アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

アルビン・トフラーの戦争と平和 001

2012年05月22日 23時58分04秒 | 戦争と平和
第一部 第一章を紹介します。

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WAR AND PEACE IN THE POST-MODERN AGE 1992
アルビン・トフラーの戦争と平和  21世紀、日本への警鐘

第一部
第一章 集団的エクスタシー
 ほぼ半世紀の間、世界は東西両陣営に二分されていた。ところで、1960年代以降、核戦争を抑止するための方法としてもちいられたのは、「MAD」すなわち「相互確証破壊(Mutually Assured Destruction)」の名で知られる組織的狂気に基づく戦略であった。アメリカ合衆国とソビエト連邦は、莫大な費用と大きな危険を伴う、史上最大の軍拡競争にのめり込んでいった。その間、原子時計が時を刻み、世界は息をひそめていたのである。

 だから、ベルリンの壁が崩れた時 大勢の人々が誰も彼も感極まって冷戦の終焉を迎えた気持ちは、容易に理解できる。私たちは皆、急に息を吹き返したかのようであった。
 平素はそう簡単に浮かれることのない政治家までが、平和な新時代がもうそこまで来ていると喜びの声をあげた。博学な先生方は「平和の到来」について書き立てた。「巨額の『平和の配当』が待っている」「いまや経済競争が戦争にとって代わろうとしている」「民主国家間にかぎって言えば、戦争はもう決して起こるまい」などと言った。戦争は、まもなく、奴隷制度や決闘と同じように、過去の愚行として博物館入りすることになろう、という大胆な考えを述べる思想家さえ現れた。

 世界の指導者たちが、もうこれからは永遠に平和が続くという幻想に囚われたのは、これが初めてではない。H・G・ウェルズは、1914年にこう書いている。「20世紀初頭の人びとにとっては、戦争が急速に姿を消しつつあるということほど、明白な事実はなかったはずだ」と。しかし、その後まもなく、第一次世界大戦の塹壕の中で命を落としていった何百万もの不幸な人びとにとっては、明らかなことどころではなかった。1914年から1918年まで続いた、その戦争の謳い文句は、「すべての戦争を終わらせるための戦争」というものであった。

 ひとたび戦争が終わると、1922年には、再び、楽天的な観測が外交交渉の場で盛んに語られた。そんな中で、当時の大国は、軍拡競争緩和のために自国の軍艦の多くを沈めるという協定を本気で結んだのだった。
 1932年、アメリカ大統領ハーバート・フーバーは、軍縮への熱意から、「世界の勤勉に働いている人たちの上に、いま非常に重くのしかかっている軍縮」を削減する必要があることを説いた。彼の演説によると、「すべての戦車、化学兵器、および、すべての機動火砲・・・そして、すべての爆撃機の廃棄」が目的であった。ところが、7年後に、史上最も破壊的だった第二次世界大戦が勃発したのである。
 広島、長崎へのおぞましい原爆投下によって第二次世界大戦が終わると、国際連合が作られ、世界は再び、永続的平和の到来は間近だ、という幻想にしばし酔い痴れた。しかし、ほどなく冷戦と核の均衡が生じることになる。
 今日の幻想はさらにはかないものだ。ベルリンの壁の崩壊、バグダッドの爆撃、冷戦を呼び戻すことにもなりかねなかったモスクワのクーデターという3つの出来事が、二年に満たない期間に立て続けに起こった。そして、人は冷たく、暗い、新たな現実へと早々に引き戻されたのである。
 冷戦は終わったのかもしれない。だが、平和がすぐそこまで来ていると考えた人たちは、ひどいショックを味わうはめになった。イラク、クロアチア、ボスニア、ソマリア、さらにはパキスタンの国境で、またしても銃声が鳴り響いていたのである。
 実際、アメリカや他の大国が軍事予算の大幅削減をしている間にも、シリア、イラン、パキスタンなどの国々は兵器輸入におおわらわだし、旧ソ連から分かれた新国家は、赤軍、空軍、艦隊の指揮権をめぐって争っている。西側諸国が軍縮すれば、一方には、格安の値段で兵器を買い占めようと競い合う国家が存在するのである。

アルビン・トフラーの戦争と平和

2012年05月12日 21時29分13秒 | 戦争と平和
さて、ベルリンの壁が崩れて米ソ対立、冷戦が終焉して平和な世界が築かれるかと
思っていたのも、束の間、イラク、クロアチア、ボスニア、ソマリアと紛争は激化
して21世紀を迎えました。1992年11月にまとめられ出版された本書を抜粋しな
がら、勉強していきましょう。

年金破綻から、確定拠出年金(401K)、銀行窓販の一時払終身保険まで、不確定
な商品に金銭を投資し、これまた、元本割れが永遠に続くのではないかと危惧されて
います。つい最近まで保険業界では「ライフプラン」と称して「豊かな老後(セカン
ドライフ)のお手伝い」などと高額なドル建て保険を販売していましたが、今は
どうしたのでしょうか?銀行でも外貨預金と称して高額な為替手数料を得るために
バンバン販売していたのに、どうしたのか?FPと称するプランナーが数年前まで
推薦していた利殖はどうなったのか?富の未来における少子高齢化の日本はどうな
るのか?何故、年金は破綻するなどと言われ続けているのか?
日本の年金制度は、昭和20年の終戦を迎えるまでに戦争犠牲者となった約230万人の
兵員と約80万人の一般市民の上に成り立っていることを忘れてはなりません。
そして、現在年金を受けて悠々自適の生活をされている数パーセントの高齢者の
姿を自分に照らし合わせてはならないと言う現実を見定めなければ、未来を見失う
ことになります。金銭だけに頼る経済活動は減速社会では通用しなくなると言うこ
となのでしょうか?


戦争は最終経済、戦争によってすべてが精算され、再び経済は生まれ変わるなどと
今も戦争を賛美し、崇拝する者が多数います。科学の目とかマルクスの目などと呑
気な議論をしている科学的社会主義や古い知識に基づく功利主義の経済学者の中に
も多数存在しているのも事実であり、強欲で傲慢なアメリカ資本主義の戦争賛美者
ばかりではないことを認識しておきたいと思います。

では、初めに目次を紹介します。

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WAR AND PEACE IN THE POST-MODERN AGE 1992
アルビン・トフラーの戦争と平和  21世紀、日本への警鐘
<目 次>
第一部
第一章  集団的エクスタシー
第二章  周辺地域での殺戮
第三章  諸文明の衝突
第四章  太平洋の引火点
第五章  大西洋の引火点
第二部
第六部  戦争における大変革の前提
第七部  第一の波の戦争
第八部  第二の波の戦争
第九部  空・陸部隊統合戦術(エアランド・バトル)
第十部  第三の波の戦争
第十一部  ディープ・バトル
第十二部  戦争形態について
第十三部  ミクロ戦争の専門家
第十四部  宇宙戦争
第十五部  ダ・ビンチの夢
第十六部  シリコン対鋼鉄
第十七部  K戦争の要素
第十八部  戦うメディア
第十九部  死の論争
第二十部  「ゴーレム」戦争
第二十一部 無血戦争
第二十二部 交点
第三部
第二十三部 新世界の「三層からなる秩序(トライ・オーダー)」
第二十四部 国境の取引
第二十五部 未来の聖戦
第二十六部 アメリカの優位
第二十七部 世界警察の夢
第二十八部 平和の形態
第二十九部 新しい世界の体制
第三十部   新しい平和の形態 
プロローグ
エピローグ
日本の読者へのあとがき


アルビン・トフラー ハイジ・トフラー共著 富の未来(下)014 最終章2-2

2012年05月06日 23時56分07秒 | 富の未来(下)
さて「富の未来」も今回で最終章を迎えます。
同時に昨年5月9日ブログ開始より1年を無事に迎えることが出来ます。
ジョブトレでのWさん、Tさん、Nさん、被災地のみちのく兄さん、その他
多数の愛読者の方々に感謝いたします。
5月5日現在で、トータル閲覧数22,061(PV)トータル訪問数14,351(IP)で
およそ40人学級での授業となりました。
5月9日以降の当ブログの教材は、「戦争と平和」1992年(平成4年)にフジ
テレビ出版で公開されたトフラーの書物を題材にしたいと思います。
では、本文を抜粋なしで紹介します。

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2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(下)
終わりに ー 始まりは終わった   富の未来(下)P.340~P.351

月のエネルギー資源
それ以上に素晴らしいニュースがある。エネルギー源は尽きかけていない。エネルギーは無数の源泉から取り出すことができ、なかには一見、馬鹿げているように思えるし、現段階では確かに馬鹿げているものもある。蒸気機関も初期にはそうみえていた。きわめて大きいうえ、当時の基準では間違いなく高価な機械だったはずだが、炭鉱から水をくみだしてエネルギー供給を増やすために設計されていた。
クレイグ・ベンタ-はヒトゲノムを解読する民間企業のプロジェクトを成功に導いた人物だが、現在、汚染物質を除去し、エネルギーを生み出す人工生物の研究を進めている。「バイオ技術によって、化石燃料への依存から脱却できる」とベンターは語る。ベンターだけではない。スタンフォード大学でも教授と院生が遺伝子組み換え微生物で水素を生産することを目指して、研究を進めている。起業家のハワード・バークはポリエチレン・ラップほど薄く、携帯電話、GPS機器などの充電ができる太陽電池の開発を進めている。
波や潮の満ち干をエネルギー源として利用する動きもある。フランスのブルターニュ地方にあるランス潮力発電所は、24万キロワットの発電能力がある。ノルウェー、カナダ、ロシア、中国にも潮力発電所がある。また、太陽は原油で日量2千5百億バレルに相当する熱エネルギーを大洋に伝えており、これを電力に転換する技術もすでに開発されている。
時間と空間の両面ではるかに飛躍したところに、巨大なエネルギー源になりうるものがある。月である。月にはヘリウム3が大量にあることが分かっている。ヘリウム3と重水素があれば、「巨大な量のエネルギー」が得られると、テネシー大学地球惑星科学研究所のローレンス・テイラー所長は語る。
テイラーはさらに、「スペース・シャトルで運べる25トンのヘリウム3があれば、アメリカで1年間に使う電力をすべて賄える」と説明する。インドの大統領で宇宙科学者のアブドル・カラムもこう語っている。「月にあるヘリウム3は、地球全体の化石燃料の10倍ものエネルギー源になる」
これ以外にもエネルギー源になりうるエネルギー源になりうるものは大量にあり、人類が使えるエネルギーはまったく不足していない。必要なのは、これらのエネルギー源を利用する創造的な方法である。そしていま、歴史上のどの時期とくらべても科学者、技術者、発明家の数が多く、資金源とベンチャー・キャピタルが豊富にある。
また、おそらくは非マス化が起こって、世界のエネルギー・システムが先進的な知識経済の必要にもっと適した構造をとるようになるとみられる。つまりエネルギー源が多様化して、石炭、石油、天然ガスに大部分を依存する状況が変わっていくことになろう。エネルギー源が多様化し、技術も多様化して、参加者や生産者の多様性に見合ったものになる。たとえば生産消費者は燃料電池、風力発電設備などの個人機器を使って、自分が必要とする電力を発電するようになるだろう。
したがって最大の問題は迫りくるエネルギー危機を回避できるかどうかではなく、どれだけ早期に回避できるかである。そしてその時期がいつになるのかは、波の衝突の結果がどうなるか、つまり、工業時代のエネルギー・システムからいまでも利益を得ている既得権益集団と、画期的な代替エネルギーを研究し、設計し、その普及のために戦う先駆者との闘争の結果がどうなるかに、かなりの部分、左右されるだろう。
この波の衝突に直面して注意しておくべき点がある。悲観論者の警告を信じて、何が可能なのかについての見方を挟めてはならないのだ。やはりエネルギーに関連する以前の危機、核エネルギーの開発で起こった危機を思い起こしておけば役立つだろう。
1945年8月、日本に二発の原子爆弾が投下されて、世界全体が衝撃を受けた。この最悪の武器によって、第二次世界大戦の終幕はすさまじいものになった。この大量破壊兵器は、工業時代の大量生産に完全に見合ったものであった。だが奇跡的に、その後の半世紀、核兵器が実戦に使われることはなかった。いま、核拡散が懸念され、テロリストが核兵器を入手するのではないかと恐れられている。当然の懸念だ。だがこの危険は以前の危険とは比較にすらならない。以前にはアメリカとソ連がそれぞれ何千もの核ミサイルで相手国に狙いをつけ、いつも発射できるようにしていたのだから。

人類に希望はあるか
 どの文明でも各人が自分の命を大切にするとはかぎらないし、まして、長生きするほどいいと考えるとはかぎらない。宗教やその地域の信念体系にしたがって、命を落としかねない危険な行動をいつもとっている人は何百万人といる。死んでも生まれ変わる。あの世で処女が待っている。天国に行ける。
 とはいえ、この世での命を大切にするものにとっては前述のように、二十世紀は素晴らしい世紀であった。世界の人口は二倍以上になったが、世界の平均寿命は、「貧しい国」を含めて、1950~55年と2000~2005年とを比較して42%も長くなっている。
 貧しい国ですら、平均寿命が64歳になっている。豊かな国と比較すればまだかなり短い。だが変化の方向と速度をみれば、悲観的になる理由はどこにもない。格差が残っているのは、格差縮小のために努力する理由になる。
 豊かな国でも貧しい国でも、いま生まれる子供が長生きできる可能性が高いのは、ひとつには飲み水が安全になっているからである。国連によれば、1990年から2002年までのわずか12年間に、10億人以上が上水道を使えるようになった。残りは世界の人口の17%である。だがこの点でも状況は良く、行動をとる理由が充分にある。悲観論を言い募って問題を放置する安易な方法をとる理由はない。
 そして、寿命が長くなった分、貧困問題が悪化しているわけではない。国連の統計をみると、いまの世界にいかに悲惨な貧困があるかが分かる。しかし国連開発計画(UNDP)はこう論じている。「世界の人口のうち貧困線以下の生活をしている人の比率は過去50年に、それ以前の500年より大幅に低下した」
 この成果のすべてが過去50年に起こった第三の波によるものだとは、もちろんいえない。相関関係があっても、因果関係があるとはかぎらない。だが、いくつかの点から、確かに関連があったといえる。第一に、前述のように、まずはアメリカが、つぎに日本、台湾、韓国が低付加価値の仕事を中国など農業の比率が圧倒的に高かった国に移し、何億人もの職を生み出すという意図しない波及効果があった。
 貧しい国が前進してきた一因としてさらに、過去50年に革命的な富の体制がアメリカから世界各国に広まって、人類の知識基盤が驚くほど拡大し、農業、栄養、出産前の健康管理、病気の発見と予防に関する新しい考え方、そしてもちろん技術知識が普及してきたことがあげられる。
 豊かな国では、知識集約型経済によって奇妙な現象があらわれている。何千万人もの中産階級の知識労働者が毎日何キロも走るか、スポーツ・ジムや家庭でトレーニングをし、汗を流し疲れ果て肩で息をし、それが終われば、運動はいいと喜んでいるのだが、重要な点をひとつ忘れている。経済的に恵まれているからこそ、どういう運動をするのかを自分で選べる事実を忘れているのだ。世界各地の肉体労働者は、農民であれ工場労働者であれ、食べていくために汗を流しているのであり、選択の余地はほとんどない。
 天候と地主に泣かされながら黙々と農業を続けている人や、組み立てラインの付属物のような立場で働き続けている人なら、こうした労働がいかに非人間的になりうるかを知っている。知識労働と先進的サービス業への移行は最悪の場合でも、明るい未来に向けた第一歩になる。

ピコからヨクトへ
 生活が良くなっている人が増えている証拠として、これら以外に、保健など多数の分野での前進がいくつでもあげることができる。だが将来の世代がいまの時代について考えるとき、知識経済の幕開け以降の第一世代が世界について行ってきた並外れた発見をもっとも高く評価するかもしれない。
 そうした発見の結果、過去半世紀に、宇宙における人類の立場についての考え方が大きく変化している。
 1957年に人類はじめての人工衛星が打ち上げられてから、天体物理学者は大量の新データを入手できるようになり、宇宙に関するそれ以前の理論の一部が確認され、一部が否定された。そして新しいデータのほとんどは、宇宙が137億年前の「ビック・バン」ではじまったとする理論を裏付けている。この推定の誤差はわずか2億年とされている。
 科学的な理論はすべてそうだが、この理論もいずれ新しい事実によって改定される可能性がある。だがきわめて多数の実験がそれぞれ他の実験を裏付けているし、ビック・バン理論を裏付けてもいる。宇宙が約6千年前にはじまったと考えている人は今でもいるが、この見方は間違っているし、宇宙が変化しないという見方も間違っている。宇宙に有るもの
は全て変化する。人類も例外ではない。変化がなければ生命はない。そして宇宙もない。
 宇宙についての見方を拡大している科学者がいる一方で、宇宙を構成する物質をさらに小さな部分に分けて研究し、その知識を実用化している科学者もいる。いま、ナノメートルのレベルで、画期的な技術革新が進められている。このナノテクノロジーによって過去には考えられなかったことが、幅広く可能になるだろう。新しい建設資材の開発、薬物が正確に患部に達するようにする薬物配送システム、正確な診断、シリコンに代わる新しい材料の半導体などが実用化されようとしている。
 したがって、今後予想されるナノ生産とナノ製品への飛躍は、株式市場ではやされているが、さらに微細な物質の操作に向けた一歩にすぎないと考えておくべきだ。はるかな将来の話しではあるが、いずれはもっと小さな物質で富を生み出すことが可能になるだろう。いまはナノの単位だが、いずれ、ピコ、フェムト、アト、ゼプトの単位になり、最終的にはヨクトの単位、つまり0.000000000000000000000001メートルの単位にいきつくだろう。
 ナノのレベルはこれらにくらべればはるかに大きいわけだが、それでも興奮を呼んでいるのは、物質を微細なレベルでみていくほど、不思議な現象があらわれてくるからだ。物質のふるまいが違うのだ。ナノのレベルですら、病気の新たな治療法が生まれているのだから、さらに微細なレベルに移行したとき、良きにつけ悪しきにつけ、何が可能になるかを想像してみるべきだ。
 このように、ナノ単位というごくごく微細な現象と、宇宙というもっとも大きな現象のどちらでも、いまの世代は、過去のすべての世代よりも多くのことを、自然について、人類について学んできたのである。
 人類はフランシス・ベーコンが1603年に提起した大きな課題に取り組んできたのだ。「どれほど有益であっても、何かに役立つ発明」を行うのではなく、「自然に光をともす」ようベーコンは求めた。「いま人類がもつ知識の周囲にある境界部分のすべてに及び、それを照らし出すような光」をともすように。
 いまの世代は過去のすべての世代よりも多くのデータ、情報、知識を生み出しただけでなく、それをまとめる方法を変え、配分する方法を変えており、さらに組み合わせをさまざまに変えて一時的な新しいパターンを生み出している。そして、まったく新しい仮想空間を生み出し、そのなかで何兆ものアイデアが、素晴らしいものも恐ろしいものも、知的なピンポン球のようにぶつかりあいながら飛び交う状況を作り出している。
 予想可能な将来に、神経科学、サイバネティクス、メディア操作を組み合わせて、いまのものよりはるかに現実的な感覚が得られる仮想現実空間が作られるだろう。これを使って、個人的な点や社会的な点について、将来の出来事のシュミレーションをデジタルの世界で行い、それが実現したときに備えるようになる。そして世界各地の人びとと、仮想の世界でも現実の世界でも触れ合うようになる。犯罪者にとって絶好の活躍の場になるかもしれない。だが、心正しき人にとっても同じことがいえる。
 最後に、いまでは「生」と「死」、「人間」と「人間以外」といった言葉の意味すら変わる時期に来ているのかもしれない。地球上で、そして宇宙の植民地で、人類に新しい可能性が開けていくからである。ユートピアが実現すると約束している人はいない。いま起こっている革命によっても、戦争やテロ、病気がなくなるわけではない。自然環境がバランスが完全にとれるようになるわけでもない。
 だが、こうは言える。われわれの子供の世代は、いまの世代とは大きく違った刺激的な世界に生きることになり、いまのものとは違う利点と危険があり、違う課題に直面することになる。この新しい世界が全体的にみて良いものなのか悪いものなのかは分からない。「良い」「悪い」という言葉の意味すら変わるからであり、また、それを判断するのはいまの世代の人間ではないからだ。子や孫の世代がその世代の価値観にしたがって判断することなのだ。
 21世紀の幕開けに生きるわれわれの世代は、革命的な富の体制の中核とする新たな文明の設計に直接、間接に参加している。この過程は完成へと向かうのだろうか。それともまだ、未完成の富の革命が、どこかで突然止まることになるのだろうか。

 産業革命の歴史をみると、手掛かりがつかめる。
 産業革命が17世紀半ばにはじまり、1950年代半ばに知識経済が登場して地位を奪われるようになるまで、世界には数えきらないほどの混乱が起こっている。戦争がつぎつぎに起こった。イギリスの清教徒革命、スウェーデン・ポーランド戦争、トルコ・ベネツェア戦争、ブラジルでのポルトガルとオランダの戦争、中国での明王朝の滅亡と清王朝の成立。1650年代の10年間だけでも、これらをはじめ、多数の戦争や内乱が起こっている。
 その後、18世紀にもスペイン継承戦争、7年戦争、カンボジアの王位継承をめぐる内戦などが続く。そしてアメリカ独立戦争、フランス革命があり、ナポレオンがヨーロッパを席巻し、アメリカの南北戦争があり、第一次世界大戦、ロシア革命があり、最悪の戦争、第二次世界大戦があった。
 これらの戦争や内戦の間に、インフルエンザの大流行、株式市場の暴落、多世代大家族制度の崩壊、不況と恐慌、政治腐敗、政権交代があり、カメラや電気、自動車、飛行機、映画、ラジオが発明され、ヨーロッパの美術界はラファエル前派からロマン派、印象派、未来派、超現実主義、キュビズムへと移り変わっていった。
 このように変化と混乱が相次ぐなかで、ひとつの点が目立っている。何が起ころうと、これらが一度に起ころうと、産業革命の前進は止まらなかったし、産業革命に伴う新しい富の体制の普及は止まらなかったのだ。何が起ころうとも。

 その理由はこうだ。第二の波は技術や経済だけの動きではなかった。社会、政治、哲学の要因が絡んで生まれたものであり、波の衝突のなかで農業時代から続く支配層が徐々に新しい勢力に屈服していった結果なのだ。
 第二の波から、経済中心の考え方が生まれた。文化、宗教、芸術はすべて副次的な重要性しかもっておらず、マルクスによれば、経済によって決定される。
 だが、第三の波の革命的な富では、知識の重要性が高まっていく。その結果、経済は大きなシステムの一部という地位に戻り、良かれ悪しかれ、文化、宗教、倫理などが舞台の中心に戻ってくる。
 これらの点はいまでは、経済に従属するのではなく、経済との間でみられるフィードバックの過程の一部だとされている。
 いま起こっている革命が技術の動きのようにみえるのは、それによって登場した技術が極端に目立つからだ。しかし、工業化、近代化と呼ばれているものと同様に、第三の並みの革命も文明全体にわたる変化なのだ。株式市場の変動などの混乱はあっても、革命的な富は世界のほとんどの地域で着実に前進していく。
 未来の経済と社会が姿をあらわしてきているので、個人も企業も組織も政府もすべて、過去のどの世代も経験しなかったほど急激な未来への旅に直面している。
 何ともすさまじい時代に、われわれは生きているのである。
二十一世紀の新しい時代にようこそ。


富の未来(上)(下)終了