アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

アルビン・トフラー 富の未来 その1(目次・他)

2011年06月17日 22時35分38秒 | 富の未来(上)
2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)

目次:

第一部 革命
第一章 富の最先端(今月の流行・制約を緩める・ギターとアンチヒーロー他) 
第二章 欲望が生み出すもの(富の意味・欲望を管理する人たち)

第二部 基礎的条件の深部
第三章 富の波(有史以前のアインシュタイン・自分の肉を食べる・夢想すら・他)
第四章 基礎的条件の深部(無謬説・時代後れの基礎的条件・職の将来・相互作用)

第三部 時間の再編
第五章 速度の違い(列車は定時に進行しているか・レーダーで速度をはかると・他)
第六章 同時化産業(生産性を高める踊り・冷えた料理をなくす・土壇場の突貫作業)
第七章 リズムが乱れた経済(時間の生態系・時間の犠牲者・合併後の憂鬱・他)
第八章 時間の新たな景観(時間の鎖・高速の愛好・時間のカスタム化・他)

第四部 空間の拡張
第九章 大きな円(アジアだ、アジア・水門をあける)
第十章 高付加価値地域(過去に取り残された地域・国境の消滅・低賃金競争・他)
第十一章  活動空間(個人の地図・移動する通貨・侵略通貨と侵略された国)
第十二章  準備が整っていない世界(ウォール街より資本主義的・他)
第十三章  逆噴射(新タイタニック号・輸出過多・スプーン一杯のナノテク・他)
第十四章  宇宙への進出(人工透析から人工心臓まで・他)

第五部 知識への信頼
  第十五章 知識の先端(タイヤを蹴ってみる)
  第十六章 明日の「石油」(使えば使うほど・製鉄所と製靴工場・他)
  第十七章 死知識の罠(過去の真実・エミリーおばさんの屋根裏部屋)
  第十八章 ケネー要因(経済学の失敗・推定の推定・個別の研究・愛人の侍医)
  第十九章 真実の見分け方(真実の試練・六つのフィルター・真実の変化)
  第二十章 研究室の破壊(剃刀の刃と権利・政治の転換・男社会の占い・他)
  第二十一章 真実の管理者(上司を説得する)
  第二十二章 結論-収斂(亀の時間・かつては正しかった類推・知識の地図)

第六部 生産消費者
  第二十三章 隠れた半分(生産消費者の経済・最高の母親・おまるテスト・他)
  第二十四章 健康の生産消費者(百歳まで生きる確率は・パニック状態・他)
  第二十五章 第三の仕事(ビュッフェを超えて・スーパーの押し付け)
  第二十六章 来るべき爆発的成長(ギターとゴルフクラブ・際限のない消費癖他)
  第二十七章 さらにあるタダ飯(教師と看護師と馬・素人は重要・経済学の問題他)

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上・下巻の「富の未来」で、上巻だけで、27章300ページの書物ですから、
圧巻ですが、「第三の波」から「パワーシフト」へと進化した知識(究極の
代替物-富)を時間・空間の視点から解説したものが、上巻です。聞きなれた
「生産消費者」論を上巻の結論(結び)としています。
では、次回から、数章づつ勉強していきましょう。

アルビン・トフラー パワーシフト 究極の代替物より

2011年06月11日 22時00分02秒 | トフラー論より
暴力・富・知識のパワー(権力)の三本柱。
先般はジョブトレーニングメンバーのテキストで紹介しましたが、もう一度
勉強しましょう。

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パワーシフト 第八章 究極の代替物    P.133~143 
*第三の波の政治 第3章 究極の代替物P.55~64(改訂)
 (以下は、パワーシフト本文より)
本書の読者は、読解力という驚くべき技を持っている。おしなべて我々の祖先が文盲だった事実に思いいたると、時おり異様な感じに襲われざるを得ない。頭が悪いとか、無知だったとかではなく、文盲であるのは当時、致し方なかったのだ。

読めるということだけで、昔は舌を巻くような才能だった。聖アウグスツヌスが五世紀に書き残した中に、師であったミラノの司教、聖アンブロシウスに触れ、師は勉学に励んだので唇を動かさずに文書を読むことができた、とのくだりがある。この驚くべき才能の故に、聖アンブロシウスは世界で最も頭の切れる人に祭り上げられたのである。
 我々の祖先の大部分は文盲だっただけでなく、簡単な足し算引き算の計算能力さえなかった。できる少数の人間は、かえって危険な存在と見なされた。アウグスチヌスが出したとされる信じ難い警告は、キリスト教徒は足し算や引き算ができる人物に近づくべきでない、というものだった。そんな連中は、「悪魔と契約を結び、精神を惑わせ、人を地獄の束縛に閉じ込める」ことが明白だった。-現代なら小学4年生で算数を習っている生徒の多くがいだく感情だろう。-
商業を志す学生に収支決算をマスターした教師が教え出すのは、それから千年経ったのちのことである。
ここで強調したいのは今日、ビジネスの世界で当たり前と思われている簡単な技術の多くが、長い時間をかけた文化的発展の積み重ねであり、何世紀もの産物であるということだ。世界中のビジネスマンがいま依存している知識は、それと自覚してはいないが、中国から、インドから、アラブから、フェニキアの貿易商人から、そしてまた西欧からの遺産の一部なのである。こうした技術を身に着けた何世代もの人間が、その技術を改善し、後代に伝え、そしてゆっくりと現在の形に作り上げてきた。 
経済のすべてのシステムは、知識の基盤の上に立っている。ビジネス関係のすべての企業も、社会的に積み上げられて来たこの前世紀からの遺産に頼っている。しかし、重要であるべきこの要素は資本、労働、土地と違って、物の生産に必要な要素を勘定する際、普通は経済学者と経営幹部になおざりにされてきた。とはいえ今日、この要素は(時に代価が支払われ、時にただで搾取されるが)全要素中、最も重要なものとなった。
歴史上には数は少ないが、知識の進歩が時代遅れの障害をいくつか打ち壊してきている。そうした突破口のうち特記されるべきは、新たな思考方法の到来と、表意文字・アルファベット・零といった情報伝達手段の発明である。そして我々の世紀において、それはコンピュータにほかならない。
30年前にコンピュータを少しでも操れる者は、大衆紙で数字の魔法使い、あるいは巨大頭脳扱いされた。唇を動かして文字を読む時代の聖アンブロシウスと全く同じである。
今日の我々は、人類の全知識構造が再び変革に身を震わせ、同時に古い障害が崩れつつある、歴史上、何回とない稀有の時代に生きているのだ。 
 
本書はここで、いろいろな事実を、それらがどんなものであれ、足し算して見せようというわけではない。いま会社や経済全体の構造変革が進みつつあるように、知識の生産と配分、そして知識を伝達するためのシンボルの再編が徹底して行われつつあることを、ここで指摘したいだけである。
それはどういうことなのだろうか。
知識の新しいネットワークが創られつつあるということである。いろいろな概念が肝を潰すような形で互いに結び付き、驚くべき推論のヒエラルキーが構築され、新奇な前提と新しい言語、符号、論理を土台とした新しい理論、仮定、想念が創出する-といった具合にネットワークがつくられつつあるのだ。
ビジネスも、政府も個人も、歴史上かつてどんな世代が行ったよりもたくさんのデータそのものをいま収集し、蓄えつつある。(明日の歴史学者は大量かつ複雑な金鉱に出くわし途方にくれるだろう)
しかし、もっと重要なのは、データを様々な方法で相互に関係づけ、それらに文脈を与え、そうすることによってデータを情報へと整えていることだ。そして情報の束をどんどん膨らませて、各種のモデルと知識の殿堂を創り上げていることだ。
といって、このことはデータの正しさ、情報の真実さ、知識の賢さを示しているわけではない。しかし、世界を見る目、富を作り出す方法、力を行使する方法に大きな変化が生じていることを、それは示している。
この新しい知識のすべてが事実に基づき、明確に理解できる形をとるわけではない。ここで使われる用語としての知識の多くは、前提のうえの前提、断片的なモデル、それと気づかない類推などから成っていて、口でははっきり言い様がないものである。そして、その知識は、単純に論理的なもの、また、見せかけとしての非感情的データを含むだけでなく、想像や直感はもちろん、情熱や情緒の産物である価値をも含んでいる。
社会の知識基盤に生じている今日の大騒動こそ(コンピュータを利用した詐欺や単なる金融操作の意味ではない)超象徴(スーパーシンボリック)経済の勃興を告げる証左なのである。

情報の錬金術
社会の知識システムの変化の多くは、ビジネスの操業に直接、取り入れられる。この知識システムというのは、会社にとっては銀行システムや政治システム、あるいはエネルギー・システムよりずっと受け入れ易い。
もし言語、文化、データ、情報、ノウハウがなかったら、ビジネスが成り立たない事実はさて措くとしても、富を創出するに必要な諸要素のうち、知識ほど融通が利くものは外にないという事実は動かし難い。実際に知識は(時には単に情報とデータだけだが)他の要素の代わりに用いられることさえある。
知識 - 原則的に使い減りしないもの - は究極の代替物なのである。

技術を取ってみよう。
ほとんどの煙突型産業の工場は、製品を変えようとすると、法外な費用がかかる。高価な道具、型造り機、ジグセッター、その他の特殊設備に高い金を必要とし、結果として非稼動時間が生まれ、機械は遊んで、資本、利子、間接費が食われることになる。同一製品を長期に造れば造るほど、単位あたりのコストが下がるのは、そのためである。
しかし、長期生産の代わりに、最新のコンピュータ利用の製造技術を使えば、種類の違う製品をいくらでも造ることができる。オランダに本拠を持つ巨大なエレクトロニクスをあつかう、フィリップスは1972年に100種類の型のカラーテレビを造った。今日では型の種類は、500に上っている。日本のブリジストン・サイクル社は、“ラダック型注文生産”という自転車を宣伝中だ。松下は注文用半製品のホットカーペットを市場に出している。さらにワシントン靴店は注文用半製品の女性靴を出していて、これは各サイズごとに32種類のデザインがあり、店内に備えたコンピュータが客の足の形を測ってつくっている。
新しい情報技術は大量生産型経済の原則を逆転させ、製品の型を変える費用をゼロに近づけている。知識はこのように、かつては高くついた生産工程の変化にかかる経費を肩代わりするのである。

では原料を取ってみよう。
旋盤を動かすコンピュータに上手にプログラムを入れれば、たいていの旋盤工がやるよりも多くの型を、同じ大きさの鋼板から切り抜くことが出来る。新しい知識は精密作業を可能にしたため、製品をより小型化、軽量化し、結果として倉庫費と輸送費を減らした。さらに鉄道・船舶輸送会社のCSXのケースで見たように、輸送状況を分刻みで把握することによって(それはつまり情報の質的向上に外ならないが)配送費のいっそうの節約が図られた。
新しい知識はまた、飛行機の合成材から生化学的薬剤にいたるまでの広い範囲にわたって、全く新しい材料をも創り出し、ある原料を他の物で代替させる可能性を広げている。テニスのラケットからジェットエンジンにいたるまであらゆるものが、新しいプラスティック、混合物、複雑な合成物質と組み合わされて創られる。(中略)
つまり、知識は、資源と輸送双方の肩代わりをするわけである。

同じことがエネルギーにも当てはまる。
最近の超伝導開発の成功は、知識がもたらす代替的活用として、他のどんなものにも優っている。これが実用化されれば、各生産単位に送られているエネルギーの量を大幅に減らすことができる。全米公共電力協会によれば、銅線による伝導効率が悪いため、全米で生産される電力の15%が供給途中でロスになるという。このロスの量は、発電所50箇所の発電量に相当する。超伝導は、そういったロスを大幅に削減できるのだ。
 同様にサンフランシスコのベクテル・ナショナル社は、ニューヨークのエバスコ・サービス社と組んで、フットボール競技場の大きさの巨大なエネルギー貯蔵用バッテリーを造ろうとしている。完成すれば、電力消費のピーク時に余剰電力を供給するため設けられた発電所は要らなくなってくる。

原料、輸送、電力の肩代わりに加えて、知識は時間も節約する。
時間は会社のバランスシートのどこにも現れないが、実は最重要な経済資源の一つである。時間は事実上、隠れたインプットとして残る。特に変化が加速されて(例えば連絡手段や製品を市場に出すのが早くなるように))時間が縮めば、利潤とロスに大きな違いが出てこよう。
新しい知識は物事をスピードアップさせ、同時的、即時的な経済へ向かって我々を駆り立て、さらに時間の消費を肩代わりする。
空間もまた知識によって減らされ、コントロールできる。GEの運輸システム部が新しい荷物運搬車をつくったが、この運搬車を高度の情報処理および通信を使ってサプライヤーとつないだところ、在庫調べが以前より12倍早くなり、その結果、倉庫空間の1エーカー分が節約された。(中略)
もっと重要なのは、コンピュータと進んだ知識に基づく遠距離通信により、生産設備をカネのかかる都心部から疎開させることができ、エネルギーと輸送コストをさらにカットできることである。

知識対資本
コンピュータ機能による人間労働の肩代わりについては余りに多く語られ過ぎているので、資本の肩代わりについて、つい忘れがちになる。そうであっても今まで述べられてきたことは、資金的な節約にもまた繋がっているのである。
実際、ある意味で知識は、労働組合や反資本主義的政党より、遥かに金融権力に対する重大な長期的脅威である。なぜなら相対的問題として、情報革命は産出単位ごとの資本必要量を減少させるからである。資本主義経済という呼び名のもとで、これほど重要なことはない。
(中略)
したがって、ここまで見てきたことは、どんな形の経済であろうと、生産と利潤は力の三つの主要な資源 - 暴力、富、知識 - に依存していること、そして暴力は法律へと形を変え、ついで資本とカネは共に知識へと変質しつつある、ということである。仕事の内容も並行的に変化し、シンボルの操作にますます頼るようになっている。資本、カネ、仕事が揃って同方向へ移行するに伴い、経済の全基盤に革命的変化が起きている。それは、煙突型産業時代に行き渡ったルールとは極端に違うルールに従って運営される、超象徴(スーパーシンボリック)経済への変貌である。
原料、労働、時間、空間、および資本への必要度が減少する一方、知識は先進経済の中心的な資源となってくる。この減少が起こるにつれて、知識の価値は高騰する。この理由のために、次章で見えるように、情報戦争-知識のコントロールをめぐる争い-が、いたるところで勃発しつつある。                           
第二部 超象徴経済における日常   (終了)

アルビン・トフラー 第三の波の政治から

2011年06月05日 23時10分20秒 | 第三の波の政治

第三の波の未来学を学ぶための序論として、もう一冊 参考資料があります。
1995年に翻訳発行された「第三の波の政治」です。これは、アメリカ国内で
限定教育版として出版された小冊子で、「パワーシフト」ならびに「第三の波」
からの引用した各章によって構成されています。分厚い「第三の波」「パワーシフト」
を熟読するのに、抵抗がある方は、この小冊子から入門したほうが良いです。

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第三の波の政治 中央公論社刊 1995.7.7発行
第8章 第三の波の基本原理 p.141~p.153
激しく渦巻く変化の波に取り巻かれ、よりいっそう迅速に反応することを求められているわれわれ現代人は、あたかも、止めることのできない巨大な波に向かって抜き手を速めようとしているかのような感覚をいく度となく味わう。だが、これは錯覚ではない。現に、そのような事態が頻繁に生じているのである。したがってわれわれは、この波を乗り越えるために、サーファーのように波の力を利用しながら前進する術を、いまこそ体得すべきだと思われる。
これまで述べてきた第三の波が、アメリカを、より市民的で、より民主的な、よりよい未来へと運んでくれる可能性は十分にある。しかしそのためには、国民自身が、第二の波の経済・政治・社会政策と第三の波のそれを峻別することが必要だ。これほどまでに多くの改革が、よかれと思って実施されながら、事態の悪化を印象づけるだけで終わってしまうのは、この見きわめがきちんとなされていないからにほかならない。
われわれがいま経験しているのは、新文明(その制度は、いまだ確立されていない)を創出するにあたっての産みの苦しみなのである。それゆえ、今日、政策立案者と政治家、それに政治活動を行なう市民が現在の自分たちの動きの何たるかを真に理解しようと思うなら、崩れゆく第二の波のシステムの延命を目的とした計画案と、第三の波の文明への移行を円滑に進めていくための案とを区別できるようになることが、まずもって必要なのだ。
したがって、ここでは、両者の見分け方をいくつか取り上げてみることにしょう。

1 工場運営との類似性
 工場は、産業社会を象徴する主要な存在だった。事実、第二の波の制度の大半が工場運営をモデルにして作られた。だが、われわれの知っている、そうした工場も、いまや過去のものとなりつつある。工場が運営上の原則としていたのは、規格化、集権化、最大化、集中化、官僚化などだったが、第三の波の生産は、新たな原則に基づく脱工場生産となる。しかも、この生産は、工場とはほとんど類似性をもたない場所で行なわれる。現時点でもすでに、自宅や会社、あるいは車や飛行機のなかなどで行なわれる生産活動が増加している。
 議会においても、企業においても、第二の波の提案を見抜くためのもっとも簡便な方法は、その提案が(意識するとしないとにかかわらず)依然として工場運営をモデルにしているかどうかを見きわめることだ。
 例えば、アメリカの学校運営はいまだ工場型である。そこでは、原材料(すなわち子供)が、規格化された指示とお定まりの検査のもとで処理されている。したがって、いかなるものであれ、教育を刷新するための案が提示されたときには、それが、単に学校工場の効率を高めるためのものなのか、それとも学校から工場方式を完全に払拭し、個々の生徒を対象にした特別注文型の教育を実現しようとするものなのか、という違いが重要なポイントになる。保健法や福祉法についても、また、連邦制に基づく官僚制の再編をもくろむ、ありとあらゆる提案についても同じことがいえる。いかなる場合にも、アメリカが必要とする新制度は、官僚制を脱した脱工場方式に基づくものであることを忘れてはならない。 
 工場型運営の改善や工場そのものの新設だけを求める提案にも、それなりにいろいろな意味があるかもしれない。だが、それは、断じて第三の波の提案ではないのである。

2 大量化社会との関連
 ハード中心の第二の波の経済のなかで工場運営に携わった人たちは好んで、アセンブリー・ラインに適する、交換可能で従順な労働者を数多く求めた。その結果、大量生産、大量販売、大衆教育、マスメディア、そして大衆娯楽などが社会の全域にひろがり、それに伴い、第二の波そのものも「巨大な塊」を形成するにいたったのだった。
 第三の波の経済が必要とし、将来多くの報酬を出すことになるであろう労働者は、第二の波の労働者とは本質的にタイプを異にする。彼らは思考し、疑問を抱き、古きを刷新し、企業のリスクを積極的に担う。つまり、彼らは、簡単には交換のきかない労働者なのである。したがって、第三の波の経済が好むのは、個人ベースの動き(必ずしも個人主義と同じではない)だともいえる。
 新たな頭脳経済は、必然的に社会を多様化する。例えば、コンピュータ化された特別注文生産は、きわめて多様なライフスタイルを生み出す可能性がある。11万の異なる製品を取り扱っている、各地のウォルマートや、種々のコーヒーを用意しているスターバックスを見ただけでも、ほんの数年前のアメリカとは隔世の感がある。だが、ことは物品の変化にとどまらない。それにも増して重要なのは、第三の波が文化、価値観、さらには道徳さえをも多様化していくことなのだ。非マス化したメディアは、しばしば衝突し合う多種多様なメッセージを文化のなかに送り込む。仕事だけではなく、余暇の過ごし方や芸術様式も多様化するし、政治活動も多様化する。また、宗教・信仰集団の数もふえていく。しかも、アメリカという多民族国家では、民族、言語、社会文化の各面において、集団の細分化も進むことが予想される。そうした流れのなかで、第二の波派は、大量化社会の維持か、ないしは復活を望む。それに対して、第三の波派は、非マス化を己のために活用する手立てを模索するのである。

3 籠のなかの卵の数
 第三の波の社会の多様性と複雑さは、極度に中央集権化した機構の回路を打ち砕く。問題を解決するにあたり、権力をトップに集中するのが、第二の波の常套手段だった。しかし、時に集権化が必要な場合があるにしても、現在みられるような、バランスを欠いた過度の集権化は、あまりにも多くの決定事項という卵を一つの籠のなかに詰め込むため、「過負荷」による決定機能の麻痺を引き起こしてしまう。かくして今日、ワシントンでは、議会と政治が、急速に変化する複雑な問題、しかも彼らだけで理解するのがますます困難になっていく諸問題を手に余るほど抱え込んだ結果、決定を下しきれなくなり、焦りに焦っているのである。
 一方、第三の波の機構は、トップによる決定を可能なかぎり避け、それを周辺に委ねる。企業は、いま急いで社員の権限を強めようとしているが、これは愛他主義に基づくものではなく、下部の人間のほうが、おおむね、よりよい情報をもち、危機に対応するにも、好機に処するにも、上部の有力者より機敏に動くことができるからなのだ。
 卵をすべて一つの籠に入れるのをやめ、それらを多くの籠に分散すべきだという発想はべつに新しいわけではないが、第二の波派はこの考えをひどく嫌うのである。

4 垂直統合型企業組織か、それとも仮想企業組織か 
 第二の波の機能は、長年にわたり職務をふやしつづけた挙げ句、贅肉だらけになっている。第三の波の機構は、職務をふやさずに、削るか、ないしは下請けに出し、スリムな体を保つ。だからこそ、氷河期が近づき恐竜が絶滅しても、それらは生き延びていけるのである。
 第二の波の企業組織は、「垂直統合」(例えば、自動車を製造するには、鉄鉱石を掘り出し、それを製鉄所に送ってはがねにし、しかるのち自動車工場に発送するまでの全過程を統合しなければならないという考え方)を強く志向する傾きがあり、その衝動を自ら抑制することがなかなかできない。それにひきかえ、第三の波の企業は、できるだけ多くの仕事を外注する。下請け先の多くは、より小規模で、より専門化されたハイテク企業か、場合によっては個人となる。そのほうが仕事の質がよくなるうえに、時間がかからず、しかも低コストですむからだ。第三の波の企業は、極限に向かって意図的に空洞化されていく。人員はぎりぎりまで削減され、生産活動が行なわれる場所は分散する。そして、組織そのものが、バークリーのオリバー・ウィリアムソンのいう「契約の絆」へと変貌していく。
ロンドン・ビジネス・スクールのチャールズ・ハンディが論じているように、こうした「目につかないが、最小限の規模で最大の効果を生み出そうとしている企業」が、いまや「現代世界の要」になっているのである。
 ハンディは、さらに、われわれの多くは、直接雇われていなくても、それらの企業にサービスを売るかたちになる、と指摘したうえで、「それゆえ、社会の富は、そのような企業を主体にして築かれるであろう」と結論している。第三の波の情報と通信技術によりはじめて可能になる、この本質的に新しい形態の「仮想」企業組織について言及しているのは、ハンディとウィリアムソンだけではない。
 ところで、本書の著者の一人であるハイジ・トフラーは、かつて「和合」という重要な概念を導入した。彼女は、公共部門と民間部門のそれぞれの組織形態のあいだには何らかの和合性が設けられなければならず、さもないと互いに首を締め合うことになってしまう、と考えたのだった。なにしろ、民間部門が超音速ジェット機に乗って飛び出しているのに、公共部門は、飛行場の入口で、まだ荷物さえ下ろしていないというのが今日の状況なのである。
 政策ないしは計画の評価をするさいには、それを実施するのが、組織の垂直統合を志向する人たちか、それとも仮想企業組織を追求する人たちか、を問わなければならない。この問いに対する答が得られれば、その政策あるいは計画が、機能不全に陥った過去の延命を図ろうとしているのか、それとも未来との出会いへと人びとを導こうとしているのかが容易に判別できるようになるだろう。

5 家庭の強化
 産業革命以前の家族は大家族で、生活は家庭を中心に展開された。家庭は、仕事の場であり、病人を看護する場であり、子供を教育する場であった。そこは、また、家族の憩いの場でもあり、老人を介護するための場でもあった。第一の波の社会では、大規模な拡大家族が社会の中核をなしていたのである。
 家族という強力な制度の衰退は、スポック博士やプレイボーイ誌などの出現とともにはじまったわけではない。それは、産業革命が家庭から、いま述べたような機能の大部分を奪った時点ではじまった。仕事は工場やオフィスで行なわれるようになり、病人を介護する場は病院へ、子供たちの教育の場は学校へ、そして夫婦の娯楽の場は映画館へと移された。また、老齢者は、養老施設に入るようになった。こうしたことがすべて表面化したあとに残ったのが「核家族」である。この家族形態を支えたのは、家族構成員が一つの単位として果たす仕事ではなく、いともたやすく切れてしまいがちな心理的絆だった。
 第三の波は、家族と家庭にふたたび力を与え、かつて家族を社会の中核にしていた機能の多くを蘇らせる。現在、コンピュータやファックスなど第三の波の技術を利用しながら、仕事の一部を家で行なっているアメリカ人の数は、推定で三千万人にも上がっている。子供を家庭で教育しようとしている親たちも多い。しかし、本当の変化がはじまるのは、コンピュータ付きテレビが家庭に入り込み、それが教育手段に組み込まれるようになってからだろう。病人はどうか。妊娠検査や血圧測定など、以前は病院と医院の医療業務だったものが、どんどん家庭で行なわれるようになってきた。こうした現象は、家庭、および家族の役割が強まりつつあることを示している。ただし、ここでいう家族には、核家族、多世代にまたがる拡大家族、再婚者同士からなる家族など、大小さまざまな形態の家族が含まれるうえに、小家族には子なし家族が、子なし家族には夫婦が高齢になってからの出産を計画しているものも含まれる。このように家族構造が多様化していく背後には、すでにみてきたように、第二の波の大量化社会の非マス化に伴う、経済・文化の多様化がある。
 皮肉なことに、現在「家族の価値」を説く人びとの多くは、より強い家族を生み出す方向に動かずに、核家族への回帰を促している。彼らは、第二の波の規範をとり戻そうとしているのだ。もし、私たちが真に家族の強化を望み、家庭をふたたび社会の中核となる機関にしたいと思うなら、顛末な問題を忘れ、多様性を認めたうえで、重要な仕事を家庭に引き戻すよう努めなければならない。それから、もう一つ。テレビのリモコンの管理は、ぜひ親にさせたいものだ。

*      *      *

 アメリカは、新しいことが他の国に先駆けて起こりやすい国である。古い制度の崩壊に苦しんでいるのがアメリカなら、新しい制度を求めて道を切り開いているのもアメリカなのだ。いま私たちアメリカ人は、暗中模索の状態で暮らしている。バランスを崩し、ひっくり返る恐れもある。自分たちがどこへ向かっているのかということについて(また、どこへ向かうべきかということについてさえ)断定できる人はいないのである。
 そんななかでわれわれは、どのグループもとり残さないよう気を配りながら手探りで前進しつつ、われわれ自身のなかに未来を作り上げていく必要がある。以上述べてきた数少ない判断基準だけでも、第二の波の過去に根ざした政策と、第三の波の未来への歩みを後押しできる政策とを区別するのに役立つはずだ。ただし、どんな基準の場合でもそうなのだが、それらを一字一句そのまま機械的に適用したがる狂信的とさえ思える人が出てくる危険性がある。実際に求められているのは、それとは正反対な動きだということを忘れてはならない。
 新たな千年紀への素晴らしい旅に備えて荷造りをするにあたり、ぜひとも必要なのは、過ち、両義性、そしてとりわけ多様性を、ユーモア感覚と平衡感覚に支えられたひろい心をもって見ることである。これらは、私たちが生き延びていくのに欠かせないものなのだ。この旅は、おそらく、人類史上でもっともエキサイティングなものになるだろう。私たちは、いまこそ支度に取りかからねばならない。




アルビン・トフラー パワーシフト まえがき

2011年06月03日 22時09分59秒 | トフラー論より
アルビン・トフラーの20世紀における三部作、「未来の衝撃」・「第三の波」、そして
「パワーシフト」は、著者が整理立てて解説していますので、そのまま引用します。

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1990年11月発刊 『パワーシフト』まえがき

驚くべき変化が我々を21世紀へと駆りたてている。『パワーシフト』は、二十五年にわたって、その変化の意味を捉えようとした努力の集大成である。『未来の衝撃』に始まり『第三の波』へとひきつがれ、そしてここに完成した三部作の最終作である。

 この三冊はいずれも独立した作品としても読めるのであるが、これをまとめると、知的に一貫した読みものとなる。全体の中心テーマは、社会がまったく新しい予想もしなかった姿に急に変容するときに、人々に起こる変化である。

『パワーシフト』では、これまでの分析をさらに推し進め、産業社会のパワー・システムにとって代わった新しいパワー・システムの出現に焦点を合せている。加速化する今日の変化を表現するのに、マスコミはまったく関連のない情報をうるさく我々に浴びせかけている。専門家は極めて専門的な研究論文の山に我々を埋めようとする。人気のある予測家たちも関連のないトレンドをいくつか示してはくれるが、相互関係とか、そのトレンドに逆行する諸勢力のモデルはみせてはくれない。そのため変化そのものが、無秩序で、時としては異常としかみえなくなる。

 しかし、今日の変化は、我々がよく思いがちなように無秩序でもなければ、でたらめでもない。この三部作はそのことを前提としている。そして、ヘッドラインの裏には、単に明確なパターンだけでなく、そのパターンを形成する同一の力があるのだと私は考えている。こうしたパターンや力を理解してしまえば、それを個々にでたらめに扱うのではなく、計画的に扱うことが可能となる。 

 しかし、今日の大きな変化の意味を理解し、計画的に考えるには、断片的な情報やトレンドのリストだけでは足りない。異なったいくつもの変化が相互にどう関連しているかを知る必要がある。そこで『パワーシフト』では、前二著と同じく、明確な全体像を総合的に捉えようとした。つまり、地球上に現在広がりつつある新しい文明を網羅するイメージを求めたのである。

 次に本書は、明日の発火点、つまり新しい文明が古い既成勢力と衝突する際に我々の当面する対立点をとりあげている。『パワーシフト』は、これまでにみられた企業買収や構造改革は、今後に生ずる、より大規模でまったく新しいビジネス戦争を告げる最初の発射音にすぎないとみている。さらに重要なことは、東ヨーロッパやソ連における最近の激変も、今後に生ずるグローバルな権力闘争に比べると、ほんの小競合いにすぎないとみている。また米欧日間の競争もまだピークには達していない。つまり『パワーシフト』は、産業文明が世界的支配力を失い、新しい勢力が興って地球を支配する際に、なお我々が直面する権力闘争の高まりについて述べたものである。私にとって『パワーシフト』は、魅惑的な旅の終わりに辿りついたひとつの頂点である。

            (中略)

 この三冊は、1950年代の半ばから2025年にいたる約75年間という、人間にすれば、ひとつの生涯にわたる期間をとりあげたものである。この期間は、数世紀にわたって地球を支配した煙突型文明が、世界を揺るがすような権力闘争の期間につづいて、従来とはまったく異なった文明にとって代わられるという、いわば歴史の接点ということができよう。

 しかし、この三冊は、同じ時代を対象としながらも、現実の表面下を探るのに、それぞれ違ったレンズを用いている。したがって、読者のためにここで、その違いをはっきりさせておきたい。
『未来の衝撃』は変化のプロセス
-人々や組織に与える変化の影響―をとりあげた。
『第三の波』は変化の方向
-今日の変化によって我々はどこへつれてゆかれるのか-に焦点を合せた。
『パワーシフト』では今後起こる変化のコントロール
-誰がどうやって変化を形成するか-を扱っている。

 『未来の衝撃』を我々は、余りに多くの変化に、余りに短期間に対応しようとしたために生じた方向感覚喪失とストレスだとしたが、この本では、歴史が加速化すると、実際の変化の方向とは関係なく自らの結果を招くことになると論じた。出来事とその反応時間が加速化するだけで、その変化が良くても悪くても、それなりの効果を生ずる。
 また、この本では、個人なり組織、または国家でも、余りに多くの変化を、余りに短期間にうけると、方向感覚を失い、知的に適応した決定を行う能力が損なわれると論じた。つまり彼ら自らが未来の衝撃をうけるのである。
 当時の一般世論とは逆に、『未来の衝撃』は、核家族はやがて崩壊するであろうと述べた。また遺伝子革命、使い捨て社会、それに今やっと始まった教育革命などを予言した。この本は最初1970年にアメリカで出版され、その後世界各国でも出版されたが、人々の琴線に触れ、思いがけなく世界的ベストセラーとなり、批評のあらしを呼んだ。科学情報研究所によると、本書は社会科学分野で引用頻度の最も高い本のひとつとなった。『未来の衝撃』という言葉も日常語となり、多くの辞書にとりあげられ、今でも新聞雑誌の見出しに頻繁に登場する。 

 『第三の波』は1980年に出版されたが、前著とはその焦点が違っている。技術、社会における最近の革命的変化について、それを歴史的に概観し、その変化のもたらす未来の姿を描いたものである。
 この本では、1万年前の農業革命を人間の歴史における変革の「第一の波」、産業革命を「第二の波」として捉え、1950年代半ばに始まった大きな技術的社会的変化を、煙突型文明のあとにつづく新しい文明の始まりである大きな「第三の波」であるとした。
 なかでも本書は、コンピュータ、エレクトロニクス、情報、バイオテクノロジーなどに基づく未来の新しい産業を、経済の「新しい展望台」と名づけて、それをとりあげたものである。ここではフレキシブルな製造、特定分野の市場、パートタイム作業の拡大、メディアの非大衆化などの傾向を予想した。生産者(プロデューサー)と消費者(コンシューマー)に新しい融合がみられるため、「プロシューマー」という表現を導入した。また一部の仕事が今後は再び家庭で行われることや、政治や民族国家におけるその他の変化を論じた。『第三の波』は国によっては発禁となったが、他の国ではベストセラーとなり、しばらくは中国の改革派知識人の間で「バイブル」とされた。最初は西洋の「精神的公害」を撒き散らすものだとして非難されたが、のちに解禁されて莫大な部数が出版され、この人口世界一の国において、ベストセラーとなった。当時の趙紫陽首相は、本書に関する会議を開いて、政策立案者たちに本書の研究を薦めた。
 ポーランドでは合法的に縮訳版が出版されたが、学生や連帯支持者たちが削除に怒ってアングラ版を出版し、カットされた部分を載せたパンフレットを配付したりした。『未来の衝撃』と同じく『第三の波』も読者の間に多くの反応を引き起こし、その結果、新製品が生まれ、会社が設立され、シンフォニーが作られ、彫刻さえ登場した。

 『未来の衝撃』から20年、『第三の波』から10年経った今日、ついに『パワーシフト』が生まれた。本書は前著の終わった所から出発し、パワーに対する知識の関係が大きく変化した点を取り上げた。社会的パワーに関する新しいパワーを示し、ビジネス、経済、政治、世界問題における来るべきシフトを探っている。
 未来は正確な予想という意味では知ることはできない。そのことはつけ加えて言う必要もない。人生というものは超現実的な驚異に満ちている。見たところ最も確実なモデルやデータと思われるものも、とくにそれが人間のことに関するときは、主観的な仮定に基づくことがよくある。さらに、この三部作のテーマである加速的変化によって、書かれた内容は古くなる危険がある。統計数字は変わり、新しい技術は古い技術を追い出す。政治的指導者には盛衰がある。しかし、明日という未知の世界に進むとき、まったく地図なしで進むよりは、たとえ不完全で修正や訂正を要するものであっても、おおまかな地図はあった方がよい。
 三部作のそれぞれは、お互いに違ってはいるがお互いに矛盾することのないモデルに基づいており、どの本も多くの異なる分野、多くの異なる国の文献、調査、報道を参考にしている。

(中略)

 こうした経験は、世界各地からの資料を徹底的に読み分析した結果を補足すると同時に、そのために『パワーシフト』執筆準備期間は、我々の人生の中でも忘れがたいものとなった。『未来の衝撃』や『第三の波』の読者からは、有益で楽しく読めておもしろいという評を頂いたが、『パワーシフト』も同様であることを願っている。四分の一世紀前に始まった広範な分析総合の仕事をここで、一応、終わることにする。
アルビン・トフラー

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アルビン・トフラー 第三の波 はじまり

2011年06月02日 21時38分07秒 | 第三の波
1980年10月1日に発行された著書「第三の波」
のはじまりには、このように約された前文が記載されています。

「われわれは ここへ笑うためにやって来たのか

 それとも なき叫ぶためなのだろうか
 
 われわれは いま死のうとしているのか

 それとも 生まれ出でようとしているのだろうか」

この詩は、トフラーと同世代の詩人カルロス・フェンテス
『我らの大地』(1975)から引用されたものです。

わたしは、昭和55年当時、夜学に通いながら自動車販売会社の
システムエンジニア(COBOL)として仕事をしていました。
実際は、この時代にはSEなどという資格制度もなく、昼間は、
販売促進課で日常業務を行い、午後5時以降から午前3時まで、
残業手当無しで、システム設計(フロー作成)、英文タイプ
B級の資格をかわれて、原始プログラムをパンチングして、
コンパイル(翻訳)、バグ取り、再入力の繰り返し作業を
していました。おかげで、大学に通うことがむずかしくなり、
卒業まで専門課程(法学部)で4年間を費やすことになりまし
た。しかし、本当に記憶に残る良い体験が出来たと思います。

理由は2つあります。
トフラーが言う第三の波(情報革命)を身をもって教えられ
たことです。
昭和57年、わたしがいた会社は、北海道内では中堅の総員
600名以上の自動車販売会社でした。
本社には、総務・企画・経理・新車・中古・サービス・部品
と約100名余りの間接社員(販売社員と区別)が在籍しており、
地下には社員食堂、階上には大会議室があるところでした。

トフラーが言うように、30年前のオフィスコンピュータを扱う
者は奇異な眼差しで、見られていたものです。今のように、
漢字、カタカナはまだ印字できず、英数のみのドットプリンター
印字が主流です。
仕分伝票(5枚複写)をバッチ処理(一括処理)して、数値を
印字したものを、経理の担当者が、ソロバンや電卓で検算して
いた時代です。
システムを構築して、機械化する理由は、この本社機能(在籍
する100人余りの間接社員)を合理化する(つまり今でいうリス
トラ)ことが目的だったのです。

社長以下、企画室長の指示で各部門の選抜メンバー(若手・独身
)が選ばれて、何故か大学に通っていた私も選ばれて、日本
ビスネスコンピュータ㈱へ半年余りの通い教育やら、機械化を
すでに終えている企業へ派遣されて、実務を学びました。

札幌の豊平区にあるトヨタ系の自動車販売会社KSへ派遣され、
本社に入ったところ、1階のショールームは、同じような雰囲気
だったのに、2~3Fには、誰も居ないのです。
広いフロアーに、立ち並んでいるのはオフィスコンピュータの
ボックスのみ(富士通のファコム)。後は、空調機のファンの
音が、けたたましく鳴り響く階でした。
この会社のY室長は、『御社と違い、私どもの会社は、トヨタ系の
大衆車を販売しているので、間接社員を置く余裕はないのです』
とはっきり言われました。

事業規模、販売台数、収益、ほぼ同等なトヨタ系販売会社の本社
には、間接社員は何と6名、かたや私が所属する会社は未だに
100名余りの間接社員が本社にごろごろ居て、ソロバンと
電卓を駆使して、売上、売掛管理をしていたのです。これでは、
負ける。未来はない。必ず我々はダメになる。

私は、おなじ選抜メンバーと帰社する道すがら、感嘆しました。
これが機械化であると。仕事が無くなるのではなく、仕事を選らば
なければならないという事を自覚できた瞬間でした。
トフラー論でいえば、暴力→金力→知力へと価値(富)は変化する
ことを学びました。

もうひとつの良い体験は、思想的な問題です。
古い方は、御承知の通り、この時代は、刹那主義、悲観主義が
世の中の主流になっていました。根幹には、ノストラダムスブーム。
この思想は、今で言う世紀末ブームで、会社内でも大学学内でも、
ヘンな右翼系のサークルまで、このダメ思想を流布していた時代で
した。
このような中にあっての、トフラーの『第三の波』前文です。
私は深く共感しました。大学図書館にあった、この翻訳本を
何度も貸出して、コンパイルの最中、冷暖房完備のコンピュータ
ルームで、椅子を並べて、横になって読んでいたのです。
いつも午前様でした。

さて、質問で「未来からの衝撃」、「第三の波」をはじめから読んだ
方が良いかとの問いがありました。
答として、必要ありません。分厚い本で、読むのも大変だと思います。
薄い本で、『生産消費者の時代』とか『第三の波の政治』など、凝縮
した書物があります。また、2006年の『富の未来』については、
私が大学の実習授業で抜粋したファイルがありますので、随時、紹介
していきます。
当然のことながら、できれば著書は買って読むなり、公立図書館で
貸出してもらい、読むことをお勧めします。
ひとつだけ、助言します。
分厚い本は、頭から読むと、眠くなります。著者や訳者の思いが記載
されているあとがき、最後から読むことをすすめます。
つまり、最初に結論ありき、では次に何故、そんな論理に至ったか?
トフラーの書物は、後ろから読んでも、本当に根明な論調で、わかり
やすいものだと感心します。特に難解な法学部指定の判例集なんか
よりも、はるかに健康的です。

次回は、トフラー論の論点まとめをパワーシフト前文から引用しましょう。