリカでは、第一の波の勢力と第二の波の勢力の間の衝突は、憲法制定直後の中央銀行設置をめぐる大規模な対立となってあらわれた。第二の波的政策を掲げる論客のなかで、もっとも舌鋒するどかったハミルトンは、イギリスにモデルをとった中央銀行の設立を熱心に説いた。南部と、まだフロンティアであった西部は、農業中心の立場を離れられず、ハミルトンに反対した。だが、産業化の進んだ北東部の支持を得たハミルトンは、アメリカ合衆国連邦銀行を設立する法律の制定に成功した。これが今日の連邦準備制度の前身である。
その役割は、政府の指示を受けて市場活動の水準や公定歩合を規制することであった。こうして中央銀行は、資本主義経済のなかに、一定限度内でいわば非公式に、短期計画経済を導入したのである。資本主義、社会主義を問わず、第二の波の社会のあらゆる動脈に、通貨という血液が流れることになった。両者とも、通貨を吸い上げる中央機能を必要とし、その結果、中央銀行という組織がつくられた。中央銀行と中央政府は、相互に手をとりあって進むことにあった。中央集権化もまた、第二の波の文明の支配的原則のひとつだったのである。
われわれの眼前に明らかになっているのは、程度の差こそあれ、すべての第二の波の国ぐにで機能してきた、支配的な六つの原則である。「規格化」、「分業化」、「同時化」、「集中化」、「極大化」、それに「中央集権化」という六原則は、工業化の進んだ社会であれば、資本主義国にも社会主義国にもあてはまる原則であった。なぜなら、これらの六原則は、生産者と消費者が決定的に分離し、市場の役割がますます拡大することによって、必然的に発生したものだったからである。
一方、これらの六原則は相互に強化作用を続け、その結果生まれたのが、非人間的な官僚機構であった。人類がいまだかつて体験したことのない、巨大で硬直化した、強力な官僚組織が出現したのである。ひとりひとりの市民は、巨大組織の立ちはだかるカフカ的世界のなかにとり残され、途方にくれてさまよい続ける存在になってしまった。もし今日、われわれがこれら六原則のもとにひっ息し、耐え切れなくなっているという実感を持つならば、この問題は、第二の波の文明のプログラムを決めている「暗号」に端を発しているということになるだろう。
この暗号を形成している六原則は、第二の波の文明に鮮明な特徴を与えてきた。だが、以下の章までもなく明らかになるように、これら六原則は、いずれも第三の波の攻撃にさらされているのである。
同じ危機は、ビジネス、銀行経営、労使関係、政治、教育、それにマスコミなどの分野で、今日なおこれら六原則を有効に考え、それらを自分の行動原理として適用している第二の波の社会のエリートについても言える。新しく生まれた文明は、過去のあらゆる既得権に挑戦しようとしているのである。
ルールをつくることに慣れきっていた産業社会のエリートは、混乱を目前にして、過去の封建貴族がたどったと同じ道をたどることになるだろう。ある者は黙殺され、ある者は権力の座から追放される。権力を奪われ、社会の片すみに追いやられる者も出てくるだろう。そして、とくに知力に富み、適応能力を備えた人びとだけが変貌をとげ、第三の波の文明の指導者として再登場してくることになる。
第三の波の文明が支配的になる近い将来、だれが支配者の座につくのだろうか。それを知るためには、まず今日の社会をだれが支配しているのか、それについて正確な知識を持たなければならない。